『不変の神の事件』 『4000年のアリバイ回廊』
『そして二人だけになった』 『ハサミ男』
『高く孤独な道を行け』 『黄金色の祈り』
『血ダルマ熱』

不変の神の事件 ルーファス・キング 創元推理文庫 480円

 このルーファス・キングと言う名前は、初めて聞くから本邦初紹介かな? なんて思っていたがすでに何冊か邦訳が過去に出ているようである。修行が足らん。創元あたり新訳で出してくれないかなあ、なんて期待してるがどうなんだろう。短編集が出るよーだけれども、そっちも期待大で良いだろう。とりあえず中身にいきまひょ。

 恐喝者が死んだ。心臓麻痺で。姉であるジェニー・オールデンを強請り続け、その結果姉を死に追いやった男を皆で追いつめてるうち激昂した一人が彼を死に追いやったのである。打撲のショックによる心臓麻痺。リディアは「処刑」と評したが、心臓麻痺でも殺人は殺人である。そして目の前にあるのは恐喝者の死体。死体を処分すべく奔走する。その結果、死体は処分できはしたが目撃者を作ってしまい、しかもその目撃者は警察に通報した。死体を運ぶのを目撃した、と。その荒唐無稽さに(実際は死体を運んでいたのだが)相手をしてなかった警察当局も結局は動きだし、そして死体が発見される。しかし、その死体には銃弾が撃ち込まれていた。逃げる殺人者たち。追う警察。二者が太平洋上で出会うときに明かされる驚天動地の真相は?

 まさに驚天動地。騙しの文学であるミステリは本書の原書発行年である一九三六年に一つの到達点を迎えていた、といってもあながち大げさ過ぎというわけではなかろう。実際問題、私の認識不足だったわけであるが、この時代に、この作品のように本格ミステリが内包する「騙し」の側面を極めた作品があるとは思わなかった。なんて言ったらクリスティの『アクロイド殺人事件』(創元推理文庫他)はどーなんだ? と言うつっこみが入りそうだが。この作品とは明らかに「騙し」としての「語り」の構造が違う気がする。『アクロイド殺人事件』を読んでいないのでさほど偉そうなことは言えないのであるが(じゃあ言うなよ)。

 追うものと追われるもの。この二者が重なるまでの過程のサスペンス感も、きびきびしてて好感が持てる。まあ、アイリッシュの『幻の女』(早川ミステリ文庫)には一歩及ばないものの、このサスペンス感も「買い」であろう。船に乗るまでのある種の逃亡劇、船に乗ってからは見えざる殺人者の存在。洋上の船という閉ざされた場所。正直二五〇項の中で、これだけの展開が可能とは思わなかった。研ぎ澄まされた文章で「語ら」れる「騙し」。何度も繰り返すようだが、これほどの「騙し」が一九三六年と言う時代にあるとは正直ビックリ仰天(死語?)

 この時代、二〇、三〇、四〇年代の代表的な作家と言えば私の認識ではクイーン、クリスティ、カー、クロフツ、ヴァン・ダインなど「騙し」よりはむしろ、フェアプレーによる盤面上の対決を意識した作品しかなかったとばかり思ってたが、これはかなり大きな間違いであった。もしかしたら、『世界ミステリ作家事典(本格派編)』(森俊英/国書刊行会)を読んでる人は常識かもしれないが(そうじゃなくても、海外ミステリ識者には常識中の常識だったりして(笑))。如何に今までの翻訳状況が偏りすぎていたか如実に示すべき事であろう。フェアプレイ糞食らえな作品がこの時代にあったとは(別にこの作品がアンフェアな作品だと言うことを言ってるわけではない)まあ、考えて見れば、アンチシリーズ探偵の『カリブ諸島の手がかり』(T・S・ストリブリング/国書刊行会)が一九二九年だから今更驚くべきことではないのかもしれない。

 文庫、廉価、薄いという現在の出版状況に逆行する以上に喧嘩を売ってるような(笑)価格設定なので、この機会に是非とも手に取っていただきたい作品である。

4000年のアリバイ回廊 柄刀一 光文社 1600円

 『3000年の密室』で考古学ミステリという新ジャンルを確立した柄刀一のシリーズ二作目、というところか。前作で時空を越えたエレガントな密室を構築し、解体してくれた。今回はどのような謎を構築してくれるのか。今回は時空を越えたアリバイ崩しものなのか、と期待しつつ読んだ。

