『ドグラ・マグラ』(夢野久作/教養文庫)や『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎/教養文庫)と並んで三大ミステリとか黒い水脈、アンチミステリなどと呼ばれる作品。前半部分を乱歩賞に応募し最終選考を争ったことは有名な話。新本格の仕掛人といわれる宇山編集長の人生を狂わせた(笑)作品でもある。もしかしたら、『虚無への供物』というミステリがなければ現在の本格ムーブメントは存在しなかったのかもしれない。誰もがポオを愛していた 平石貴樹 創元推理文庫 600円一九五四年十二月十日、全てはこの日に始まった。洞爺丸号の沈没事件などの氷沼家の業を聞かされた奈々村久生は、名探偵よろしく事件が起こる前に『氷沼家殺人事件(ザ・ヒヌマ・マーダー・ケース)』のトリック、真犯人を暴きだしてやると豪語する。そして書かれるはずであるが未だ書かれていない『凶鳥の黒影』の存在。『凶鳥の黒影』は四つの密室殺人を扱い、殺人の輪廻を主題にした作品であった。周囲は冗談と思っていたが、氷沼家の一人紅司が密室の中で死体となって発見される。発見されたときの紅司の背中には、十字架の痣がくっきりと浮かび上がっていた。紅司の死亡の報せを受けた奈々村久生は紅司の死は「二十年前にすでに決まっていた」と謎めいたことを言う。紅司の死を凡庸なものにしない為だけに繰り返される幾人もの人間のさまざまな仮説。『凶鳥の黒影』の呪縛と氷沼家の悲劇はまだまだ続く。密室の中でガス中毒死する橙二郎。存在しないはずの人間の登場。――様々な色、呪縛に彩られた四つの密室が完成するとき、そこには反世界が現出する
読み返す前はごく真っ当な探偵小説の印象が強かったのであるが、読み返してみると少し違う気がしてきた。「アンチ」の意味は読み終えた時点でも未だ釈然とせず、というところであるが、この小説が持つ一種異様な香気はなんなのであろうか。『黒死館殺人事件』とも、『ドグラ・マグラ』とも感触が違う。似たような香気を備えているのは、『匣の中の失楽』(竹本健治/講談社ノベルス)であろう。しかし、あくまで「似たような」であり、決して同じではない。そして、この作品が持つ香気は「探偵小説」と呼ばれた作品が持つ香気とも違う。もしかしたら、この「香気」の正体こそが『虚無への供物』がアンチミステリといわれる所以の「アンチ」を読み解くキーなのかもしれない。
アンチミステリといわれるが、この作品、見方を変えれば非常に能天気な作品という言い方も出来るのかもしれない。というのも、明らかに事故もしくは自殺と目される事件を密室殺人に仕立て上げて推理に淫してるところはなんというか、作中人物は大真面目なんだろうけれども、こっちは冷めてしまう。冷めてしまうということがこの作品の評価には全然関係はないんだけれども。能天気が故に様々な推理が組み立てられるのであろう。もしかしたら、ミステリの登場人物、とくに探偵なんていくら悩んでいようが実際の所は能天気な存在なのかもしれない。
存在しない作中作『凶鳥の黒影』が(作中の)現実をじわじわと侵食して乗っ取っていく様はなんというか、『虚無への供物』という作品全体が運命に支配されてるような事を思わせる。作者の死去した日がこの作品の開幕の日であるということだからなおさらである。作中では『凶鳥の黒影』が支配し、現実では『虚無への供物』が作者を支配する。錯覚なんだろうけれども。
ところで、笠井潔はアンチミステリをミステリの波を終焉に運ぶブラックホールのような存在としているが、現在のミステリムーブメントにおいて「アンチミステリ」というのはもうすでに存在してるのか? 将来出現できるのか? 笠井潔はいくつかの作品を候補として上げているが「これがアンチミステリである」という断言はしていない。何を以て「アンチミステリ」とするのかは私自身がよく理解していないのでなんともいえないのであるが、もしかしたら、将来「アンチミステリ」を書き得るのは笠井潔なのかもしれない。『哲学者の密室』(光文社文庫)の推理構造というか、複数の密室、繰り返される推理という点で共通してるし(かなり強引)、矢吹駆シリーズが漂わせる香気は『虚無への供物』に似たような、共通したものを感じるからなのであるが。
