「謎宮会」でじわりと火がつき、徐々にミステリネット界でその知名度を伸ばしつつある藤岡真の第一長編。親本は角川から出ていた。ちなみに、「謎宮会」の葉山響氏による文章はここ。ドミノというアイドルが現れる。彼女は純粋に映像の中だけのアイドルだった。テレビ局に送られてきたテープしか手がかりはなく、実際のドミノを見たものはいなかった。そこに目を付けた制作会社社長は藤岡真にドミノの捜索を命じる。それは、第二次世界大戦末期に飛良泉大佐がドイツから日本に持ち込んだ《ゲッベルスの贈り物》の謎に近づく一歩でもあった。
この作品はズバリ、エスピオナージュ+サスペンス+本格のギミックであろう。《ゲッベルスの贈り物》に絡むのがエスピオナージュ、《ゲッベルスの贈り物》に関するトラブルに巻き込まれる書き込まれ型サスペンスとしての側面、そして至る所にちりばめられた本格としてのギミック。このような作品が1993年に出て、今まで埋もれてしまっていたのが驚き。正直言って、この作品、埋もれて良い作品ではないと思う。無論、その当時のミステリ界の状況を鑑みれば埋もたのも納得、かも知れないのであるが。1993年は京極夏彦が『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)でデビューする前年。或る意味この作品は早すぎた。まだまだ純粋なものが尊ばれる時代だったのだから。本書のようなミックス系の作品が受け入れられるようになったのは京極以降と言っても良いであろう。巻き込まれ型サスペンスとしては申し分なく、次々と「おれ」こと藤岡真を襲う数々の事件はスリリングだ。エスピオナージュとしては少々味付けの感じが否めないが、エスピオナージュの部分がサスペンス部分と有機的に結びついているからあまり気にはならない。また、仕掛けられた本格のギミックは正直言って呆気にとられっぱなし。どうしてこんなもん仕掛けるのかなあ、と呆れ、感心してしまった。この辺も凄いよ。尤も、タイトルとなっている《ゲッベルスの贈り物》の正体は或る意味腰砕けだったが。他が凄いのでこれがまた気にならない。まさしく、怪作としか言い様がない。二作目の『六色金神殺人事件』(徳間文庫)がどのような怪作か楽しみになってきたぞ。
最後に余談。架空のアイドルドミノの歌声はこう表現されている。
「透明な声、なんて陳腐な言葉ではとても説明しきれない声だ。高域までよく延びる歌声は、クラシック歌手のそれとは全く違っていて、カン高いという印象が少しもない。幻想的な歌詞が耳を通さずに、そのまま直接魂まで届いてくるような声と言ったら、少しは想像がつくだろうか」
この表現、個人的には鬼束ちひろを想像してしまった。それ故、この作品を映像化するならば、ドミノ役は鬼束ちひろがふさわしい、かも。ちなみに、ドミノはCGによって生み出されたアイドル。原型は存在するけれども。この辺が巧くミステリ的企みと噛み合っているからこの作品は良いのだ。また、作中の年代が1993年と言うことであるが、携帯の扱いが今と全然違うのは驚き。いやはや。この作品を復活させた、創元の英断に拍手!
