『りら荘事件』 『失踪者』
『黄泉津平坂、血祭りの館』&『黄泉津平坂、暗夜行路』
『メイン・ディッシュ』 『時の鳥籠』
『宝石泥棒』&『螺旋の月 宝石泥棒II』

りら荘事件 鮎川哲也 講談社文庫 580円

 現代本格ミステリにおいて多大な影響を様々な意味で与えた鮎川哲也の星影もの長編。『黒いトランク』(角川文庫・絶版)が鮎川作品のリアリズム型本格ミステリ長編の頂点ならば、この『りら荘事件』は鮎川哲也の人工美のパズル型本格ミステリ長編の頂点といっても過言ではないであろう(とはいってもこのタイプは後は『朱の絶筆』(講談社)のみ)。作品のみならず、アンソロジストとしての顔、新人発掘者としての顔と、日本ミステリ界の偉大なる巨人江戸川乱歩にその功績は勝るとも劣らないと思う。或る意味越えてるかもしれない。とりあえず内容の紹介。

 芸術系の大学の保養寮である「りら荘」は昔投資家が所有していた別荘であったが、株の暴落によって自殺。もともと「ライラック荘」という名前であったが、ライラックの和名「刺羅(りら)」から「りら荘」と呼ばれるようになった。そのりら荘にやってきた男女七人。「男女七人夏物語」というドラマが昔あったようであるが、男女が七人集うとそこには好んでも好まなくてもドラマがある。最初の犠牲者は炭火焼き小屋の人間。そしてその死体の傍らにあったのは、どこへともなく消えたスペードのカード。しかもスペードのAである。そして第二の犠牲者の傍らにはスペードの2が置いてあった。殺した順にカードを置く犯人の倒錯、傍らに潜む殺人鬼。次々と仲間が屠られていくなか、一人の人間が真相に肉薄したもののあえなく犯人に殺される。そしてその死体の傍らにはまたもやスペードのカードが。一人、また一人、減っていく。いったん容疑者を逮捕するが、犯人ではあり得なくなった。そして死体の山が築かれ、容疑者が絞られたとき名探偵星影龍三が現れる。

 作中、「星影竜三」と表記してあるが、正確には「星影龍三」であることをここで僭越ながら訂正しておく。この名探偵星影龍三の活躍は『朱の絶筆』や『赤い密室−星影龍三全集I』と『青い密室−星影龍三全集II』(共に出版芸術社)でほとんど読むことが出来る。解説で触れられている「呪縛再現」は『赤い密室』に収録されているのでご心配なく(何の心配だ?)。のこすは『白の恐怖』(絶版)であるが、『白樺荘事件』として長編化されるらしい……が、はたして出るのであろうか?

 とまあ、星影龍三に関するガイドはこれぐらいにしておいて、この星影龍三の登場のタイミングはまさに真打ち登場、といった風格すら漂う。星影龍三が出てくるのはりら荘における事件が混迷に陥り、捜査当局がもう打つ手無し、というときに担当検事の要請によってである。作中に言及されてる事件というのは「赤い密室」という短編のことであろう。やはり、名探偵というのは事件の渦中にいるのは好ましくないのかもしれない。星影龍三の事件の解明の早さは並ではなく、解決スピードの速度というのを統計を取ると上位に来るのでは無かろうか。目の前でばたばたと人を殺される無能な名探偵らとは大違いである。おそらく、星影龍三を安楽椅子型の探偵にしているのは鮎川哲也の超人探偵観に基づくものであろう。事件に介入したらすみやかに解決しなければならない、と。実際、『五つの時計』にある星影短編はすべて事件に関わるのは事件が起こった後であるし、その手腕の鮮やかさは超人探偵の面目躍如である。

 この作品のパズル性というのは今更私が言うまでもない気もするのであるが、ギミック、テクニックは一つ一つの殺人に丹念に込められている。作中登場人物が一人一人方法が違う(刺殺、毒殺、殴殺など)と感心しているが、その一つ一つの工夫の具合はパズルミステリかくあるべしというぐらい精緻なパズルである。そのパズルの全貌が星影龍三の絵解きで浮かび上がるとき、読むものはその巧緻さに舌を巻かざるを得ないであろう。無論、作者が仕掛けた罠をいくつかは見破れるかもしれない。しかし、それは作者への読者の勝利ではなく、気がつくように書いてあるからであって、決して読者の勝利足り得ないし、すべてを見抜くことはおそらくは不可能であろう。探偵による真相の解明の前の完全解明こそが読者の作者への唯一の勝利であるから。「十五 星影竜三」の章の終わりに絵解きのためのすべてのパーツが出そろうので、そこで本を閉じて作者からの挑戦を受けるのも一興であろう。

