『歯と爪』(創元推理文庫)で知られるバリンジャーの作品。著作リストによると、本書はバリンジャーの三冊目らしい。本書は小学館より本書ときびすを接して刊行され、こっちのタイトルは『煙の中の肖像画』。原題は『PORTRAIT IN SMOKE』なのだが、内容を鑑みると直訳するなら創元版の方が正解。本書は二人の視点パートで成立している。十年以上前にちらりと見かけた女性の写真を或る日偶然見かけ、己の持ちうる能力を駆使して探し当てようとする男ダニー・エイプリルのパート。そして、もう片方はその写真の女性、クラッシー・アルマーニスキーのパート。彼女は己の美貌を片手に自分が住む町を脱出し、幸せを手にしようともがき続ける。本書は二人の軌跡が何処で、どの様に交わるかと言うのが興味の行き所であろう。
で、肝心要の結末はどうだったかというと、個人的にはよく練られており、それなりに意外性はあるものの過去の作品故の悲しさか今の観点から見るともの足らない、と言うところ。だが、本書に見るべきものは皆無と言うわけではない。ダニーのパートは今で言えばほとんどストーカーだし(笑)、クラッシーのパートは悪女小説として圧巻。ミステリと言うより寧ろミステリの手法を匂わせた普通小説としてみると結構面白い。多分、カットバックの手法を用いて二つの視点を融合させるという手法は、発表当時は斬新だったのであろう(解説でもそう書いてある)。融合させる事自体がショッキングだったのかもしれないが、今では融合させただけではもの足らない。尤も、本書は視点の融合の後にさらにヤッてくれるんだけれども。結末についての感慨は先に述べたが、巧く練られていること、それは保証できる。ミステリ的な面白さに繋がっているかは保証しないけれども。
本書はストーカー小説の先駆であり(作者本人は絶対に意識してないけれども)、悪女小説の名作であろう。多分、それ以外に付け加えることはないと思う。私にとっての本書最大の意義は他のバリンジャー作品に手を伸ばしてみようかと考えるに至ったこと……かもしれない。
つうか、タイトル長過ぎ! サブタイトルまで入れたらフォントサイズ下げないと一行に収まりません(笑)。あんたは一昔前の邦楽ですか(一時えらい長いタイトルがはやった時期があった)。一ヶ月に一度事件に巻き込まれ、全十二冊になるという《私立霧舎学園ミステリ白書》シリーズ第二弾。今度のお題はアリバイ崩しである。主人公が事件に毎月巻き込まれるところとかのお約束につっこむ気は毛頭ないが(余談だが、作中《あかずの扉研究会》もの第二弾『カレイドスコープ島《あかずの扉》研究会 竹取島へ』(講談社ノベルス)に言及してあり、こっちも毎月のように事件に巻き込まれているのに思い至り苦笑した)、アリバイトリックはいくら何でも無茶やろ。日本警察の、国家権力の鑑識技術を舐めきってるとしか思えないような。せめてダミーの推理の材料くらいにとどめて欲しかった。多分、刑事が気づいて調べさせたらアウトだし。この辺は犯人の造形によりけりなのかもしれないが。少なくとも私はつっこみたくなる・
本書で感心したのはアリバイ崩しでも、動機でもラブコメでもなく(笑)、おまけの所。おまけとして私立霧舎学園の学生証がついているのであるが、コレの使い方は面白かった。このおまけマジックだけは次作以降も続けて欲しいところ。でもね、個人的にはこのシリーズは短めの長編でやるよりも短編かもしくは中編にして何ヶ月かごとに一冊という体裁にした方がいいと思う。クイーンの『犯罪カレンダー』(ハヤカワミステリ文庫)や高田嵩史の千葉千波くんのシリーズみたいにね。そうすれば今みたいに叩かれることは少なかったと思うし、読者もつきそうな気もするのだが。と、文句しか書いてない気もするが、作者の企みに乗せられて全部読みそうな気もする。気のせいと言うことにしておきたいが(笑)。
