バレスとナショナリズム(電子版)
―観念小説三部作『自我礼拝』を読む―

野崎次郎

もっともよき魂というものは,つねにただひとつの郷土によってのみ生み出される。 (バレス『根こそぎにされた人々』)

目次

はじめに
第1章 『蛮族の眼の下に』における観念性――「自我」と「蛮族」
第2章 『自由人』における「転回」――ヴェネチア体験
第3章 「民衆の魂」と『ベレニスの園』――ブーランジストとしての目覚め
結論

はじめに

 ジョルジユ・ヴァロワによれば,ファシズムという言葉がまだ存在しない十九世紀末に,ファシズム思想はすでにフランスに誕生していた。イタリア・ファシズムに着想を与えたのはフランスの先例である。二つの対立する思想潮流,ナショナリズムと社会主義を融合させたファシズム思想の生成において,われわれは多くをモーリス・バレスに負っている(ジョルジユ・ヴァロワ『ファシズム』(1927年)*1),『人と金』(1928年)*2))。
 ミシェル・ヴィノック『ナショナリズム・反ユダヤ主義・ファシズム』(1990年)は,このようにヴァロワを要約した*3)後に,第一次世界大戦前の「プレファシズム」(既存の体制に反対する左翼と右翼から生まれた,明らかに異質な諸勢力を結集させた多様な運動)というタームを提案し,「プレファシズム」は純粋な思想の世界にとどまっていたわけではないとした上で,ゼーフ・ステルネル『革命的右翼』(1978年)*4)におけるフランス起源のファシズムについての研究に注目する。ステルネルは,ブーランジスム,もろもろの右翼リーグ,「黄色組合(プロレタリアの右翼)」,さらにはアクシヨン・フランセーズのナショナリスト,革命的サンディカリスムの理論家たちの思いもかけない野合などといった,さまざまな思潮や運動が相互に絡み合ってファシズムの起源となったと述べている。それを受けてヴィノックは,その結びつき(社会主義+ナショナリズム=「ファシズム」)を促進させる触媒となったのが,エドゥアール・ドリュモン『ユダヤ的フランス』(1886年)*5)の反ユダヤ主義であったという *6)。
 ヴィノックのまとめるところによれば,長らくフランスの歴史学が信じていた幻想(フランス・ファシズムはたいした影響力を持ち得ず,たんなるイタリアの模倣に終わったというフランス・ファシズム弱体説)を一掃するよう促したステルネルの著作(『モーリス・バレスとフランス・ナショナリズム』(1972年)*7) ,『革命的右翼』(1978年),『右翼でもなく左翼でもなく』(1983年)*8)など)は,ルネ・レモンの古典的著作『フランスの右翼』(1968年)*9)で提出されていた古典的図式(正統王朝派,オルレアン派,ポナパルト派という三つの右翼)の無効性を主張する。なぜなら,十九世紀末の十年前後に新しい右翼が出現したからである。この新しい右翼は,ドリュモンに鼓舞された反ユダヤ主義とブーランジェによって体現された人民投票を求める大衆運動とを特徴としている。十九世紀末には右翼は二つにすぎない。すなわち,一方に議会主義に加担する自由主義的な保守的右翼と,他方に反ブルジョワ的右翼,議会共和制の打倒を夢見る革命的右翼である。そして,この新しい右翼がその理論家とは言わないまでも詩人としてあがめ,その精神的支柱となった人物が,ブーランジェ派の代議士(1889年初当選)にして『ラ・コカルド』(1894年創刊)のジャーナリスト,若きモーリス・バレスであった*10)。
 私は今まで「ナショナリズムの起源はフランス革命,とりわけその友愛の精神にある」という仮説をもっていた(いまももっているが)。しかし,最近の研究では,ナショナリズムは19世紀末にその転換期を迎え,「フランス革命型のナショナリズム」に加えて「Volk型のナショナリズム」が並存した,と考えるのが通例のようである *11) 。だから「バレスのナショナリズム」といったとき,それはそのいずれの型のものなのかという疑問が当然でてくるだろう。あるいは二つの型を考えることにどのような意味があるのか,あるいはそもそも意味があるのかという問題も当然でてくるであろう。しかしそれに答えてゆくには,細かい歴史的な事情を追うことが必須であるのに加えて,さまざまな手続きが必要となり,大部の仕事となるであろう。
 したがって本稿では,その準備段階として,論旨を限定し,「ファシズムの父」バレスがブーランジストとして自己を形成していく過程を,観念小説三部作『自我札拝』(『蛮族の眼の下に』(1888年),『自由人』(1889年),『ベレニスの園』(1891年)*12))の検討を通して,追っていくにとどめたい。

