『秘密』も映画化されて公開を間近に控え、最盛期を迎えたと言っても過言ではない東野圭吾の新たなる代表作、と言っても過言ではないであろう。作者自身もこの作品を代表作になるであろうと自信満々である。普通、代表作というのは自分で決めるものではなく、周囲が決めるものである。が、自分で代表作という事が出来るほどの出来だと言うから、この作品の出来は極端な話、読む前から決まってたというのは言い過ぎではないはず。粗筋を紹介するが、粗筋紹介がネタバレにつながりそうなので(完全にネタバレと言うことではない)、読みたい方は「」内を反転して下さい。カニスの血を嗣ぐ 浅暮三文 講談社ノベルス 980円「質屋『きりはら』の主人の桐原洋介が廃ビルの中で死体となって発見される。発見したのは、ビルのダクトで遊んでいた子供であった。捜査は被害者の身辺を中心に行われたが、結局犯人逮捕には至らず。犯人と目された人物はいたものの、肝心の人物が交通事故で死亡したのである。事故には人為的な作為はどこにも存在せず、そこにあるのは偶然の悪戯。捜査は完全に暗礁に乗り上げ、事件は迷宮入りした。桐原洋介が持っていたはずの百万円と共に闇に葬られる。事件から時は過ぎ、関係者は確実に年をとっていく。桐原洋介が通っていたと目される西本文代は事故で死に、娘の雪穂は親戚の家に養女にもらわれていく。桐原洋介の息子亮二は中学卒業とともに家を出て転々とする。二人の人生は穏やかなものではなかった。養女として暮らす雪穂。養母は彼女を実の娘以上にかわいがっていた。一方、亮二は法律のぎりぎりの世界で生きてきた。そして、雪穂の周りでは時折暴行される女性が居た。人生のカードの裏表を生きる二人。二人の人生の交錯点はあるのか? 二人の人生のクロニクル。」
この作品を読んで思ったのは「境界線上の作品だな」と言うことであった。(広義の)ミステリと普通小説(もしくは純文学)の。人によっては「この作品はもうミステリではない」と主張するかもしれない。無論、ミステリの定義は(大まかな枠はあっても)人それぞれだし、この作品がミステリじゃないと言う意見に対して真っ向から「それは違う」と反論する気はさらさらない。しかし、この作品はぎりぎりの線でミステリの側に踏みとどまっていると思う。ミステリの向こう側(普通小説)への境界線上の作品かな? と思う。どうしてそう思うか、と言う問いに関しては「なんとなく」と答えるしかないのであるが。もしかしたら、この作品は意味が広がりきってしまった「ミステリ」という化け物の全貌をつかむ格好のテキストになりうるのかもしれない。とにかく、この作品は或る意味問題作である。
ネタバレではないですが、一応伏せておきます。読了後に読んだ方が吉かも
この作品は、大雑把に言えば桐原亮二と雪穂の人生のクロニクルという色彩が強い。しかし、二人の人生は決して交わることがない。交わっていないが闇の奥底で人生は交わっている。矛盾した言い方であるが、この作品に置いて「交わってるけれど交わらない人生」というのは矛盾した言い方ではないような気がする。二人の関係は決して描かれることはない。しかし、物語が進むに連れて二人の関係はぼやけた視界が段々と回復していくかのごとく像を結び浮かび上がってくる。描かないのに結果として描いてしまう。『理由』(宮部みゆき/朝日新聞社)なんかを思い出した。結局二人の関係は「これだよ」とハッキリとは明かされない。そんなところは『どちらかが彼女を殺した』(講談社文庫)を思い出した。思い出すのは私だけだろうけれども。二十年という年月を一冊の分量に圧縮する。小説は人生の縮図というのは誰も言葉だったか忘れてしまったが、まさにその言葉通りである。ところで、二十年という(作中の)歳月を費やして物語が完結するものといって私が思い出すのは『病院坂の首縊りの家』(横溝正史/角川文庫)である。『病院坂の首縊りの家』では二十年以上前の事件が年月を経て解決するが、この作品の発端でもある質屋の主人殺しも解明まで(この作品では解決、ではないと思う)二十年という年月を経ている。二十年と言う歳月が事件の終幕に影響を及ぼすと言う作品はあまり無いと思う。『占星術殺人事件』(島田荘司/講談社文庫)は四十年以上前の事件が解明されるものの、時間が及ぼす影響と言う意味では関係ない気もするし。
東野圭吾の新たなる代表作。この手の作風も嫌いではないが、再びトリッキィな作品を書いて欲しいものである。