御手洗潔長編の冒険の発表は、そろそろ年一回ペースに戻ったか。文藝春秋《本格ミステリ・マスターズ》第一回配本での島田荘司は異国の御手洗潔の冒険を描く。場所は英国の片田舎、オーロラが見える村。そして、事件は村の住人によって語られる。のどかな、オーロラが見えるその村で、オーロラが見えるさなか、事件は起きた。誰からも好かれたボニー・ペニーの生首が犬に縫いつけられた状態で発見される。この猟奇的な死体はこれから起きる凄惨な連続殺人事件の幕開けでしかなかった。次々と屠られる村の老婆達。死体に共通するのは、巨人に引きちぎられたかのような切断面と素っ頓狂な死体発見現場。この事件の解決に乗り出したのはスゥエーデン大学助教授、キヨシ・ミタライその人。
今回は石岡君と御手洗潔の掛け合いはないものの、アル中のイギリス人から見たキヨシ・ミタライの姿が活写される。御手洗潔の外国での活躍故か、徹頭徹尾常識人で(笑)哲学の道で叫び走った昔が懐かしい。ま、まだるっこしい書き方だが、こういう書き方でもしないと核となっている中心アイデアを割りかねない(笑)。嘘は書いてないけれどもな。一応はキヨシ・ミタライは出ずっぱりなので御手洗ファンにはお勧めな作品だろう。多分。石岡君命な読者にはもの足らないどころではないと思うけれども。多分、本書でワトソン役を務めるアル中は、今後の登場機会はないだろうなあ(笑)。結構気に入ったんだけれども。変人探偵の本領発揮ではない、事件そのものは或る意味平凡(だって、コレまで対決した相手がアヌビス神だったり、吸血鬼だったり、世界の終幕だったり、幽霊軍艦だったりとものすごすぎる故に、「魔神」と言われても、所詮バラバラ殺人を行うサイコキラー如きでは……)、被害者のミッシングリンクは読者サイドにはバレバレ(ま、これは或る意味ミスディレクションなんだけれども。もしかして、メインはそこか?)と良いところないかも(笑)。というわけで、もし本書から御手洗潔シリーズを読もうと思ってる人が居たらあまりオススメできない。やはり、初期の『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』、シリーズ中期の『暗闇坂の人喰いの木』『水晶のピラミッド』あたりを読んでから本書に取りかかってもらいたいね。って、何様だ、オレ。
正直、核となるアイデアは国産クラシックファンにはあまりにも有名すぎる短編の先例で(というか、その作品を「クラシック」と呼ばざるを得ないことに或る意味驚きを覚えるが)、しかも、ほとんどそのまま故、核の使い方そのものは積極的に評価する気にはなれない。それを脳科学と絡めているのは島田荘司らしいが。意識的に用いたのか、忘れてるのかは定かではないけれども。尤も、こういう手で来るとは思わなかったので意外さ千万だったのであるが。島田荘司らしからぬ繊細さとでも言っておこうか。大業一発トリックを得意としている島田荘司らしくないかも。なんだかんだ言っても御手洗潔シリーズファンには嬉しい新作長編であることには変わりなく、シリーズファンには、否、シリーズファンにこそオススメな一冊であろう。ただ、新規ファンにはあまりオススメできないかな。もし、島田荘司をこれから読んでみようというファンには御手洗潔は1990年代を代表する名探偵の一人である、と言うことを念頭に置いていただきたい。
驚くべき事に、本書は7年ぶりの長編だそうだ。『鳴風荘事件 殺人方程式U』(光文社文庫)いらいか……。間に3冊の中短編集はあったけれども。その中に『眼球綺譚』(集英社文庫)があったが、このホラー短編集にはユイという名の登場人物が必ず登場していた。そして、本書にも「ユイ」と言う名の女性が登場する。つまり、本書は綾辻行人のホラー連作(?)の長編版と言うことも可能であろう。母親が一風変わった痴呆症を発症し、しかも、その痴呆症は遺伝するかもしれない。加えてそれは二十代後半から発症する可能性もある。医者に母親の病状を聞かされ、落ち込む波多野森吾はそれまで続けていた研究を辞め、塾講師として糊口をしのぐ生活を送っていた。母親は最近の記憶を失っていき、段々と古い記憶しか残らなくなる。そして、その残された記憶は恐怖の記憶であった。だが、森吾にはそれが何であるかはわからなかった。幼なじみに背中を押され、手を引かれ、母親の育った町へと足を向けるが……。