第1章『蛮族の眼の下に』における観念性――「自我」と「蛮族」

 三部作『自我礼拝」は青春=教養小説である。とらえどころなく分裂した自我を抱えた青年が,いかにして自我を作り出してゆくのかを探究し,「民衆の魂」「民衆の無意識」との融合によって自我を確立する,より正確にいえば,自我の確立を企てるという自己形成の物語である。「これは,一個の『自我』(魂あるいは精神)の修業時代の歴史=物語(histoire)である。」(Sous l'oeil des Barbares, p. 29. 以下 B. と略す)それはきわめて古典的な意味で「教養小説」といえるだろう。
 「老獪なナショナリスト」「尊大な愛国主義者」バレスを思い描いている人は,『自我礼拝』におけるバレスのイメージのあまりの違いに驚くだろう。「『自我礼拝』三部作を虚心に読めば軽快で柔軟な若きバレスの肖像が容易に見えるはずである。*1)」青年バレスは「『蛮族の眼の下に』という『自我礼拝』三部作の第一巻をひっさげて,80年代の既成の文学界,思想界に情熱的な反抗を試みた *2)」。そして「既成文壇からほぼ一致した攻撃を受けた *3)」。
 この間の事情は,現在もっとも見過ごされている点であり,バレスへの固定したイメージを払拭するには是非とも強調しておかなければならない点であろう。
 バレスの二十六歳年下の友人アンリ・マシスが,バレスとはじめて出会った1906年前後の,二十世紀初頭の雰囲気を後年になって「人生のまにまに」(1967年)で「バレスの著作は若い知識人たち(大学人,ノルマリアン,学生)の瞑想を養った。(…)幾代にもわたる20才の若者に対してバレスは信頼と興奮をもたらした *4)」と語っている。また,バレスとの友情とその期待に応えるように書かれた『バレスの思想』(1908年)では,「大学の教授陣が一般的な理性のことしか語らないとき,われわれは自分たちの心に語りかける一人の作家を発見した *5)」と情熱をこめて語っている。そしてまた,多くの批評家たちに混じってビエール・ド・ポワデッフルは『われわれの中のバレス』(1952年)において「『蛮族』も『自由人』もまた青春の書である(…)。熱情と倣慢さ,熱心さとイロニーが混ざりあって,魅力的ではあるが,ディレンタンティスムと情熟が交互に爆発するような若干の苛立ちも見られる *6)」と語る。
 たしかにいま引用したマシスの文章は『蛮族』出版から二十年前後のちの状況を語っているものであり,ポワデッフルの文章も1952年における評価である。しかし,『自我礼拝』出版時の一方の側,つまりバレスの陽気なユーモアやイロニー,闊達さを受け入れようとする読者たちの状況は,これらの文章から推測できるであろう。さらに発表当時の世評が,逆向きに推測の手がかりを与えてくれるだろう。それは非難に終始したものだった。「たとえばゾラはバレスをイカサマ師だと言い,ルコント・ド・リールは『蛮族の眼の下に』は一種の悪ふざけにすぎないと評し,コペは手のこんだ韜晦にすぎないと批判している。 *7)」
 これだけの非難を受けるにはバレスの文壇での経歴にも原因があった。ナンシーを去ってパリに移り住んだ1883年,弱冠二十一歳にして「アナトール・フランス論」で文壇デビューを飾ったバレスは,いくつかの雑誌,新聞に寄稿するジャーナリストとして活躍し,1886年からは「ヴォルテール」紙の連載を担当するようになった。バレスの文名を高めたのはこの「ヴォルテール」紙の「想像インタビュー」という企画だった。これは「とりあげた作家・評論家を愚弄することで人気があり,特に評判をとったのは,エルンスト・ルナンをとりあげた回だったが,このときにはルナン自身がかなり怒って反撃したため,さらに書きつがれて連作となり,ついに『ルナン氏宅での一週間』という表題のもとに著書として出版された *8)」。
 ここでは何が問題だったのか。何が茶化されていたのだろうか。一言でいえば,「実証的な手法による全体的認識への到達可能性 *9)」である。それは知への情熱を呼び起こすと同時に,あらゆる事物に束縛されることのない知の立場を認めることである。それは現実からの乖離とひきかえに多様な価値を肯定することである。それがルナンやテーヌの文献学が作り出した十九世紀末のディレンタンティスムであった。フランス的な知的洗練を生んだディレッタンティスムは,しかしながら,他方で生の謳歌,本能を抑圧する。バレスがルナンに反発したのはまさにこの知的閉塞状況であった *10)。バレスはそこに風穴を開け,そこからの脱出を試みたのである。
 だが,脱出の企てはそれほど単純にはいかない。なぜなら,バレス自身「ディレッタンティスト」という評価を受けていたからであり,ディレッタンティスムの典型的知識人でもあったからだ。そこに「新世代の反抗」を標榜するバレスの困難があった。バレスはディレンタンティスムの知的伝統にすっぽりとはまっており,またそこで生まれ育ち,ナンシーからパリに足繁く通っている頃から,既成文壇に取り入りさえしていた。「イカサマ」「悪ふざけ」「韜晦」という非難もそこに由来するものであろう。
 バレスが「閉塞状況」に対する「新世代の反抗」を政治の世界で標榜するのは,1888年になってからであるが,それ以前,「1887年から1888年にかけて,バレスは人生の危機に直面する *11)」。バレスは1887年にはじめてイタリアを旅行し,翌年ふたたびイタリアに赴き,ヴェネチアに滞在する。これが「ヴェネチア体験」のもととなっている。この間,ブーランジスムは民衆の熱狂的盛り上がりを見せていた。
 1888年2月の『蛮族の眼の下に』刊行後,六週間ものあいだ一般紙からの反応を受けとめることのなかったバレスは,十歳年上のポール・ブルジェが書いた「デバ」紙4月3日号の好意ある批評をヴェネチアで読んだ。バレスはすぐにブーランジェ将軍の側に付く決心をする。その決意を語る「マニフェスト」がサンボリストの拠点誌『ラ・ルヴュ・アンデパンダント』4月号に載せた「ブーランジェ将軍と新世代 *12)」である。ステルネルは,この論文記事を引用しながら次のように書いている。「バレスはブーランジスムを新世代の反抗,「活力あるフランス,若き党」が国民にもたらすメッセージ,「未来すべて」のメッセージであると考えた。バレスによれば,ブーランジスムとは「議会の混乱と怒号」に嫌気が差した新興世代の抗議の現れである。それは「窓を開け放して,無駄口をたたく輩を窓から投げ出し,空気の入れ換えができるような強い人」ヘのアピールでもある。 *13)」
 「内気な少年よ,おまえは間違っていなかった」(B. p.31)とおのれの過去に向かって「私」が語ったのも,「私」が「自我」の発展として「強い人」になれるからである。「強い人」の側にたち,「強い人」と一体化することができるからである。「私」はヴェネチア体験を経て,「民衆の魂」と出会い,社会参加(engagement)することで「自我の確立」をめざした。その結節点に当たるのがブーランジスムという名の「民衆の熱狂」であった。