『ダブ(エ)ストン街道』でメフィスト賞を受賞した浅暮三文のデビュー二作目。前作は肩の力が抜けるファンタジーだったのに対し、今回はばりんばりんのハードボイルドっぽいやつである。しかし、ただのハードボイルででは決してない。常識を覆す(?)設定のハードボイルド。SF者が読んだら確実に(?)「SFだ」と叫びそうな(かといってミステリ者の私が「(広義の)ミステリや!」と叫ぶかと言えばそうではないけれども)そんな作品。内容に入ろう転生 貫井徳郎 幻冬舎 1800円阿川には人とは違った能力があった。異常嗅覚と言えばいいのであろうか。彼は常人の何倍もの嗅覚を持ち、かつ匂いが視覚になって現れるという能力を持っていた。しかし、その能力は諸刃の剣。嫌な匂いも常人の何倍もの能力で感知してしまう。一流の広告デザイナーであった彼も今は一介のバーテンダー。仕事を終えバーで酒を飲んでいると女性が近くに寄ってきた。その女性がたずさえている匂いは、死んだ犬についていた匂いと同じ匂いであった。阿川は彼女と一夜を共にする。しかし、彼女は死体となって発見される。阿川は彼女のことを調べた。すると……
一読驚嘆。『ダブ(エ)ストン街道』の作者とは思えない筆致である。まるで別人が書いたような感じだ。前作の『ダブ(エ)ストン街道』の或る意味脳天気な筆致(失礼)とは正反対のリアルな筆致。しかし、設定は決してリアルではない。過去及び謎を追うのは阿川と言う男性であるが、この男の能力が凄い。異常嗅覚プラスα。このプラスαがこの作品をただのハードボイルドに留まらせない原因なのであるが。その原因と言うべきプラスαは匂いの視覚への変換。匂いに支配された世界観とでもいうべきか。ハードボイルドの意匠をまとってはいてもこの作品はファンタジーである。リアルな世界を描いたファンタジー。ファンタジーというと異世界を舞台にした剣と魔法の物語というのが普通の(?)認識なのかもしれない。しかし、この作品は「ファンタジー」の世界を構築するのは別段異世界でなくてもいいということを如実に示している。
ファンタジーとしての側面を先に述べたが、この作品はハードボイルドでもある。追跡もの、とでもいうべきか。追うものが追われるものになる。阿川は匂いを元に女を追うが、その阿川を追う刑事もいる。三すくみとは違うが、追われるものの二重底の構造は非常に興味深い。というか、追跡ものでは定石だったりしてね。二重の追跡者という表面がこの作品を非常に興味深いものにしている。
しかし、繰り返すようであるが、この作品の文章は驚きだ。ホントに。突飛すぎるほどの設定に息吹を吹き込むには、この作品のようなリアルすぎるほどの文章が必要なのである。その高杉! もとい高すぎと言うべきかもしれないハードルを易々と越えている。前作に対する認識を私は三六〇度いや、一八〇度変えなければいけない。前作に置いて肩の力が抜けるような文章を書く人と言う認識しか持ってなかったのであるが、この浅暮三文と言う作家は期待の文章家である。前作は力の抜けるような文章ではない。力の抜けるような不思議な世界を、希代の文章力で、的確に描き出していただけなのだ。この作品を読んでようやっと気がつかされた。
前作とは全く違った世界を見せてくれる、「真に奇蹟的」((C)山田正紀)な作品である。
臓器移植を扱った貫井徳郎の異色作。従来は重厚な語り口でトリッキーな仕掛けを爆発させる、と言う感じが強かったのであるが、この作品はどっちかというと軽めの語り口である。内容に移る。盤上の敵 北村薫 講談社 「メフィスト」連載分和泉は心臓疾患で余命幾ばくもなかった。だが、、心臓移植が成功し、元気になってきたかに見えた。しかし、臓器移植を受けてからと言うもの、奇妙なことが続く。食べ物、飲み物の嗜好が変わってしまったり、夢の中に女性がリアルに出てきたり、夢の中で襲われたり、絵が急に上手くなったり。まるで自分が自分でなくなったかのような。やがて彼は或る結論にたどり着く。心臓提供者――ドナー――の記憶が自分の中に入ってきたのだ、と。臓器移植が発達しているアメリカでも、和泉の様態に似た状態になった患者が居たことで確信を持つ。退院後、つてをたどって――本当は禁止されているもののの――ドナーの家族にたどり着くものの、自分の体の中で脈打つ心臓提供者ではないと確信する。果たして、そこまでしてドナーの存在を隠したいという理由はなんなのであろうか? 和泉は「ゴッド・コミュニティ」という組織の存在にぶちあたる。そして、何ものかが和泉に脅迫を……