恐らく、これからも読まれていくであろう作品である。
全編ポオ尽くしの作品である。「モルグ街の殺人」以降、ホームズやクイーンなどの後継者たちを生み出したオーギュスト・デュパンの生みの親、エドガー・アラン・ポオ。この作品は有栖川氏の解説によれば泣く子も黙るミステリマニアの集団(笑)SRの会の年間ベスト投票で二位に輝いたというから作品の出来も推して知るべしであろう。最近では『本格ミステリベスト一〇〇』(探偵小説研究会/東京創元社)において上位五〇作品のうちに入ってるからこの作品の客観的価値というのは認識して頂けるのではなかろうか?死のある風景 鮎川哲也 ハルキ文庫 940円ポオ終焉の地ボルティモアにおいて、沼地にあった日系人のアシヤ家の館がポオの「アッシャー家の崩壊」さながらに崩壊した。何者かが仕掛けた爆薬によって。そして、崩壊の前に謎めいた電話があった。そして、その電話はアシヤ家の崩壊をすでに予言していた。瓦礫の下からは女性が発見されるが彼女は「ユーラルーム」と一言残して息絶える。彼女の兄は近くの沼で惨殺死体となって発見さる。間もなく、「ベレニス」に見立てられた棺のなかの歯が無い美女の死体、「黒猫」に見立てられた壁のなかの斧を打ち付けられた死体と片目の黒猫。ポオに淫し、呪われ、祝福された数々の死体。ポオ尽くしの怪事件に挑戦するのは偶然この地を訪れていたニッキこと更科丹希。ポオ終焉の地においてオーギュスト・デュパンの末裔は現われるのか?
この作品はG**大学のS・W**教授が翻訳したノンフィクション体裁を取っている。海外を舞台にした本格ミステリ作品が笠井潔氏の矢吹駆もののみ(現在でも数は非常に少ないが)かつ本格ミステリがまだ冷遇されてた時代において、真っ向勝負の本格ミステリを海外を舞台にして書いた、ということは驚きである。今ですらこの作品のように全編ロジックで推し進めていくというタイプの作品は、非常に珍しいのに。解説で有栖川氏が「新本格前夜の傑作」と評するのも納得である。しかし、「新本格前夜の傑作」とは言っても、全編ポオ尽くし故に、ポオの作品を一作も読んだことが無い人は読むのを止めたほうがいいかもしれない。無論、読んではいなくても作品を一通り理解するのに差し支えはない。が、読んでいるのと読んでいないのとでは楽しめる度合いというのが大きく変わってくるであろうから。特に作中折り込まれている「『アッシャー家の崩壊』を犯罪小説として読む」の項は件の作品を読んでいないとほとんど意味不明なのであるから。
ポオ尽くしの死体というのを除けば、この作品は何のケレンも無い作品である。密室もなければ身元不明の顔の無い死体も存在しない。少なくとも解決編でニッキによるロジックのマジックを見せられるまでは死体を除きケレンは出てこない。解決編において、それまでバラバラに存在していた数々のピースが有機的に次々と繋がり一つの絵柄が浮かび上がってくる。絵柄が浮かび上がる過程及び瞬間がこの作品の眼目であろう。そして事件に掛けられたポオの呪い(あえて呪いと言わせてもらう)。『だれもがポオを愛していた』という、正統派パズラーのタイトルに似つかわしくない、ほのぼのとしたタイトルにもかかわらず或る意味陰惨な事件の表面と構図。このタイトルからもしかしたら、ポオのパロディを想像する人もいるのかもしれない。実際私も初読の際はポオのパロディと思って手に取り、読んだ。そして精緻なロジックに翻弄された。そこにはパロディは片鱗すらうかがえなかった。ポオという偉大な作家の作品が意匠ではなく、パズルのピースとなり絵解きに貢献する。タイトルからしてポオの呪縛が掛けられてそうである。だが、ポオの呪いは掛けられてるものの、この作品ほどポオの呪縛から自由な作品は無いのかもしれない。矛盾した言い方であるが。もっとも、この作品のようにポオ尽くしの作品を他に読んだことが無いから、断定は出来ないけれども。