 バレスには「自我の統一性」がアプリオリには不可能であるという認識があった。そのためには「他者」「社会参加」を求めざるを得なかったのである。言い換えれば,あらかじめ均質な「人間性」「統一した自我」が与えられている,または,与えられるべきであるという「ヒューマニズム」の発想は最初からバレスにはなかった。そのようなバレスの姿勢(「反近代」「反ヒューマニズム」の姿勢と呼んでいいだろう)は,当然その文体にも影響を与えた。『蛮族の眼の下に』は断片的で非連続的な構成をとっており,その断片がサンボリスムのパロディーから告白体にまでおよんでいるが,それは「自我」の分裂に対応している *14)。
 『蛮族の眼の下に』の第一行目は,「これはリアリストによる短い個別研究である」(B. p.29)で始まる。この文を文字どおりとるべきか,はじめから読者は迷う。たしかにもっぱら「自我」を扱っているのだから「個別」研究であるに違いない。しかし「リアリスト」となるとはなはだ怪しい。だが,「私」は追い打ちをかけるように,「写字生のような私の実直さ」(B. p.31)とまでいう。しかし「私の描く人物は」「虚構によってしか感動しない」(B. p.31)。「私は彼の想像の二重性を尊重したいと思って『照応編』を書いた。」(B. p.31)どうやら,『照応編』を書く「私」はリアリストだが,「私の描く」「彼」(「相当成熟した知性に結びついた若い感受性」)(B. p.31)は二重に分裂しているということらしい。そのように読者に思わせながら,『蛮族の眼の下に』は始まってゆく。
 『照応編』は「彼」の客観的状況を説明する。たとえば,その冒頭は「彼は東部フランスの,南方的なものを全然もたない環境に生まれた。十歳になると…」(B. p.32)である。(散文的文体で事実を説明する『照応編』はルナンやテーヌらの実証科学を象徴している。)そしてそれに続く本文がそれに対応する「彼」の「幻影」を描き出す。本文は抒情性とロマンティスムの香りの高い文体で書き連ねられるが,その「幻影」はたとえば,「いつ少女は現れたのだろう。髪には朗らかな牧草の一日が花咲き,なごやかな月が少女のあでやかな魅力を隈取り,その言葉が燃えるような額にせせらぎのように響いていた。」(B. p.38)である。
 ここで大事なことは,本文の側では「幻影」とはいっていないことである。「私」は「幻影」という語を『照応編』にいわせている。また,さりげなく散文的文体で触れられた「東部フランス」対「南方」(実体的には南フランスと考えるのが穏当であろうが,イタリアまで含めて考えてもよいであろう)という対立は,じつに三部作『自我礼拝』の長い時間の流れで見ると,『自我礼拝』が,「失われたアルザス・ロレーヌ」を「ヴェネチア」に「見いだす」という「失われた起源」の探究物語であったのだということに後になって気づかせる構造のために不可欠な設定である。つまり,『蛮族の眼の下に』では,第一章から第七章にいたるまで,本文だけでは文章を支えきれず,『照応編』が必要であったということである。「幻影」(「自我」)は「幻影」だけでは支えきれない。それを妨害し,枯渇させる散文(「蛮族」)が必要なのであった。(ここで注意すべきことは,その「幻影」は「私」によって「彼」の「幻影」と呼ばれていることである。第二部『自由人』と第三部『ベレニスの園』では主人公は公然と「僕」といい,「ベレニスの園」では「フィリップ」という名前までもつようになる。)そして「東部フランス」と「南方」との関連でいえば,両者はまだ対立したままで(そもそもこれは散文的な対立にすぎない),「融合」するにはいたっていない。
 さらにもう一つ大事なことがある。それは,文学的なバレス崇拝者および反対者は,その文章の細部をほめたりけなしたりしているが,三部作『自我礼拝』ができあがった段階でブルジェに捧げる形で書き加えられた「観念小説三部作の検討」において,バレス自身が「批評家たちはもっぱら細部をほめたりけなしたりしているが,重要なのは,前後の続き具合であり,論理的全体であり,体系なのである」(Examen,p.16)と述べていることである。1994年に新しい廉価版の『バレス作品集』を編纂刊行したヴィタル・ランボーはその「序」において次のように書いている。「現代の読者もまた,ややもすれば『自我礼拝』の「論理的全体」によりは,個々バラバラの数ぺ一ジの特異さのほうに敏感になりがちである。そして「体系」を味わうのではなく,いくつかの「細部」の奇妙さ,独創性,美しさを味わおうとしがちである。たとえばそれは,『蛮族の眼の下に』においては,主人公を誘惑しようとする少女の描写,アレキサンドリア体に強く影響されたアテナの犠牲の物語,老X...氏(誰もがルナンとみなした)を皮肉にもステッキでめった打ちしたことなどである。 *15)」「体系」に目をやらなければ,三部作を見通すことはできないだろう。それにアナトール・フランスと思われる「ペシミスム」の驢馬にまたがった「システム」老人の登場の面白味も理解できない。「システム」老人は「彼」に「友情」とか「恋愛」とかを軽蔑し,「観念」に生きるよう教えるが,「彼」は少女との「愛」に目覚める。
 また,「論理的全体」とはどういうことか。それは,三部作『自我礼拝』においてすべてはあくまでも「自我」の発展・成長として,すなわちすべては「自我礼拝」として考えられねばならないということである。バレス自身,『蛮族の眼の下に』の主題に触れて「検討」において書いている。「「蛮族」とは非我のことである。すなわち「自我」を害し,「自我」に抵抗するすべてのもののことである。この定義は『自由人』と『ベレニスの園』で明瞭になるが,第一部ではまだ混沌としている。」(B. p.20)「蛮族」とは「俗人」のことではない。知識人であっても「自我」を害する場合「蛮族」である。少女との愛に破れた後,パリに上った「彼」は(物語の展開は『蛮族』の後半部ですでに第二部への橋渡しになっている。そして主人公も「彼」から「僕」へと呼称が変わりはじめる),「世間が俗物と呼ぼうが,知的エリートと呼ぼうが,僕以外のものは「蛮族」である」(B. p.70)と主張しながら「たやすく名声を得る方法」(B. p.69)を模索する。「彼は殿堂の上から眺めるように塔の上から人々の生活を眺めた。そこには「蛮族」どものうごめくのが見えた。あの中に降りてゆくのかと考えると,身震いがした。」(B. P.75)「僕はけがらわしい「蛮族」の河がたえず流してくる泥の中から僕の「自我」を掘り出すだけだ。」(B. p.77)つまり,「彼」(「僕」)は,「蛮族の眼の下に」入り,「蛮族」にまみれながらも,「自我の汚れなさ」(B. p.77)を守る戦いへと参入し始めるのである。困難な試みであるのはいうまでもないだろう。「僕」は「おお師よ,師よいずこ。わが愛し仕うべき,わがすべてをゆだねる師は」(B. p.85)と祈祷し,師の出現を待望しながら,「我が絶対の探究」(B. p.86)に向けて旅立つ。それはミシュレの「われにわが「自我」を返せ」(B. p.72)を引用しながら歓喜にむせぶ「彼」の「失われた自我」を探究する物語でもある。「見いだされた時」はどこにあるのか。物語は第二部「自由人」ヘと移行する。