 ここ最近ぽつぽつと鮎川作品が復刊されてるのが、新作の合間にこういう「基本」となるべき作品を読むのもまた楽し、である。現代本格ファン必読の作品であろう。

失踪者 折原一 文藝春秋 2095円

 『冤罪者』のシリーズ、すなわち実在の事件に取材をして物語を構築していくシリーズ(と私は勝手にそう呼んでいる)第三弾。ちなみに第一弾は『誘拐者』(東京創元社)である。「者」シリーズとも言うかもしれない。今回の発想の根本にあったのは、神戸の事件であろうか。とりあえず内容の紹介に移ろう。

 埼玉で起きた少年Aの事件。少年法への切り込みのためのノンフィクションの取材のために高嶺は久喜市へ訪れた。高嶺が取材しようとした題材は「ユダの息子」の事件。この「ユダの息子」の事件は十五年以上前に起きた「ユダ」の事件にそっくりであった。しかも、場所は同じ久喜市。十五年前の事件は犯人である少年Aの逮捕によって事件自体は解決していた。その過去の事件を模倣するような「ユダの息子」。しかし、「ユダの息子」は捕まった。またしても少年A。しかし少年Aは果たして「ユダの息子」なのであろうか? 取材を終え、少年法を材材にしたノンフィクションを出版した高嶺の近辺にも何者かの魔の手が。そして高嶺の助手弓子に迫る何者かの凶手。一方、少年Aの父親は少年院にいる息子に絶えず手紙を送り続けていた。手紙には父親の過去の懺悔、少年Aの幼年時代、そして少年Aを救えるか否か綴ってあった。叙述ミステリの雄、折原一の社会派叙述ミステリ。

 安定した叙述ミステリ、というのが近年の折原一の作品に共通しているところであろう。現時点で作品に叙述トリックがある、というのを明かしても良い作家の作品は折原一だけである。一般に叙述トリックが仕掛けてあるとわかったその時点で読者の勝ち、作者の敗北である、といわれる場合が多い。折原一の作品はどんな叙述が仕掛けられているか、その叙述トリック探しは或る意味フーダニットの犯人探しにも似ている。しかし、フーダニットに置いて犯人が分かったからと言って読者の完全勝利になるとは限らないように、折原叙述ミステリでは叙述のネタが割れたからといって読者の勝利になるとは限らない。この作品では「ユダの息子」は誰かという通常の犯人探しも加わるのでいわばダブルフーダニット、ということも出来よう。

 『冤罪者』では巧みに「冤罪」という社会派的素材を盛り込んでいたが、今回は少年犯罪である。少年法改正が盛んに議論されてる中、ここまで踏み込んでいる、というのはある種の驚きである。この作品はいわば社会派叙述ミステリではあるが、他の社会派作品とは違い、何の社会告発も含んではいない気がする。作品に置いて社会派的素材は叙述のパズルを形作る一つのピースでしかないのであるから。しかし、言うまでもないが叙述パズルを形作るピースはそれだけではない。折原一のお家芸ともいえる様々な文体や視点の転換が今もなお健在で、その視点のめまぐるしさを全く感じさせないその手腕はさすが。

 サスペンスの盛り上げ方はもう折原節、という域まで来ており、次はどうなるか、さてこいつはどうするのであろうか、こいつにはどんな過去があるのか……と、登場人物の誰一人として油断が出来ない。その感情移入を拒否する緊迫感がこの作品のみならず、折原一作品の魅力であろう。

 世の中、まだまだ様々な事件がごろごろと転がっているので、この「者」シリーズに置いてどのような実在の事件をどのようにアレンジしどのような叙述フーダニットを仕掛けてくるか、今後もまだまだ目を離せそうにもない。