有栖川有栖というと、火村ものや江神ものがよく言われるが、ノンシリーズにも良いものが沢山ある。『幻想運河』(講談社文庫)や『ジュリエットの悲鳴』(角川文庫)や 『作家小説』(幻冬舎)、『幽霊刑事』(講談社)も忘れてはいけない。そして、本書『マジックミラー』も忘れ得ぬノンシリーズの一冊と言えるであろう。有栖川作品群の中でも初期に書かれたものだ。有栖川有栖の作品群がロジックを中心にした江神ものとトリックを中心にした火村ものが大多数を締める故に、今読むとバリバリのアリバイものを書いていて、しかも、作中にアリバイ講義があるのは意外かも知れない。尤も、アリバイものもトリックミステリの一つなので全然不思議はないが、アリバイものがトリックミステリとはあまり結びつかないところがある。
古美術商の妻、恵が殺される。容疑は夫である新一にかかるが、確固としたアリバイがあり、容疑はそれる。恵の妹ユカリは、姉を殺したかも知れない新一の殺人の証拠を掴んで欲しいとわらにもすがる思いで探偵に依頼するが何も出てこなかった。そして時間が過ぎ、新一とその双子の弟が死体となって発見される。作中個人的に一番面白かったのはアリバイ講義と、アリバイに賭ける有栖川有栖の気迫。小説と言うよりも一冊のアリバイ論とその実践と言う感じだ。小説でありながら評論的な作品を書くのは飛鳥部勝則であるが(『N・Aの扉』(新潟日報)が顕著)、本書を読み返していて飛鳥部勝則が有栖川有栖に影響されているのを感じた。そして、本書に影響されているのがもう一冊。鯨統一郎の『九つの殺人メルヘン』(カッパノベルス)。作中のアリバイ講義の9パターンを網羅した作品。
アリバイものと言えば日本では鮎川哲也がその第一人者で、ダイヤグラムを用いた、本格領域のアリバイ崩しではいまだに独占市場と言っても良いかもしれない。それほどダイヤグラムアリバイ崩しは作例が少ない。尤も、鮎川哲也のアリバイものでもダイヤグラムを用いたものは長編短編合わせても10あるかないか、かも。用いられていてもダイヤグラムの盲点と言うより他のものに焦点があったりするし。本書には「アンチアリバイミステリ」という言葉が捧げられたらしいが、その言葉は巧いと思った。確かにアンチ、かも。どこがどうかと聞かれても答えあぐねるが、何となく、と言うことで(笑)。
本書は有栖川有栖作品の中ではあまり挙がることはないものの、忘れ得ぬ作品であることは間違いはない。
いよいよ始まった《本格ミステリコレクション》シリーズの第一回配本。第一期は戦後作家編である。トップは飛鳥高。飛鳥高というと私の中では『細い赤い糸』(双葉文庫)だけの一発屋というイメージがあり、実を言うと、本書は全然期待していなかった。だが、その期待は良い意味で裏切られた。見事に粒選りの短編ばかりなのだ。しかも、短編集二冊の合本+αなんだから、元々の短編集のレベルも推して知るべし。絶版になって入手困難になっていた短編集『犯罪の場』と『黒い眠り』に、アンソロジーに入ったっきり単行本に入らなかった「加多英二の死」と単行本にはいるのはこれが最初で(そして、多分最後の)ある三編。読み終えて「どーしてこんなものが埋もれてたの?」とマジで思うぐらいの佳作傑作揃い。
飛鳥高の短編で有名なのは、デビュー作となった「犯罪の場」と豪快なトリックが有名な「二粒の真珠」であろう。「犯罪の場」はアンソロジーに取られることも多く、「二粒の真珠」は豪快なトリック故に原理のみ知ってる人も少なくないはずだ。「二粒の真珠」はトリックもであるが、動機に注目したい。三段落ちみたいな動機の形成は珍しい。