第2章「自由人」における「転回」――ヴェネチア体険

『蛮族の眼の下に』においては,分裂したままの自我の様相にあわせるために,文体も錯綜し混沌としたものであった。ところが,『自由人』になると文体がすっかり変わり,「思いつく限りもっとも子どもらしい形式」「日記体」(Un homme libre,p.98. 以下 H. と略す)で書き続けられる。主人会も「彼」から「僕」へと明瞭に変化する。「自我のアプリオリな統一性の不在を提示した『蛮族の眼の下に』に続く『自由人』は,いかにして自我を作るかという問を探究する小説であり,(その結論は)政治的現実的な行動という外部への働きかけを通じて自我をつくりだしうるという,アンガジュマンによる自我の建設として示される。 *1)」
 「僕」は友人シモンとヴォージュの山奥にこもり,イグナチウス・デ・ロヨラ流の「心霊修行」を行い,数多くの黙想をして,自我分析にとりかかる。「魂以外のいっさいを忘れ,(…)賢者の実験によって心を美しく飾る」(H. p.103)ために。そして「この本の中でいっさいを告白してしまったら,なおも僕自身を愛するために,僕は魂の転回(evolution)を試みなければならなくなるだろう」(H. p.108)と深い興奮の中で決意する。「僕」はシモンと数多くの問答を重ね,思想実験を繰り返し,バンジャマン・コンスタンやサント・ブーヴの自我分析について黙想し,修行を積んでゆく。それらはとても「子どもらしい形式」とは呼びがたい抽象的なものであって,むしろ神学論文風の文体といったところではあるが,その高揚は十分読者に伝わるものであるだろう。たとえば,「僕」はロヨラの「現場の想設」(composition de lieu)をやろうとシモンにいう。「僕」はそれに非常によい結果を得ている。「感動がもっとも高い形而上の世界に属するものであっても,われわれはその深い感動を(…)ある具体的な対象に結びつけよう。抽象的なものを感覚しうる形象へと還元しよう。」(H. p.118)それが「実験」の域を越え,「僕」にとって「政治的現実的行動」の中で具体的な形を取るのは,シモンと別れてからである。
 シモンとの修行の最後の時期,「僕」は二人でロレーヌを旅行する。「僕」はロレーヌの教会の敷石を踏みならしているとき,「意識のうちに死者がよみがえる」(H. p.131)のを感じる。「僕」を生んだ郷土と祖先(これはのちに「大地と死者」 la terre et les morts として定式化される *2))を感じはじめる。そして「失われた」ロレーヌに思いを馳せ,数百年にわたるロレーヌ州の歴史を一挙に体験する。「僕」は「ロレーヌが過去の歴史においてフランスとドイツの文化に挟撃されて「自我」をもちえなかった *3)」という結論に達するのである。
 「平穏を乱す異邦人に囲まれ,蛮族の眼の下にあった彼らには,理論的に発展するいとまがなかった。(…)そして僕もまた,こういわざるを得なかった。「いったい誰が僕を救ってくれるのか」と。」(H. p.134)「ロレーヌ的意識はフランス的意識の中に包含され,フランス的意識を富ませ,そこで消滅した。」(p.138)「ロレーヌは武器によって,英雄的に種族(race)を守ろうとした。(…)僕もまた異邦人,「蛮族」から自分自身を守るために,同じエネルギー,同じ粘り強さを発揮すれば,自由人となりうるだろう。」(H. p.140)
 まだ「政治的現実的」には明確な形を取ってはいないが,ここではじめて「自由人」が明確に定義される。それは「蛮族」から自分自身を守るために戦う人である。歴史的文脈におけば,それは「異邦人」との戦いである。しかし何が「異邦人」であるかは,ここでは明らかにはされていない。ただ読みとれるのは,「ロレーヌはフランスへと消滅した」のだから,フランスを守ることが「失われた」ロレーヌを守る(回復する)ことであるという道筋が,ここで付けられたようであるということである。現実にはこの論理が,「対独復讐将軍ブーランジェ」称賛の根拠となる。
 しかし,「僕」は論理だけでブーランジェ派になったのではない。そこに踏み切るにはまだ何かが足りない。それが「ヴェネチア」だった。「僕」はシモンと別れて一人ヴェネチアに向かう。「僕」は「この都市がまわりの他の都市の文化やギリシア,ローマの伝統,イスラム,オリエントからの影響を受けながら,都市の独立を保つ意志と戦いのなかで独自の文化を作り上げたことに感動する *4)」。
