ボケ作日記 2001.3.21
昨日は暖かかった。中山寺の梅林公園に梅を見に行った。満開でとてもきれいだった。梅の満開というのには、なかなか当たらないので、梅見に行っても、つぼみを鑑賞することの方が多かったが、昨日は違った。中山寺は阪急の宝塚から三つ目の駅で、駅のすぐそば。ちょうどお彼岸と重なって、たくさん人もいた。
中山寺がこんなに大きな寺であることは知らなかった。山寺の風情もあり、なかなかいい感じ。梅林公園は広い墓地のさらに先にある。広い。歩いているだけで汗が出てきた。セーターを着てきたのはまずかった。途中で脱いで手に持っていた。
梅林は岡本にもあり、何度か行ったが、狭いし、品種を多く集めているという「学術的な」ににおいがして、満開の時に行けてないというのもあるかもしれないが、あまり楽しめない。ところが中山寺は、広いし木の数が多い。あまり理屈をこねずに同じ梅の木が何本も植えてある。梅の木の種類は十数種類くらいだろうと思う。さらにここはお寺の中なのに、「寺くさく」ないのがいい。
一番の場所と思われるところは、中山観音を四方で囲むような感じで緩やかな丘の斜面に梅の木が植えられている。観音さんの足下にはベンチもあるが、芝生も植えてある。そこで奥さんと二人で「地球健康家族」で買って持っていったお昼の弁当を、春の穏やかな陽を浴びながら食べた。おいしかった。
昨日でちょうどホームページを開設してから一年だ。3360件のアクセス数。365で割ると、一日平均九件だ。そのうちの半分が僕としても、一年の前半は八件くらいだったから少し増えたことになる。まあ、少しずつ増えていくだろう。こう、ご期待。
ボケ作日記 2001.3.10
四日にG4 Cube が来てから、毎日 Cube をなでていたら、あっという間に一週間が経ってしまった。新しいパソコン環境を構築するのは手間がかかるが、なかなかおもしろい。トラブルに出会っても何とか解決策が見つかってくると、うん、トラブるのも悪くないなあ、などと倒錯的な気分になる。パソコンはやはりある程度自分で「いじれる」くらいが楽しくていい(といっても、僕はハード的に中が「いじれる」わけではない)。壁紙を変えてみたり、ごてごてしたウィンドウをすっきりさせてみたりといったことから、Mac OS 上で Windows を動かしてみたり(これはかなり行き過ぎ(?))、「カスタマイズ」できるというのがパソコンのいいところ、おもしろいところだと思う。デフォルト(工場出荷状態)のまま使うのでは、家電製品と変わらない。それでは味気ない。
昨日は雪が降った。神戸は年に三日くらいしか雪が降らず、三月の雪は珍しい。水気のある大きめの牡丹雪だったが、空中を舞いながら降っている様子は、見ているだけでうれしくなる。傘も差さずに駅まで歩いた。気持ちよかった。
雪の中、傘を差さずに歩くのはよくあることだと思うが、雨の中を傘も差さずに歩くのはどうだろうか。あまり見かけない。しかし、僕がはじめてパリに行った時(いまからほぼ三十年も前の話だ)、初秋だったが、よく雨が降った。パリの天候になれていないときだから、傘などは用意していなかった。出かけの途中に雨に降られると、雨宿りしたり、どこかで安い傘を買うというのが、日本での行動パターンだったが(だから傘はたくさん持っていた。しかし、よく飲み屋などに忘れた)、傘を買おうにもすぐに傘が見つからず、やっと見つかってもとても高かったのを覚えている。
外を見ると道行く人で傘を差している人が極端に少ない。びっくりした。というよりも不気味な感じがした。それほど雨脚が強くないとはいえ、小雨というほどでもない。ごくふつうの顔をして雨の中を歩いているのである。こわ〜い、正直そんな感じだった。あとでフランス人にきいてみたら、だって傘を差していると視界が遮られるし、じゃまくさいじゃない、そんな言い方をされた。なるほど。そういうものか。それ以来、僕もパリではあまり傘を差さなくなった。日本ではあまりそういうことはしないが、傘を持って出るのをよく忘れる。
大阪にはジュンク堂に本を買いに行ったのだが、この店の店員もプロといえる人が少なくなった。「英文学売場はどこですか」ときいたら、どこかにさっと消えて、数分後に「文芸書は二階です」。なるほど、そういうコーナーは最近の若い人には縁がないのか……。数年前、サンパル店(ここも三宮駅前店に移転する)に初めて行ったとき、店員さんがよく本のことを知っていたので感心したものだった。書名をいうと、あっという間にレジのところまで持ってきてくれた。それも昔話。
夕方、帰りの電車に乗るときも、まだ雪が降っていた。軽く吹雪いている。でもすぐ解けちゃうね、と奥さんと話をしながら、外を見ていた。芦屋の「トンネル」を過ぎたら、雪がうっすらと積もっていた。六甲の山の木々に雪がかかり、枝が一本一本くっきりと雪の白さを映していた。まるで一面に桜が咲いているようだった。きれいな雪景色だ。
ボケ作日記 2001.3.02
マンションの郵便ポストが、今週の月曜日(2/26)、やっと三年十一カ月経って改修された。入居当初以来、ポストがパンフレットと違うので、パンフレット通りの仕様に改修するよう申し入れていたのがやっと実現した。いままで差し入れ口と取り出し口が同じ壁面、つまり外側にあった。それを内側から取り出せるように改修したのである。このランクのマンションでは当然のことと思うが、なぜか施工段階で変わってしまったようだ。当然、施工の三井建設の費用で改修してもらった。
ここに至るまでは実に長い紆余曲折があった。パンフレット通りでないのはおかしいと一期から三期までの理事会では問題にしていて、管理会社の東急コミュニティーには何度となく変えてもらうよう申し入れしていたのだが、どうも管理会社のところで話がとまっていたらしい。管理会社は管理組合の利益を第一に考えるものという誤解が管理組合にとってよくなかったようだ(でも誰だってそうしてくれるものと思うよね。高い管理費を払っているんだし)。そこら辺のことが理解できてくるようになった頃、一昨年のクリスマスイブの日に、七階外壁の剥離(「七階の穴」事件)が起きた。これについては前に日記で書いたと思う。
でそのあと「協議会」を持つようになり、いままでのつもりつもった「懸案事項」を列挙し、協議をしながら「ひとつひとつつぶしていく」ということで売り主の東急不動産と管理組合との間で「合意」がとれた。当時、僕が管理組合の理事長をしていた。「一般的な補修の約束」はできないのでそうしてほしいとのことだった。かなりのことをしてくれそうな雰囲気だったので、「協議する」という約束で納得せざるを得なかった。
しかし、いざ協議会を持ち、東急不動産からの回答書を受け取る段階になると、非常に腹立たしいことばかりであった。たとえば、郵便ポストに関しては「現状でも郵便ポストとしての機能を果たしているのでご勘弁ください」である。びっくりした。まず、いままでのポストでは、郵便物を取りにわざわざエントランスの外にでなければならない。しかもA4サイズが入りきらないから、郵便物が差し入れ口に引っかかったままで、漏れ落ちてしまうし、プライバシーの上でも問題だ。そもそもパンフレット通りの施工がされていないことを問題にしているのに、それに対する回答がなされていない。不誠実きわまりない。それで、東急への対応をどうするか、理事会、総会で検討している間に、引き継ぎとなり、今期の第四期理事会になった。
