空港線(蒲田・羽田空港)


最新乗車 2001年春


京急蒲田にて本線と分岐した空港線は、左に急カーブを切りながら国道15号線(第1京浜)と平面交差する。戦後すぐの1946年3月、羽田空港拡張を目論んだGHQの命令により東海道線蒲田から京急蒲田まで連絡線が設けられ、空港線(当時は穴守線)の上り線を狭軌に改軌して羽田空港拡張のための物資輸送が行われた。接収を解除されて空港線が複線に戻ったのは1952年11月のことである。JR蒲田から空港線につながっていたという廃線跡は、現在大田区役所のある場所にあったJR蒲田駅の貨物取扱施設から出ていたことだけは分かるのだが、歩いてみても、地図で見ても経由地は半分程度しか分からない。当時焼け野原だった場所に線路を無理矢理引いたということは想像に難くなく、線路が剥がされた後、あっという間に道路になることなく建物が建っていったのだろう。それにしても、京急蒲田で京急本線と貨物線が平面交差していたというのが、今では全く信じられない。ちなみに、箱根駅伝の昔の映像に蒲田の踏切を渡るデッキつきの電機が映り込んでいるのを見た ことがある。現在、東急多摩川線(旧目蒲線)や池上線を羽田空港まで直通させるという構想があり、これが実現すれば、半世紀以上前の連絡線が現代に復活することになる。踏切を渡り終えたところで線路は複線となり、住宅地の中を一直線に走る。

糀谷を過ぎて産業道路をくぐる地下線の中にあるのが大鳥居。すぐに地上に出て、今まで2度終点になったことのある穴守稲荷、ここを出ると再び地下線に入る。まるでジェットコースターのように上へ下へと忙しい。穴守稲荷が最初に終点になったのは、前述のGHQによる羽田空港接収の時であり、2度目は最近の羽田空港ターミナル乗り入れ工事に伴うものであった。GHQにより穴守稲荷(当時は稲荷前)、穴守(廃止、現在天空橋のある辺りか?)間が接収され、旅客営業を中断している。おそらく前述の貨物列車はそれまでの線路を使って穴守まで入っていたと思われる。接収解除後、路線の復旧が行われたが、海老取川(ちなみにこの川によって羽田空港は空港島になっている)より先は空港用地となったため復活できず、やむなく川を渡る寸前に羽田空港(旧駅)を設けて終点とした。そして現在は天空橋という橋が架かっている位置に、穴守線の複線ガーダー橋が架線柱までついた状態で半世紀も放置されていた。GHQによる羽田周辺住民の一晩での一斉退去命令という悲しい過去のモニュメントであるかのようであったが 、羽田空港旧ターミナルビル前の鳥居の移設工事と相前後して取り壊され、現在の天空橋に架け替えられている。

東京モノレールと接続する天空橋は、空港ターミナル乗り入れ工事(京急の社運を賭けたという)の第1期工事として穴守稲荷羽田空港(旧駅)を廃止して建設された駅である。開業当初は羽田といい、空港ターミナルへは一足早く乗り入れを果たした東京モノレールに乗り換えであった。ちなみにこの天空橋には京急と東京モノレール以外にもう1本鉄道の地下トンネル(というより海底トンネル)が存在する。東京貨物ターミナルから浜川崎を経て鶴見へ抜ける東海道貨物線である。もちろん乗換駅は存在しない(はずだ)。天空橋を出ると滑走路の真下の地下トンネルをくぐり、地下駅ながら広々とした羽田空港に到着する。現在の空港西ターミナルビル(ビッグバード)へ向かうには最後尾車輌が便利だが、建設中の東ターミナルビルが完成すると先頭車輌のほうにも出入口が設けられる予定である。


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大師線(川崎・小島新田)


最新乗車 2001年春


京急川崎本線高架化にもなぜか地平のまま取り残された大師線である。国鉄との乗り換え客が多いから地平のままにしたのか、交差道路の国道409号線と国道15号線のうち、国道15号線とは既に立体交差になっていたからなのか、それとも最近になって浮上した大師線の川崎市営地下鉄化の話が実は当時からあったのか、謎が残る。ちなみに大師線が全線地下化されると、川崎市営地下鉄との直通のため、駅は京急川崎とJR川崎のちょうど中間の地下深くに設けられ、川崎大師の辺りで現在の大師線の地下に入ると聞いている。ただ、京急は市営地下鉄と直通するために大師線川崎駅の位置をJRの近くに持っていくのを相当嫌がっているらしい。ライバルの近くに持っていきたくない、大師線を完全な独立線にしたくないという思惑が見て取れる。大師線地下化の第1歩として、そろそろ川崎大師小島新田間の地下化が始まるようである。まぁここは産業道路と平面交差している区間だけに、至極当然であろう。