 「僕」は具体的にヴェネチアの何に感動したのだろうか。しばらく,『自由人』の叙述のままにたどってみよう。シモンと別れてヴェネチアに向かう前日,「僕」はシモンにいう。「あの情熱的で分析的な物書きたちとはもうおさらばだ。僕はいろいろな人間集団の型に自分をはめ込みたい。僕は僕の「存在」(mon Etre)に相似しながらも凌駕するものとして本能が選んだものに自分を型どるのだ。そこで僕が選んだのはヴェネチアだ。」(H. p.148)ここではじめて「人間集団」と「本能」という語が前面に出てくる。そして自分に足りないもの,すなわち「美」を,「僕という人間に望ましい美」(H. p.153)を自分に与えることを当面の課題とするにいたる。そしてヴェネチアに着いた「僕」は,みずからの「異邦人性」を感じながらも(「ここでも僕は異邦人であることを感じた」(H. p.157)),予想通りその「美」に打ちのめされる。「美に彩られたこの幸福を前にして,僕はつくづくヴェネチアに敗れたことを感じた。僕の仕えていた掟は,この美が啓示する掟に触れてもろくも崩れさった。僕は敢然と自分を捨てた。」(H. p.156)
 それ以来「僕」は,ヴェネチア共和国の歴史をひもとき,その美を讃える。そして「ついに僕はヴェネチアを知った」(H. p.158)と書き,「外的な美」から「内的な美」ヘと移ってゆく。いうまでもなく,ヴェネチアは必ずしも実在のヴェネチアである必要はない。「失われたロレーヌ」が「思い出」として語られていたように,「ヴェネチア」もまた「思い出」として語られる。「思い出は本能によってすばやく変形され,どこにも実在しないヴェネチアを僕の前に出現させた。」(H. p.158)
 となれば,「僕」はいつまでもヴェネチアにいる必要はない。「僕」はパリに戻った。それは「極度に純化された幸福のなかでしおれる」(H. p.164)のを嫌い,「苦痛によって,また屈辱のなかで生気を回復すべきと考えた」(H. p.164)からでもある。このようにたえずなにかに虐待され,抑圧されていることが生きるエネルギーにつながるというのが,この主人公の一貫した行動パターンであるようだ。「僕」は生活に戻るために,パリに帰る。そしてそこで「オブジェ(対象)」という名の女性と親しくつきあう。「唯一なんとか外的生活に興味を持たせてくれた」(H. p.170)この女性を,「僕」は「自分の気晴らしにだけ専念していたので,生き物であるとは考えもしなかった」(H. P.170)。そして「彼女への愛情が奇妙にも増大した」(H. p.171)のは彼女が去ってからである。「すっかり美しく磨かれた彼女の幻が私の思い出のなかで浮かんでくる。」(H. p.171)ここでもまた,「失われたもの」を「思い出」のなかで作り出すことに腐心する主人公の姿が見られる。
 さて,ここで検討しておきたいことがある。それはバレス自身が1889年の『自由人』刊行後に自作に対してつけ加えているコメントである。それは「1904年版の序」である。この間の十五年という年月には,実にさまざまな事件が続いたので,とてもここで論じるわけにはいかない。しかし,本稿の議論に直接関係することだけに限定して確認しておこう。1892年,パナマ事件。1894年からドレフュス事件。バレスは,1894年8月から1895年3月まで旧ブーランジェ派の日刊紙『ラ・コカルド』を主宰し,左翼の社会主義者から右翼のカトリックまで集結させた。シャルル・モーラスの言葉を借りれば,「アナーキスト,社会主義者,ユダヤ人,プロテスタント,カトリック,正統王朝派が,バレスのもとで和解していた *5)」。バレスは反ドレフュス派の論陣を張る。そしてドレフュス事件の最中に三部作『国民的エネルギーの小説』(『根こそぎにされた人々』(1897年),『兵士への呼びかけ』(1900年),『彼らの顔』(1902年))を書き上げた。こうした活動を通してバレスは押すに押されぬナショナリストの領袖となっていた。
 したがって,この「1904年版の序」も「円熟したナショナリスト」の自己弁護ととれなくもないのだが,これも『自由人』という作品の発展(直線的とはいわないまでも)と考えねばならないだろう。この「序」においてバレスはきわめて明瞭な言葉遣いで「自由人」を定義している。「『根こそぎにされた人々』において,自由人はその決定論をはっきりと感じ取り,受け入れる。ニヒリズムをめざしたものは,あくまでも修行を積み,分析に分析を重ねて,自我の無を経験し,ついに社会意識を獲得する。自我分析によって発見された伝統,それこそ『自由人』の含むモラル性であり,ブールジェが要請し,『国民的エネルギーの小説』がやがて証明しようとしたモラル性である。」(H. p.93)決定論とは何か。これまた明瞭な言葉遣いで定義されている。「最初,自由であることを誇りにしていた私の思想は,屈辱に屈辱を重ねた末,みずから大地と死者に従属していることを認めるにいたった。私が生まれるずっと以前からすでに私の思想をその微妙な陰影にいたるまで,支配していた大地と死者に……。」(H. p.94)(「大地と死者」と題する講演が行われたのは,1899年3月10日である。)
 1904年のバレスの言葉遣いに従えば,「僕」は「自我の無を経験し,社会意識を獲得した」。第三部『ベレニスの園』において主人公は,フィリップという名を与えられる。彼は「熱狂する民衆の魂」に触れブーランジストの戦士となってゆく。