 日本海沿岸の深海千メートル近くの海底で、男の死体が発見された。他殺であることが判明。被害者である岩下三蔵は、日本のポンペイと呼ばれる高千穂の湯口台遺跡を巡るトラブルに巻き込まれていた節があった。関係者のアリバイを宮崎県警の捜査官は調べたが、それぞれに鉄壁とも言えるアリバイがあり、捜査は非常に難航した。陸海空、それぞれのダイヤグラムを引きずり回しても一向にアリバイが崩れる気配が伺えない。しかし、或る一点に着目し、そのアリバイも崩れるかに見えるが……。一方、遺跡から発見された遺体のDNAを調べると、非常に妙な事が判明。なんと、生まれて間もない赤子が父親になるという結果が出たのである。九州の遺跡を巡る様々な思惑の行方は如何に。

 先に「考古学ミステリという新ジャンルを確立した」と述べたが、歴史ミステリと言う観点から言えば新ジャンルというのはふさわしくない。しかし、従来の歴史ミステリというのは、歴史に潜む謎を解き明かすものであり、新たに謎を構築し、構築した謎を自ら解体すると言う構造をとってないであろう。歴史ミステリは数えるほどしか読んでいないので、この見解大いに間違ってるかもしれないが。自ら謎を構築し解体する。この体裁をとっている以上、この作品は歴史ミステリのテリトリーに入れてはいけないのかもしれない。入れるのであれば、真っ当な本格ミステリの領域か。このような恣意的なジャンルわけは意味を成さないのかもしれないが(じゃあするなよ)

 現代ミステリパートは、ダイヤグラムアリバイ崩しである。しかもフーダニットも兼ね備えた。鮎川哲也氏の鬼貫長編をいくつか読んだ範疇では(全部読んだ訳ではない)長編に置いてアリバイ崩しとフーダニットを両立させるのは至難の業、と言う印象が強い。両立させてる作品がないではないが、長編では『王を探せ』(鮎川哲也/講談社文庫・絶版)のように変則的なものや(同名異人間のフーダニット)、有栖川氏の『マジックミラー』(講談社文庫)のように前半のみ、と言うのしか思い浮かばない。短編では鮎川氏の「誰の屍体か」があるが。もっとも、思い浮かばないのは私の嗜好としてアリバイものはあまり好まないというのもあるが。と言うわけで、要するにこの作品のような作風は珍しいと(その一言だけで良かったのでは?)

 過去に遡る謎に関しては、時空を越えた密室殺人に勝るとも劣らない魅力的なものである。不可能犯罪ではないにしろ、赤子が父親になると言うことは生物学上不可能なことである。その不可能を可能にするのが、「時間」という要素。アリバイ崩しと言うジャンルが確立されているように、ミステリと時間というのは非常に相性がいい。強引な結び付けであるが、歴史ミステリも時間との相性と考えるとさらに「時間とミステリ」という繋がりは深くなるであろう。ある時は壁になって立ちふさがり、ある時は不可能ごとを解体するヒントを授ける「時間」と言う存在。作者自身は、この作品を本格ミステリからはみ出したところに眼目があると述べている。私が思うにその眼目は「時間」という普遍的な要素が持つ深みであろう。同じ事が『3000年の密室』にも言えるに違いない。

 ダイヤグラムアリバイ崩し、考古学となんだか小難しくなるがちな要素が入り交じってるが、決してそれだけでは終わらない作品である。

そして二人だけになった 森博嗣 新潮社 2000円

 森博嗣新潮ミステリー倶楽部初登場、である。ハードカバー、金欠だった故に借りた(笑)。実際問題、文庫落ちしてから読む予定だったのであるが、ネット上でいい評判しか聞かなかったので「これは人として荒探しせねばならぬ(笑)」と考えて借りたのだ(迷惑な読者である)。しかし……その思惑は外された。これは森博嗣氏の代表作になるであろう。内容に移る。