この作品が発表される前後(九十九年七月当たり)に日本初の臓器移植が行われたと思うが(どこか忘れた(苦笑))、この作品は或る意味先取り的なものであろうか。しかし、最大の山場は言うまでもないが臓器移植ではない。臓器移植はあくまでパーツ。眼目は……うーん、どこだろ。いや、見所がないと言うことではなく、或る意味眼目が多すぎるのである。ドナーは結局誰なのか、と言う問題、和泉の(夢の中の)恵梨子に対する気持ち、ゴッド・コミュニティという組織、和泉を脅迫する影。様々なファクターを盛り込みストーリーを構築している。どれもこれもが眼目といっても過言ではない。敢えて言うならば、これらのファクターの渾然一体感というのが眼目であろうか。
ドナーは結局誰なのか? というのは或る意味フーダニットの犯人探しにも似ている。ドナー探しという要素を犯人探しに見立てることも――非常に強引な論法だけれども――出来るであろう。実際、誰が和泉を脅迫してたのか? というのはどうでも良いことである(というのは語弊があるが)。大事なのは誰がドナーかと言うこととドナーの性格性質が少しずつ移ってくると言うこと。元の人格が乗っ取られる恐怖というのを途中まで感じないではない。すなわち、アイデンティティ崩壊の恐怖。しかし、この恐怖は長続きしない。長続きしない以前にこの作品で存在するか否かどうかも疑わしい、かも。私だけの妄想であろうか。欲を言えば、アイデンティティのところも、もう少し踏み込んで欲しかった。
この作品の設定を聞いて、もしかしたら東野圭吾の『変身』(講談社文庫)を思い浮かべた人もいるかもしれない。『変身』は脳を半分移植されたが故にアイデンティティ崩壊を起こしかける青年の哀しい物語(だった気が……)であるが、先にも述べたようにこの作品ではアイデンティティというのはさして重要な問題にはならない。共通するのは臓器の移植、ドナーは誰かというところ。それ故に臓器移植と言うテーマでどう料理したかについて読み比べるのは非常に面白いかもしれない。
社会派ミステリってなんなんだろうということを以前漠然と考えたことがあったのであるが、この作品こそ第三の波の第二ステージ((C)笠井潔)における社会派ミステリなのかもしれない。貫井徳郎氏には『慟哭』(創元推理文庫)や『光と影の誘惑』のような重厚な語り口の末に仕掛ける作風もいいが、この作品のようなある種の社会派作品をもっと書いていって欲しいものである。
円紫師匠と「私」のシリーズが核のシリーズである北村薫の最新長編である。今回は「小説現代増刊号 メフィスト」に全五回に渡って連載された分を元にした。このタイトルは一見北村薫らしくはない。だが、一方で本格原理主義者と言われ、エラリー・クイーンの大ファンだと自認する北村薫らしいタイトルと思う。それは何故か? クイーンに『盤面の敵』(早川ミステリ文庫)という作品があるからであるが。内容に移る。麦の海に沈む果実 恩田陸 講談社 「メフィスト」連載分世界のどこかでいつでも起こりそうな事件――殺人犯の立てこもり。立てこもり犯である石割は八百屋を廃業して花屋を創り上げた男を彼が持っていた猟銃で撃ち殺し、その猟銃をもって立てこもっていた。そして、その立てこもっていた所は、中堅の番組制作のプロダクションのディレクターである末永純一の家。その家は無人ではなく、末永の妻が取り残されていた。そして石割は末永の妻を人質にとった。報道管制が敷かれる中、末永はジレンマに襲われる。妻を救うべきなのであるが、ディレクターの血も騒ぐ。様々な人間の協力を仰ぎ、人質奪還計画を練るが……。たくさんの人間の様々な思惑が交差する中、石割と末永の盤上での闘いが始まる。
ミステリにおいてフェアプレー精神を中心にした本格ミステリ、その中でも特にフーダニット(犯人当て)はチェスの盤を挟んだ盤面上の対決に例えることが可能であるが、この作品は「盤上の敵」というタイトルではあるが「フェアプレイ」中心の本格ミステリではない。敢えて分類するのであればサスペンス小説なのであろうか? しかし、サスペンス小説に分類するには途中(一見)本筋に関係のなさそうな回想がボツボツと入ったりでサスペンス感が乏しかったりする。本格ミステリに分類するにはこれといった「謎」が見受けられない。如何にして人質を救い出すかに興味が行き、回想は邪魔にすら思える。しかし、終幕に至ってこの感慨が間違いだったと思い知らされる。恐らく、北村薫はこの作品に置いて解体するべき謎が存在しない本格ミステリを書こうと目論んだのでは無かろうか?