ところで、内容とは全然関係ないのであるがニッキが読むポオの全一巻の全集を見て「彼女は一晩でこれ一冊読み切ったのであろうか?」と考えてしまった。そうだとすると彼女の読書スピードは鬼のように早いぞ(笑)私なんて、その四分の一を読むのにひいひい言ってたんだから(爆)
新本格というカーニバルの前に密やかに打ち上げられたきらびやかな花火。読んで損はない。
新本格の余波で再刊、再評価されつつある鮎川御大の(影の?)代表作かもしれない。というのも、某SRの会が行なった一九六二年から一九七一年の十年のベストにおいて見事に入選しているのである。この作品以外では『虚無への供物』や、『影の告発』(土屋隆夫/光文社文庫・絶版?)等が見える(『呼び止める女』(鮎川哲也/角川文庫・絶版)解説参照)。夜歩く ジョン・ディクスン・カー 創元推理文庫 現行価格不明結婚を目の前に控え、幸福の絶頂にあるはずの女性が熊本県の阿蘇山の火口に身を投げ自殺を図った。自殺の原因も判らず、遺族は途方に暮れる。一方舞台は変わって金沢。女性の射殺死体が米軍の射撃場が有る浜辺で発見され、石川県警が捜査に乗り出す。被害者の同行者はしきりに自分を責めるが時間は遡らない。東京駅のポストから凶器と目される銃が発見され、科学鑑定の結果被害者を殺害した凶器と断定される。凶器の発見によって容疑者が一気に絞られて一気に犯人逮捕かと思った矢先、ダイヤグラム調査の結果犯行可能な人間が浮かび上がらない。東京に出張して周囲の聞き込みに回り、二人の容疑者が浮上。しかし、二人の容疑者には揺るぎないアリバイが存在した。ここで捜査は暗礁に乗りだす。そして、トップ屋の死体が発見され再び事件は回転し始める
鬼貫警部は最後の最後。正に真打ち登場、といったタイミングで出てくるがその登場の仕方に名探偵登場のような派手なケレンはない。むしろ、捜査が行き詰まりそこでようやく腰を上げるといった趣だ。鬼貫警部は数有る名探偵群の中で、最も地味な名探偵なのかもしれない。しかし、鬼貫警部のシリーズにおいて鬼貫警部は名探偵でありながら主人公ではありえないような気もする。短篇群や、『黒いトランク』(角川文庫・絶版)、『ペトロフ事件』(講談社大衆文学館)は例外として、全部読んでないから断定は出来ないものの、鬼貫警部のシリーズにおいて主人公は正に事件そのもの。ミステリにおいては 「主人公は探偵ではなく事件だ」という考え方もあるとは思うが、この作品では正に事件が主役。鬼貫警部のシリーズではあるが彼は端役でしかありえない。
ところで、私は鮎川哲也作品は主に短編を好む。『りら荘事件』が唯一の例外であった。長編は面倒臭いダイヤグラムアリバイ崩しがほとんどという先入観もあって、持ってはいるものの避けてきたからである。長編においての例外は、先述の『りら荘事件』と『朱の絶筆』(講談社文庫)の二編のみ。後の作品は、なんらかのアリバイが絡むものばかり。無論、この作品も例外ではない。しかし、ダイヤグラムアリバイ崩しオンリーではなく――ダイヤグラムアリバイ崩しは無論有るものの――メイントリックの周りをを固める数々のトリックが秀逸で、面倒臭さは全くと言っていいほど感じられない。如何に私が先入観に囚われて食わず嫌いで通してきたことがもったいなかったか痛感させられた。ごめんなさい。以降は折に触れて読むことにします(だれに謝ってるんだ?)。