冒頭を飾る「逃げる者」が顕著だが、飛鳥高の短編は機械トリックが多い。「犠牲者」なんてもう、なんておバカな発想なんだろう! と感嘆する。こういう発想が既にあったというのは。アンソロジーシリーズ《ミステリーの愉しみ》の一巻目『奇想の森』の解説で島田荘司は自作の発想のオリジナルは全て戦前に出尽くしているのではないのかという趣旨のことを書いていたが、もしかすると、戦前戦後でミステリの鉱脈というのは掘り尽くされてしまってるのかも、と思ったりもした。
先に飛鳥高の短編は機械トリックが多いと書いたが、それだけではない。戦後まもない昭和二十年代から三十年代に書かれたことも関係しているのか、動機に戦争が密接に関わってきている。これを以て社会派というのは簡単だが、私は社会派とは呼びたくはない。寧ろ、本格も時代を反映していたという重要な傍証と思いたい。時代が企み(と言うより寧ろ悪戯に「トリック」とルビを振る方が的を射てるか)に直結してるのが「古傷」だ。ミステリは戦後文学であるという言葉の傍証と言っても良いかも。時代が動機に関わってるという意味で記憶に残るのは「金魚の裏切り」だ。ミステリ的なネタに関しては他愛もないが(と言うか、寧ろよく作品にしたな、オイという感じ)、動機が悲しく印象的だ。
旧「宝石」の連続短編企画の為に書かれた眠り三部作(?)の「安らかな眠り」、「こわい眠り」、「疲れた眠り」はミステリというよりなんだろう。サスペンスというか、奇妙な味というか。不思議な作品だ。それぞれ捻りが利いている。三つの中ではお間抜けな登場人物が哀れに見える「疲れた眠り」が面白い。
幽霊探偵登場(?)の「加多英二の死」は結末が悲しい。
建築現場で起きた密室殺人を描く「細すぎた脚」は結末が見事。墜落ものの「ある墜落死」はトリックが見事、かも。タイムリミットサスペンス「七十二時間前」は人を食ってるし、悪女ものともいうべき「悪魔だけしか知らぬこと」も見事。「満足せる社長」は登場人物の間抜けさ加減が楽しい。「みずうみ」も良し。掉尾を飾る「月を掴む手」のアホさ加減と言ったら(笑)。
全十八編のうちでベストを上げるとすれば、「二粒の真珠」、「犠牲者」、「安らかな眠り」、「疲れた眠り」、「月を掴む手」が挙がるであろう。最後に余談。デビュー作「犯罪の場」を推したのは乱歩だったらしいが、個人的には「犯罪の場」は面白く思ったが(特に動機)、なんというか、よく乱歩が推す気になったな、というか。乱歩の見識に感服する。ところで、「犯罪の場」が一番アンソロジーに取られてるけれども、やっぱ、これって私の嗜好にあわなかっただけなのか? よくわからん。
いずれにせよ、ミステリファン必読の一冊であることは間違いなく、今のうちにかっとけと声を高々にして言っておこう。
メフィスト賞を『煙か土か食い物』(講談社ノベルス)で獲った舞城王太郎の二作目。『煙か土か食い物』で登場した奈津川家の面々が出てくる故に、奈津川ファミリーサーガとなるのであろうか。へちゃむくれな文体は健在だ。一説によると、野坂昭如の文体が近いらしい。今回の語り手は奈津川家三男の三郎。時系列は前作の直後で、前作のネタばれオンパレード故に順番に読むことをおすすめする。
前回の事件の模倣犯と思われる事件が頻発し、また、連続殴殺事件の関係者でPTSDを背負い込んだ少女、そして幼なじみの楓。コピーキャットを追う四郎と三郎だったが、三郎が何者かに襲われ瀕死の重体に。四郎は事件をさらに追うが?本書は前作同様のへちゃむくれな文体で語られるが、なんとなく、語り手分けが出来ていないと言うか、四郎と三郎の語りが似てるというか(前作は四郎の一人称)。尤も、二人が兄弟だと言う設定だから問題はないんだろうけれども。文体のパワーは前作の方が強い。
