『セミオロジーとグラマトロジー』レジュメとコメント

野崎次郎

『セミオロジーとグラマトロジー』は、早稲田大学大学院文学研究科に提出した修士論文です。指導教授はいまは亡き川本茂雄先生です。1978年12月20日提出。以下にそのレジュメと現在(といっても十数年前に書いたもの)からのコメントを書いておきます。現在の時点でコメント部分はなおしたいのですが、うまくまとめきれていません。ただ、文中にheterogeneな言語共同体という言い方があり、肯定的・積極的意味合いで使っていましたが、これは今日多くの論調に現れる「多言語主義・多文化主義」と通じ合うものです。しかしながら、「多文化主義」については現在あまり信をおいていません。これについては「『敗戦後論』とポストモダニズム」をご覧ください。(お詫び、フランス語のアクサン付の文字などはアクサンなどを落として書いてあります。)

 学部卒業論文『「マチウ書試論」と〈転位〉について』において、「他者把握の困難に陥った自己は、どのような解決策をとるか」という問題を追究していたが、その過程で、言語を巡っての問題圏が浮上してきた。「言語とは不在と現前との戯れ(jeu)の媒体である」(『声と現象』)として、差延(differance)を提起するジャック・デリダと出会ったのである。修士論文『セミオロジーとグラマトロジー』においては、先の卒論に残滓をとどめていた「自己/他者」という二項対立的前提に立つ発想を、とりあえず、記号論的枠組みから批判した。

 修士論文の前半部は、チョムスキーのとりあげている例文 (Colorless green ideas sleep furiously.)をめぐっての詳細な批判検討であった。チョムスキー理論は「一つの言語」があるとする立場であり、homogene な言語共同体を前提にしているという把握に立ち、その批判を以下の視点から行なった。

(1)ヤコブソンの詩学(詩的機能はdenotationを滅却するのではなく曖昧化する)。(2)文化記号論的コミュニケーション論(これは通常理解されるようなhomogeneな言語共同体のそれではなく、heterogeneな、すなわち、多言語、多記号併用的な言語共同体のそれである)。(3)語用論(チョムスキーが言語能力と言語運用とに二分し、前者の研究をまって後者の研究が可能であるとするのに対して、この両者は相互規定的にからみあっており、チョムスキーは独在論の先入見を克服していないとする、カール=オットー・アーペルのPragmatikに依拠してなされた)。

 修士論文後半部では、前半部で採用されたとりあえずの記号論的枠組みが、脱構築される。セミオロジーにおけるシーニュが、グラマトロジーにおけるグラムにとってかわる。さらにはグラマトロジーの「ロジー」が抹消記号の下におかれる。修士論文の結論部は、したがって、「意味の世界」のみを立てる「正気」の方へも組みせず、「無意味の世界」のみを立てる「狂気」の方へも組みしない、ということであった。さらにまた、両者の統合を企図することもしない。それはアクセロスの言う「彷徨」(errance)であらねばならない。

 以上のような修論作成時における諸前提は、以下の視点から再検討されねばならないというのが、現時点での研究の到達点である。

 (1)に関して。詩学は、「無意味な文」をも「無意味の意味」とすることで、意味化へと貢献している。この「無意味の意味化」の過程−「無意味」の「意味」への回収(recuperation) ―は、「拡大された理性」の孕みもつ問題圏とともに、「《意味》/《無意味》」の止揚としての「意味」という「理性の奸計」として再把握されねばならない。このヘーゲル主義を避け得るためには、この「二項対立」を「陥入」(invagination)(デリダ)としてとらえ返さなければならない。ハイデガーの言う「瞬視」(Augenblick)である。すなわち「無意味」(存在の真理)は、束の間、見えたかもしれないということである。

 (2)に関して。ヤコブソンのコミュニケーションモデルは、@コードの「共通」性、等価性、Aメッセージの等価性、B情報の等価性(発信者がメッセージへ符号化した情報と、受信者が受けとったメッセージを復合化して得る情報とが相等しい)という三つの等価性が前提されている。これは、homogeneな言語共同体の成立可能性であるが、この「等価モデル」に対して、「相争うゲーム」としての「翻訳」のモデル ―ロトマンの「示差モデル」― が、heterogeneな言語共同体という考えのモデルとなろう。これは、後期ウィトゲンシュタイン(『哲学探究』)の「言語ゲーム」と重なる議論である。すなわち、コミュニケーション成立のための「規則」が、ア・プリオリに存在しているのではなく、その都度つねに「規則」が作られるということだろう。

 (3)に関して。この「からみあい」こそは、フッサールが『論理学研究』で問題にしたことであり、またデリダ(『声と現象』)によれば、この「からみあい」を解くことこそが現象学のモチーフそのものである。

 最後に修士論文の後半部に関して。抹消記号は、ハイデガーが『存在の問いへ』で使用したものであるが、この抹消記号のもつ問題圏は、存在忘却(存在者と存在者の存在との差異の忘却)と呼ばれるものであるが、これについてはいまなお研究中である。(終わり)