読んでいて全然飽きがこなかったのは、鮎川哲也という作家がトリックやロジックのみならず、物語にまで神経を行き渡らさせているからであろう。鬼貫ものの長編は堅苦しいというイメージが何故かあったのであるが、堅苦しさは全然無く、そこにあるのは物語に映し出された風景。結婚観、貞操観、電車なんかに時代を感じさせはするものの、ミステリとしてみた場合、現在でも十分に通用するものであろう。それは、先にも述べたようにメイントリックを固める数々のサブトリックにもよるであろうし、展開の巧みさにもよるであろう。論理的に段階を踏んでジワジワと展開され、そして、論理的な展開と物語が渾然と解け合いミステリを奏でる。向こう十年は十分に通用する作品といっていいかもしれない。
メインはあくまでアリバイ崩しなのであるが、犯人が絞り込まれる過程もスリリングで、物語の途中までは或る意味フーダニットとしても楽しめないこともない。私などは「こいつが犯人だったら面白いのに」と鬼貫警部が真犯人のアリバイを崩してる最中も思ってたけれども(笑)ま、邪道かな、この読み方。
ロジック、トリック、プロット三拍子揃った本格ミステリの佳作といっても過言ではないかもしれない。
密室の巨匠ジョン・ディクスン・カー、別名カーター・ディクスンのデビュー作である。先日、『グラン・ギニョール』(翔泳社)という原型作品が出版され話題となった。カーといえば密室や怪奇趣味というような所が有名かと思うが、「処女作には作家の全てが入っている」という格言通り密室があり、怪奇趣味に満ちあふれている。天啓の器 笠井潔 双葉社 2000円フランスのパリの社交場で事件が起きた。刑事たちが見守る衆人観衆の中で、今宵新婚初夜を迎えるはずであった花婿が首無し死体で発見されたのである。死体はうずくまった状態で、切断面は鋭利だった。現場に出入りした人間はおらず、所謂密室状態。そしてその現場には予審判事アンリ・バンコランも居たのである。被害者の花嫁は前夫の影に怯え、事件が起きる前も前夫の姿を見たという。果たして悪魔的な所業を行なったのは花嫁の前夫なのであろうか? 存在を噂される人狼なのか? そして、花嫁の目の前で再び悲劇が起きる。花婿の友人が惨殺されたのである。メフィストフェレスに比類されるアンリ・バンコランの推理は如何に
本筋とは関係の無いことであるが、私にとってのCの悲劇――余り合わないなあと思ってること。本来は絶版が多いカー作品の不遇さを指す――((C)松田道弘)はカーが横溝正史や二階堂黎人といった作家に影響を与えた作家という先入観であろう。確かにカーは怪奇趣味全開でいかがわしさを内包し、横溝正史や二階堂黎人の作風に影響を与えたという意味では間違いはない。しかし、私の求める横溝正史、二階堂黎人作品が内包する怪奇趣味とカーの作品が内包する怪奇趣味は、同じ怪奇趣味でも性質を異にする。二階堂作品において、『聖アウスラ修道院の惨劇』(講談社文庫)や『人狼城の恐怖』(講談社ノベルス)の怪奇趣味はカーであるが、『吸血の家』(講談社文庫)や『悪霊の館』(立風ノベルス)が内包する怪奇趣味は、後者は若干カーも混じってはいるものの、横溝正史のそれである。そして私はカーに横溝的な怪奇趣味を求めた。それ故にカーの作品をを読んでも「何だか違うなあ」と思っていたのである。最近ようやくカー的なものと横溝的なものとの違いに気が付いたわけであるが。その違いは西洋的なものと日本的なものの違いであろう。日本的な怪奇趣味と西洋的な怪奇趣味。根底にある本質は同じであっても、両者の周りにあるものはなにかが違う。横溝正史とカーの怪奇趣味の違いに気が付くまでかなりの年月を要したが、客観的に見て非常にアホであるとしか言いようが無いなあ(苦笑)もしかしたら同様の意味でカーを読んでも「違うなあ」と思ってた人が、カーが集中的に早川ミステリ文庫から出たときに(丁度横溝ブームと時期を接していたはずである)多かったかもしれない。