相変わらずぶっ飛んだ作品で、コピーキャットが何故犯行を重ねるか、また、奇妙な犯行現場は何を意味するのか、という所ははっきり言って、「どうしてこんな発想が出てくるんだ」と言うぐらいツボにはまり、解決された後5、60ページは続くものの後は要らないではないかとまで思ってしまった。ま、残りも必要なのだが。この作品、領域的には確実にミステリなのであるが、作品にはミステリであることを拒むような力がある。それは、様々なミステリ的趣向が引きちぎられていく様に顕著に現れている。文体にしてもそうであろう。どう考えてもミステリにふさわしい文体ではない。だが、本書に仕込まれた数々のミステリ的な仕掛けはこの文体でないと息吹は吹き込めない。作者舞城王太郎はミステリに対してかなりアンビバレントな感情を持っているのではなかろうか。
四郎、三郎と語り手が変わってきているが、この奈津川ファミリーサーガは続くのか(多分続くと思う)。次の語り手は誰なのか、二郎なのか、一郎なのか、それとも母親か、父親の丸雄か。いずれにせよ次作が楽しみである。
「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」というフレーズの歌があったらしい。少年探偵団シリーズがラジオドラマ化されたときの主題歌だそうだ。この『少年探偵団』は『怪人二十面相』(江戸川乱歩推理文庫・絶版)の次に位置する作品。帝都に巣くう黒い魔物に対するは、明智小五郎と少年探偵団。帝都に巣くう黒い魔物の噂は、帝都の人間を怯えさせるに十分だった。黒い魔物は人をさらうが、人違いなのか解放してしまう。そして、黒い魔物が行き着く先は……。
黒い魔物=二十面相というのはすぐに解るのであるが、変装テクニックは思わず「そんなわけあるかい!」と大声でつっこみたくなるもの。だってさ、インド人の変装が黒塗りだよ。こーゆーのを大まじめで書いてる乱歩を想像すると、それだけで笑える。尤も、作品の年代が昭和12年だから、もしかしたら、この時代ならば成立したかも、と思うが……。いや、しねえだろ(笑)。ところで、この作品は明智小五郎の活躍と言うよりむしろ少年探偵団のお披露目という色彩が強く、明智小五郎はさほど活躍しない。ま、美味しいところは全部取っていってしまうが。この『少年探偵団』でも様々な丁々発止がやりとりされるが、その中で黄金の塔を守る為に明智がやった行動は正直「おまえ、アホか!」とつっこんでしまった。だって、放火させるんだよ。信じられんわ、マジで。いくら陽動作戦とはいえ、人様のものに放火させるのはまずいだろ、オイ。この辺、深くつっこむのは大人げないかもしれんがなあ。
少年探偵団シリーズは子供時分に読んだことはなく、今になって読んでいるわけであるが、つっこみどころ満載で面白い。って、視点が違うぞ、オイ。しかし、これを子供のころに読んだら素直に感心して少年探偵団や明智小五郎にあこがれるんだろうなあ(笑)。
本書は『ぼくらは虚空に夜を視る』(徳間デュアル文庫)と世界観を同じにする作品。有り体に言えば、同じシリーズと言うことになる。共通するのは世界観で、登場人物に共通したものはなかった……はず。映画『マトリックス』の如き世界。すなわち、廃墟の現実≠ニ仮想現実の中の幻。仮想現実空間の中では私立探偵が居たかもしれな失踪人探しを行いめんどうごとに巻き込まれ、現実≠ヘ廃墟の月の上。両者のギャップは(ど抜きの素人目には)SF的だ。
上遠野浩平作品の魅力の一つとして作中の警句、登場人物の魅力的な台詞などが挙げられると思うが、この作品はこの台詞のためにあるのではないのか? というぐらい魅力的な台詞があったので引用しておく。月面探査ロボットが探査を終えた後本を書けるような機能を付けた科学者の言葉だ。もしかすると、ロボットが全ての探査を終え、本を書くころには人類は居なくなっているかもしれないという話の流れに科学者は