ほかの問題も協議していたのだが、半年ほど前になって、「補修します」と言ってきた。なぜだろう。少し首を傾げたのだが、それ以上の大問題がぽろぽろと出てきたのだ。前にも書いた戸境壁のスリット(「戸境壁の隙間」事件)、免震ピットの排水問題、断熱材の「手抜き施工」など、無視できない問題が出てきて、少しは対応しなければと思い始めたのだろう。ともかく、「補修します」と言ってきた。しかし、しばらくすると、玄関まわりの他の「補修工事」といっしょにしたいといってきた。とんでもない。やると言ったものはすぐにやれ、と申し入れたら、やっと三週間前から工事に入った次第である。
「東急」は僕にとって少年の頃からの夢だった。新宿の歌舞伎町の隣町に生まれ育った「東京っ子」にとって、渋谷から走る東急沿線とはすばらしい住宅街と思えた。その先には自由が丘、横浜がある。途中の日吉には慶応大学。泥とほこりまみれの新大久保とはまるで違う別天地が開けていると思っていたものだ。そこを結ぶ東急電鉄。それは僕のような少年にとってのあこがれなのだ。「東急」はその期待を裏切らないでほしい。
ボケ作日記 2001.02.18
きのう、時短ビデオを買った。Sanyo の VZ-H31G(N) だ。和光デンキのサンシャイン神戸店で、五年保証付きで税込み、\16330 。安い。「今頃ビデオ?」といわれるかもしれないが、「二倍速再生」はとても便利な機能なのだ。
僕が語学講座マニアであることは読者の方々もご存じだと思う。現在、ラジオ講座は中断しているが、去年の秋、ケンウッドの Avino を買ったのもラジオ講座をMDにとって聞こうとしたからだ。現在、テレビ講座で中国語とハングルを視聴している。本当はラジオ講座の方が内容が密なので聞きたいのだが、仕事で忙しい中(ダンコースの翻訳やるからね〜。待たせて、ごめん)片手間にやるにしては進度も速く、レベルが高すぎる。テレビはその点早すぎないのはいいのだが、少し遅すぎる。
それに、初心者を相手にしているためだろうか、進度だけでなく説明や発音練習のテンポが遅すぎる。三十分の放送がもったいなく感じるのである。だから、早送りしたりして、視聴したいところだけ選んで聞いていた。でもこれだと画像だけで飛ばしたところにおもしろいことがあったのではないかと不安にもなる。「倍速再生」ならば、音声も一通り聞こえるし、重要なところはふつうの早さに戻して聞けばいい。これだと、一時間の番組が三十分くらいで聞けるので、かなりの時間の節約になる。何回か分をまとめて視聴するので、その時間差は大きい。
十年以上前に三菱のビデオ(実はこれがはじめてのビデオ!)を友人の薦めで買ったら、それと知らずに「倍速再生機能」がついていた。このビデオは当時、ほかの点で評判になったらしいのだが、僕にとってはこの「倍速再生」機能が「目から鱗で」こればかりを好んで使っていた。中国語の講座では、やや早くなるだけで音が落ちず、むしろ「四声」の練習には向いていたと思う。ハングルはなぜか音が落ちる感じがした。これは三菱の場合。
サンヨーの「時短機能」も三菱と同じと思っていたが、微妙に違うようだ。中国語で「音が落ちる」「せりふが飛ぶ」のがわかる程度なのであまりよくない。しかし、ハングルでは逆で、三菱の時よりは、「音が落ちる」という感じは少なかった。「せりふが飛ぶ」のはわかる程度であまりよくない。多少早口になってもいいから(だって、話し方がゆっくりで聞いていていらいらするから「倍速再生」にするんじゃないの?)、せりふが落ちない方がいいと思うのだが、そうはなっていないようだ。
ボケ作日記 2001.02.11
今日は「建国記念の日」だ。この日には懐かしい思い出がある。この日が「祝日」になった1967年、僕は高校一年生だった。当時僕は「少年コミュニスト」だったから、猛烈に反対し、「同志」数名と「同盟休校」ならぬ「同盟登校」して、正門に掲げてあった「日の丸」を半旗にして反抗した。
現在の僕だけを知る人はなかなか想像もできないとは思うが、ばりばりの「民主的な」高校生だったわけだ。現在の僕の「左翼批判」の「立場」(そして大学院時代の「ポストモダン」の「立場」、大学時代の「ノンポリ」)とはかなり違うので、その「転向」の意味を自他ともに明らかにしない限り、申し訳が立たないとは思っているが、それはなかなかたやすいことではない。少しずつ明らかにしていくしかないと思っている。というか、それを明らかにしていこうというのが、僕の高校時代以降の課題であった。ときにセンスのない自分がイヤになりながらも……。
小学校から中学校にかけて『次郎物語』を愛読し、中学校から高校にかけては『ジャン・クリストフ』を愛読していた典型的な正義感の強い「よい子」であった。高校をどこにしようかというときに、テレビで日韓条約の強行採決を見て唖然とし、学校見学に行った都立大学付属高校や戸山高校などでは「日韓条約に反対する」「クラス決議」「サークル決議」の立て看を出していた。中学三年の後期頃から僕は「受験教育」に批判的な言動をとっていたから、進路指導の担任の先生も大いに困っていただろうと思う。都立大付属高校は駄目だ(かなり「過激な」高校だった)というし、戸山高校も「受験の波」に呑まれてしまうからと言ってすすめなかった。
僕も困って兄貴や兄貴の友人たちに相談したら、「受験校って意外と受験教育はしないんだよ。それに戸山は民主的だし、サークル活動も盛んだよ。」と言われた。その言葉をそのまま信じ、教師の反対を押し切って(というのも内申書の操作がすでに済んでいて、もともとの僕の内申点がほかに回されていて、今さら僕のところに戻ってこないから、筆記でよっぽどいい点を取らないと落ちるかもしれないと言われた。当時の区立中学はひどいことをしていたものだ)、何とか受けて合格した。
入ったら、さすが「民主的」だった。ベトナム戦争が激しくなり、「羽田闘争」がありで、きわめて「政治的」な時代だった。その時代を僕は「民主的」に過ごした。「民主的」な高校生を丸二年過ごしたあと、僕はその組織を脱退した。その組織の「トロツキスト批判」があまりにひどすぎたからだ。『青春の墓標』の方がはるかに深度がある、と思ったものだ。「ひどいねえ」という友人たちもまわりに多かった。だから、「民主的」でない友人たちに恵まれたということだろうか。しかし、すぐに他の「セクト」に移れるというわけではない。僕にはそうはいっても組織からの「脱落感」の方が強かった。だから僕の日本共産党に対する嫌悪感はいまでもつねに懐かしさを伴っている。そしてそれと「同型」の発想にはとても敏感である。
僕は「組織と個人」とか「政治と文学」とかいう抽象的な問題の方に移っていった。だから、「政治」のますます強まった69年、高校を卒業してからも「宅浪」し、あまり人とも会わなくなった。図書館に通う道すがら、機動隊ともみ合う学生のデモ隊を横目に眺め、涙を流していた。だから僕には「全共闘体験」はない。
ボケ作日記 2001.02.09
Sho's Bar が一週間の中断の後、再開された。ほぼ毎日楽しみにしてアクセスしていただけに、再開されて嬉しい。中傷メールが舞い込み、「作戦会議」を開いていたとのことだ。三通のメールが公開され、その反論が述べられている。「内田樹の研究室」でも、同様に反論されている。この人がどこのどういう人か知らない。だがどういう人かは予想はつく。悲しく哀れだ。