解体するべき謎がない本格ミステリ。謎の構築とロジカルな解体を主眼とする本格ミステリと言うジャンルに置いて、先に述べた「解体するべき謎がない本格ミステリ」というのはハッキリ言って矛盾の一言で片づけられる。しかし、敢えてこの作品を分類しようとすれば「本格ミステリ」としか言いようがないのである。最近読んだ作品の中で似たような読後感を持ってるのは『不変の神の事件』か(ネタバレではない、と思う)。本格ミステリで中心にあるのは「謎の構築とロジカルな解体」と私は思うのであるが、もう一つの中心点は「騙し」であろう。しかし、この「騙し」は相当な手続きを踏まないと「アンフェア」の一言で片づけれれてしまう事がある。フェアかアンフェアかというのは極限まで行けば個人の感覚の問題で片づけられるのが多いかもしれないが(無論感覚の一言で片づけられないもの有るであろう)、私は騙してくれればOKである。無論、怒り狂う「騙し」も有るけれども。で、翻ってこの作品に戻ると、この作品は「騙し」の比重が主な本格ミステリなのではなかろうか? 謎が無くて本格ミステリと言う形式は存在するのか? という突っ込み、疑問はあるけれどもこの作品は、私は、本格ミステリに分類したい。
「事件」というチェスボードの上で繰り広げられる「盤上」の闘い。作品中の登場人物の盤上の闘いは一見単純な救出劇に見えるが単純なものではない。何故なら、「騙し」という「最後の一撃」を読者に喰らわせるために「罠」を仕掛けなければならないからである。しかし、この「罠」を見つけて回避し、「騙し」を見抜くのは、恐らく困難なことであろう。
どちらかというとほがらかな一面が(決してほがらかのみではないが)強調されやすい北村薫の異色作である。
これは『三月は深き紅の淵を』(講談社)の四章に出てくる学園の話である。『三月は赤き紅の淵を』の「メフィスト」版は四章が大幅に変えられていたので雑誌連載版しか読んでない人は是非とも単行本版を読んでいただきたい。『三月は深き紅の淵を』を読んでない人は読んでからこの『麦の海に沈む果実』に取りかかって欲しい。なお、これは「小説現代増刊号 メフィスト」に四回に渡って連載されたのを元にしている。異形コレクション(12)GOD 井上雅彦監修 廣済堂文庫 762円三月にしか転校生を受け入れないと言う学園に、何故か二月の最終日に転入してしまった理瀬。その学園は、奇妙な学園であった。世界中の金持ちの息子が入学してくる学園。しかし、この学園は金持ちの子女の英才教育のみを目的とした学園ではなかった。英才教育を主眼とした『ゆりかご』、『養成所』と言うプログラムといわくありげな子女を外に出さない『墓場』と言うのも存在する。そして、『墓場』でこの学園に入学させられた人間が大多数を占めていた。それでも理瀬は奇妙な学園の生活に徐々に慣れてはきていた。或る日、校長が理瀬を含むファミリ――この学園ではファミリーという学生のグループがあり、グループ単位で行動する場合がある――をお茶会に招待する。そのお茶会で理瀬を霊媒にした降霊会をやろうと校長は提案する。かくして降霊会が行われるが……
ここまでが連載の第一回目である。この作品は完全にミステリではないと思う。ミステリ的な仕掛けは施されてはいるものの、それは「従」であり、主眼はミステリ的なものではなく「学園」と言う名の異世界を描くことであろう。この作品はファンタジーであると言い切ってしまおう。この『麦の海に沈む果実』は剣も魔法も、幻獣も王国も存在しないが、ファンタジーと言う言葉で括った方がしっくりくるような気がする。(広義の)ミステリのカテゴリーに入れるのは少々居心地が悪いような、そんな感じだ。『三月は深き紅の淵を』はぎりぎりで(広義の)ミステリの領域に踏みとどまっていたのに対して、この作品は(広義の)ミステリであること、ミステリの領域に踏みとどまることを拒絶してるようにも見えた。
『三月は深き紅の淵を』が「このミステリーがすごい」や「本格ミステリベスト10」で高く評価された故に、恩田陸という作家はミステリ作家だと言う認識が(一般には)強いように思えるが、恩田陸と言う作家はミステリ作家という(或る意味)狭い領域で評価すべきではないと思う。じゃあ、どういう風に評価すべきか? 物語を紡ぐ人とでも言うべきであろうか? 実際恩田陸の発想というのは、ミステリ作家の発想とは根本的に違うような気がする。謎を構築して物語を作るのではなく、物語を作ってる最中に自然と謎がこぼれてくる。自然に謎がこぼれるという作り方をしてるように見える。それ故に、この作品のようにミステリ的な手法はあるがミステリとは思えない作品(貶し言葉ではない)が出来てくるのであろうか。「ミステリ的な手法はあるがミステリとは思えない作品」と書いた時点で私が恩田陸をミステリ作家であると見てるのは一目瞭然だが(笑)認識を改めなければならない。
『光の帝国 常野物語』(集英社)は予告バージョン集だと以前に法月氏との対談で言っていたが、もしかしたら『三月は深き紅の淵を』に描かれたいくつかの断片も予告バージョンなのかもしれない。実際、この作品は『三月は深き紅の淵を』の単行本版の第四章で描かれた断片を元に構築された気配があるのであるから。
単行本になった際どう変わってるか(変わってないか)楽しみであるが、掲載されてる「メフィスト」を持ってる方は是非とも読んでみては如何であろうか?
