『倒錯のロンド』、『倒錯の死角 【201号室の女】』(共に講談社文庫)に続く通称「倒錯シリーズ」の完結編。だが、書いたのは折原一。普通の本ではないのだ。『遭難者』(角川文庫)で製本の限界にチャレンジした折原一がまた変わったものを作った。なんと、表から読んでも裏から読んでもいいような造本なのだ。表には『首吊り島』、裏には『監禁者』、二つを挟んだ袋綴じの中にあるのが『倒錯の帰結』。都合三編が一冊の中に入っている。『首吊り島』と『監禁者』の二つを『倒錯の帰結』が繋ぐという寸法だ。( 最初の長編『首吊り島』では、新潟にある島「魚釣り島」に山本康雄が清水真弓と共に赴き、事件に巻き込まれる。『首吊り島』は横溝正史を意識した作風で、意識した作品として真っ先に挙がる横溝作品は『獄門島』(角川文庫)というのは言うまでもないであろう。もう一つは『悪魔の手鞠唄』(同)か。島、三姉妹、坊主、島の医者が『獄門島』で島に伝わる不気味な歌が『悪魔の手鞠唄』だ。見立ては両方というところ。過去の事件が現代の事件に影を落とすところ等も横溝的と言えば横溝的だ。ということは本書は世紀末横溝の一冊と言っても良いであろう。(註・2000年は横溝正史を意識したと思われる作品が多く、筆者はそれらの作品群を指して世紀末横溝と呼んでいる)。それに加え密室の中の溺死体という不可能犯罪も加味されている。部屋の中には水は一切無いのに。しかも、部屋の中には誰も入ることが出来なかったというのは監視つきだったので一目瞭然。
とびっきりの不可能犯罪故に読んでるのが『倒錯の帰結』であることを忘れてしまう。黒星警部のシリーズを読んでるかのような錯覚が。解決編に至って密室は解明されるが或る意味腰が抜ける。腰が抜けるようなバカトリックが用いられているのだ。カーや二階堂黎人の密室講義もすり抜けるトリックと言っても良いかも。事件の真相は横溝的とは言えない気がするが、或る言葉の解釈は『獄門島』を彷彿させる。『獄門島』を読んでから読むと『首吊り島』の面白さは倍増するかも知れない。ちなみに、『首吊り島』のエピローグは袋綴じの中まで持ち越される。二つ目の長編『監禁者』はキングの長編『ミザリー』(文春文庫)を意識したと思われる作品。山本康雄が狂信的なファンに監禁される。視点は山本康雄と清水真弓の視点の二つ。清水真弓は山本康雄を助けようとするが上手くいかない。山本康雄に危機が迫る。
『監禁者』で『首吊り島』が微妙に繋がってくる。『監禁者』は単体ではなくむしろ『首吊り島』との微妙な繋がり方を楽しむべきものであろう。残念ながら『ミザリー』を意識した作品としては、それ自体は出来が良いとは言いがたい。だが、「倒錯シリーズ」として読むと前2作『倒錯のロンド』と『倒錯の死角』の登場人物が出て来て楽しい。同窓会的楽しさか。『倒錯の帰結』は前2作を読んでいることが前提となっている。袋綴じである『倒錯の帰結』で二つの長編はメビウス状に繋がっていく。2長編がメビウス状に繋がる過程は不思議だ。ここに至って「倒錯シリーズ」は完結する。このねじれ方は完結にふさわしいかも。
作者も指摘しているように親本のそのままの状態での文庫化は不可能と思える。それ故に文庫化は『首吊り島』だけを独立させて後は破棄とするみたいであるが上下巻での文庫化にすればいいのじゃないのかなあ……。上巻が『首吊り島』で下巻が『監禁者』と袋綴じと言う体裁で。
表題作より併録作の方が出来が良いかもと『変人島風物詩』(創元推理文庫)を読み終えたとき思ったが、表題作である『的の男』(同)を読み、この『お茶とプール』を読んで思った。「ごめんなさい」と。『変人島風物詩』が思ったより良くなかったのはたまたまなんだな、と。解説や謎宮会の「多岐川恭特集」の葉山響氏による多岐川恭の著作リストを読むとこの作品は初めての文庫化であることが伺える。今まで埋もれてたんだからそう大したこと無いんじゃないのか? と言う意地の悪い人間もいるかもしれない。が、読み終えるとどうしてこのような作品が今の今まで埋もれていたのか首をひねりたくなるであろう。偶然訪れた同僚の家。そこではパーティがあり輝岡亨は招かれることになる。そこでは血で血を洗うような争いと言うには穏やかな争いが。次男の結婚を巡り侃々諤々の議論が家族間で為されていた。そんな中、招待客の一人である次男の嫁候補が毒殺される。警察の捜査でも誰が犯人か解らぬままに時は過ぎ、輝岡は女社長の愛人になる。そして時は過ぎ輝岡が全てを精算するときが来て……。