よほど嫉妬心の強い人なのだろう。かわいそうだ。僕も「嫉妬心」が強い方だから、できるだけ表に現さないようにしているが(だってそういう嫉妬たらたらって醜いでしょ)、「うらやましい」と思う人には素直に「うらやましい」といってしまった方が、自分の健康にはいいのではないか。僕はそうしている。相手は少し引くけれど、多少まんざらでもないなあと思ってもらえる程度なら、許してもらえるんじゃないかと思っている。あまりためすぎると、相手にもかえってよくない。相手に恐怖心を与えるし、気味悪がられる。それがうまくコントロールできなくなるのって、ほんとうに悲しい。人間ってつらいね。(うん、こういう風に軽くいってしまっていた方がいいんだよ。これが僕の自衛策。)
「嫉妬」をもてるというのは、自分は現在そうなっていないけれど、自分も「同等(あるいは同等以上)」になれるという確信がないとできない。だから僕はたとえばクリントンに嫉妬することはない。まずアメリカの大統領にはなれないから(といえるということは、なれると思っているという言い方も可能なのだが……)。しかし、どこそこの大学教授には嫉妬することができる(たとえば、ぼくの方が能力があるのにこの不遇はなんなんだみたいな感じ)。でもこれってすごいことだ、僕を知る人はまさかそんなことで嫉妬しているとは思わないだろう。だって、僕にそんなに能力があるとは思ってもいないからだ、僕もそう思われていることは知っている。だから、それにさらに拍車がかかる。そして「嫉妬」はとまらなくなる。やれやれ。
ボケ作日記 2001.02.08
先週は忙しかった。とかいいながらもうすでに今週は木曜日だから今週も忙しかったことになるのかな。一月二十八日の日曜には、むかしお世話になった山田田津子先生(詩人永坂田津子)のお葬式があり、昔の友人たちと再会。新宿ゴールデン街で夜まで飲んだあと、夜中には、巣鴨で親友と待ち合わせて、朝方までカラオケスナックで飲み明かした。月曜に帰神し、火曜から五日間「特別講習」、三日の土曜日に試験があり、即、採点、評価を出して午後の新幹線に乗って、「現象学研究会」の合宿。この合宿では『職業としての学問』のレジュメ担当だったので、授業が終わって帰宅してからレジュメを切っていた。
合宿だから、夜遅くなる。が、土曜日は朝六時に起きているので、夜の十一時になるともう眠くなる。十一時過ぎから飲み会が始まったわけだが、すでに「お眠り」モード。もっと飲み出すと、逆に目がさえてくるのはわかっているので、お酒は少しおさえて、大学院に社会人入学したメンバーのひとりに「社会人入学だからって甘えたらいかん」という愚痴(お説教?)をひとしきりこぼしたあと、翌日に備えて就寝した。
翌日予定の時刻より1時間遅れて研究会はスタートした。やはり。聞くと四時までカラオケで盛り上がったという。無理もない。みんなタフだなあ。でもおかげで僕はツインの部屋で一人でゆっくり眠ることができた。寝る前にも、起きてからも、風呂にはいることができ、ゆったりした。
研究会は日曜の五時解散で、六時から、友人と待ち合わせで、ワープロのrupoの使用法の説明(また古いものを使っているね。実は僕のお古)。それが終わってから、またまた新宿ゴールデン街にくりだし、その友人と深夜まで飲み、歩いて下宿まで帰った。深夜の大久保は懐かしい。彼とは部屋が隣である。翌日月曜は、昼前に渋谷にでて、東急文化村に行き、「文化」の香りをかぐ。やはり文化はいい。くんくん。?。映画は『初恋のきた道』という中国映画。ここに来ると、だいたいフランス映画をやっていることが多いんだけれどな。今回は違っていた。いっぱい入っていた。お客さんたちはしんみりと感動していたようだ。映画を見てから昼過ぎの新幹線で帰神。
帰ってから、十日締め切りのレジュメの作成。三月の二十九、三十日に、関西フランス語教育研究会(ランコントル)があり、そこでアトリエの報告をするので、その内容のレジュメの締め切りが十日なのだ。それを昨日書き終えて、送った。昨日はまた、たまっていたニフティーの会議室のログを読んだ。それで今日になってしまったというわけだ。あ〜あ。レジュメは、「フランス語教育」のページにアップするでそちらで読んで下さいな。
ボケ作日記 2001.01.31
昨日から立命でフランス語基礎の「特別補習」が始まった。本来ならすでに「冬休み」なのだが、この補習が五日間あるためにまだ「休め」ない。僕としてはちょっとした臨時収入になるので(といっても正規のコマよりも割りが悪い)、喜んではいるが(すぐに「仕事」に入れないので不満もある。でもこれはまた僕サイドの問題である)、大学の「単位認定」ということから考えていくと複雑な問題がいろいろとある。そもそも立命の「特別補習」とは何か。
これは後期(秋学期)から始まるフランス語基礎クラスで「単位認定」の要件のひとつである出席三分の二以上を満たしながらも、試験の点数が合格点に達しなかったために「不合格」となった学生のうち希望者に対して行う「補習」である。合格すれば、前期(春学期)には、次の「展開」のクラスに他の学生とともにすすめる。この補習には「追加料金」として5千円ほどかかる。しかも評価は、オール出席かつ試験受験を「前提条件」にして、合格最低点の「C」か「不合格」のどちらかである。
学生にとってあまりいい話とは僕には思えない(だって余分の金を払って必死の思いをしても高々「C」である。四月からの「再履修クラス」で再履修すれば、余分の金が不要で、必死の思いをすれば「A」だってとれる)のだが、結構登録する学生がいる。今年は法学部と産業社会学部で十四名。なぜか考えたら、五日間の集中で、単位が取れるというのがありそうだ。これはよい。僕も大学の時に「体育実技」は嫌いでイヤだったが、「シーズン実技」というのがあって、夏休みに二泊三日(三泊四日?)の「ワンゲル」に二回行けばそれで体育の実技の単位が取れた。キャンプとかは好きだったから楽だった。おまけに「優」だった。こういう制度のおかげで僕でも大学が卒業できた、これは言い過ぎでもない。
それとも僕の授業が「わかりやすい」という評判が立っていて集まってくるのだろうか。(ここ四、五年、僕はこのコマを担当しているが、最後のアンケートで「落としてよかった。先生の授業が受けられてフランス語がわかるようになったから」という感想を書いてくれる学生が必ず二名、三名いる。そして、僕がもっているほかのクラスを追っかけて受けてくれることもあるから、それもまんざらではないとは思うが)そういうのではあまりないだろう。では、なぜか。それは「落ちこぼれ恐怖症候群」とでも呼ぶべきもののためだと思う。何とか「ほかの学生に追いつきたい」「バスに乗り遅れまい」とする気持ちである。
立命では半期制を導入したために、「基礎」クラスを不合格になると、次の半期の「展開」クラスを受講できない。「再履修クラス」でとって行かなくてはならない。これは目立つ。悪い方に。ほかの学生がとれているものがとれていないのがはっきりしてしまう。かっこわるい。「落ちこぼれ」は怖い。立命にはあまり「落ちこぼれ」というのになれていない学生がおおいのだろう。いかにも「なれている」という感じの学生もいるが、というか、立命って「落ちこぼれ」の大学なのになあ、そこがいいところのはずなのにという思いが僕には強いのだが、そうは最近あまり思われていないようだ。それは早稲田が「落ちこぼれ」というのと同じような意味でそうである。