<異形コレクション>もこれで十二冊目である。「神」をテーマにした競作故にクトゥルー神話が大半を占めるのかな? と思ったのであるが蓋を開けてみるとクトゥルー神話はさほど無い。もっとも、クトゥルー神話体系を読んでなく、邪神対人間の対決という枠組みしか知らないので何とも言えないのであるが。偏執の芳香――アロマパラノイド 牧野修 ASPECT 1800円
作品の種類はクトゥルーから宗教ネタ、聖書まで盛りだくさん。中には、神は存在しないものの結果的に「神」が存在する作品もあって興味深い。集中のベストは「冷凍みかん」、「白の果ての扉」、「大黒を探せ!」、「怪獣ジウス」か。その他印象に残ったのは「神様助けて」、「神佑」、「下水道」、「ゼウスがくれた」あたり。
しかし、井上雅彦氏の作品に生彩が感じられないのが少し心配である。やはり作品を選んで自分も毎回書き下ろしてというのは無理があるのかもしれないのであるが。どうなのであろうか。
各作品の粗筋、感想を述べる。「その夏のイフゲニア」(安土萌)
村からの一本道を歩く。引き返すことはもうないであろう。丘の頂上にたどり着き、その廃屋に入り込んだとき……
古くからある生け贄とか言ったものを端的に書いたものか。伝承、伝統の裏側を書いたもの、と言うべきかなあ。最後の一行のイメージが平穏と混沌は表裏一体であることを思わせる。
「冷凍みかん」(恩田陸)
大学時代の友人との電車旅の途中で寄った駅の売店。友人らはいろんなものを買うが、ふとみかんが目に入ったのでそのみかんを買うことにする。そのとき、売店主人が倒れてしまう。私たちは、一通の手紙を託される。そこには、みかんの恐るべき秘密が記されていた。
みかんというなんの変哲のない果物に世界が凝縮される。みかんというのはあくまで比喩であり、みかん状の形をしたものの構成的な正体は明かされはしない。みかんに異変が起きると地球のどこかに異変が起きる。みかんが「神」そのものであり、神というのはなにも生物の形をしてるわけではないことを端的に表してる気もする。
「神様助けて」(笹山量子)
友人であるKは芸術家の一家に生まれたが、あまりぱっとしない人間であった。彼が描く絵は一種異様な雰囲気を称えており、しかもその絵は何らかの影響を与えた。ある日、Kは自分が神になったと言う。そして、キャンバスには黄金色の麦畑が広がっていた。
神=絶対的な存在という図式を形にしたものであろうか。しかし、他の人間には神の姿は、当然ながら見えない。普通の人間は神を見たことがないが、何故神は私たちの前に姿を現さないのか? この作品はこの疑問を発想の中心にして書かれたものなのかもしれない。
「遊神女」(横田順彌)
押川春波は、出版社に原稿を持っていく途中ミルクホールに立ち寄る。そこで美女に声をかけられるが、彼女の言動はどことなくおかしい。もしかしたら、精神病院を抜け出したのか? 春波の心中を見透かしたように彼女は自分が神であることを証明しようとする。
ところで、この押川春波って実在したんだねえ。古書目録を読んでてこの名前が出てきたり、作中で出てた作品名を見たときはビックリしてしまった。それはさておき、この作品は神なんてのは或る意味無邪気な存在なのであるということを言いたかったのか? この世には不思議なことなど無いんだよとは口が裂けても言えそうにないかも。
「神犬」(TOMO)
略
「神佑」(小中千昭)
信輝会の勧誘員である加藤弘恵は、ある人物の家に赴く。そこでは、マニュアル通りの段階を踏まずとも話しを聞いてくれそうな気がしたのであるが……
最近個人的に注目している小中千昭の最新作である。神といえば宗教、宗教と言えば妖しげな勧誘(笑)という図式を上手く活用している。神の概念の問答は結構興味深いかも。見え隠れするのはHPLの○○なのであろうが、知識のない私はこれ以上解らない。
「茜村」(倉阪鬼一郎)
編集者の生まれ故郷に遊びに行った作家の寺西美夜子。和気藹々と旧家所蔵の珍しいものを沢山見せてもらうが……。突然後ろから殴られ、閉じこめられてしまう。