主人公の名前が「しんご」なのは楳図かずおの漫画、『私は慎吾』から来ているのかな。漫画の方は読んでないが、もしかしたら元ネタというか、発想の元の一つがあるかもしれない。先にも書いたように、本書には「ユイ」と言う名前の女性がでてくる。『眼球綺譚』に直接繋がってるわけではないが、綾辻ホラーの商標と言うべき名前が出てくると、それだけでなんか嬉しくなってくるような。本書は記憶を巡るホラー、と言うことで良いのであろうか。少なくともホラーと言うにはもの足らないし、かといってミステリかと言えばそうでもないような。あえて言うならばホラー風幻想小説、薬味はミステリと言う感じ。ミステリ的なところは読み終えて連城三紀彦の「白蓮の寺」という作品を思い出した。無論、全然別物だが、どことなく根本的な発想というか着想の元ネタが同じかもしれないと思った。
しかし、記憶が抜け落ちるというのは怖い気もする。否、怖いことだろう。主人公である波多野森吾はその恐怖と戦っているというか、それから逃げているわけであるが、その逃避っぷりが物語に於ける必然とはいえ多少いらいらしたり(笑)。途中バイクにの蘊蓄がでてくるが、主人公や主人公の叔父のバイクに関する感慨はもしかすると作者本人の考えだったりして。久々の長編はどこかもの足らないところも散見したが、どこをどう切っても綾辻ホラーな事には変わりなく、待ち望んだ綾辻ファンには待望のものであろう。問題は『暗黒館の殺人』(講談社ノベルス近刊)がいつ連載完了するか、だよね。
徳間ノベルスから刊行された同題短編集の文庫化。何故今になって文庫化されたのは定かではないが、過去に文庫化されなかったのは角川文庫版忍法帖短編集の影響か。初刊刊行時に「最後の忍法帖」と銘打たれた短編集収録作の感想は以下。「女郎屋戦争」はお上が作った遊郭VS吉原と言う構図。お上の方の芸妓が士族の娘で開始当初は物珍しさに客が押し寄せるもののやがて客は元へ戻っていく。途中怪老人が出てくるが、その正体の意外さは忍法帖ならではのもの。本編は本によっては「忍法帖女郎屋戦争」となっている。
「伊賀の散歩者」は様々な江戸川乱歩の小説やエッセイを薬籠中のものにしてとけ込ませた忍法帖のみならず、山田風太郎作品群の中でも尤も異色な作品であろう。本書は乱歩小説アンソロジー『乱歩の幻影』(日下三蔵編/ちくま文庫)に収録されている故に乱歩小説としても有名であるが、もしかすると、本編は乱歩小説であることを伏せておいた方が驚きを得られる。そんな小説なのかもしれない……と言いつつも、ここでは乱歩小説であることを書いてるけれどな(笑)。
「伊賀の聴恋器」は聴診器ならぬ聴恋器を発明し、意中の女性を射止めようと企む伊賀者であるが、三人のライバルが居る。それをいかにして排除するか、と言う段になって聴恋器が大活躍するのだ。山田風太郎お得意の手でけ落としたものの、待っている結末は哀れかも。。
「羅妖の秀康」では徳川家康の実質上の長男秀康にスポットが当たる。梅毒で鼻が無くなった秀康であるが、忍者が用いる忍法で鼻が再生。その鼻の材料はなんと、陰茎なんだから笑うのを通り越してあきれるしかない。現代で言う移植技術を忍法で過去に再現したわけであるが、なんというか。結末は史実通りなのだろうが、作者の陰茎趣味ここに極まれりということか。
「剣鬼喇嘛仏」は宮本武蔵対佐々木小次郎その後、であるが主人公は武蔵ではなく小次郎が身を寄せていた藩の跡取り息子の長岡与五郎。彼が武蔵と対決するそれまでとその後を描く。何故「喇嘛仏」なのか、というのもさることながら結末の「意外性」と作中の忍法の滑稽さは何ともいえない。
「春夢兵 」は八戸は南部へ隠密行に行った伊賀者三人の壮絶なる死に様を描いた短編と言っても良いであろう。登場人物として現れる間宮林蔵が隠密であったという設定をうまく絡ませている。オチには山田風太郎らしさというか山田風太郎その人の経歴らしいものがあるが、これって所謂最後の一撃 ≠セよなあ。(