僕も高校(東京の都立戸山高校)に入ったときはトップクラスだったが(だからふつうに勉強していれば楽勝で東大に入学できた(はずである)!)、すぐにほかのこと(「社会科学研究班」などというサークル)に身をつっこんで、一挙にクラスでビリになり、その後その地位をほとんど確保し続けた(よく卒業できたものだ)。で、浪人中に三ヶ月ほど必死になって「嫌いな」受験勉強をして、何とか早稲田に入った。だから「落ちこぼれ」意識は僕には強い。しかも文学部に落ちて、教育学部に入ったのだから、二重に「落ちこぼれ」。でも、こういう言い方すると、「二方面」から嫌われる。ひとつは、早稲田は「一流大学」と思っている人からで、「むずかしい大学」に受かったと思ってそんなことを言っている「嫌みな奴だ」という反応がある。これこそ「嫌味」だ。早稲田がエリート大学のはずがない、こんなのはいくらもがいたって、「エリート性」においては東大にかなうはずはないのだ。それに入ってみたわかったが、馬鹿ばっかだ(そこがおもしろい)。
それからもう一つは、 「東大に落ちたから早稲田に来た」そういうコンプレックスから早く抜け出さなければならないなどと説教される。それは違うのだ。「落ちた」と言うことの意味を「単線的」にではなく、考えようとしているということがこの人たちにはわかってない。つまり「落ちた」ということに「積極的な」意味づけを行おうとしている訳なのに、それを元に戻してしまう考え方だ。それは「不健康」というものだ。「落ちこぼれ」は落ちこぼれるべくして落ちこぼれたのであり、それはひとつの「才能」である。それを「コンプレックス」と呼んで「矯正」しようとするのは、あまりよくない。困ったことだ。
それはともかく、今年の補習の学生さんたちは、そのような僕の「ひねくれた」考えなど理解しようともせず、僕の「まともでわかりやすい」授業を熱心に聞いている。いいことだ。
ボケ作日記 2001.01.24
インターネット放送が、ブレイクしそうな今年である。「5年後にはIT大国」とか首相はのたまっているようだが、これは考えようによっては、「五年も」かかるということなのかもしれない。困ったことだ。今年か、来年あたりには、インターネット放送が日本でもブレイクすると予想しているが、その前提はやはり「常時接続」である。通信料の値下げ、そのための「通信回線」の「規制緩和」が急務と思うが、巨額の投資をしたISDNを、回収しきらずにそう簡単に「過去のもの」にしてしまうわけに行かないNTTと政府の思惑がそれを阻止している。
しかし、市場はすでに競争が始まっている。僕もケーブルよりも速く、しかも安くなりそうなADSL(通信料込みの一ヶ月定額で五千円前後)に今年か来年あたりでも乗り換えようかと考えているくらいだ。そんなことを考えていたら、「J−COM神戸・芦屋」は、四月からケーブルテレビとケーブルインターネットの「パック料金」で月額8900円というのを提案してきた。なかなか微妙な額だ。現状では、この程度の「価格競争」「サービス競争」しかなされないのが悲しい。もっと半額くらいで、もっと高速というのが出れば、テレビ以上に広まると思うのだが。なにせ「テレビ」以上に好きなときに「テレビ」が見られるのだから(もっともこの言い方がなかなか理解されないだよね。インターネットにのめり込んでない人には。むずかしい。)
フランスでは、カナルプリュス(Canal+) もインターネット放送を本格的にはじめたようだ。 ! CANALPLUS.FR, de la television internet ! カナルプリュスはフランスでもケーブルテレビに入ってないと見られないテレビ局だが(だから僕はフランスに行ったときでも見られない!)、それが日本で「無料で」「好きなだけ見られる」。これはすごい。音質はもちろん、画質も高品位だ。内容豊富だが、LA SEMAINE EN CLAIR がおすすめ。France 2 の「教科書的なフランス語」とは違って、「ふつうの言葉」のフランス語が聞ける。日本ではもはや「古典的」になった「ワイドショウ」的な番組である。フランス語だからなのかはわからないが、とてもおもしろい(日本語のワイドショウはたまにしか見ない)。それから、Les Guignols がよい。これは僕がフランス語をはじめた頃(はじめてから十年くらい経った頃?)、フランス人の教師がこぞって奨めていた風刺番組だ。この番組を見て笑えるようにならなければ、「フランス文化は理解できない」「フランス語をマスターしたことにはならい」とよく言われた。しかし、いまもってこの番組を見ても、「素直に」笑える場面は少ない。それは僕の「語学力」のせいもあるだろうが、「彼の地と文化の壁」もやはり大きいのだろう、などと思いながら、笑って見ていると楽しい。
ボケ作日記 2001.01.17
あれから六年経った。そのころ僕は大阪に住んでいたので、大した被害には遭わなかったが、関西に移住してから2回目の正月を迎えたすぐあとで、そろそろ関西にもなじんできたな、さあやったるかと思っていた矢先のことだったので、かなりのショックを受けた。前の年の年末には女学院の授業の時に、「関西は地震がなくていいですね。東京にいたときは、地震で何回も夜中に起こされましたよ。」みたいな話を何度もしていたからおなさらだった。あんな大きな地震がまさか起こるとは考えもしなかった。
あれは早朝だった。いきなりがくっと来たので、飛び起きて、まずベランダの窓を開け(脱出路の確保。その点はしっかりしている。閉じこめられ恐怖症だから)、寝ぼけたまま、なにが起きているのかわからず、ぼやーとあたりを眺めていた。どかーんという音が響いた。隣の書斎の本棚の上に置いてあった扇風機が床に落ちたようだ。身体が揺れるので、柱にしがみつきながら、隣の書斎をさらに見ていると、本棚の上に載せておいた本箱から、『吉本隆明全著作集』がどたどたと床に落ちていった。そのとき机の隣に置いてあった小さな本箱の上に落ちたようで、本箱は小さな穴をあけた。その隣の2列式の本棚の前列が左右に揺れながら、本を一冊一冊振るい落としていた。本の山ができあがった。
いままでに経験したことのない揺れであった。すぐにテレビをつけて「地震速報」を見たが、「京都で仏像が倒れた」みたいな速報しかなかったので、大したことはないのだろうと思って、またすぐに寝た。(のんきだね。)ところが、朝に起きてみたら、大変なことになっていた。要するに、神戸は連絡の付かないくらいの大被害だったのだ。あらら大変。何人かに電話をかけてみたが、当然神戸の人には連絡が付かない。東京の兄弟から電話が入ったが、無事であることを告げた。たしか二日か三日経ってから(もっと経っていたかもしれない)、山手小学校に避難している内田君と連絡が取れ、関学の中川努さんがパソコンの下敷きになって亡くなったという話などをした。
避難所暮らしの内田君に大阪の我が家に泊まりに来てもらって、その翌日、いっしょに女学院に出かけ、その被害を目の当たりにした。女学院は予想以上のかなりの打撃を受けていた。それほどとは思わなかったので、すぐに駆けつけなかったのである。(僕ってほんとにのんきだね。)彼は、献身的に働いていた。僕は図書館で図書の整理などの手伝いをして、夕方に帰った。