「あなたが本を書くことが、もしかしたら人類がこの世に生まれてきた理由になるかもしれないわ」
と言う。この台詞にSFの叙情を感じた。こういう台詞に出会うことがあるから小説を読むのをやめられないんだな、と思ったり。現実≠ニ仮想現実の両者の交わり。前作『ぼくらは虚空に空を視る』でもそうだったが、両者の交わり具合が、具体的にどこがと説明できないものの、魅力的だ。『ぼくらは虚空に空を視る』と『わたしは虚無を月に聴く』の二作は人類と虚空牙という人類の敵の戦いの側面もあるが、この側面は或る意味主なのであろうが、主になり得ていない気もする。つまり、先に挙げた魅力的な台詞に喰われてる、と言うことでもあるんだが。このシリーズは多分まだまだ続くだろうが、両者の闘いに決着が付く日が来るのであろうか。また、《ブギーポップ》のシリーズや『殺竜事件』(講談社ノベルス)の世界と交わっていくのか。興味は尽きない。
SFなのであろうが、SFを感じさせない、そんな作品。上遠野浩平作品の魅力を堪能するには十分であろう。
デビュー作となった鮎川哲也賞受賞作『狂乱廿四考』(角川文庫)が時代小説の体裁を備えていたことを考えると、本書が書かれたのは決して意外ではないのかも知れない。また、『贋作館事件』(芦辺拓編/原書房)では顎十郎のパロも書いている故に、時代小説への憧憬もすでにあった。で、本書は贋札が幕開けになる時代小説であるが、捕物帖形式でも、ミステリ的趣向があるわけではない。そこにあるのは時代を生き抜いた二人の男である。明治十二年九月十五日。藤田組贋札事件の始まりである。身に覚えのない贋札に対する執拗な取り調べ。問題の贋札を目にしたとき、藤田傳三郎は全てを仕組んだのが誰であるか知ることになる。藤田傳三郎は明治維新という激動の時代を駆け抜けた商人。そして、彼の側には宇三郎という影のように寄り添う男が居た。
本書『蜻蛉始末』は、藤田傳三郎と宇三郎という二人の男の邂逅、別れ、邂逅を描くものであり、ミステリというわけではない。ミステリを期待しない方が面白く読める、かも。この作品は作者曰くプロット、文体、ストーリーテリングを重要視したもので、しかも、作者に言わせればミステリだそうだが……。その辺は作者のミステリ観の話になるので何とも言えないが。時代を駆け抜ける何人もの男たち。維新から明治にかけての激動の時代を描いたのは山田風太郎の『警視庁草紙』(ちくま文庫)を思い出すが、こっちは明治に入ってすぐである。『蜻蛉始末』と『警視庁草紙』は作中の年代が重なるが、主題というか、登場人物の心情にどこか共通したものを感じる。如何にして時代を生きるか、と言う点で。
ミステリアスな経歴を持つらしい藤田傳三郎を宇三郎という人物をキーワードにして読み解く様は、確かにミステリ的だ。だが、それでも私は本書をミステリと言うには躊躇を覚える。やはり、作者がなんと言おうと、本書はミステリではなく、藤田傳三郎の或る種の伝記であろう。時代に押しつぶされた二人。二人の悲劇はいつまでも心に残るに違いない。
個人的には、今度は北森鴻の手による捕物帖を読んでみたいところだ。
本書は「別册文藝春秋」(文藝春秋)に連載されたものを纏めたもの。テーマはズバリ神。クイーンの『十日間の不思議』や『第八の日』(早川ミステリ文庫)やエーコの『薔薇の名前』(東京創元社)などキリスト教を様々なモチーフにした作品は英語圏には少なくない。本書『神のふたつの貌』は、私の記憶に間違いがなければだが、篠田節子の『ゴサインタン』(双葉社)が執筆のモチーフになったらしい。『ゴサインタン』はキリスト教がテーマなのか?牧師の子供に生まれた早乙女。牧師の家なのに、否、牧師の家だったからこそ家は安らぎの場ではあり得なかった。厳格な父、夫に愛されていないと不満を漏らす母親。父親は周りの評判こそ良く、慕われてはいたものの家庭人としては落第点。そんな或る日曜日、教会に一人の男が逃げ込んでくる。ヤクザの情婦に手を出し、終われる身だった男を牧師は匿い、男はしばらく教会に留まることになった。それが原因であらぬ噂が立つ。そして、その噂は母と男が同乗していた車の事故による二人の死亡で補強される形になった。少年は母親を失い、取り残される。そして、少年は成長する。