私のCの悲劇はさておき、この作品は密室の他に首無し死体というファクターも紛れ込む。首きりフェチ(笑)の私としては見逃せない。密室のなかの首無し死体といえば、首無し死体ではないが、高木彬光の『刺青殺人事件』(光文社文庫・品切れ?)を思い起さざるをえない。『刺青殺人事件』に於いて死体は胴体が無い死体であるし、密室は衆人観衆の密室ではなく鍵細工の密室である。思い出したのは、事件の真相に『刺青殺人事件』的なものを感じたからなのであるが。横溝正史が『刺青殺人事件』と同じトリックを考案し先を越されたというエピソードがあるがもしかしたら両巨匠はこの『夜歩く』を原書で読んで着想を得たのかもしれない。奇しくも『刺青殺人事件』に先を越されたためにデッサンが狂ったとされる作品のタイトルは『夜歩く』(角川文庫)。この作品は『刺青殺人事件』への挑戦らしい。これは偶然なのであろうか。いや、偶然なんだろうけれども。
この作品が出版されたのは一九三〇年という今から約七〇年以上前ということもあり、作品の時代背景は結構どころかかなり古い。出版された当時は現代小説だったかもしれないが、七〇年という年月を経た今、この作品が時代小説にすら思えてくる。某郷原氏がホームズ譚を「時代小説」と言った訳が少し解った。一生解りたくなかったけれども(笑)もしかしたら、バンコランの異様なまでの大仰さが時代掛かってたからかもしれないが。それと、舞台が外国か日本かにもよるであろう。七〇年前の日本を舞台にした作品は私は時代小説とは感じないから。
竹本健治氏のウロボロス連作への批評小説、というべきなのかなあ。前書きで『ザ・ヒヌマ・マーダー』のモデルと思しき作品(『虚無への供物』のことである)や『尾を喰らう蛇』連作 (『ウロボロスの偽書』、『ウロボロスの基礎論』(共に講談社ノベルス)のことであろう)を読んでおくことが望ましいと書いてるが、実際の所三冊丸々読まねば十全に理解できない、楽しめないということではなく、三冊の輪郭を知ってればいいという程度であろう。多分。私はウロボロス連作は大文字の作者、小文字の作者といったメタ論議よりはむしろ、作家が実名で出てくる虚実入り乱れた構造を楽しんでたし、『本格ミステリベスト一〇〇』(東京創元社/探偵小説研究会)で『ウロボロスの偽書』が上位に入っていて目を剥いた人間なのであるから。それに、この作品の冒頭でウロボロス連作のメタ談義が説明されてはいるから、「ウロボロス連作のメタ談義ってなーに?」という人も影響ないと思う。オランダ靴の謎 エラリー・クイーン 創元推理文庫 現行価格不明物語は大まかに言えば三つに別れる。すなわち、(作品中の)現実の仲居さん殺人事件と中井英夫と思しき人物が『虚無への供物』を構想し、書けないともがいてる最中に現れた濤晶夫と名乗る少年との交流、そして少年が書いた(と思われる)『ザ・ヒヌマ・マーダー(『虚無への供物』の二章まで)』パート。三つのパートが絡み合い、この『天啓の器』と言う作品を構成している。
『虚無への供物』のオープニングの日時が一九五四年十二月十日で、作者の死が十二月十日。この偶然にしてはあまりにも出来すぎな暗合はかなり有名な話で、そこには何かの作意がありそうな気がする、という人が居てもおかしくない。実際問題、この作品の発想の根幹の一つには『虚無への供物』の作者の人生の奇妙な暗合があるのであろう。そして、中井英夫がどうして『虚無への供物』を越える長編を書き得なかったのかという仮説も出されてはいる。塔晶夫と中井英夫という別名同人(という言葉あるのか?)を巡るものであるが、アンチミステリを巡る評論と併読すればかなり興味深い仮説かもしれない。しかし、あくまでこれらの仮説は小説の中の仮説であり、現実問題としてはおよそあり得ないのであろうけれども。『とらんぷ譚』(創元ライブラリ)を読んでる人にはさらに興味深いかも(九十九年八月時点で未読)