 アンカレイジにある《パルプ》内に降り立ったメンバー六人。彼らは《パルプ》の性能を実地調査する為に――実際は休暇であるが――やってきたのである。この六人のメンバーの中には偽物が二人混じっていた。勅使河原潤の偽物とその秘書の森島有佳の偽物。二人の偽物はお互い偽物だという事に気がついていない。そんな狐と狸の化かし合い的な状況の中、密閉された《パルプ》の中で殺人が起きる。残るは五人。また一人、また一人殺されて残ったのは偽物の二人。果たして犯人は二人のうちのどちらかかなのであろうか? 二人以外に犯人が居るならば、その正体は何ものなのか? 二人は入り口を爆破して脱出を試みる。

 タイトル通り残るのは二人。この二人がどちらかが犯人でもおかしくないが、ハッキリ言ってそんなありきたりなものではないと言う確信はあったものの、どのような手で来るのか興味津々で読んだ。二人が脱出してからも、事件は解明されずに宙ぶらりんの状態。「どの手でくるんだあ」と鬼が出るか蛇が出るかな気分で読んだ。そして解体。名探偵の絵解きこそ無いが、真っ当な本格ミステリ。タイプ的には綾辻氏の『十角館の殺人』(講談社文庫)や、クリスティの『そして誰もいなくなった』(早川ミステリ文庫)のような感じ。同系列で論じるのは恐らくは間違ってはいるんであろうが。この作品は名探偵の絵解きがあると雰囲気が壊れるタイプの作品、ということになろうか。(若干意味不明)

 ところで、ミステリというのはあまりのない割り算の文学と言ったのは土屋隆夫氏であるが、この作品は普通の意味での割り算の文学と言えるのでは無かろうか。つまり、あまりがあることがあり得る、余剰有る割り算の文学。読み終えて釈然としない、割り切れない思いが残ったが、それはそれで良いのかもしれない。

 以下、本作品と『慟哭』(貫井徳郎/創元推理文庫)のネタバレを含みます
 読み終えて冷静に考えると、この作品は『慟哭』の裏返し的もしくは姉妹的な叙述トリックを用いた作品、と言うことになるであろう。『慟哭』では同時系列と思われていたのが別時系列だった、と言うのがバックボーンとなっているが、この作品では同じ場所と思ってたら違う場所だったと言うのが一つの根幹的なバックボーンとなっている。二つの作品に共通するのは交互に入れ替わる視点である。『慟哭』においての視点というのは別に見えて実は同一人物であり、一方で『そして二人だけになった』は視点の融合は一見成されない。今「一見成されない」と述べたが、最後の局面で勅使河原=森島つまり多重人格、という回答も出され、結果として二人の視点というのは融合される。しかし、私的には釈然としない。というのも、果たして多重人格だったのか、そうじゃなかったのか今一解らなかったのである。釈然としないと言うことを度外視すれば、「視点の融合」と言う意味で本書は『慟哭』の姉妹作品というレベルを超えて発展形、と言うことも可能なのかもしれない。言うまでもないが、この作品が『慟哭』の発展形だからといって『慟哭』がこの作品より劣ってる、ということではないが。この作品で特筆すべきはもう一つ、先に述べた叙述的「騙し」をクローズドサークルという限定された中で(正確には限定されきってないが)行ったことであろう。最も、「騙し」の空間の広さにおいては『慟哭』に軍配が上がるけれども。

 『すべてがFになる』(講談社文庫)と並べても遜色がない傑作である。

ハサミ男 殊能将之(しゅのうまさゆき) 講談社ノベルス 980円

 第十三回メフィスト賞受賞作。なんでも、音信不通になったとかで作品以外でも話題を提供してくれた(笑)推薦文は法月綸太郎氏。帯には「最近、推理小説らしい推理小説がないとボヤいてる人へ」とあり、期待感十分。シリアルキラーの一人称プラス犯人探し。この設定だけでも期待するな、というのは不可能である。内容に入る