ユーモラスな筆致故なのか、事件が起きて以降この作品が推理小説の範疇にあることを忘れてしまう。中盤以降輝岡と女社長との情事(余談だが、この女社長は何故か<チョーモンイン>シリーズの能解警部を思い浮かべてしまった)、同僚との恋愛と一昔前の恋愛小説さながらだ(と言っても一昔前の恋愛小説を読んだことがないのであくまでイメージ的な話なのであるが)。それが終幕に至って事件が一気に解決され或る人物の悪意というか野望が露わになる。その瞬間は本格ミステリで伏線がぴたぴたと当て嵌まる際の快感のそれと似ている。
この作品はあえて分類すればクライムノベルなのであろうが、それは読了してから気付くこと。本質がクライムノベルで皮は普通小説と言っても良いかも。ところで、毒殺トリック。個人的には毒殺がメインのものがあまり好みではないが、この作品のトリックはその大胆さ故に笑ってしまった。大胆すぎる、かも。トリックだけ抜き出せばはっきり言って他愛もない、捨てトリックぐらいにしか使えなさそうであるが、作品自体が大胆な故なのか読了後しばらくしないとそのあまりにもの大胆際に気がつかない。この巧さは現在の作家も学ぶべきところが多々あると思う。
真の傑作とは埋もれようが何らかの形で不死鳥の如く甦るもの、とこの作品を読んで思った。
本書は第1回小松左京賞の最終候補作だったらしい。惜しくも受賞を逃したが、徳間デュアル文庫の一冊として世に出た。どのような経緯があったか知らないが喜ぶべきであろう。
私が本書を手に取ったのはネット上で(一部であるが)あまりにも話題になっていた故。文庫という手に取り安さも決め手だ。で、実際読んでみるとほわほわした作品だ。とてもSFとは思えない(笑)。ほわほわした感覚を与えてくれる。タイトルの由来は主人公がカメであること(笑)と思うが、ただのカメではなくレプリカメというカメのサイボーグみたいなものか。このネーミングセンスがまたいい。腰抜けると言うより膝の力が抜ける。まったく「何でこんなに力が抜けるんだ!」」というぐらいのほほんとした作品だ。のほほんとしたネーミングセンスは章立てや文体にもよく現れている。
しかし、なんだろう。この作品は本質はSFで何かとの闘いを描いているのであろう。実際、ラストはどこかへ闘いに行くかめくんの哀愁が漂う。が、主題がそこではなくカメの、いや、レプリカメの日常が主題なのか。こういう作品を読むとSFって奥が深いなあと感心したりするがそれはまた別な話。とにかく、この作品、なごみ系な事は確かかも。
所々に出てくるSFのガジェット故に読んでる間もこれがSFであると言うことは忘れないのだが、結局この作品はSFとして何がやりたかったのか。サイボーグカメであるレプリカメの生態を描くことが目的だったのか。もしそうなら、この作品は十分成功した作品と言えるであろう。こんなユーモラスなカメ、見たことも聞いたこともないぞ。
この作品、もしかしたらロボットテーマのSFなのか? 多分そうなんだろうなあ。しかし、このかめくん、サイボーグのくせにするめとかリンゴとか食べて、そこがまた可愛い。なんか、北野勇作の作品をもうちっと読みたくなったなあ。地道に探しますか。
本書は『どちらかが彼女を殺した』(講談社文庫)や『悪意』(同)で活躍する加賀刑事の事件簿5編を収録。そのうち4編は倒叙ものである。それぞれ甲乙つけがたいが、敢えて言うなら「狂った計算」が一番好みかも。以下、各編の簡単な感想。「嘘をもうひとつだけ」
バレエの世界の殺人。被害者はマンションの屋上から突き落とされたと思われたが、女性には不可能。だが、最有力容疑者は女性だった、と言う話だがタイトルの意味が明らかにされる瞬間「巧い」と快哉を叫ばせてくれる。トリックというかネタ自体は他愛はないが、他愛ない故というかそのネタはバレエの世界でしか成立しない。と、何が言いたい?