第3章「民衆の魂」と『ベレニスの園』――ブーランジストとしての目覚め

 『ベレニスの園』冒頭から,フィリップはブーランジェ派の国会議員候補として登場するが,バレスは本文の端書きに「フィリップは選挙戦を終わってまもなくこれを書いた。被抑圧者への深い愛情が,蛮族への憎悪,「自我礼拝」の論理的発展であることを容易に理解し得ないさまざまな読者たちのために。」と書くことを忘れない。本稿では「論理的発展の一貫性」を何度も強調してきたので,後半部は理解されやすいだろう。しかしながら,唐突とも思える「選挙戦を終わってまもなく」という日付の特定や「被抑圧者」という言葉遣いには戸惑う向きもあるだろう。それをこれから考えてゆかねばならない。
 さて,フィリップはまず冒頭でルナンとシャンショルの対話を1889年2月という日付を付けて引用している。この日付の意味はブーランジスムが最高度に高揚した時期(のすぐ後)ということであるが,ではなぜルナンなのか。ブーランジェ将軍の勝利について意見を聞かれたルナンは,「新しい方法によって歴史を書くためには,じつに多くの資料を調べなければならない。矛盾した記録が山ほどあるわけですから。あらゆる証拠を集めてこれを検討する必要があるのです」(Le jardin de Benerice,p.170. 以下 J. と略す)と語って,ブーランジェ派か反ブーランジェ派かの態度表明を保留する。「フィリップはルナンが保持している客観的な態度は自分は選択しないことをまず表明している。バレスの行動者としての価値観にとっては,「正確」で「妥当」である客観的な評価はなんの意味ももたない *1)。」バレス自身,「回想」において書いている。「ブーランジスムの時期,私は偉大なる真理に傾倒する精神というものがどのようなものでありえねばならないのかということは考えなかった。私は称賛したり排斥したりするときの激しい歓喜に身を震わせた。私は群衆の中にいるという本能的な喜びを心底から味わった *2)。」このような理性的な判断の排除は『蛮族の眼の下に』以来のものであるが,「政治を非理性的な領域に働きかける活動として定めることで,直接的に反近代的な政治思想と結びつくことになった *3)」。このように考えれば,「民衆を熱狂の渦に巻いた」ブーランジスムがどのような政治思想であったのかという客観的な設問そのものに意味がないことになりそうだが,そうでもないところが,この間の事情の複雑さを語っている。
 通例,ブーランジスムとはどのようなものとして考えられているのか。それを一言でいえば,「現行体制に対する都市大衆の不満が反議会主義に結集し,それが対独復讐ナショナリズムと結びついたところで,英雄ブーランジェ将軍の下で権威の安定化と国家の強化を求めるブーランジスムが生起した *4)」「もともとブーランジスムには明確なプログラムはなく,退廃した議会への共通した怒りだけがあった *5)」といえるだろう。それは「議会解散,憲法改正,立憲議会」をスローガンにした高揚した民衆運動である。民衆に計画などあるはずがない。バレス自身,ブーランジェについて次のように語っている。「彼の綱領などどうでもよく,人びとが信じるのは彼の人格である。(…)人びとは,彼がいかなる状況のもとでも,国民のことを考えてくれるであろうと感じ取ったがゆえに,彼に権力をあたえたいとおもっているのである *6)。」したがって,いわば明確になっていない分だけ,可能性が大きいということである。そして,その可能性を最大限に活用したのがバレスであった。第一に,1891年の『ベレニスの園』において,ブーランジェとはだれなのかについてバレス流の解釈を前面に押し出せるということ。第二に,「優柔不断な」ブーランジェ将軍の逃亡ののちでも,バレスは自分の主導権を大いに発揮できるようになるということである。
 第二の点については,詳細をここで検討することは論旨からずれてゆくので最少限の事実確認にとどめておこう。1889年1月を絶頂期として高揚を見せていたブーランジスムは,89年には「すでに衰退しはじめていた。89年1月にブーランジェがクーデターを放棄し,4月にベルギーに逃亡したとき,それは明白なものになった。89年秋の下院選挙でバレスは当選したが,しかしフランス全体ではブーランジスムは敗北し,約30人の共和派のブーランジストしか選ばれなかった *7)」。そして「91年 9月にブーランジェがブリュッセルでピストル自殺したとき,ブーランジスムは事実上幕を閉じた *8」。
 第一の点に戻ろう。『ベレニスの園』においてフィリップは,冒頭の対話を読み,忽然として活動への欲求が生じ,南仏アルルの選挙区で立候補する。そしてその地で「プチット・スクース(こゆるぎ)」というダンサー名の旧知の女性ベレニスと再会し,思い出を切々と語り合う。そしてフィリップは「血統(race)にひそむ熱意と豊かさを蔵しているしなやかな肉体」(J. p.210)を愛する。フィリップの愛したものは,一個人ベレニスではない。「僕の見るものは,もはやベレニスではなく,民衆の魂,本能的な宗教的魂,みずから意識することのない過去に満ちた魂であった。」(J. p.218)
 一方,敵方のシャルル・マルタンは「近代的凡俗」(J. p.218)と罵倒される。フィリップにとって,「ベレニス=民衆=伝統=統一=この国」という等式が成立する。そして『ベレニスの園』とは何であるかが明示される。つまりそれは「この国の魂とこの少女の魂を呼ぶための同一語」0. p.219)である。
 フィリップはブーランジェ将軍と面談するためにパリに上った時に,もはやシャルル・マルタンと同一視されるシモンと再会する。そしてシモンにいう。「民衆の魂がいかに壮麗な宝であるかを見抜かなければだめだ。民衆の魂は,過去のさまざまな美徳を堆積させ,民族(race)の伝統を守っている。」(J. p.229)そしてますます高まる興奮のなかで,ロレーヌやヴェネチアは集団に閉じこめるまだ狭いものだとした上で,「ただ大衆のみが人類の地盤に触れさせてくれる。(…)民衆は人類の実体を,いやそれにとどまらず,創造のエネルギー,世界の樹液,無意識を僕に明らかにしてくれた」(J. p.231)とまくしたてる。こうしてフィリップのなかで,「民衆の魂=僕自身の魂=人類の魂」という等式が生じ,その一体化に喜びを感じるようになるのである。
 そして当選。フィリップは「民衆の魂」に感謝するかのように,海辺に寝そべり「民衆の無意識」に身をゆだねながら,「大地との接触,強烈な大地のにおい,大地の美しい健康が,どのような体系的な主義主張にもまして僕をよみがえらしてくれる」(J. p.251)と感嘆する。だが,ベレニスは死んでしまう。「ベレニスは死すとも,「こゆるぎ」は死せず」(J. p.253)と,恋人の面影を抱きながら,フィリップは生き続けてゆく。ここでも「思い出」のなかで「民衆の魂」を思っている主人公の態度に注目して欲しい。そして,それはまた,ブーランジェ将軍の死をも予感するものであった。