地震の翌日(当日)からは、我が家は奥さんの大学の連絡の中継点になっていた。奥さんの大学は灘区の青谷にあり、2名の学生を亡くしている。大学は臨時に自衛隊の基地になった。電話で学生の安否の確認から、その他教師間の連絡などあれこれあった。そして、学年末のことなので、電車がまだ開通しないのに、会議などが開かれ、それに出席しなければならない。僕もいっしょに往復した。西宮北口まで、電車は通っていたが、そこから三宮までは1時間とか2時間とか待たされて、臨時のバス(観光バス)に乗っていく。そして大学で会議が終わるのを待っていた。
行き帰りに地震でつぶれた家や建物が目にはいる。この世のものとは思えない。なんか、芝居の大道具を見ているようだった。三宮を歩くときにはさすがに怖かった。がれきの合間を縫って、いまにも倒れて来そうなビルの前を歩いていかなければならないのだ。いつだったか、迂回の列車(北の山のほうを通る列車)で帰宅途中、有馬温泉あたりをすぎた山の中で、突然、「地震のために停車します」というアナウンス。まだまだ余震が続いていたときだ。がくがくふるえていた。何とか帰って、自宅でゆっくり風呂に入っていたら、また、余震。びっくりして、そのまま、外に出た。寒かった。地震は、怖い。
ボケ作日記 2001.01.06
あけましておめでとうございます。
今年は例年になく、のんびりとした正月だった。誰が訪ねてくるでもなく、誰かを訪ねるでもなく、ただ家でおいしいものを食べ、初詣に出かけるだけの平穏な三が日だった。戦争が「露出しつつある」時代に「平穏」というのも変であるが、世の中とは得てしてそんなものなのだろう。
今年も近くの保久良神社に初日の出を拝みに行こうと思っていたが、曇りとの予想でやめにした。大蔵海岸でカウントダウンのテレビ中継を見ていた。インターネットの「イン博」で見ようとしてつなげていたのだが、その数分前からnet congestion で見ることはできなかった。(ダウンしていたわけ。森さん、しっかりしてよ。インフラ整備とはほど遠い。それに、本人がcongestion よろしく、「脳梗塞」で突然死しないように。)
森首相の「IT革命推進」というのは、「公共土木事業」化するばかりで、むしろ、「IT革命」をつぶそうとする働きをするだけなんじゃないのか。(ほんとに「土木事業」の好きな国だ、日本という国は。イヤになる。)全国の学校にインターネット環境を作るということより、光ファイバーを一般(民間)に開放したり、通信料金をいまの「半値以下」にしたりして、個人ユーザーがアクセスしやすい環境を作る方が大事だと思う。これは、景気対策で「個人消費」を刺激するという政策をとれないのと根は同じなのかもしれない。
去年、はじめて保久良神社の鳥居の前から眺めた初日の出は感動ものだった。初日の出を見るのも、二十数年ぶりのことだったと思う。「来年もまたこよう」と思って楽しみにしていたのだが、曇りで残念だった。それで、元旦はゆっくり寝て、お昼頃に起きて、「菊水」を冷やで飲みながら、おせち料理。錦卵がおいしい。蒲鉾は大好物だったが、歯が弱くなったので、食べつらく嫌いな方に入ってしまった。数の子はまだまだいける。このようにうまいものが「肉体的理由」で食べられなくなっていくのは残念なことだが、「老齢」に入って太りすぎないための「神の思し召し」なのかもしれないなどと、「神に感謝する」元旦であった。
午後から、生田神社に初詣に行った。「専任になれますよう、お金が儲かりますよう、夫婦喧嘩をしませんよう」と願を掛けた。破魔矢と干支の置物を買って帰った。これが神戸に越してきてからの我が家の毎年恒例の正月行事である。それから大阪にいたときは、「商売繁盛で、笹もってこい」と歌いながら通った大阪の今宮戎だったが、いまは神戸にいるので、西宮のえべっさんに毎年行っている。今年は十日の「ほんえびす」に行けそうだ。
元日の夜は、すき焼き、二日の夜は、かにすき。そして三日には、晴れてきたので、保久良神社に初詣。去年見た梅林が今頃はどうなっているのか見に行ったが、わずかに芽をつけはじめていた。岡本梅林に通じるハイキングコースがあるので、行って見た。途中で「道に迷った」。川に沿ったような形で道があるのだが、小さなダムのようなところで「行き止まり」。はて? 困った。少し戻ってから、やってくる人に聞いたら、「このまま行けば行けますよ」とつれない返事。そのままさっさと歩いていってしまった。さっきの「小さなダム」のところまでまた来て、よく見たら、「ダム」をまたいだところに小さな道があった。
岡本八幡神社で同じ願を掛けて、「下山」。山手幹線のスターバックスでエスプレッソ(この前飲んだsoloはあまりに量が少なかったので、今回はdoppioにした。おいしい。ここは禁煙なのでコーヒーの味が純粋に味わえてとてもいい。)を飲んで、ヴィヴァーチェでしゃれた鍋敷きを買って、帰宅した。平和な正月だった。
ボケ作日記 2000.12.31
今年も(今世紀も)あと数時間だ。年末の忙しいときだが、去年に比べるとのんびりした年末であった。去年は、マンションの管理組合の理事長をしていた関係でとても忙しかった。年末はさらに忙しかった。東南側のシップス神戸本山のマンション問題が片づかないうちに、今度は西側隣接地にリクルートマンションの建設計画が持ち上がった。そして去年のクリスマスイブの日には、七階の開放廊下の外壁が剥離し、落ちそうになっているという連絡を受け、至急管理会社(東急コミュニティー)の技術部に出動を依頼し、落ちずにすんだのはよかったが、これが大問題へと発展していった。築わずか3年目で外壁剥離というのは聞いたことがない。
とりあえず施工業者の林建設に年明け早々に補修してもらうということになった。しかし、それではすまないのではないか、原因をしっかり究明してから、補修方法を説明してもらい、同じ工法のところを大丈夫か検査してもらい、とか「売り主責任」はどうなるのだなどなど、たくさんの意見が理事長宛に寄せられた。僕は事柄の重大さに気づき、急いで経過報告とともに、あわせて今度の対応策をどうすべきか意見をいただきたい旨の文書も書き、組合員各位に配布した。だから年末年始はその文書作成にとても手間取った。しかし次期の理事会に引き継がれていくとしても大丈夫なようにしておくことは大切なことだし、情報公開をその期のモットーにしていたから、ないがしろにできなかった。
そして売り主の東急不動産と連絡を取った。いままで東急不動産への不満がくすぶっていたのだが、なかなか東急不動産は出てこなかった。(これが、なぜだったのかは不思議なのだが)。しかし事柄が事柄なだけにすっ飛んできた。そして、釈明の日程などを決め、施工業者の林建設・三井建設、設計のD&D建築設計とともに会合を持った。釈明とともに、つもりつもっている問題についても協議できる場として「協議会」を持つことにもなった。今年の二月、三月のことだ。そういえば今年のはじめごろは、その準備で四苦八苦していたなあ。