 通称「ハサミ男」と言われる、連続殺人犯の三番目の犠牲者になるはずだった女子高生がハサミ男以外の人間に殺されていた。その死体は、ハサミ男でさえも自分の犯行と見間違うほどのものであった。絞殺した上に首に刺さってるハサミ。成り行き上警察に通報したが、なんとか自分がハサミ男であることを悟らせないことに成功する。ハサミ男の前に現れる《医師》のアドバイスで、ハサミ男のふりをした真犯人を捜し出すことに。ハサミ男は動き出した。真犯人を捜す間も、何度も自殺を繰り返しては失敗するが……。一方、多発する無差別殺に対抗するために、警視庁科学捜査研究所内に新設された犯罪心理分析官が捜査本部に入ることになった。果たして真犯人は見つかるのであろうか。ハサミ男対警察対真犯人の三つ巴の戦いが切って落とされる。

 犯人がさらに犯人探しをすると言う趣向は『鳥人計画』(東野圭吾/新潮文庫)や、『殺意の集う夜』(西澤保彦/講談社ノベルス)などがあるが、この作品ではシリアルキラーの視点という捻りを加えている。敢えて分類するならばサイコミステリなのであろうが、シリアルキラーによる犯人探しという要素を加えることによって「推理小説」の領域にかろうじて踏みとどまっている。この領域わけはどうでもいいと言えばどうでもいいが(笑)←じゃするなよ

 言うまでもないと思うがこの作品、眼目はシリアルキラーの一人称だけでは決してない。二重三重に張り巡らされた罠、随所に張られた伏線、最後の絵解き。最後の絵解きではかなり的確に、そしてロジカルに(と言う表現が的を射てるか否かはさておき)謎が解かれていく。絵解きはどことなくクイーンの匂いがした。大業トリックが用意されてはいるが、大業のみに依拠せず、大業を使用した後に外堀を十分に埋めている。大業でアッと言わせるのと丁寧な絵解きの二段構えである。たとえ大業が見破られても、それで評価が下がると言うことは決してなかろう。随所に張り巡らされた罠に舌を巻かざるを得ない。そして、読者はこの本の存在を知った時点で既に作者の罠に落ちている。

 ところで、サイコミステリのキーの一つはシリアルキラーの魅力というのがある。しかし、この作品のシリアルキラーの魅力はどうかと聞かれると少し精彩に欠けるように思える。おおむねシリアルキラーは第三者を通して描かれる事が多い。だからシリアルキラーのすごさと言うのが伝わってくるのか。自殺志願者のシリアルキラーというのは少し間が抜けてるきもする。本作はシリアルキラーよりはむしろ、シリアルキラーのもう片方の側面である《医師》の方が魅力的であろう。

 随所に現れるミステリ的引用は、作者がサイコミステリよりはむしろ本格ミステリ側の人間であると伺わせるものがあり嬉しくなってくる。この作品では張り巡らされる仕掛け故にサイコミステリの体裁をとってはいるが、次の作品では真っ向勝負の本格ミステリを書いてくれるのではないのかと期待をしている。

 伊達に十三回目という黄金ナンバー受賞作ではないと思わせる作品である。

高く孤独な道を行け ドン・ウィンズロウ 創元推理文庫 740円

 本国では既にシリーズが完結して、現在はノンシリーズを書いてるというドン・ウィンズロウのニール・ケアリーシリーズ第三弾である。『ストリート・キッズ』や『仏陀の鏡への道』(共に創元推理文庫)で高い評価を受けてるシリーズ。三作目の本作はどのようなものか。前作は、謎解き系ハードボイルドではないものの、私の琴線に触れるものがあるのだが……。内容に入ろう。

 何年もの間、ニール・ケアリーは中国の山奥で隠遁生活を送っていた。周りは僧侶ばかりで女っ気は全く無し。いつまで続くのかこの生活……と思っていた矢先に、ストリートに捨てられていたニールを拾い育ててくれたジョー・グレアムがニールの居場所を探し出してやってきた。新たなる冒険の火種と共に。ニールとグレアムに与えられた仕事は、子供の奪還。離婚した夫が子供を連れ去って行方不明になったという女性からの依頼である。ニューヨークに戻ったニールは椅子を温める暇もなく、子供の探査に赴く。その果てにニールがたどり着いたのはネバダ州の牧場であった。そして、そこにはカルト宗教の影が……。子供は教団のアジトに居るのであろうか? ニールの決死の潜伏が始まる。