読み終えて思ったのは、本書は京極夏彦の『鉄鼠の檻』を貫井流にアレンジしたものなんだな、と言うこと。尤も、それは表層をなぞっただけに過ぎないのであるが。京極作品の影響は皆無ではないと思うが、本質は別の所にあるであろう。その一端はフクさんの本書の書評でほぼ完璧と言うぐらいにえぐっている。そこにされに付け加えるならば、京極作品はその外側であり、本書『神のふたつの貌』は内側である、というぐらいか。二作は対称的なものかも知れない。この辺は本書とフクさんの書評を読んでない人には訳解らないかも。ところで、本書を読み終えて思ったのは、ミステリとキリスト教の関連性。私の知る範囲と言う狭い範囲で限定するのも何だけれども、先に挙げたクイーンの二作品もそうだが、同じクイーンの『チャイナ橙の謎』(創元推理文庫他)もそうだし、後期クイーン問題も突き詰めればキリスト教に行き着くのかな? と思ったりもする。ミステリが英語圏で生まれ、イギリスアメリカ、フランスで育ったのは周知のことだが、いずれもキリスト教圏ではないか。ミステリとキリスト教は、実は切っても切り離せない関係があるのではないのか? と思ったり。尤も、ここまでミステリが氾濫している日本はどっちかというと無宗教の国で、キリスト教圏ではないけれども。この辺のことを本書は私に思わせてくれた。
最後に蛇足。本書は作品に仕掛けられた或る種の仕掛けにより、領域分けすると本格ミステリと言うことになるのであろう。だが、その仕掛けがプロットとかなりに密接に噛み合っているにもかかわらず、どことなく邪魔に思えた。逆に言えば、それだけプロットが巧く、文章力があると言うことなのかも知れないが。トリックというか、この場合、悪戯と言う言葉にトリックというルビを打つようなもんか。思わず「うわぁ」と叫びそうになったりして。
まさに、貫井徳郎にしか書き得ない作品だと思う。貫井徳郎の新たなる代表作と言っても過言ではないのかも知れない。
意外と、地味に人気があるように見える多岐川恭。2001年6月に創元の多岐川恭選集も無事完結し、《昭和ミステリ秘宝》シリーズの時代小説編で多岐川恭の配本が予定されてるらしい。少なくともそこまでは行くであろうから、何が入るのであろうか? という妄想はふくらむ。ま、それはいいとして。
本書は乱歩賞作家による書き下ろしシリーズの一冊として刊行されたもの。シリーズ推薦の帯は横溝正史で、当時はまだ乱歩賞が本格の牙城として機能していたンだ、と伺える文章であった。このシリーズには西村京太郎の『名探偵なんか怖くない』(講談社文庫)もあった。そして、本書はこのシリーズの中でも未文庫化作品である。幕末に起きた姉小路卿暗殺事件。その背景には様々な不審な点が多かった。下手人と目されていた人物は居たが、その人間の行為に不可解な点が多すぎた。要二郎は姉小路卿暗殺を独自に調べることにした。
姉小路卿暗殺事件は実際に起きた事件らしく、北森鴻の『蜻蛉始末』(文藝春秋)でも触れた記述があった。って、姉小路卿暗殺が史実の有名な事件だったら恥ずかしいな、オイ(笑)。高校の時は世界史選択だったから、と言うことにしておこう。『異郷の帆』(講談社大衆文学館・絶版)に続き、多岐川恭の時代小説を読むのはこれで二冊目。本書では現代ものの作品で見られるユーモアある筆致は皆無だ。それ故に、ものたらなさを感じる。もしかしたら、多岐川恭は元々この作品は小説という形にするつもりがなかったのではなかろうかとすら思ったりもする。