「冷たい灼熱」
妻が死に、子供が行方不明に。犯人の行方は知れず、時間だけが経つ。加賀刑事は一人の男にターゲットを絞るが……。
犯行の暴露と言うより、どうして子供の死体を隠さなければいけないのか、また、どこに隠したかというのが明らかになったときに全ての動機が明かされる。何故そうしなければいけなかったのかというWHYの部分が巧い。トリック自体珍しいのではないのだが(多分)、プレゼンが巧いと思う。
「第二の希望」
何も望まず体操のみにいきる母娘。この二人の住居の中で母親と交際していた男が死体になって発見された。母親は夫とは既に離婚していた。現場の状況から女性には犯行が不可能とされたが……。
東野圭吾の巧さが光る一作と言えよう。倒叙と言う形式を逆手にとって仕掛けてくれる。
「狂った計算」
交通事故によって夫を目の前で失った女性。だが、加賀刑事は妻に疑惑の目を向けていた。彼女には不倫相手が居たのだ。
二転三転する真相。倒叙短編の極意ここにあり、と言わんばかりの巧さだ。巧緻と言うには違うが巧いと言うしかない。
「友の助言」
加賀刑事の友人が事故を起こし入院した。見舞いに行った加賀は友人に質問をする。
この作品は倒叙ものではない。だが、犯人及び方法は考えるまでもなく解る。焦点は動機であるが、動機自体も新味がないと言うより或る意味ありきたり、かも。だが、この作品は(もか)無駄がない。無駄のない物語の運び方が眼目であろう。
「メフィスト」(講談社)でクソ生意気なガキのシリーズ(千葉千波だったっけ?)を掲載している高田崇史の(2001年2月時点での)最新刊。前作『QED ベイカー街の問題』(講談社ノベルス)がホームズだった故に今回は何を持ってくるかと興味津々だった。今回の題材は東照宮。日光だ。絵画盗難事件、スプラッタすれすれの惨殺死体、日光東照宮が桑原祟によって繋げられる。先の三題噺に加えてあの童謡「かごめ」の唄にもメスが入る。三十六歌仙(絵は三十六歌仙のものだ)をどう解決に絡ませるかと言う手腕は、前回までの証明させるものを事件に絡めるという苦悩の結果かシリーズ中一番巧いのでは無かろうか。真犯人の出し方もかなり巧い。ここに来てこの<QED>連作は或る種の頂点を極めたと言っても良いかもしれない。
『QED ベイカー街の問題』以外では日本史の謎を中心にし、呪術というガジェットを巧く用いて(補助線的に、或いは本筋に)証明してきたわけであるが本書ではその呪術というのが完全に作者の中で消化(昇華?)されたように思えるのだ。作者のそれまで培われてきたと思われる呪術観が確実に現れていると思う。一連のシリーズで示された呪術観を元に日本史を紐解くと(特に江戸時代以前)、スリリングなものに日本史が生まれ変わるかも知れない。もしかして、日本史って呪術的に面白いものだったの?