京急川崎の地平ホームを品川方面に向かって出た列車は右にカーブしながら本線と離れ、国道409号線と平面交差する。多摩川の堤防の脇を走り、S字急曲線と急勾配で国道15号線の下を強引にくぐる。とすぐに港町。この路線は京急の支線の中ではまったく京急らしくないといえる路線で、工業地帯の中をのんびり、ゆったりと走る。味の素川崎工場の中にある(一応一般客も使える)鈴木町(かつては味の素前といった。現在の鈴木という地名だって創業者の苗字である)を出ると、かつては左から味の素の専用線が合流して下り線だけ3線軌となっていたが、1997年に貨車輸送がなくなって撤去されてしまった。正月3ヶ日を中心に大混雑する川崎大師は、その名の通り川崎大師平間寺の最寄駅で、駅前から続く参道には名物の飴売りの声が響いている。次の東門前の方が歩いた感じ正面から川崎大師平間寺に入るには近い気がするが、初めての人は迷うのでやめておいたほうがいいかもしれない。産業道路を出ると、その名の由来の産業道路の踏切を渡る。上を通るのは首都高1号横羽線である。少し右にカーブし、味の素専 用線跡が右に分岐すると川崎貨物駅に行く手を遮られるように小島新田に到着する。この駅は実はもう少し先にあり、さらにその先塩浜桜本まで続いていたのだが、川崎貨物駅(当時は塩浜操車場)の建設でこの先に続いていた線路を切られ、線路終端が現在地に移転してきている。

戦前、川崎大師から海岸電気軌道という京浜電気鉄道系列の鉄道が総持寺京急鶴見花月園前の間にあった駅)まで産業道路の路面に線路を伸ばしていた。鶴見臨港鉄道(JR鶴見線の前身、現在鶴見臨港バス)が開業すると業績が悪化して、その鶴見臨港鉄道に合併された後、1937年に廃止されている。そして、この京急大師線が軍需工場への工員輸送のために1944年に川崎大師から延伸される際、川崎大師産業道路間はこの海岸電気軌道の線路跡を流用して建設された。産業道路の手前から産業道路に向かって線路跡が伸びており、また地図上で総持寺駅跡から産業道路をたどると自然につながっているなど、海岸電気軌道の跡は容易に見つけられる。その他、海岸電気軌道の生まれ変わりと言おうか、産業道路の脇に1944年に川崎市電が開業したが、軍需工場への工員輸送目的の路線だったため、戦後復興後の旅客動線に合わなかったためか1969年にはあっさり廃止され、国鉄と共用して3線軌だった専用軌道区間は、東京貨物ターミナルから浜川崎を経て鶴見へとつながる東海道貨物線へと変貌している。


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逗子線(金沢八景・新逗子)


最新乗車 2001年春


金沢八景にて逗子線は本線と分岐する。右にカーブして本線と分かれると、住宅地の中を走り、六浦に着く。なお、逗子線は東急車輛にて新製した車輌を横須賀線逗子まで輸送するために神武寺まで上り線のみ3線軌となっており、主に終電後に甲種回送列車が走るようになっている。あの南海空港特急50000系ラピートもここを通って回送された。最近はJR東日本のE231系の生産ラッシュのため、ディーゼル機関車に牽かれて回送列車が走る機会も多いかもしれない。六浦を出ると米軍住宅の端に沿って走る。延々進行方向右側に続くフェンスは不気味である。演習場というわけではないので流れ弾は来ないだろうが、気持ちのいいものではない。トンネルを2つ抜けると神武寺で、ここから横須賀線逗子までの連絡線が分岐する。あまり列車が来るわけではなく草ぼうぼうの線路が右に分かれると横須賀線を跨ぎ、終点の新逗子に着く。かつての京浜逗子逗子海岸を統合して、その中間に作られた駅で、そのためかホームから外に出るまであっちへこっちへ歩かされて時間がかかる。横須賀線 逗子までは歩いて10分(ホームからホームまで(笑))ほどである。


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