結論

 三部作『自我礼拝』は,「自我の統一」に悩む青年が,観念上の精神的対話,心霊修行,女性との恋愛,ロレーヌ,ヴェネチア旅行,選挙運動などのさまざまな遍歴を経て,「自我の確立」を企てる教養小説であった。「自我」はその確立の根拠をみずからに見いだせず,「民衆の魂」との融和に見いだす。「民衆の本能」と一体化し,ブーランジストの戦士となることで,その生の喜びが満たされ,自我は十全の発展を示す,そのような一青年の成長物語として読める。バレスにとって「自我の確立」とは,「他者」たる「民衆」を「自我」ヘと取り込み,「政治」を「文学=芸術」ヘと取り込むことであった。したがって,バレスには「政治と文学」という凡庸な問は存在しない。政治と文学を分離した上で,その関連を考えるという発想は,バレスにはなかったのである。ましてや,どちらに優位性があるのかという発想はバレスにはなかった。バレスにとって,「政治イコール文学」なのであって,その危うい方程式が成立する限りにおいてのみその存在は解放されていたといえるだろう。
 バレスのその後の三部作『国民的エネルギーの小説』の第一部『根こそぎにされた人々』(1897年)は,バレスの自我主義から伝統主義への「変節」を語るものとして,「多くのバレス崇拝者を驚かした *l)」。それは「とくに進歩的な人たちから強い攻撃を受けた。反対者の随一は,なんといってもアンドレ・ジッドである *2)」。ジッドは皮肉な調子で述べている。「ユゼス(スペインに近い南仏の町)出身の父とノルマンディー(フランス北西部の州)出身の母のあいだに,パリで生まれた私は,バレス先生,いったいどこに根を下ろせばいいのでしょう。だからこそ私は旅することにしたのです。いやそれだけでなく,私はほかの人々に旅をすすめ,旅をしいました。係累というか,あるいは根を感じない喜びを教えようとつとめながら。(…)根こそぎになることは,美徳の学校でもありうるのです *3)。」
 しかしながら,バレスのナショナリズムの萌芽は,すでに『自我礼拝』のなかに現れている。そのナショナリズムはまだ「大地と死者」という語でもって明確に定式化されていないにしても,とりわけ『自由人』のなかでは「教会の敷石の下に横たわる父祖たち(p俊es)」(H. p.131)ヘの思いという言い回しで明確にされていたのである。さらに「失われたロレーヌ」への密着は「思い出」という形でなされたのであり,それは「失われた起源」を「ヴェネチア」に見いだし,「思い出の起源」を想像的に創出するというひとつの企てとしてなされていた。「ロレーヌ」は実在論的根拠ではなく,「思い出の起源」という根拠にすぎなかったのである。「思い出の起源」を想像的に創出するという企ては,『ベレニスの園』でブーランジストとして活動するときにも見られた。バレスの「ブーランジェ派代議士」として初当選したときにも,その後のあいつぐ落選時の運動にも見られた。バレスの政治活動は,まさにブーランジェなき後に,すなわち「ブーランジェ将軍の「孤児」として残されてから *4)」活発になっていったのだから。したがって,このように考えれば,すなわち「根をはるべき大地」は「思い出」として想像的に創出されるものだとすれば,「進歩的な」ジッドこそが,バレス風のナショナリストになったとしてもおかしくはなかったであろう。
 いま私たちはモーリス・バレスを初期の著作から虚心に読み直すべき時を迎えているように思う。