絵のイメージと洞窟の中の血のイメージが混じり合う。イメージ先行の作品と言うことなのであろうか。イメージ先行というのは語弊があるが、洞窟のイメージは、いわば人間の腸なのであろうか? ちりばめられた数のイメージも雰囲気を増幅させている。
「シャッテンビルト伯爵」(小沢章友)
ドイツのホテルのバーで出会った奇妙な男。彼は大学で黒魔術を教える教授だと自分のことを言った。彼に連れていかれるまま石田はふらふらとついていくが……
ドッペルゲンガーの語源は確かドイツ語だった気がするが、この作品も強引な分け方をすればドッペルゲンガー奇譚に分類可能かもしれない。しかし、正確な意味でのドッペルゲンガーはでてこないけれども。この作品が「GOD」のテーマに分類されたのは奇妙な男の邪神臭さ故かもしれない。
「白の果ての扉」(竹本健治)
友人のアパートは皆のたまり場と化していた。場所が良かったのではない。友人が出す料理が良かったのだ。近くにいい商店街があったからこのアパートを決めたという。ある日のメニューはカレーだった。そして、それ以来彼はカレーに取り憑かれてしまった。
カレーの辛さが法悦をもたらし悟りに貢献するという考え方は非常に面白い。このアンソロジーのテーマにふさわしい切り口である。神そのものを描くよりも神を信仰するものを描く。この作品では神の信仰ではないものの、完全に「信仰」を行ってるものがでてくる。「信仰」あっての「神」なのか、「神」あっての「信仰」なのか。
「献身」(久美沙織)
妻は従順である。妻を愛している。しかし、従順すぎる妻を憎んでもいる。
キリスト教では離婚を禁止されてるが、中心となるのはキリスト教の教義であろうか。従順な妻を愛おしく思いながらも憎む夫の気持ちがでていて興味深い。さらに興味深いのは作中作として挟み込まれているものか。神なんてものは、もしかしたら己が自身の中にあるものなのかもしれない
「冥きより」(速瀬れい)
雅致(まさむね)の娘は房時に体が蛍のように光る。その噂を聞きつけた都中の男たちは彼女に言い寄るが……
一応「神」が居はするものの、中心にあるのは「神」と言うよりはむしろ薄幸の女性の人生。この女性の正体は明らかにされない。それ故に無名の人間なのか、名のある人間なのか古典の教養がない私には解らない(女性が詠む歌が挟み込まれている)。朧気な雰囲気を称えている作品である。
「奇蹟」(篠田真由美)
貧しいイタリアの下部層。男はピノと言う人間を昔殺したことがあった。彼は、神が存在するか否か問いかける。
イタリアン・ホラーと井上氏は扉の解説で述べているが、この作品に関して言えば、ホラーという冠はふさわしくないように思える。奇談と言うには生々しく、説話と言うには血なまぐさい。言うなれば、この作品はまさに「異形」短編とでも言うべきであろう。眼目はホラーとしてのものではなく結末のサプライズにあるのでは無かろうか。
「下水道」(北原尚彦)
一八八八年のロンドン。ロンドンでは「浚い屋」という一つの職業があった。その内容は、下水道の中に落ちている売れそうなものを拾うものである。或る日、仲間が祈っている姿を目撃する。ご本尊に鼠を供えると金属片を吐き出すのだ。
奇妙な神の話である。生き物を供えるとその生き物を金属片に変換させる。なんだか生き物と言うよりは機械のような神である。結末は朧気ながらに見えてくるが、眼目は結末ではなく奇妙なご本尊そのものであろう。
「大黒を探せ!」(大場惑)
商店街に事務所を構える探偵の所に商店会長が依頼に来る。店にあった大黒様を探して欲しいという。とりあえず警察署に赴く探偵であったが、問題の大黒様は交通事故の証拠物件として警察署に保存されていた。大黒様が歩いたと主張する暴走族が……
いやあ、これぐらい肩の力が抜ける短編と言うのも珍しい。「GOD」という重苦しいテーマ故にそこに現れる「神」というのは荘厳なものがあったが、この作品には荘厳さはない。あるのは気の抜けたもの。しかし、結末では大黒様の恐ろしさが浮き彫りにされる。
「DOG」(竹河聖)
二人と犬一匹の同棲生活。犬は女性が連れてきたものであった。バリ島旅行から帰ってきて以来、彼女は少しおかしくなっていた。