証明のプロセスは毎回ツボであったが今回は少々鬱陶しかったかも。というか、単に馴染みのないものだった故に知らない知識の説明が鬱陶しいと思ったんだけれども。だが、それが解決編で繋がる様はツボだ。やっぱ、このシリーズ読んでいこうと思わせてくれるパワーがある。
遅ればせながら思ったがこの桑原祟という探偵役、作者の投影じゃないのか? 薬剤師だし、日本史やけにくわしいし(笑)。著者近影がないが、どのような人なのか桑原祟から想像してみると楽しいかも知れない。この方法で想像した森博嗣像は大外れだったけれども(笑)。
次回は何が証明されるのか楽しみなシリーズである。
演劇の合宿で起きた殺人事件。そして各事件は台本の中にある事件と呼応していた。果たして誰が何のために? と言う話。簡単に言えば、だが。作者のページによると作中作の劇は既にあったものを再利用したとか。この作品は、作中作を包むかのように作られた、そんな気がする。デビュー作『凍える島』(創元推理文庫)の終幕の一節に「真夏の暑い島で、私たちは熱く凍えた」と言うのがある。この一節は『凍える島』全体を一言で要約してると思うフレーズであるが、この一節は近藤史恵作品全般に言える気がする。近藤史恵は「熱く凍える」人間を描き続けているのだ、と言うことなのだが。顕著に現れているのはデビュー作『凍える島』と本書だ。二作品に出てくる登場人物はどこか似ている気がする。登場人物どころか(大まかな)状況も。二つとも閉ざされた場所での連続殺人を扱っているというのは興味深い。登場人物が共通しているわけではないが隠れた姉妹編と言っても良いかもしれない。
「熱く凍える」人間というのはアンソロジー『不透明な殺人』(祥伝社文庫)に収録された「終章より」の主人公もそうだ。極論を言えば『カナリヤは眠れない』(同)の登場人物もそうだし、邪悪な恋愛小説『アンハッピードッグズ』(中央公論新社)の登場人物もそうではなかったか。だが、一番「熱く凍えて」いるのは本書の登場人物たちであろう。各作品の登場人物の「熱く凍える」様を想像して比べるのも楽しい。
前にもどこかで書いた気がするが、どうして近藤史恵の文章は冷たいのであろうか。冷ややかと言うには違う冷たさ。如何ともし難い。その冷たさ故に逆に暖かいと思うのだが。例えば「自殺なんて、過剰な生の裏返しだ。自分の手の中にあるものだけを慈しんで、静かに生きていくこともできるのに」という語り手の心情。これは一見突き放してるように見えるがそうじゃないと思う。冷たそうに見えて実は暖かいと思う。
演劇を志す人間の中での殺人事件。舞台とミステリという或る種の黄金パターンであるが、作者の歌舞伎嗜好もあってか近藤史恵と小泉喜美子が何故か繋がる。それが何故なのか未だ以てよくわからないんだけれども。何となく、《第三の波》のポスト小泉喜美子は近藤史恵だ、と言う気が。作風は全然違うんだけれども。何故だ。
この作品が冷ややかだと思ったのは雪の山荘だから、と言うわけでは決してない。しかし、上記の文章って近藤史恵論か『演じられた白い夜』について書いてるかよくわからん面があるなあ(笑)。
『屍鬼』(新潮社)から二年。小野不由美が真っ正面から本格ミステリに挑んだ孤島ミステリ。『東亰異聞』(新潮文庫)でも見られたミステリ作法がどのように結実されたのか。帯の文句に横溝正史の『獄門島』(角川文庫)と綾辻行人の『十角館の殺人』(講談社文庫)を引き合いに出されては、読まねばミステリファンの名が廃るというもの。ここまで煽られては読まないわけにはいけない、みたいな。って、踊らされるてるなあ(笑)。友人のノンフィクション作家葛城志保が失踪した。失踪前に後を託された式部は、自分を捜して欲しいと言う依頼だと受け取る。様々な調査の結果、彼女が九州の島、夜叉島に渡ったことまで判明する。島に赴き彼女の行方を尋ねるが、皆一様に口を閉ざす。だが諦めずに粘り、次々と手がかりを掴んでいく。そんな中、小さなあばら屋の中で事件痕を見つける。探し人は果たして殺されたのか? 殺されたならば犯人を見つけないことには東京に帰れない。式部は島の風習や中枢に深く入り込む。