協議会ではこちらの要望を聞くだけ聞いておいて、結局、ほとんどが「現状でご容赦下さい」だった。僕は怒り狂って急遽理事会を開いて検討したが、方針が定まらないまま、次期の理事会へ引き継ぎとなった。(四月が引き継ぎの月である。)とりあえず、「第三者」に相談しながら対応を考えていくという「総会決議」は取り付けたが…。次期の理事会も最初はふらふらしていたが(誰もが「素人」だから、こういうことは苦手だ、当たり前だけれど)、何とか「瑕疵対策委員会」(僕はその一員)という理事会の「諮問機関」とともに対応できている。協議会も今期はいままでに二回開いているし、理事会ニュースもまめに出している。よくやっていると思う。(理事長さん、他の理事の方々本当にご苦労さん。)で、少しは前進したのだが、ここへ来て、大問題がまたまた発生した。
どうも、「消防法違反」「建築基準法違反」の疑いが濃厚なものを、それと知りつつ客に売ったようなのだ。これは大問題になると思う。協議会での三井建設の説明がこの問題になると、途端にトーンが暗くなるので変だと感じていたがやはりそうなのか。それにこの問題についての釈明を三井建設は協議会の日(十二月十七日)に用意してあったのに、東急不動産の差し金でわざわざ協議会終了直後に理事会の「三役」だけに話をした。「こそこそするな」といっておいたばかりなのに。失礼極まりない。
そして、イブの前日に、関係する住戸の組合員を含めて会合を持った。こんなもんじゃ話にならないという感じだった。これはやばいぞ。何とか話し合いですめばいいけれど、ちょっときついかもしれない。来年年頭から、総会が開かれ、対応策が練られることになるだろうが、方向が定まるか、それも不安である。ああ、どうしよう。読者(オーディエンス)の方々で、マンションの瑕疵について、技術的、法律的なアドバイスをいただける方がいらっしゃったら、是非とも、ご一報下さい。今世紀最後のお願いです。
では、よいお年を。
ボケ作日記 2000.12.20
やったあ、今日から「冬休み」だ。これで仕事ができる。例年ならば、あと女学院大学の授業が一月に2週あるだけなのだが、今年からは、立命館大学が半期十四週(来年からは半期十五週)の「完全実施」を理事会で決めた。学生の「学力向上」がその趣旨だという。なにを考えているんだが。まったく、場当たり的なことしかできないのは、どこの大学の理事会も同じか。専任教員の「組合」もしっかり対応し切れていない。どうも腰が引けている。困ったことだ。
僕は非常勤なので「労働強化」をもろにかぶることになるのにどちらにも影響力を行使できない。何しろ十二週だったのが、十五週になって給料は据え置きなのだから、実質2割の「減給」になる。ただでさえ「安い」給料がますます安くなる。この前テレビで『やまとなでしこ』(桜子、いいなあ〜)を見ていたら、こうすけがニューヨークの非常勤講師になって「それで暮らしていけるの?」とかいいながら、結構いい暮らしをしていたのを見ると、世間では「大学の先生」は「いい給料」をもらっているという風に思われているようであるが、とんでもない誤解だ。
「いい給料」をもらっているのは、「専任教員」だけで、「非常勤講師」は実質働いている時間から計算すれば、その五分の1から十分の1程度である。僕の奥さんも専任だし、友人にも専任が多いので、いろいろ大学内部の話を聞くことが多いが(非常勤講師は内部のようで外部であり、外部のようで内部である「曖昧な」場所にいる)、それらの話を総合すると専任の八割は給料を取りすぎているし、そのうちの何割かは、ほとんどなにも仕事をせずに給料だけを取っている「給料泥棒」である。
だから、その分を「非常勤講師」のほうに取り返さなければならないはずなのに、「非常勤講師組合」は、既得権の擁護にのみ腐心している「既成の専任教員組合」と「共闘」して、理事会に対して「待遇改善」を要求するだけだ。腰が引けている。給与体系そのものの根本的改訂をいま追求すべきなのである。
ともかく、そんな余波で、今年からは来年の一月に立命館で授業が一週(再来年からは2週)あるので、まだゆっくりは休めない。というか、仕事には本格的にはかかれない。「休み」に入らないと、「仕事」ができないというのは、この「業界関係者」でない人にはわかりにくい言い方だろう。
この場合の「仕事」というのは、研究や翻訳、そして論文を書くことなど、この業界入りしたときに念頭に置いていた「仕事」のことで、学期中にする授業などの「仕事」とはまた、別種の「仕事」のことだ。ただ、これが同じ「仕事」という言葉を使っていることの意味は、当然明確にしなければならないこととは思うが、いまはできない。
ボケ作日記 2000.12.09
先週の金曜日(げぇ、もう一週間も経ったのか)、十二月一日(もう今年ももう一ヶ月)、マンション南側のベランダ前の電柱が撤去された。(すっきり!と思いきや)いやはや道路向かいのマンションの前に移設されたのである。電線が「十数本」もからみつく、前よりもごっつい電柱に生まれ変わった。(やれやれ)これについては、なが〜い、なが〜い話がある。昨年度、僕はマンションの管理組合の理事長をやっていたが、前の年からの引き継ぎ事項のひとつ(入居3年目だというのに問題が山積していて、たくさんある問題のひとつ)に電柱移設問題というのがあった。
くだんの電柱は、うちのマンションを建てる前から立っていたものらしいが、マンションの建設に絡み道路周辺を整備したところ、道路ぎりぎりのところではなく、道路に突き出した形になってしまった。前の所有者が道路を「不当に占拠使用」していたのだろう。そのころは目立たなかったかが、整備したために目立つようになったということらしい。実際、上から見ると道路に少し飛び出しているように見えていた。で、うちのマンションの南東側に十五階建ての巨大マンションの建設計画(清水建設)が持ち上がった(そして今現在、建っている。おかげで十二月と一月は九時過ぎまで朝日が射さなくなった。憎たらしい。)頃から、「通行のじゃま」というクレームが神戸市に来て、関電(関西電力)は電柱移設を考えはじめたということらしい。
はじめ、その電柱をマンション側に寄せるということで、管理組合に話があり、当時の理事会はオーケーを出したとのことである。しかし、工事にかかろうとしたところ、その場所には下水の鋼板があってたてられないことが判明した。やむなく、西に数メートル移した上で、マンション側に引っ込めるという計画を立てた。しかし、そうなると、今までベランダ前に電柱のなかった住戸の前に電柱が移ることになる。購入時とは周囲の環境が変わることになる。したがって、移設予定地の前の住戸の承諾を得てから工事にはいるようにとの返答を理事会はしていた。
期が変わって、僕が理事長になってからまもなく、五月か六月に(去年のことである)、関電から「電柱移設工事をしたいので理事長の署名捺印をいただきたい」という連絡が入った。僕は各戸の承諾を得たのですね、工事は安全に行うよう十分に注意を払って下さいね、工事の事前連絡は十分な余裕をもって行って下さいなどと確認した上で、日時を決め会うこととした。理事長としての署名捺印というのは、やはり緊張することなので、はらはらしていた。関電は「きんでん」(工事業者)とともに、3人でやってきた。こちらはひとり。僕はすごく緊張していた。相手はもうすっかり、はんこがもらえるものと思っていたようだ。