発想の中心はアナグラムなんだろうけれど、そう思わせない内容である。「献身」を読んでて神は自分の中にあるのかも、と思ったがこの作品は己の中の神というのを徹底化したようなものの気もする。正確には違うけれども。融合体としての神、とでもいうべきか。
「バビロンの雨」(早見祐司)
同僚の憂鬱。その憂鬱は、飲み会で誰かが「天使が通った」と言ったときに見えた。そして、彼女には心臓がなかった。
終末の風景、か。死神と融合する天使のイメージ、降り注ぐ血の雨など視覚的なイメージの喚起能力が強いように思える。イメージだけで作られた作品と言うべきか。扉の解説で触れられてる「都市」はこの作品では見受けられないが、それは私の読みが浅いせいなのか。
「ドギィダディ」(牧野修)
工場の事故で体中がただれてしまい、生きてるのが不思議な父親。その父親の為に神母<でぃど>を連れていくことが生き甲斐だった。
もしかしてこれって、聖書のパロ? 聖書なんぞ読んだことがない私はパロディとしてのこの作品の評価はしかねるが、全体的に不思議な感触がした。一見SFのようにも思えるが、SFではないような気がするし。しかし、確実に「神」は作品中に存在するのであろう。私はクリスチャンではないが、聖書は一度は読んでおかなければ行けないものなのかもしれない。
「怪獣ジギウス」(田中啓文)
ジウスはハリウッド映画の撮影のため、とある惑星に住む怪獣と脳を取り替えて映画を作ったものの戻るべき体が機械の故障で喪われた。やけになり暴れ、裁判の結果ジウスは怪獣が居る惑星に拘留されることになった。
ナスティさは有るものの、この作品に存在するのはナスティさよりも悲哀さであろうか。帰るべき肉体を失い、なおかつ獣(けだもの)にならなければ生きていけないというシチュエーションの悲哀さ。悲哀さに目がいき、「神」は何処にあるのか? と思いきや、思いもかけない方法で神を演出してくれる。
「Day And Night Do Not Love Each Other」(マーティ・エモンド)
生まれ落ちた光と影。光と影は相容れず、争ってばかりいた。
初の海外からの<異形コレクション>への参加作品。小説ではなく、イラストと詩によるもの。イラストにより光と影という相容れない二つのものが描かれる。神は光と影の中にある、というべきか。
「初恋」(田中哲弥)
代々伝わる村の行事。今年の供物は、初恋の人であった。
シュールな、あまりにもシュールな作品。句点を意図的に使わない文章でジクジクと描き出される風景は目を背けたくなるものがある。『蘆屋家の崩壊』を読んでるときも思ったのであるが、句点を意図的に多用しないだけで作中の空気が重苦しくなると思うのは私だけであろうか?
「ゼウスがくれた」(山下定)
競争競争競争競争……。僕は船に乗るために、物心着いたときから家庭教師もついて勉強三昧であった。僕は恋をした。でも、先生はそれは幻想だという。僕は成長し、完了になったが……
現代社会の「競争」と言う名の病理を皮肉ったものか。しかし、人間は誰しもなんらかの「競争」をしないといけない。「競争」は生物の本能であり、アイデンティティなのであろうから。
「生け贄」(ひかわ玲子)
恋人にはいつの間にか奇妙な痣があった。その痣は蠢き、次第に大きくなり……
なんというか、「神」にもいろいろな種類があるもんだと「ここまで読んできていまさら」みたいな感慨を持ったりするのであるが。神が聖なるものというのは弱者の幻想でしかないのかもしれない。神は身勝手なもの。もしかしたら、人間以外の動物にとって人間は「神」みたいな存在なのかもしれない。
「ちいさな祠」(加門七海)
海辺の村の奇妙な風習。覗くなと言われたが、覗くなと言われて黙っていられるほど人間が出来ているわけではない。好奇心で見に行くが……
うーん、なんというか、ふわふわした読後感。風習の描写が幽鬼感を誘う。非常に不思議な作品である。
「夢見る天国」(井上雅彦)
粗筋は省略する。というか、本編に関しては粗筋があるかどうかも疑わしい。恐らくはキリスト教の要素を抜き出して「物語」という枝葉をつけたものなのであろうが、なんというか。井上雅彦氏が息切れしてるのでは? などと思ってしまう。やはり、アンソロジーの監修をやりなおかつ一編書き下ろすのは無理があるのであろうか?