黄泉津平坂(よもつひらさか)、血祭りの館
黄泉津平坂、暗夜行路(あんやのみちゆき)
 藤木稟 徳間ノベルス 各1000円

 京極系の喧伝でデビューしたが、内容は京極とは別物の藤木稟。完全に京極から脱却し、独自の藤木ワールドを展開しているが、京極系と言っていいのはただ一つ。執筆スピードである。執筆スピードはまさに京極系♪ というわけで反則すれすれの上下巻体裁(初めっから書いてけよなあ)となったこの物語。とりあえず内容の紹介。

 平坂にある「地祭り」である天主家の館――通称「血祭りの館」。そこにある屈強の男が何人かかっても動かすことが出来ないと言う「千曳岩」が突然動きだし、「鳴らずの鐘」の音が館の中に鳴り響く。そのとき魔の封印は解かれ、館の中に悪魔が跋扈する。天主家の宗主である茂道を思い道理に動かそうと薬を盛る鏡子。しかし、薬の量の加減を間違えたため、茂道は冷たい骸と変わり果てる。その骸を唐櫃のなかに切断して押し込める。そして天主家では茂道は失踪したことになった。そして起こる長男安蔵の失踪、跋扈する鎧武者、夢遊病の美少女。「血祭りの館」に探偵と鎮魂のための僧侶が二人呼ばれる。しかし起こる不可解な事件。しかし、やがて事件は突然の収束を得る。数々の謎を残して……。そして血みどろの惨劇から十四年後、再び事件は起こり朱雀十五が事件の解明に召還される。館に隠された財宝の謎、奇妙な住人、血取り爺の伝説……様々な謎が一点に集約されたとき、そこには驚愕の真実が浮かび上がる。

 館もの、宝探し、暗号、甦る死者。探偵小説の様々な意匠を巧みに組み合わせ、独特の世界を構築する。まさに藤木ワールド、そういうしかない世界。全作の『ハーメルンに哭く笛』(徳間ノベルス)までは時代背景を変えた方がいいかな、と思ったがこの作品ではまさにこの昭和の戦前の時代でしか生息できない、人間を真っ正面から描いた。そして、作中漂う妖艶な雰囲気。この妖艶な雰囲気は現代を舞台にしたら妖艶どころか胡散臭くなってしまうであろう。そして舞台を山奥の奥の奥に設定したことも成功の要因であろう。

 作品を彩る魔術のペダントリー。このペダントリーの奔流は尋常ではない。しかし、このペダントリーが作品のある種の根幹を成しているのは否定は出来ない。魔術的意匠の数々がこの作品の妖艶さを増幅している。しかし、この作品の暗号は、私自身は解く気は全くなかった故はなから放棄していたが、解決編の前に暗号を解こう、と思った人はいるのかなあ。ペダントリーの奔流、次々と明らかにされる事実の前に、読者は謎解きをしようという意欲を根こそぎ持って行かれるであろう。そして読者に残るのは、真相を知りたい、という意志のみ。

 これはいわゆる「館」ミステリである。館ミステリといえば綾辻氏の諸作、『斜め屋敷の犯罪』(島田荘司/講談社文庫)、そして『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎/教養文庫他)などがすぐさまに思い浮かぶが、この作品はその先行作品のいわゆる「良いところ」を抽出し、組み合わせ、藤木稟スパイスをかけた、そんな感じがする。しかし、作者自身がミステリプロパーでないことをインタビューで告白している故、先行作品への意識、オマージュというのは全くないのかもしれない。となると、天性のものであろうが、それはそれでものすごい気がする。既存の要素を巧みに抽出し融合させる。もう京極系、という呼称は的をはずした評価であろう。

 「本格ミステリベスト10」の99年度版で藤木稟作品の世界設定を座談会で末國氏はファンタジーと言っているが、なるほど。確かにファンタジーといえばファンタジーなのかもしれない。その雰囲気、キャラクター共に。ファンタジーであるためには、何も架空の国である必然性はない。そこに異世界があればいいのであるから。つまり、探偵小説、ミステリはある種のファンタジーであること他ならないのであるのであるから。