しかし、僕は関電の担当者が一通りの説明を終えたあと、切り出した。「おたくね、嘘をつかないで下さいよ。承諾を得たとおっしゃっているけれど、ちゃんと各戸ごとの承諾を得たんですか。どうやって得たんです。」僕は事前に念のため、該当する住戸に電話で連絡して、様子を聞いておいたのである。で、いろいろ聞いてみるとどうやら、インターホーン越しに「工事をしますので、よろしく」と伝え、「ハーイ」とかの返答を得たら、それで「承諾を得た」ということにしたようであった。とんでもない。「そんなもん承諾とちゃうやろ。」一階から六階までの住戸から文書で承諾を得、それを見せてもらわない限り理事長印は押せません、と答えた。当然である。(これほど強くでたのも、工事業者が持っていた付近の地図が添付してある書類に「近隣の反対があるときは、絶対に工事に入らないこと」という書き込みがあるのが見えてしまったからである。)
それに、僕は続けた。そもそも、あそこに電柱があってもこちらとしてはとくに困っていない。通行のじゃまといってもそれは自動車の話であり、むしろ自動車が通行しやすくなるとマンション前の交通量が増えてうるさくなるし、事故も起きやすい。現状のままでよろしい。どうしても移したいなら、向かいのマンションがあるじゃないですか、あそこは階段の脇で、ベランダの前でないから、あそこがいいですよ。それにこれだけ住民が増えたら、電線は地下に潜らせた方がいいですよ、などとまくし立てた。担当者は、神戸市の命じられてきていますので、ともかく、各戸の承諾文書を取り付けてからまた来ますといって帰っていた。
もちろん、「こちらの理事会は輪番制ですね」と聞くのを忘れずに。ま、理事が代わって、引き継ぎがうまくいかなくなればそのころまた来ればうまくいくと考えたのだろう。僕の任期中にはやってこなかった。「山積する問題」(任期中の年末にマンションの「瑕疵問題」が持ち上がった。さらに、今度は西側に十五階建ての巨大マンションの建設計画(リクルートコスモス)が発覚した。さっそく総会を開き、管理組合としてマンション建設反対の決議をした。去年のいまごろだったなあ。近隣集会も開いた。そして、僕がその司会をやった。すげぇー。でも、今、建設中。工事の音がうるさい。)、「山積する問題」のひとつとして僕は新しい理事会へ引き継ぎ事項として説明しておいた。忘れた頃に、ひょっとやってきて、はんこ下さい、って来るかもしれないから気をつけてねといって。(なんか、ずいぶんとあちこちに話が飛ぶね、この文章…。という、おまえはいったい誰だ。そういうおまえは……。無限後退!)
そして、今年の十一月(十月だったかな)に、突然、電柱移設工事の知らせが三日前に今期の理事長のところに入った。工事業者の「きんでん」からである。理事長からの連絡を受けて、あれれ、どうなっているの、おかしいな。ほんとにもう。さっそく工事の中止を関電と「きんでん」に電話連絡するように理事長に伝えた。中止はないようである。様子が変。僕は理事長とともに、朝、工事の前に待っていた。工事業者の「きんでん」が来ていた。この間の事情は知らないらしい。工事業者はそういうことは知らないものだ。いろいろ聞くと、どうやら、向かいのマンションに電柱を立てるとなったらしい。ええ? 変なの。向かいのマンションの住民は承諾したのだろうか。ともかく、それから一月後に古い電柱が撤去された。まずはめでたし、めでたし。
しかし、それで根本的に問題が解決したわけではない。電柱が向かいのマンションの前に移っただけだからだ。それにしても、電柱や電線、戸建て住宅の中なら、まだ許せるが、マンション密集地帯にはとても似合わない。地下化をすすめるべきだ。気にならないのだろうか。電柱や電線。ほんとに醜い。気にならない人はたぶん上を見ずに、下を見てばかり歩くのだろう。あ〜あ、ほんとにいやになる。普段そのような姿勢で急ぎばやに歩くから、「上を向いて歩こう」という歌がはやったりするのかもしれない。あれ、今ははやってないか。懐かしいな、坂本九。
ボケ作日記 2000.11.29
昨日だったかの『毎日新聞』の夕刊で、ある「哲学者」が、松浪議員が国会の演説中にヤジに耐えられずにコップの水をかけたことをとりあげ、「ある議員がある国の国会で」ともったいつけたうえで、擁護していた。そして、それを自分の授業では「私語のない」ことと結びつけて話をしていた。毎日新聞のこのコラム欄は、毎日新聞の中でも、もっとも朝日新聞的(要するに良識派的)なもので、あまり好きなものではないのだが(つまり毎日新聞は総じてかなりいい加減なので好きなのだ)、新宿ゴールデン街の昔の「飲み友達」なども常連なので読むようにしている。
野蛮なヤジに対しては(松浪議員の言い方に従えば、「言葉の暴力」に対しては)、水くらいかけてやらなければいけない、わたしも私語でうるさい学生にはそばに近づいて退場させるなりして対処している、とその「哲学者」は言っていた。どうやら「身体を張って森首相を守る」という松浪議員の演説に対して、「ちょんまげ、がんばれ」というヤジが飛んで、それで水をかけたということらしいのだが、騒然としていたので、テレビ中継ではそれは聞き取れなかった。
それについてはおとといだったか、『痛快!エブリデイ』で桂南光が「許してちょんまげ」と言い返した方がよかった、といっていたが、その方がましである。どの芸人だったか忘れたが、隣にいた人が、プロレスの例を挙げながら、ヤジを飛ばすのも議員の役割でとばしているのだから、それに対して、松浪議員が「マジに切れて」あんなことはするのは、おかしいと言っていた。その通りだ。国会には国会のルールがあり、その中で演説を「盛り上げる」ためにヤジを飛ばしているわけだから、そのルールを破るならば、それなりのルールを変えるほどの力が必要だろう。「言論の府」で反論をするならば、言い換えれば、「言葉の暴力」に立ち向かおうとするならば、それは「言葉の暴力」で立ち向かわなければならない。ヤジにはヤジり返さなければならない。それが「言論」に生きるもののつとめだ。
しかし、実際は、その通りにならないこともある。そして、僕自身も、コップの水をかけられたこともあるし、コップの水をかけたこともある。それは、たとえば、口説いているのか口説いていないのか判らない男に対して女が、新たな展開を求めて水をかけるときであり、別れ話がなかなか進まず、未練ばかりが残るときに、男が女に水をかけ、嫌わせるようにし向けるときである。しかし、それは、その「計算」にたった上での行動である。振ることも、口説くこともできない相手には、そのような状況が必要である。ルールの改変が求められている場面だからだ。
松浪議員には、そのような「計算」があったようには見えなかった。つまり、議員になり切れていなかったのである。さらに「計算」が下手なのは、加藤であった。このような混乱に乗じて、都内のホテルから一同そろって馳せ参じれば、動いてしまうのが、人情というものだったろう。もう一度、逆転があるかと思っていたが、そうはならなかった。それとももっと深い計算が加藤にはあったのだろうか。それは「密室」に閉じこめられている。暗い時代だ。
ボケ作日記 2000.11.23
四日ほど前、テレビで『素敵なソウル』という番組をやっていた。雅や健などの吉本の芸人たちによる珍道中である。そこでミョンドン(明洞)という繁華街の地下街を歩きながら、雅が「心斎橋といっしょや」といっていた。う〜ん、とうなってしまった。僕はソウルに行ったことがない。だから、はっきりしたことは言えない。しかし、「いっしょや」と感じ、いえてしまうことはよくわかる。