「サラ金から参りました」(菊地秀行)
サラ金の取り立てに赴く堺と言う男。彼が赴く先にいるに人間は、一筋縄で行くような人間ではなかった。宗教団体。しかも、その宗教団体の事務所には人っ子一人おらず、なおかつ、ついさっきまでそこにいたような雰囲気を携えていた。もう一人の債務者も様子が少しおかしかった。
最後のトリはクトゥルー神話である。最も露骨に出てくる。私自身この段階でクトゥルー神話体系を読んでいないのであるが、この作品のように余りにもあからさまにキーワードが出てくればわかりはする(笑)しかし、邪神の復活という話なのであるが、サラ金の取り立てという現実レベルと邪神という非現実をぶつけられるとなんだか肩の力が抜けてくる(笑)そりゃ、私だけなんだろうけれども
『スイート・リトル・ベイビー』でホラー小説大賞の佳作を奪取し、間違いなくこれから(現在も?)のホラー界を牽引するであろう一人である牧野修の長編である。この作品は核となってるアイデアの一つに「匂い」と言うのがあるが、『カニスの血を嗣ぐ』と読み比べると面白いかもしれない。内容に移る。八辻由紀子は夫の暴力が原因で離婚し、一人息子の毅を女手一つで育てていた。仕事はライターと言えば聞こえがいいかもしれないが、実際は仕事の選り好みが出来ない雑文書き。それでも長いキャリアの間に十五冊の本を上梓はしていた。最初に上梓した本『オタクの誕生』の出版を強引に勧めた小来栖久子の仕事の依頼で由紀子はコンタクティー――UFOと会って連絡を取ってるという人――と会うことになった。そのうちの一人が瀬野邦夫という人物であった。瀬野は一見どこにでもいるような、そんな感じの人間であった。瀬野に由紀子は『レビアタンの顎』と言う一冊の本を貸される。借りたその日に読んでは見たが、少し読んだ段階で読むのをやめる。その後、由紀子の周りで奇妙な出来事が頻発する。そんな中、『オタクの誕生』で知り合い、何かとつきあいがある六人部妙子から連絡がある。渡りに船とばかりに由紀子は妙子に相談する。妙子は盗聴のエキスパートであった。
「匂い」というファクターを使った作品と言う点では『カニスの血を嗣ぐ』の方に軍配が上がる。『カニスの血を嗣ぐ』の方が「匂い」に対する掘り下げは深い。『偏執の芳香――アロマパラノイド』にしても『カニスの血を嗣ぐ』にしても、「匂い」というのがプロットで重要な役割を果たしているが、この作品では『カニスの血を嗣ぐ』ほど表にはさほど出てこないように見える。しかし、この作品の眼目が牧野修が扱う「匂い」ではなく(それはそれで重要なのであるが)、主人公を襲う不条理なのではなかろうか? 主人公である八辻由紀子は様々な不条理に襲われる。不条理の不可解さが眼目なのかもしれない。
ところで、この作品はホラーなのであろうか? 一応不条理に襲われるパニックホラーと言う見方が出来なくはないが、どことなくSF寄りな気もしないではないし……。SFとホラーというのは、前にもどこかで書いた記憶があるが、非常に相性が良い。ホラーと言われる作品の中にはSF? と思うものもあるし(『パラサイト・イヴ』(瀬名秀行/角川ホラー文庫)あたりが代表か? ホラーアンソロジー<異形コレクション>シリーズの中にも『侵略!』や『悪魔の発明』、『月の物語』、『時間怪談』のようにSFのテーマをホラーで斬ったのがある)、SFの中にもアイデンティティ崩壊テーマのホラーといって良いのがあるらしいし。ジャンル分けが意味をなさない、そんな時代の中でこの作品が「ホラーかな?」なんて疑問を呈するのはナンセンスなのかもしれないが、私はジャンルに敢えて拘りたい。で、この作品に戻って考えてみると、分類したらホラーとSFの境界の中間点に位置する作品では無かろうか? 何を以てSFとするか? 何を以てホラーとするか? というのがよくわかってないのであくまで感覚的な分類なのであるが。
先にSFとホラーの境界線上と分類したが、SFとホラーのハイブリッドとは少し違う気がする。ホラーの要素とSFの要素が混じり合ってる用には見えず、磁石の同極同士を近づけてるような、そんな感じがするのだ。恐らくハイブリッドを目指して書かれたのであろうが、結局反発する極を近づけさせることが出来なかった様な気がする。だからといって乖離してるわけではないのであるが。
この作品の姉妹編らしい『リアルヘブンへようこそ』(廣済堂文庫近刊)が非常に楽しみなこのごろである。