帯に『獄門島』を出されたからなのか、読んでる最中横溝的なものを感じた。だが、思い浮かべた作品は『獄門島』ではない。『八墓村』(角川文庫)だ。因習あふれる集団内の殺人と言う所が思い浮かべた要因か。また、過去の事件と現在の事件の呼応、因習あふれる血筋など様々な横溝的なガジェットが思い浮かぶ。真相もまた横溝的と言えば横溝的だ。メインの謎が血の呪いと言ったところのみならず、顔のない死体が中心にあることも横溝正史を思い浮かべさせる要因か。
クライマックスの対決シーンは圧巻であろう。事件の真相もさることながら(ここもまた横溝的だ)、クライマックスの対決シーンの対峙する相手の迫力は『屍鬼』で見せた或る種の迫力すら思い浮かべさせる。迫力と共に哀しみすら沸いてくるのだ。対峙する相手が事件の真犯人ではないと言う所に巧さを感じさせる。この辺計算通りなのか否か解らないが、対峙する相手の設定にこの作品の凄さを感じさせる。
この作品は孤島テーマ、かつクローズドサークルテーマの作品であろう。クローズドサークルというには開かれているが(決して嵐のせいで島の外に出られないと言うわけではない)、出たら入れない故に出られないというのはクローズドサークルテーマと言っても良いであろう。そして、この辺の設定は有栖川有栖の書かれざる江神シリーズ4作目の設定を思い浮かべさせる。有栖川有栖は出られない街、こっちは出られない島。
読んで損はない一冊であろう。
柄刀一曰くのティータイムミステリー。本書は慶子さんとお仲間探偵団のシリーズ一作目ともなっている。従来の「時を翔る不可能犯罪」ものや『アリア系銀河鉄道』(講談社ノベルス)の「三月宇佐見のお茶の会」シリーズと多彩な作風だ。
本書のお題はシャーロキアン。『シャーロック・ホームズの回想』(創元推理文庫他)収録の「マスグレイヴ家の儀式」を中心に据えたものだ。そして不可能犯罪もある。ホームズが住んでいたと言われるベーカー街221番。実際のその住所にはシャーロック・ホームズソサエティという団体の事務所があった。そこに届いた一通の招待状。「マスグレイヴ家の儀式」を模して作られた館で行われるイベントのものだ。宝探しのイベントのために赴いた慶子と筧フミ。そして事件は起きる。主催者側の人間が一人転落死し、客の一人が殺人を悔いて自殺したとも取れる遺書を残して死んだのだ。その事件に何者かの作為を感じる関係者。そして、密室の中の墜落死体、食べ物を前にした餓死死体が……。
正直言って、シャーロキアンではない私には「マスグレイヴ家の儀式」の矛盾点に関する蘊蓄はあまり面白くなかった。同じシャーロック・ホームズを扱ったものなら高田崇史の『QED ベイカー街の問題』(講談社ノベルス)の方が面白かった。だが、本書はホームズのみに依拠したものではない。館の中の密室に於ける墜落死体や食べ物を目の前にした餓死死体の謎は強烈だ。これらの謎が如何にして解かれるのかとワクワクしつつ読み進んだ。この辺の解決については後ほど。
キャラクターがほのぼのとしていいかも。探偵役の慶子さんはナルコレプシー、簡単に言うと眠り病なのであるが、それ故なのか、時を止める少女≠ニいう異名のせいなのか、本書には従来の柄刀作品とは違うユーモラスな、ほのぼのとした雰囲気が漂う。ほのぼのとしてる故に若干もの足らない気がしないでもなかったが。
以下本書、『水晶のピラミッド』(島田荘司/講談社文庫)のネタに触れます
本書の謎の解決は、豪快でなおかつ合理的と言えよう。豪快なトリックを成立させるための緻密な計算、伏線の妙は柄刀一は島田荘司の後継者たりうると言っても過言ではない。