メイン・ディッシュ 北森鴻 集英社 1700円

 北森鴻氏は短編の名手、という感じである。各短編ともそれぞれ上手く考えられており、心地よい。しかも、通常の短編集では決してなく、趣向が凝らされている。『花の下にて春死なむ』も通常の短編集ではなく、短編が何らかの形に変貌する連作短編集であった。この『メイン・ディッシュ』は如何であろうか? プロローグに当たる「アペティリフ」とエピローグに当たる「メイン ディッシュ」以外の各編の紹介をしよう。

「ストレンジ テイスト」
 劇団「紅神楽」お付きの脚本家小杉は芝居の脚本を遅らせに遅らせていた。もう待てる限界まで皆待ってるのであるが一向にあがる気配が見えない。終いには超遅筆で有名な劇作家になりきるとまで言い出す始末。その原因は芝居の登場人物の言動であった。その一つにどうも納得いかない、というのだ。
 どこかで読んでことあるな、と思ってたら前に雑誌で読んだことがあるのを思い出した。それはさておき、この謎を解くいわゆる探偵の役を割り振られている通称ミケさんであるが、つかみ所がない登場人物というかなんというか。作中作の謎を解くと言う趣向は結構新鮮である。
「アリバイ レシピ」
 過去を回想する男。男は社内の定期健康診断の結果、自分が癌に冒されてることを知った。大学生の時のことを思い出していた。仲間たちと過ごした楽しい日々。しかし、仲間のうちの一人が陵辱されたことで関係に罅が入る。そしてその事件の犯人もまた仲間の一人であった。遺書を残して彼は飛び降り自殺をした……かに見えた。
 タイトルに込められた含蓄が興味深い。仲間の女性を陵辱した犯人と目されている男のアリバイを証明するのは料理の味、というのはこの短編集を象徴してて上手いなと思った。その謎解きに料理したカレーを食べさせることにこの『メイン・ディッシュ』と言う短編集のコンセプトを感じる。
「キッチン マジック」
 紅林ユリエは或る日引ったくりに会う。一応は警察に届けては見たものの、警官の態度は腹が立つものであった。そんな話をしながらミケさんは伊府麺を打ちに台所に入る。しかし、その麺の小麦粉の配分を間違えて違うものに。そして警察が尋ねてくる。引ったくり犯らしき人間が近所で死体となって発見されたらしい。
 何気ない描写が伏線となり解決編の絵解きで感嘆の息を漏らす。本格ミステリなら(或る意味)当たり前なのであるが、ケレン味に目がいって見逃してしまう。その点北森鴻の短編はそぎ落としてシェイプアップした感じがして心地よい。この作品で改めて感じた。終盤の「思い出がいつだってすばらしいと思えるのは、幸福な人間の驕りではないですか」という台詞は少し胸が痛くなった。
「バッド テイスト トレイン」
 電車に乗ると他人と相席する事がある。滝沢は駅弁を買ったものの食欲が無く、相席した男にあげると彼は非常に喜んだ。彼はむやみやたらと話しかける。確かに彼が言うとおり二組の客にはおかしな点があった。しかも、彼らが持ってる弁当は駅弁ではなくてデパートの総菜屋さんで買ったものだった。
 「アリバイ レシピ」のときもそうであったが、「紅神団」がらみの連作短編かな? と思ったらこういう(一見)無関係とも思える作品があって当惑させられる。この作品の位置づけについては後の短編で明らかになるが、絡ませ方は面白い。いわば「メタ連作短編」化?(メタの意味よくわかってなかったりして(笑))
「マイ オールド ビターズ」
 劇でビールの樽を使ったことがある、と言うことで広告会社の人間から回してもらった破格の仕事がお大尽一人の前で劇をやる、と言うもの。観客はただ一人。しかし、その破格さ故に或る疑問が浮かび上がってきた。もしかして、自分たちは犯罪の片棒を担がされたのではないのか? という恐ろしい疑問が。
 この作品以降、通常の連作短編の顔は消えて「長編型連作短編」の顔がおずおずと現れてくる。それはさておき、この作品で井上夢人氏の某作品(『風が吹いたら桶屋がもうかる』)を思い起こすのは私だけであろうか。作品の構造故そう思うのであるが、牽強付会すぎるか? このタイプの作品って他に類例見あたらないしなあ。
「バレンタイン チャーハン」
 とあるきっかけで劇団員が注目を浴びて、各氏各様テレビに出たりと皆引っ張りだこで劇団「紅神楽」はほぼ開店休業状態。脚本担当の小杉は覆面作家としてでビュー。しかし、なんだかんだ言って脚本は書いてくれていた。或る日、紅林が書いた料理エッセイの写真を見て小杉は写真撮影の日に撮影現場の近所で起きた事件と結びつけた。
 これもまた「マイ オールド ビターズ」と同様の構造を持つ作品。小杉の暴走する推理のその暴走具合と真相の落差、小杉の狼狽ぶりは非常に笑える。些細なところからロジックを積んでいき意外な真相≠構築しそれをぱっと崩す。もしかしたら推理≠ネんて砂上の楼閣の土台より脆弱なものなのかもしれない。
「ボトルダミー=v
 ミケさんがいなくなってずいぶんの時間が経った。じめじめする六月のある日、部屋の整理しているとミケさん仕込みの梅酒が見つかった。その思いでの梅酒≠ナ久々のミーティングと言う名のホームパーティが催される。いわばダミー≠ニして熟成された梅酒。その梅酒を飲んだとき、過去の出来事の真相が見えた。
 あまりにもの人気′フに瞬く間になくなってしますからもう一本余計につくって置いて熟成させよう、という意志の元に作られたダミー≠フ梅酒。梅酒が事件解明の鍵にあるところがこの短編集の意気込みを感じさせる。考えて見ればこの『メイン・ディッシュ』という短編集は「食べ物」がキーなのであるから。
「サプライジング エッグ」
 様々な出来事が様々な場所で巡り会い、そして一つになる。
 今までの短編が重なり合い、一つの布を織り上げるような、北森鴻氏の短編集は前回もそうであったがそう言う感じがする。そのエピソード同士の重奏的な絡まりあいがもしかしたら彼の短編集の大きな魅力なのかもしれない。短編集としての構造は『花の下にて春死なむ』と同じなのであるが、同じ構造ならこっちに軍配が上がるのでは無かろうか。いずれにせよ、この人の短編集はかならず追いかけてみようと思う。