ウロボロス連作の三作目と言う体裁をとってる故に、実名小説という要素は紛れ込まざるを得ないのか。無論名前は実際の名前とは変えてあるのであるが、簡単に特定できるような書き方をしている。私の場合、竹本健治氏のウロボロス連作は繰り返すようであるが大文字小文字の作者なんてどうでもよく、実在の作家が登場して酷い目に遭わされる(笑)ことを愉しみに読んでる非常に下世話な読者故に、この作品の冒頭で大文字小文字の作者の消失についての座談会を読んだときは正直言ってついていけなかった。先に『本格ミステリベスト一〇〇』において『ウロボロスの偽書』が上位に入ってて目を剥いたとかいたが、本格にカテゴライズされたのは大文字小文字の作者を巡るものだった故なのか。『本格ミステリの現在』(笠井潔編/国書刊行会)において、千街氏がウロボロス連作の従来の意味での――私にとっての本格ミステリというのが上手く説明できない故に、あくまで感覚的な意味での「従来」であるが――本格ミステリとしての読み解きを行ってるが、それでも私は『ウロボロスの偽書』が本格ミステリであることを納得していない。かといって、本格ミステリではないと確固たる意志を持って断定できるほどの論拠をもちあわせても居ないのであるが。なんか話がずれたかな。まあ、要するに私はウロボロス連作を大文字小文字の作者という小難しい所を抜きにして読んだと言うことが言いたいのか?(か? ってなんや)
大文字小文字の作者とか言ってはいるが、堅苦しい! と言う小説ではないと思うが如何なものか
数ある本格ミステリのシリーズの中でもロジックのさえにおいて定評がある国名シリーズ。その国名シリーズの中でも、最もロジックが冴え渡ってると言う評を受けているのがこの『オランダ靴の謎』である。この作品をクイーンの最高傑作と挙げる人は少なくは無いという。古くは甲賀三郎、海野十三が評価し、『双頭の悪魔』(創元推理文庫)の作者である有栖川氏はクイーンの最高傑作とまで言っている。異形博覧会III怪物晩餐会 井上雅彦 角川ホラー文庫 1000円犯罪捜査の示唆を得るためにオランダ記念病院を訪れたエラリーは、偶然にも殺人事件に遭遇する。被害者はオランダ記念病院出資もしていた大富豪。大きな怪我を負い、そして糖尿病故に普通の手術では太刀打ちできない状況で、ともすれば手を下さなくても勝手に死ぬかもしれないにも関わらず、犯人は彼女を殺したのである。そして、犯行現場の近くには富豪が死ぬことで利益を受ける医師の姿を目撃したという証言も。しかし、医師はアリバイを主張したが、アリバイの証人の身元を話すことを断固拒否する。犯行現場に残された靴により示唆を受けたクイーンは容疑者の尋問などを行うが……。そんな中、問題の医師が富豪と同じ方法で殺害される。
笠井潔は『エジプト十字架の謎』(創元推理文庫他)のロジックを因数分解のようであると例えているが、その例で言うならばこの『オランダ靴の謎』のロジックは複雑な数式を丹念に解く快感とでもいうべきか。うーん、書いてる本人もわかりにくいなあ。じゃあ、別の言葉――私なりの言い方――でいえば『エジプト十字架の謎』のロジックは大砲、『オランダ靴の謎』のロジックはガトリング銃であろうか。ロジックにっよる一点の破壊力と言う意味では『エジプト十字架の謎』に軍配が上がるが、広範囲の破壊力と言う意味では『オランダ靴の謎』に軍配が上がろう。多分。個人的な好みから言えば『エジプト十字架の謎』が好きなんだけれども、読み返してみるとこの作品も非常に捨てがたい。
この作品はアリバイの検討はされてはいるものの、眼目はトリックではない。一応トリックらしきものはないではないが、そんなものはどうでもいい。どうでもいい、というのは少々語弊があるが。ロジックに次ぐロジック。解決編で示されるロジックは心引きつけられるものがある。ロジックのみによって構築された作品。例えるなら、ロジックという硝子細工で作られた工芸品とでも言うべきか。トリックという着色剤をさほど用いずに仕上げた、無色の巧緻な硝子細工のようである。現場に残された靴という、普通なら誰も気にしない証拠から次々とロジックを引き出している様はマジシャンが帽子の中から鳩を取り出すかのように見える。