 久々に謎解きのないミステリ(矛盾)を読んだ。カルト宗教を扱った作品であるが、カルト宗教の胡散臭さというのはあまり感じられない。それは、カルト宗教の教義を前面に押し出すことをしなかったからであろう。カルト教団よりも構成員の一人の、キャル・ストレッカーの嫌らしさ、狡猾さが全面に出ている。ニールに立ちはだかるこの男との対決の行方が一つの眼目か。主旋律は無論消えた幼児の行方であるが、副旋律(と言うかは知らないが、言わんとすることは解るだろう)は様々な魅力を秘めている。ニールの恋、隣の牧場主一家との交流、そして前作でも見られたグレアムとの父子関係(第一作目は未読)。主旋律と副旋律両方がお互いを補い合い、ハーモニーを奏でる。

 名場面が数多くあるが、その中でも本作屈指の名場面と思わせるのが、クリスマスの日にスティーヴ・ミルズがユダヤの星をライトを用いて草原に浮かび上がらせるシーンであろう。ここだけ取り出すとなんてことないのであるが、それまでの経緯を読んできたものにはなかなかの感動ものであろう。そこには迫害に屈しない魂、屈強な精神を感じることが出来る。どういう経緯かは実際に読んで確かめて欲しい。人によっては陳腐に思えるかもしれないけれど、琴線に触れる人は感動するはずであるから。

 感動のシーンもあるが、戦闘シーンもある。捕まったニールとグレアムが救出され、逃げるときのシーン、カルト教団と雌雄を決するシーン、そして本作の最大の仇キャルとの決着のシーン。全てに決着が付く第三部(本書は三部構成)を読んでいて思ったことは「この作品、映画化しないのか?」ということである。映画にすればホントにいい作品が出来ると思うのになあ。絶対に。戦闘シーンだけでなく、全て映画向きと思うのであるが如何なものか。

 謎解きミステリでないが、読んで損はない、感動の名編である(持ち上げすぎ?)

黄金(きん)色の祈り 西澤保彦 文藝春秋 1810円

 表紙の怪しさ全開(笑)の作品である。内容は怪しい作品ではないのであるが。なお、この表紙は作中にでてくる絵をイラストにしたものである。しかし……怪しい。一読して、従来の作品と毛色が全くと言っていいほど変わってるのに驚いた。内容に移るか。

 中学二年生になった時に、顧問からトランペットへのコンバートを言い渡されたときが僕の人生の一つの転換期だったかもしれない。それまでチューバをこなし、卒業までこの楽器を吹いていくのであろうと考えた僕には或る意味青天の霹靂であった。しかし、中学卒業と共にトランペットをやることはなくなった。高校に入学して再び吹奏楽部の門を叩いたが、長続きせずに途中退部。中高の吹奏楽部経験で奇妙なことといえば、同一人物が二度に渡って楽器を盗まれたことであろうか。一度目は返ってこなかったが、二度目は返ってきた。誰が何の為にそのような行為を行ったかは皆の謎として残った。大学はアメリカに留学し、その間友人が一人死に、いつしか作家を目指すようになった。

 『念力密室!』の様な脳天気パズラー(笑)に慣れてる私としては、この作品のような或る意味自虐的な作風に戸惑いを感じた。「僕」という一人称だからであろうか? 「僕」の経歴が作者の経歴とだぶって自虐的な自伝小説に映った。自らの傷をえぐりとり、その後出来たかさぶたを再び剥がすような感じの小説。無論、それは読者側の想像であり、作者としては自伝的な意味合いは一切ないのであろうが。だが、米国留学、教師経験と言ったプロセスを「僕」が経ている以上自伝的なものを感じるのは私だけでは無かろう。

 この作品、一応はミステリ的体裁を整えてはいるものの眼目は「僕」の半生のクロニクルでだろう。自分を評価しない周りを呪い、復讐も出来ずに自己を正当化することで己のアイデンティティを確保する「僕」の精神的葛藤。多分、作者が西澤保彦じゃなかったら途中で投げ出していたであろう。それぐらい読者の心に暗闇をもたらす。「僕」の刃は自分自身のみならず、読者をも傷つける可能性を内包しているのである。