時の鳥籠 THE ENDLESS RETURNING 浦賀和宏 講談社ノベルス 1100円

 前作『記憶の果て』(講談社ノベルス)ははっきり言って、こっちの精神状況が良くないと作品の陰鬱さに巻き込まれてしまい、精神衛生上よろしくないものであった。それ故、この作品が紆余曲折を経て私の元に届いたのが昨年の(確か)十一月ぐらいであったが、読んだのは三月の末である。この作品は読むものの精神になんの影響を及ぼすのであろうか? 内容の紹介に移ろう。

 救急救命センターの医師甲斐祐介はいつものように激務をこなしていた。或る日いつものように急患が運び込まれてきた。患者はまだ十代である少女。付き添いできた安藤という女の子は甲斐に少女を「絶対に助けてくれ」と言う。しかし、少女と安藤とは友達ではなく、たまたま偶然に出会っただけの仲だという。だが、運び込まれたとき少女は死にかけていた。延命の意味がないくらいに。だが、彼女は持ち直した。やがて甲斐とその少女は一緒に暮らすようになる。少女は記憶を失っていたが、一つだけ覚えてることがあった。未来から来たという。

 読後感は飲み込まれるような陰鬱さこそは感じなかったがそれでも暗さはぬぐえない。明るい話を求める読者には決して勧めることは出来ないであろう。作品の中核に据えられているのはタイムトラベルと吸血鬼(ヴァンパイア)なのであろうが、後者は薄められていてもしかしたら気がつかない読者もいるのかもしれない。この稿を起こしてる今でも「吸血鬼パートってあったけ?」という「をいをい」とつっこまれそうなことをちらっと考えてしまったのであるが。しかし、この二つの要素を中心に持っていきながら中心から外そうという意志が伺える。その外そうという感性がもしかしたらこの作品の真の中心なのかもしれない。

 二つのパートがどのように絡まっていくか、興味はそこにあったが特に劇的な結末があったわけでもなく、なんとなく重なり合い、何となく収束していく。歪められた日常が淡々と綴られていく。この歪んだ日常の陰鬱さ。日常は一人の人間の登場によってこうも歪むものなのか、と感じた。しかし、いってみればそれだけのような気がするというのは言い過ぎであろうか。