しかし、読み返す前はクイーンなどの古典翻訳は(過去に何冊か読んでるにも関わらず)読みづらいと言う印象があったのであるが、見事なまでにその印象は覆されてしまった。一昔前は「創元版のクイーンの国名シリーズはちょっとなあ」なんて思ってたりもした。まあ異様なまでに句点が多いのは気にはなったが、読んでる内に気にならなくなった。結論を言うと読みやすい、ということなのである。名前を覚えるのが……と言う人以外はハッキリ言って読みにくいものではなく、かつ面白いので一度はクイーンは読んでみるといいかもしれない。しかし、読みづらいと言う印象があったという事は実際に読みづらかった本があるはずであるが、肝心の本の名前が思い出せない。うーん、なんだったけ。
ロジックというエクスカリバーの使い手エラリー・クイーン初期の傑作。有栖川氏の江神もののロジカルな部分に惹かれる人で、未読の人ならば読んで絶対に損はない作品である。
『異形博覧会』、『恐怖館主人』(角川ホラー文庫)に続く角川ホラー文庫収録の作品集の三冊目である。今回は七部構成で、様々な雑誌、アンソロジーに収録された二七もの作品が収録されている。<異形コレクション>に収録された短編は割愛したということであるが、それらの短編は別に編纂されるであろう。印象に残ったもの、気に入ったものを紹介しておく。本書を読むものに闇の祝福が訪れんことを――「青畳」
幼き頃に母が離婚し、洋三郎を生家から連れ出して幾年。彼は結婚し、子供を生家に連れてくる。海の御殿と呼ばれる家に。そして、青畳の間と呼ばれる一室に赴く。
脳裏に浮かぶ畳のイメージ。畳=広い海原と言う図式は無茶なのであるが、この作品に置いては「その無茶だ」と言う感じさえしない。イメージに翻弄されるがまま、というのは言い過ぎか。ふと一瞬、畳を見るのが恐ろしくなった。
「緑魔来る」
手術により「文字通りの」植物人間になった祖父。血を求めて彼は彷徨うが……
植物人間のイメージがグー(死語)。もう一つの趣向の「……○○風に」という趣向の中には映画に精通してないと解らないのがいくつか見られたものの、「……ヒッチコック風に」はかなり笑わせてもらった。ヒッチコックの映画一個も見たこと無いんだけれども(笑)
「キマイラ」
事故のその後を取材に来た女性記者。その家族が事故で大した傷を負わずに済んだのは息子のおかげであるという。その家にはかなりの数のコレクションが蠢いていた。
ショート・ショート。母親の語りのみの構成が、最後の落ちの強烈さを際だたせる。ショート・ショートと言うジャンルが持ちうる破壊力を上手く引き出した作品かも。
「スキヤポデス」
女衒(ぜげん)と話をする将軍。女衒は様々な相手を勧めるが、どれも今一。評判の一人を頼むものの……
これもまたショート・ショート。破壊力は「キマイラ」に劣らずである。無い無い尽くしで来る故に、次にないのは……という予想はあったものの或る意味予測不能かもしれない。
「比喩の中の幻獣」
とある動物園にいる動物は一風変わっていた。それは、どこにも居ない幻獣を集めた動物園。ユニコーン、ドラゴンといった幻獣よりも珍しい幻獣を買っている動物園……
集中のべスト短編かなあ。私はRPG世代(と言う言葉があるか否かはさておき)なんだろうけれども、この作品に出てくる幻獣ほど不可思議に満ちた存在はないであろう。そして、この作品に登場する幻獣というのは、誰もが創造しうるものなのである。ミステリの中にある文章を切り張りしただけのと言うのが落ちのミステリを同人誌で読んだときと同様、いや、それ以上の衝撃だった。