本書は島田荘司の『水晶のピラミッド』への挑戦の結果なのであろうか。更に言うならば島田荘司作品そのものへの挑戦のような気もしないでもない。『水晶のピラミッド』のトリックを読んだ柄刀一は自分ならこのダミートリックをこう使う、と思い立ったのではなかろうか。シャーロキアンの本書の評価を聞いてみたい気もする。
昨年は『魔術戦士 』(ハルキ文庫)を完結させた朝松健の時代小説。作者曰くの室町伝奇作品である。本書はタイトルからも伺えるように一休宗純、通称(?)一休さんが主人公だ。<異形コレクション>に一休が主人公の短編があり以降一休連作なのか? と思ったこともある。本書の後書きによると舞台を「小説宝石」(光文社)に移して活躍中らしい。纏まる日が楽しみだ。( 四代目将軍足利義持の命でほしみる(本文では傍点が振ってある)を探す一休宗純。ほしみるは天下を混乱させるものであるという。母親を人質に取られたような形であったが、一休は着実に調査を進める。次々と襲う怪異、人間。ほしみるの正体は何なのであろうか? そして一休宗純はほしみるを見つけることが出来るのか。
ほしみるの正体は意外なもの。作者はかなりの自信を持っていたがその自信もむべなるかな。彼のページではこのネタは山田風太郎でも思いつくまいと言うことを書いてた気もするが確かに思いつかないかも知れない。と言うよりむしろ、朝松健が書いたからからこそこのネタは生きたのでは無かろうか、と思うのであるが。山田風太郎なら長編にしないで短編に使うと思う、と言うか忍法帖を読まずにこういうのも何だが。危険、か?
作者が楽しんで書いたことが文章の端々から伺える。作者が楽しんで書いたものが読者が楽しんで読めるかというのは議論があるであろうが、面白くないと思って書かれたものよりも面白いのは確かであろう。実を言うと朝松健の時代小説を読むのは本書が初めてであるが既刊作品も早く読まねばならないであろう。とにかく、本書は読んでて楽しい。
昨年(2000年)鯨統一郎による一休譚『とんち探偵一休 金閣寺に
密室 』(ノンノベルス)が出たが、ミステリと伝奇小説で比べるのは酷だが軍配は明らかにこっちに上がる。て、ジャンルが違うから比べてもしょうがないのかも知れないが。伝わるエピソードの使い方がこっちが巧い、と思った。『金閣寺に密室』も巧いと思ったがこっちが更に上をいっていた。(
恐らく「少年」をテーマにしたアンソロジーなのであろうが、作家たちの資質故なのかSFになっている。というか、編集部はSFを依頼したのか? 6編の中では「鉄仮面を巡る論議」が一番面白かった。以下、簡単すぎる感想。「鉄仮面を巡る論議」(上遠野浩平)
対「虚空牙」の最終兵器マイロー・スタース・クレイパー。彼の正体は……。
『冥王と獣のダンス』(電撃文庫)と『ぼくらは虚空に夜を視る』(徳間デュアル文庫)を繋ぐ一編。上遠野ワールドのクロニクルを作るものには嬉しい一編であろう。
「夜を駆けるドギー」(管浩江)
しかし、なんか、2チャンネルを良く研究したなあ、と言う所か。そう言う意味では結構笑える一編だったかも。って、作者の意図は多分そこにないんだろうけれども。
「テロルの創世」(平山夢明)
「蓼食う虫」(杉本蓮)
上記二作品、懐かしいSFの香気があるがそれだけ、なような。懐かしいSFというほどSFを読んでるわけではないが映像関係だ。漫画とか映画、アニメとか。
「ぼくが彼女にしたこと」(西澤保彦)
奇妙な交換殺人の顛末。6作品の中で一番SF味が薄い作品、と言うよりむしろ無いんだが。割と考えられていて楽しめた。
「ゼリービーンズの日々」(山田正紀)
近未来と言うには近すぎる未来が舞台。現行の少年法なんかを揶揄してるように見えるが、キモはそこではなく少年の描きようであろう。