はじめに
1) Georges Valois, Le fascisme, Nouvelle Librairie nationale, 1927.
2) Georges Valois, L'Homme contre l'argent,Librairie Valois, 1928.
3) Michel Winock,Nationalisme, antisemitisme et fascisme en France, Editions du Seuil,1990, pp.249−250. ミシェル・ヴィノック『ナショナリズム・反ユダヤ主義・ファシズム』(川上勉・中谷猛監訳,藤原書店,1995年)pp.306−309.
4) Zeev Sternhell,La droite revolutionnaire, Les origines francaises du
fascisme 1885-1914,
Editions du Seuil, 1978.
5) Edouard Drumont, La France juive, Marpon et Flammarion, 1886. なお,ドリュモンについては,内田樹「決闘者―エドゥアール,ドリュモンと『ユダヤ的フランス』」(神戸女学院大学「論集」第41巻第3号,1995年3月)を参照。また本特集での加藤克夫の論文も参照されたい。
6) Michel Winock, op. cit., pp.250-251. 前掲邦訳書 pp.309-310.
7) Zeev Sternhell, Maurice Barres et le nationalisme francais, Presses de la Fondation Nationale Scientifique, 1972; Editions Complexe, 1985.
8) Zeev Sternhell, Ni droite, ni gauche, L'Ideologie fasciste en France, Editions du Seuil, 1983; Editions Complexe. 1987. ステルネルのフランス・ファシズム論については,加藤克夫「フランス・ファシズム論の「革新」」(『立命館文学』第534号,1994年3月)を参照。
9) Rene Remond, Les droites en France, Aubier Montaigne. derniere ed. 1982.
10) Michel Winock,op.cit., pp.272−273. 前掲邦訳書 pp.337−338. また,バレスとブーランジスムおよびナショナリズムについては,中谷猛「モーリス・バレスと政治の世界―その政治的思考の特徴について―」(『立命館言語文化研究』第3巻第4号,1992年2月),深沢民司「国民社会主義イデオロギーの誕生―モーリス・バレスのナショナリズムについての考察―」(専修大学『法学論集』第52号,1995年9月)を参照。また本特集での中谷猛の論文も参照されたい。「円熟した老獪なナショナリスト」バレスを弾劾するダダイストたちの「バレス裁判」について,および「ナショナリスト」バレスと「初期バレス」との対比をバレスとマシスの親交という面から論じた川上勉「バレスとマシス―フランス右翼イデオロギーの系譜―」(『立命館言語文化研究』第3巻第4号,1992年2月)も参照。
11) cf. Raoul Giradet, Le nationalisme francais, Editions du Seuil, 1983, pp.7-34.
12) Maurice Barres, LE CULTE DU MOI. Sous l'oeil des Barbares (1888), Un homme libre (1889), Le Jardin de Benerice (1891). なお,ここ数年間のフランスでのバレス再評価の動きにあわせて、『バレス作品集』の廉価版が二巻本で刊行された。Maurice Barr峻. ROMANS ET VOYAGES (I) : LE CULTE DU MOI. L'ENNEMI DES LOIS. DU SANG, DE LA VOLUPTE ET DE LA MORT. LE ROMAN DE L'ENERGIE NATIONALE. (II) : AMORI ET DOLORI SACRUM. LES AMITIES FRANAISES. LES BASTIONS DE L'EST. LE VOYAGE DE SPARTE. GRECO OU LE SECRET DE TOLEDE. LA COLLINE INSPIREE. UN JARDIN SUR L'ORONTE. LE MYSTERE EN PLEINE LUMIERE. collection "Bouquins", Robert Laffont, 1994. 本稿ではこの廉価版全集から引用する。参照した邦訳は,『自我礼拝』伊吹武彦訳,新集世界の文学25, 中央公論社,1970年。『根こぎにされた人々』吉江喬松訳,第二期世界文学全集(1),新潮社,1932年。また,『回想』『日記』からの引用も,新装廉価版で刊行されたMaurice Barres, MES CAHIERS 1896-1923, PLON, 1994から行う。バレス関連の書誌,研究書,研究論文などは,福田和也『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』,国書刊行会,1989年を参照されたい。また,本稿は同書から大きな刺激を受けて書かれた。さらにバレスの作品(邦訳)リストに追加すべきものとしては以下の通り。「ボードレールの狂気」原島恒夫訳,フランス世紀末叢書XIV『評論・随想集』所収,国書刊行会,1990年。『国家主義とドレフュス事件』稲葉三千男訳,創風社,1994年。『グレコ――トレドの秘密」吉川一義訳,筑摩書房,1996年。また,上記のMaurice Barres,ROMANS ET VOYAGES(II)にはほぼ完壁な書誌が,巻末に10ページにわたって付いている。

第1章
1) 福田和也『奇妙な廃墟』p.70.
2) 川上勉「バレスとマシス」p.60.
3) 福田和也,前掲書,p.70.
4) Henri Massis, Au long d'une vie, Plon, 1962. p.42. 川上勉,前掲論文,P.63に引用。
5) Henri Massis, La pensee de Mauice Barres, Mercure de France, 1908, pp.19. 川上勉,前掲論文,pp.66−67に引用。
6)Pierre de Boisdeffre, Barres parmi nous, Amiot Dumont, 1952, pp.29−30. 川上勉,前掲論文,p.67に引用。
7)福田和也,前掲書,p.70.
8)同上,p.70.
9)同上, p.71.
10)同上,p.71.
11)深沢民司「国民社会主義イデオロギーの誕生」p.119.
12)Maurice Barres,"M. le general Boulanger et la nouvelle generation", La revue independante, t. viii, avril 1888. Cf. aussi "La jeunesse boulangiste", Le Figaro, 19 mai1888.
13)Zeev Sternhell, Ni droite ni gauche, p.291. また,深沢民司,前掲論文,pp.116−117参照。
14)福田和也,前掲書,p.72.
15)Vital Rambaud, "Introduction" p.3. (in Maurice Barres,ROMANS ET VOYAGES(I), collection "Bouquins", Robert Laffont, 1994.)

第2章
1)福田和也,前掲書,pp.74−75.
2)cf. Raoul Girardet, op.cit. pp.183-195.
3)福田和也,前掲書,p.74.
4)同上,p.74.
5)Charles Maurras, Maitres et temoins de ma vie d'esprit, Flammarion,1954,p.26. cite in Maurice Barres,ROMANS ET VOYAGES(I), NOTES p.1236.

第3章
1)福田和也,前掲書,p.76.
2)Maurice Barres, Mes Memoires, in MES CAHIERS 1896-1923, PLON, 1994, p.19.
3)福田和也,前掲書,p.76.
4)深沢民司,前掲論文,p.120.
5)同上,p.122.
6)cite par Michel Winock, op.cit. pp.307. 前掲邦訳書 P.382.
7)深沢民司,前掲論文,p.121.
8)同上,p.125.

結論
1)伊吹武彦「バレスの生涯と作品」p.380. (『自我礼拝』伊吹武彦訳,新集世界の文学25,中央公論社,1970年に所収)
2)同上,p.381.
3)同上,p.381に引用。
4)福田和也,前掲書,p.85.

(『立命館言語文化研究』第8巻第2号pp.23-40. 立命館大学国際言語文化研究所、1996年12月発行)