 しかし、それでも最近出た『頭蓋骨の中の楽園 LOCKED PARADISE』を読もうと思ってる私はこりない人間なのかもしれない。

宝石泥棒 山田正紀 ハルキ文庫 940円
螺旋の月 宝石泥棒II 山田正紀 ハルキ文庫 上巻740円 下巻840円

 『宝石泥棒』、『螺旋の月 宝石泥棒II』或る意味独立した長編なのであるが、一方で相互に繋がりを持ち切っても切り離せない作品である。それ故にこの宝石泥棒§A作は二作品で一つの文章にさせていただく。とりあえず内容の紹介に移ろう。

 ジローは従姉妹であるランに恋をしてしまった。従姉妹と交わることはこの世界では絶対の禁止事項。しかし、恋は盲目。ジローはタブーを破り、ランに求愛する事を決意する。そして忍び込んだ神殿で神託を受ける。恋を成就させたければ「宝石」を探し出せ、と。人類が失った究極の「宝石」を。紆余曲折、偶然の重なり合いで出会った甲虫の戦士ジロー、“狂人”チャクラ、女呪術師ザルアー。三人はジローの目的成就のために「宝石」を求めて「空なる螺旋」を目指し旅立った。三人は果たして「宝石」を見つけることが出来るのか?(以上『宝石泥棒』)
 荒野を一人さまよい歩くジロー。向かってくる敵をなぎ倒し、ただひたすら自分自身の死に場所を探し求めてる様であった。倒すべき敵は「窮奇(きゅうき)」、「渾沌」、「饕餮(とうてつ)」、「檮机(とうこつ)」の四柱の神。しかしこれらの神は世界そのもの≠ナあった。一方、現代の日本で新世代のコンピューターの開発に従事していた緒方次郎は、恋人が精神錯乱を起こしたために北海道から東京に戻ってきていた。そして恋人の部屋にあるコンピューターに触れたとき、異世界の光景が頭の中に流れ入る。やがて、お互いの世界の興亡をかけた、時空を越えた戦いが始まる。(以上『螺旋の月 宝石泥棒II』)

 この作品は一見RPGのノベライゼーションの様な印象を受けるが、どうしてどうして。様々なセンスオブワンダーに満ちあふれていて、薄っぺらなノベライゼーションという印象はすぐに消え去る。しかし、『宝石泥棒』の方は読んでいてなんとなくであるがRPG「ドラゴンクエスト」シリーズの世界を思い出した。もしかしたら制作者はこの本の世界に何らかの影響を受けたのかもしれない。しかし、『宝石泥棒』の真の読みどころはやはりファンタジーがハードなSFに変貌するその瞬間であろう。この『宝石泥棒』が先日(一九九七年)行われたという「SFマガジン」の「オールタイム・ベストSF投票」の日本長編部門で四位に選ばれるのも納得できる。それほどSF的なセンスは凄まじい。「宝石」を求める旅路はどこにもSFの片鱗が伺えないにも関わらず(しかし随所に伏線が張られていることに読了後気がつく)、最後の大ボスみたいな場面でようやくSFが姿を現す。

 一方、『螺旋の月 宝石泥棒II』ははなっからSFである。現代パートでSF的要素を前面に押し出し、ジローパートでファンタジー部分を押し出す。SFとファンタジーの華麗なる融合というのが『螺旋の月 宝石泥棒II』のミソであろう。そして瞠目すべきは二人のじろう≠フ戦い。相手に勝つことは相手に負けること、相手に負けることは相手に勝つことというパラドックス的な戦いをせざるを得ない状況に陥る。そのパラドックス、SFとファンタジーの絡まり具合が読んでいて楽しい。解説でこの作品が山田正紀SFの総決算とかいてるが、その解析に置ける様々なSF的意匠の数々は一つ一つ驚嘆に値する。ミステリに例えるなら、密室、アリバイ、一人二役、顔のない死体、叙述トリック、名探偵、奇妙な館といった豪華絢爛な要素を詰め込んだものかもしれない。

 ミステリファンでも十分すぎるぐらいに楽しめる傑作である。ハルキ文庫から復刊されたこの機会に一読してみては如何であろうか?


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