「甲賀南蛮寺領」はバテレンVS甲賀忍者。信長には逆らってはならない、という読みの元に信長に従ってきた甲賀ものたちであったがそれが裏目に出て南蛮寺領として卍谷を差し出さなければならない羽目に陥り、反旗を翻す。最後の最後はキリスト教徒に対する、キリスト教ならではのしっぺ返しで締めくくられる。山田風太郎は切支丹ものを結構書いているが、本編は或る意味例外的な切支丹ものであろう。それは忍法帖だからであろうか
菅浩江のバラエティ豊かな短編集。《異形コレクション》や「SFマガジン」(早川書房)に発表された『永遠の森 惑星博物館』(早川文庫)の番外編、「お代は見てのお帰り」やノンシリーズ作品を中心に収録している。この短編集に収録された作品は『雨の檻』(早川文庫JA・絶版)収録作同様なんらかの「儚さ」を巧く描ききっている。この人の文体は短編向きなのだろうと思う。長編は(2002年9月時点で)2作しか読んでいないが、長編は文章があわないのに短編ではそうでもない。本書を読んでようやく確信したのであるが、菅浩江はSFというよりSFの小道具を効果的に用いて物語を紡ぐのが絶妙に巧い作家であると思う。それ故に「儚さ」を描くのが巧いのであろうか。SFと「儚さ」はよく似合う。
集中のベストは――それぞれ甲乙つけがたいけれども――「箱の中の猫」かな。以下各編の感想。「五人姉妹」はクローン技術で生まれた4人の女性とオリジナルとの対話を描く。クローンではDNAが同じ人間は作れても生育環境によって全然別人になる。同じDNAを持つ人間と対話する気ってどんなものなのであろうか。悲しく儚い。
「ホールド・ミー・タイト」は電脳世界の議事性と日常の乖離、歩み寄りを恋愛を絡めつつ描く。本編は書き下ろし。電脳世界という身近で、なおかつ縁遠い世界を設定し、感涙のラストに持っていく。巧いなあ、と舌を巻くこと請け合いです。
「KAIGOの夜」は《異形コレクション》の17冊目『ロボットの夜』が初出な故、ロボットが重要な役割を果たす。介護ロボットならぬ介護「される」ロボットが出てくるわけであるが、最後に仕掛けたものは驚愕でありながら悲しいものを感じる。
「お代は見てのお帰り」の主人公は大道芸人の親を持ち、そして自分自身も親となっている一人の男性の葛藤を描く。『永遠の森』の世界を持ってきながらもそこにとどまってない印象を受ける。ここでは「儚さ」は見られないが、「人の夢」は実にほほえましく描かれている。
「夜を駆けるドギー」は「2ちゃんねる」と思しき世界を主軸に電脳世界に耽溺し、外を見ようとしない少年を描く。ドギーというAIBOのパチもん(笑)みたいな動物が夜の街を駆け抜けるという噂が。その噂の果てに浮かび上がる真実と少年の成長にこそ本編の真骨頂があるのであろう。
「秋祭り」は遠くもないかもしれない未来、農作物プラントに訪れた女性が探す者は何かという話。探しているものは何か。それがわかったとき、読む者はSFに於ける神に思いを馳せるのかもしれない。
「賤の小田巻」は芸道小説。若さとは、老いとはというのをSFのガジェットを効果的に用いて問いかける。こういう作品は多分菅浩江にしか書き得ない作品なんだろうなと思う。ここでは若さの「儚さ」を描いている。
「箱の中の猫」は宇宙空間と地球のコミュニケーションでいきなりタイムラグが生じてしまい、それからを描く。猫が出てきて、宇宙空間とか物理学という言葉が出てきたので有名なパラドックス「シュレーディンガーの猫」を思い出したら案の定出てきた(笑)。恋愛の儚さ、人の夢の偉大さ。それらがここにある。
「子供の領分」は記憶がない子供の物語。読み終えてこの作品の結末って或る意味アレ(『アイ・アム』のこと)だよね、と思ったり。この手が好きなんだなあ。
名探偵天地龍之介が活躍するシリーズ第三弾は中編叢書400円文庫より。今回は旅先で巻き込まれた殺人事件。幽霊館に浮かび上がる死体、肝試しに容疑をかけられるレギュラーキャラクター達。ミステリの或る種のお約束を臆面もなく用いながらもできたのは柄刀一らしい大胆なもの。浮かび上がる死体の謎に関しては「そんなバカな!」と思いっきりつっこんでしまいたくなるかも(笑)。また、名前に関する暗合は悪くはないものの世界観から浮きすぎていてちと興ざめかも(考えられてることは重々承知だが)。