 ミステリ的側面はさほど見るべき所はないように思える。作中「僕」は自分の体験を綴った半ば私小説的なミステリを新人賞に送るが、その小説のメイントリックは如何にしてアメリカにいる人間が日本にいる人間を殺すかである。いわば遠隔殺人のアリバイものだが、作中小説も、(作品中の)現実もミステリ的には少し首をひねりたくなる。なんでこのような(或る意味)変哲もないトリックをつかったんかなあ、と。トリックの扱いようから、作者はこの作品をミステリよりもそれ以外に重点を置いたことが伺える。決して傷をえぐるような「語り」が「騙し」に直結してるわけではない。正確には直結はしてるものの、効果を上げてるとは言い難い。

 西澤ファンでも脳天気さを期待してる読者には勧めかねる作品である。(個人的にはこのような作風は嫌いではないんだけれども)

血ダルマ熱 響堂新 新潮社 1800円

 『紫の悪魔』で島田荘司特別賞を受賞した作者の受賞二作目。前回の新潮ミステリー倶楽部賞の最終候補作に残った作品を改稿したもののようである。現役の医師で専門が感染症ということになると、専門知識をどのように駆使して作品を構築していくかと言うところに目がいく。内容はと言うと――

 個展開催中の写真家の死に様は異様だった。突然の発熱、肉体の溶解、吐血。病院に運び込まれたものの、あっさりと死亡。エボラ同様のウイルス性の出血熱の疑いがもたれた。同じ症状で病院に運び込まれた人間も皆死亡。事態は深刻化した。果たして空気感染はあり得るのかなどなど、マスコミも騒ぎ始めた。マスコミが通称「血ダルマ熱」と名付けたその疾患に高部涼子は、彼女自身がはエボラウイルスに代表される感染症に関する研究の数少ない研究者ということもあり、並々ならぬ関心を持ち、研究を続けた。研究の過程で、エイジングドラッグという癌及びエイズの特効薬とされる新薬の研究中止の事を知らされる。次々と増えていく「血ダルマ熱」患者。ものすごいスピードで感染者を蝕む「血ダルマ熱」に果たして有効な薬はあるのか?

 読了後にまず感じたのは、真保裕一氏が医療を題材にして本格ミステリを書いたらこんなのが出来るかもしれないということであった。今回の謎は「血ダルマ熱」という疾患の正体オンリーであるが、私にはその謎が「本格ミステリ」と言う人工的な世界の中で上手く作用していないように見えた。それは恐らく普遍的な(というのは若干の語弊があるが)謎だからであろうか。今「普遍的」なと表現したが、現実的な謎とでもいうか。なんと表現したらいいか言葉が見えてこないが、密室とか顔のない死体のような人工性が伺えないということである。一応本格ミステリの衣はまとってはいるものの、作品は本格であることを拒否してるようにも見えた。拒否してる以前にこの作品、本格ミステリではなくむしろメディカルサスペンスのような気もするが。島田荘司特別賞でデビューと言うことでなんとなく本格ミステリに拘ってみた(笑)

 前作に比べたら厚さはこっちが厚いのにリーダビリティはこっちが良かったような気もする。この作品では煩雑な専門知識が頻出しなかった、と言うことが最大の原因か。感染症という私のようなごくふつーの人間には縁のない、未知の分野を解りやすく伝えるための説明が上手く作動していた故に、「前からこのくらいのことは実は知ってたんではないか?」なんて気にもなったりする。

 肝心の「血ダルマ熱」の正体は結構ツボにはまって感心させられたが、非常に穿った見方をすれば現役医師でなくても書きうるネタではあるので少し落胆させられもした。視点の切り替えトリックに属するようなものであるが、専門知識を活かして素人衆(笑)には思いもつかないメディカルトリックで書いて欲しいと願うのはかなりわががまである。でも、この作者なら絶対に書きうると思うんだけれどもなあ。そうなったらそうなったで「素人に解らない専門知識使いすぎ」とか言って文句たれてそうだけれども(始末に負えない)なんだかんだ言って結局はこの作品は気に入ってはいるんだけれども。

 次作も結構楽しみではある。


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