歴史の謎を解くというのが眼目になっているのは高木彬光の『邪馬台国の謎』(角川文庫・絶版)や『成吉思汗の秘密』(ハルキ文庫)、井沢元彦の『猿丸幻視行』(講談社文庫)、最近では鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』(創元推理文庫)や高田崇史のQEDシリーズも入れて良いであろう。年代的な先駆作品は『成吉思汗の秘密』であるが、歴史的な流れと言う意味では本書も或る意味先駆的なものと言っても良いかもしれない。作品内で暴かれる真相≠ヘ悲しく、また、それに伴う終幕もまた悲しい。結局の所、幕末という時代に飲み込まれた男女の悲劇に落ち着くのではなかろうかと考えなくもない。ただ、多岐川恭がどのような資料を駆使してこの真相≠ノ至ったか、巻末に参考資料が付していないから全然解らない。この時代はまだ参考文献を掲げるのは常識ではなかったのか。
もしかしたら、《昭和ミステリ秘宝》のシリーズで『異郷の帆』とのカップリングで復活したりして。割とオススメな作品なので、復刊された暁には是非とも手に取っていただきたいかも知れない。
私の中では西澤保彦というと換骨奪胎の人と言うイメージがある。山口雅也の『生ける屍の死』(創元推理文庫)を換骨奪胎した『死者は黄泉が得る』(講談社文庫)、東野圭吾の『鳥人計画』(新潮文庫)の換骨奪胎『殺意の集う夜』(講談社文庫)等々。本書『夏の夜会』は、確か、私の記憶が確かならば貫井徳郎の『プリズム』(実業之日本社)が発想の根底にあったらしいと言うこと。
本書は光文社発行の季刊誌「ジャーロ」に連載されたものだ。『プリズム』も雑誌連載だったことを考えると、面白い暗合だ。『プリズム』は被害者の女性教師の様々な側面を映し出したが、『夏の夜会』はまた違う側面を見せている。小学校の同級生の結婚式と祖母の葬式の為に帰省した見元。結婚式の披露宴二次会の話の流れで小学校の時の担任、井上の話に及ぶ。各人の記憶を頼りに、事件が再構成される。担任の井上を殺したのは誰なのか? 三十年ぶりに明かされる事件の真相。
記憶というものはなんていい加減なものなのであろうか。それを前提にして物語は進む。季刊雑誌への連載と言うことを考えたのか、各章それなりに完結していて、各章の終わりには強烈などんでん返しが用意されている。(第一章のどんでん返しと来たら……)。本書は『プリズム』に影響を受けて書かれているらしいが、なるほど。推理(この場合妄想?)の俎上に載るのが女性教師であるとか、他には……。それだけじゃん(笑)。見事に西澤流に咀嚼されている。様々な側面を見せるのは、被害者の人格ではなく俎上に載る事件そのもの。『プリズム』はポオの「マリーロジェの謎」の直系の子孫を目指して書かれたものであるが、『プリズム』を意識した本書は「マリーロジェの謎」から大きく離れている。「マリーロジェの謎」からだけではなく、『プリズム』からも。元ネタからの逸脱具合は毎度毎度のことのような気もするが(笑)、ここまで咀嚼されると元ネタがあることすら忘れてしまう。私が本書を読んで思い出したのはバークリイ。『毒入りチョコレート事件』(創元推理文庫)と『最上階の殺人』(新樹社)しか読んでいないが、バークリイの底意地の悪さを思い出す。もしかしたら、西澤作品の登場人物の或る種の底意地の悪さはバークリイに由来するものなのであろうか?
様々などんでん返しが待ち受けている作品。記憶の中にある真実は実は真実ではない、真実を知ることは実はとてつもなく凶悪な出来事なのであると言うことを思わせる作品。或る意味万人にオススメ、か?