『殺意は砂糖の右側に』『幽霊船が消えるまで』(共にノンノベルス)の一連の流れから独立した作品故に本書は単体でも十分に楽しめるものといえよう。余談だが、本書のタイトル、もしかするとこの二冊からとったのか? 内容は全然関係ないのだけれども。歌野晶午の『館という名の楽園で』(祥伝社文庫)と共に発刊された館競作であるが、二者に対して正直甲乙つけがたい。テーマ的には歌野、ミステリ的には本書。そういう意味で館競作を読み比べるのも一興であろう。
極東で世紀末に始まったトビーとジョージの冒険は猿から始まった。だが、本国イギリスでは本書よりトビーとジョージの物語は始まったのだ。翻訳というフィルターを通している故に紹介は前後したが、本書はエリザベス・フェラーズのデビュー作にしてトビーとジョージ最初の事件である。有名作家であるおばあさんが、何ものかを轢き殺してしまったという訴えを警察署に。轢き殺された酔っぱらいは、すぐに身元が分かるであろうと当初は思われていたものの、何処の酒場にも寄った形跡が無く身元は一向に判明しない。そして、顔は事故によってつぶされてしまっていた。果たして、事故は本当に事故だったのか。殺人の可能性はないのか。この否かの事件にトビーとジョージが乗り出してくる。
フェラーズのデビュー作は顔のない死体であるが、身元不明の名も無き死者と言う意味でセイヤーズのデビュー長編『誰の死体?』(創元推理文庫)を意識したものなのであろうか。多分、たまたまなのであろうが。そういう深読みも又楽し。笠井潔が『探偵小説論U』(東京創元社)の執筆前に本書を読んでいたら大戦間大量死との関連として本書も挙がったんだろうなあ。デビュー作で、紹介が4番目ということで出来自体は既刊3冊の作品と比べてあまりよろしくはないが、事件の真相に秘められたほのかな悪意には後の作品に見られた稚気の連発への萌芽が見られ、結構驚いたりしてる。真相に秘められた悪意は稚気と表裏一体の関係にあるのであるから。処女作には作家の全てがあるとは言うけれども、エリザベス・フェラーズは当てはまらなかったらしい。無論、その後のトビーとジョージのシリーズに繋がるものはあるけれども。
泣いても笑ってもトビーとジョージの物語は残すは一つ。どの様な完結を見るのか楽しみにしたい。
『妖の忍法帖』のタイトルで「小説宝石」(光文社)に連載の後カッパノベルスにて刊行。角川文庫化に際して『忍法双頭の鷲』になった。現時点ではカッパノベルス版と角川文庫版の二種類しか刊行されていない。なお、本書は山風評価ではCランクである。本書は一応長編ではあるが、『笑い陰陽師』(講談社ノベルス・絶版)同様連作形式をとる。主人公は根来忍者の二人組で、物語の要は二人の諸国漫遊記――という気もしないではない。将軍の代替わりによる政権交代により、これまで重用されていた伊賀組より根来組に公儀御庭番の職が回ってくることが内々に決まりつつあるその時、若年寄である堀田筑前守より各国の内情視察を命じられる。二人の探索結果がそれぞれの藩を結果として取りつぶすことになり、二人は段々苦悩する。
本書は山田風太郎がミステリで好んで用いた各編が有機的に繋がり、最後で一つに連なっていく所謂<連鎖式>の作品ではない。だが、二人の探索行が毎度毎度同じ顛末をたどってしまうと言う各編(正確には各探索行の)結末には無情さを感じてしまう。余談だが、プロローグ〜各話〜或る種の驚きを伴う結末という構成は後の『明治断頭台』(ちくま文庫)を思い起こさせる。本書と『明治断頭台』の相関関係を妄想するのも楽しい。忍法帖執筆の最後らへんに当たる作品故に、それまでの傾向と全然違う作品にしよう、忍法帖を脱しようという気概というか気迫というか、そういうのを感じる。あまり根拠のない想像であるが、本書も『笑い陰陽師』みたいな作品にしたかったのではないのかなあ。それが失敗した故に山風評価がCになったのでは、と考えてみたりもするんだけれども。そら、『甲賀忍法帖』や『柳生忍法帖』(共に講談社文庫)と比べれば遜色は隠せないけれども、『伊賀忍法帖』(講談社文庫)には負けてない。否。あくまで個人的にはであるが――こっちの方が面白い。他の山田風太郎ファンの評価はさておき、本書はCクラスでくすぶって良い作品ではないのは確かだ。