僕自身、十年ほど前に台湾に旅行に行ったとき、タイペイの街並みや人々の歩き方、車の流れ方などが日本と変わりがないのに驚いた経験がある。看板も多く、看板に書かれている文字が中国語であることをのぞけば、この喧噪さとにぎやかさは東京と変わらない。(いや、その活力はそれ以上かもしれない。まだ、関西に移住する前の話だ。)このとき、実に不思議な体験をしたと思った。それまで「外国」といえば、ヨーロッパしか行ったことがなかった。だから、「外国」に行くとは「違うところ」に行くことだと思っていた。しかし、タイペイの町を歩いていると「同じところ」を歩いていると感じたのだ。僕は一瞬、訳が分からなくなった。これが「アジア」ということなのだろうか。僕はそこまで言い切るつもりはないが、そういえてしまえるのはここら辺にあるのだろうと思った。
最近「異文化」という言葉、「異文化理解」という言葉が、はやっている。それは「世界中には、様々な文化があって、それぞれが平等な価値を持っているのだから、お互いによく理解し合って、みんな同じ人間なんだと思うようになろう」ということであると、一部では理解されているようだが、これほど欺瞞的で、偽善的なことはない。そのようなスローガンが人々に対立を生むということをしっかりと肝に銘じておく必要があるだろう。
「いっしょ」にして身近なものにして、仲良くしよう、という気持ちは分からないでもない。しかし、それは時には他方の忍耐を強要することにもなる。それがいつか噴き出るとやっかいだ。「殺し合い」にまでも発展しかねない。「異文化理解」という言葉には、形容矛盾が存在している。「文化」という言葉を口にしているときには「いっしょや」と感じているのではあるが、「文化」と出会っているときには「違うところ」と出会っているのである。そしてそれを「同じところ」と呼んでいるのである。そして、自我が安定を求めている以上、そう呼ぶことは不可避だろう。しかし、僕は「同じところ」よりか「違うところ」のほうがおもしろい。「日本文化」も僕にとって「同じところ」というより「違うところ」である。
ボケ作日記 2000.10.30
2週間ほど前に、「内田樹の研究室」で「多文化社会」を巡って、内田樹と「在日韓国・朝鮮人」との間でちょっとした「論争」があった。二人とも、ネット上での「論争」に不慣れなためか、あるいは先を見越してしまったからか、すぐに「論争」は始まりかけたまま終わってしまった。オーディアンスとしては残念である。
確かに、僕のわずかな経験からして、ネット上の論争(バトル)は体力も気力もいるので、とてもつらいものがある。雑誌などならば、一ヶ月なり、一週間なりの調査などのための「猶予」があるが、ネット上だとすぐに応答がやりとりされる。何日も間を置くと、分が悪くなったな、などとオーディアンスは考えるだろう(などと考えてしまうのでなおさら即答しなければならない、と考えるようになる)。
しかも、これが今回の場合の、複雑なところと思えるところで、僕自身もどうしたらいいのか分からない点だが、意見がメールで個人的に送られているというところだ。そして、それがホームページの一ページに転載され(本人の事前了承の上で)、また、掲示板にも意見が寄せられ、また、トップページにも一方の意見が書かれという形式で論争が進んでいるというところが、僕にはどうもよくわからない。
当然、メールを個人的に送ることはその人の自由なわけだから、僕がとやかく言う筋合いのものではない。しかし、それを事前に「公開してもいいですよ」という形で「論争」の片方の人にゆだねてしまう感覚が僕には理解できない。それでは、何のための「掲示板」なのだろう。確かに、その「掲示板」を管理しているのは、一方の当事者であるわけだが、やはり、意見はそのまま読んでみたい。だって、そのほうがこっちとしても意見が言いやすいではないか。オーディアンスはオーディアンスであっても、いつでも意見が言えるし、いつでも聞ける、というのが、ネットでの意見交換(論争)ではないだろうか。
それともこれって「人前で文句を言わないようにしようね」というようなモラルなのだろうか。それだと、「陰湿な陰口」(あるいは陰湿なヨイショ)が進行するだけであまり健康的とはいえないような気がする。ストレスがたまるばかりだ。うーん、確かに、「論争」をすると、根に持ったり、根に持たれたりするということがある。心理的にそういうことがあるのは事実だろう(それがフィジカルなものにまで「超越」してしまうこともある。だから、防波堤が必要なのかもしれない。それもわかる。)しかし、そういうのって、取り除くべき「障壁」なのではないだろうか。でないと、「多文化社会」とかいっても、それはどちらが「差別」とかいって「耐える」だけの社会だろう。あるいは、相互にまったく無関心な社会だろう。それとも、こんなこといっている僕は「絶望が浅い」のかな。でもやはり「論争が公共化される地平」を模索していきたいと思う。
ボケ作日記 2000.10.13
先週と先々週はトラブル続きで最悪だった。ホームページの更新が遅れてしまった。まず、九月の最終週から授業が始まった。で、夏休みの写真を載せるためのジャン=リュックのホームページを開設し、三分の二のまましばらくとどこおり、やっと、九日の早朝にパリの分をアップできた。しかし、その間に無理をしたのだろう(なにせ、苦手な画像ファイルだ)、歯茎(というよりその下の骨?)が腫れた。右腕から、腕の付け根まで、肉がこりこりに固まってしまっていた。奥さんにマッサージしてもらい、サロンパスを張り、仕上げにサウナでマッサージをしてもらって、五日ぶりに元に戻った。目と指先の疲れが腕にきて、歯茎が腫れたわけだ。
さらに、パソコンを使いすぎたからだろうか、PCカードスロットにカードが入らなくなった。スロットの交換だろう。幸い、アップルケアに入っているから、修理は無料だ。クィック・ガレージに電話をしたら、取り寄せになりそうとのこと。仕方ない。入院だ。昔は、クィック・ガレージでは目の前であれれという間に直してくれたのだが、いまは、とくに旧機種ではすべての交換部品を常時おいてはいないようだ。早くても水曜といわれた。はやく、ジャン=リュックのホームページにパリの写真をアップしたことをこの日記に書きたかったのだが、その直前にカードスロットが故障してしまった。ついていない。昨日の晩にやっと退院できた。
しかし、その間パソコンと離れ、ゆっくり休養をとった。なにせ急に学期が始まったのと、パソコンに集中したのが重なったのがよくなかった。年のことを考え、無理をしないようにしているのだが、集中してしまうと、ついそのことを忘れてしまう。いけない、いけない。
毎年、この時期は胃が痛くなる。来年の時間割が決まってくるからだ。一年ごとの契約更新というのは、若いときはいいが、この年になるとあまりからだによくない。そして気分も不安定になる。困ったもんだ。この前、立命で授業の後に「先生、どこの先生?」と聞かれた。え、どこって、立命の先生ジャン、と思ったけれど、質問の意味は違うようだった。「僕は非常勤です」といったら、「非常勤?」といって怪訝そうな顔をしていた。学生さんたちは、非常勤講師が専任の先生の倍の時間(授業時間)働いても、専任の先生の半分以下の給料しかもらえないなどということを、知りもしないだろう。