タイトルに秘められた「双頭の鷲」の意味、カタストロフとまでは行かないまでもそれまでの展開を真っ向から否定してしまうような急転直下の終幕。途中の各探索行の結末のリフレインと終幕のトリッキーな持って行き方と融合するとき、忍法帖は史実と直結し、羽ばたく。この構成の仕方は山田風太郎ならではのものであることは間違いはない。とはいえ、本書から忍法帖を読もうという人が居た場合は「やめたが良いよ」と言わざるを得ない。尤も、入手困難な(2002年9月の)今、これを探し出してから読み始めようという酔狂な人間も居ないだろうけれども。とりあえずは講談社文庫の山田風太郎忍法帖全集から入るのがオーソドックスな読み進め方でしょう。
『閉じ箱』(角川ホラー文庫)以来久方ぶりの刊行となる竹本健治の短編集第二弾……と言うのは正確ではなく、一応《パーミリオンの猫》シリーズの短編集もあるのでノンシリーズ集成の第二弾……も正確では無いなあ。牧場智久ものの唯一の短編もあったり、《パーミリオンの猫》シリーズの短編もある。――細々したことは気にしないようにしよう。って、気にしてるのは私じゃねえか(笑)。
ショートショートあり、《異形コレクション》発表のものありと盛りだくさん。本書の初出一覧を眺めると、竹本健治ファンにとって《異形コレクション》は本書刊行を早めてくれた叢書とおもったり――と思うほど寡作なんだよ、この人。2ちゃんねるで「仕事しろ」とスレッド作られるわけだよ。以下、各編の簡単な感想。「ボクの死んだ宇宙」は『異形コレクション綺賓館T 十月のカーニヴァル』(カッパノベルス)初出故なのか、秋の香が濃い。SFなのにねえ。
「熱病のような消失」と「パセリ・セージ・ローズマリーそしてタイム」の二編はショートショート。切れ味と言うより寧ろ切り取られた風景という感じ。
「震えて眠れ」は隙間恐怖症の男の話。何というか、《異形コレクション》の一冊『恐怖症』(光文社文庫)に入っててそうな話ではある。
「空白の形」は服部まゆみの短編「時のかたち」に捧げられた作品。記憶を蓄積できない男の話なのであるが、記憶が蓄積できないそのことを「空白」と表現した所にすごみを感じる。
「非時 の( 香 の木の実」は津原泰水編のアンソロジー『エロティシズム12幻想』(講談社文庫)初出。読み返していて思ったのは本編は時間怪談≠サのものだと言うこと。って、《異形コレクション》を援用しすぎるのは私の悪い癖である。(
「蝶の弔い」は幻想譚。何をピンで留めていたのか、と言うのにどことなくメルヘンを感じる。
「病室にて」は超掌編と言うか超短編ですか? 400字という制限を上手く生かし切れてない気もする。
「白の果ての扉」はカレーを食べることによって開かれた扉の向こう側とは。《異形コレクション》の12巻目、『GOD』(廣済堂文庫)初出。
「フォア・フォーズの素数」は数字で遊ぶ少年に待ち受けるカタストロフ。数学的教養がある人には本編はめっぽう面白いんだろうなと思う。高校レベルの知識が薄れかけている私にはちと荷が重かったけれども。
「チェス殺人事件」は通称《ゲーム三部作》の合本『定本ゲーム殺人事件』に書き下ろされた幻の一編。本編のために『定本ゲーム殺人事件』を探し求めた人は少なくないはず。最後の選択というか曖昧さは作者ならではのものか。
「メニエル氏病」はトリック芸者シリーズの一編。豪快なSFミステリトリックであるが、無茶するよなあ……と思うぞ。初出は伝説のアンソロジー『奇想の復活』(立風書房)だが、本書で改めて読み返して思う。
「銀の砂時計が止まるまで」は作者が最も気に入っているという短編。ネコと少年のひとときの裏側に潜んでいた真実は悲しくも驚きに満ちている。と言うか、登場人物を入れ替えて作者名を伏せたら絶対に竹本健治の作品とは思えないぞ、これ。