関西本線(名古屋・JR難波)


最新乗車 2001年冬


関西本線は、名古屋から旧東海道に沿って、四日市亀山を通り、伊賀上野から木津川沿いに奈良盆地へと抜け、大阪ミナミのJR難波を目指す路線である。明治の中頃に、官設の東海道線に対抗する私鉄として生まれ、スピードやサービスで激しく争った過去を持っている。国有化された後も東海道線のバイパスとして機能し、湊町(現JR難波)、奈良間が電化される前までは、東京湊町を結ぶ夜行急行「大和」や名古屋湊町の間に初のディーゼル優等列車の準急(後に急行)「かすが」、それに、多数の貨物列車が運転されていたが、現在は、JR東海に所属し、名古屋への通勤路線や、紀伊半島への連絡路線として機能する名古屋亀山間、JR西日本に所属し、非電化のままで新型のキハ120が投入されたものの、乗客も少ない典型的なローカル線の亀山加茂間、大阪への通勤路線であり、近鉄と張り合っている加茂JR難波間の大きく3つに分かれ、この3区間を直通する列車は名 古屋奈良間の急行「かすが」のみである。

JR東海区間(名古屋・亀山)

名古屋の新幹線ホームの脇から東京方に向けて出発する。ここから伊勢鉄道が分岐する河原田まではキハ85系による特急「南紀」やキハ75系による快速「みえ」も疾駆する幹線なのだが、普通列車に限ってみれば、昼間は1時間に1本ずつ亀山行きと四日市行きが出るだけで、ローカル線と言えるかもしれない。基本的に313系3000番台の2連で運行されており、朝夕のラッシュ時には213系が複数連結されたり、211系5000番台、213系5000番台(最近まで165系や103系も)、キハ75系なども運用される。

右にカーブしながら新幹線をくぐると左にかつての笹島貨物駅の跡、右に地下から出てきた近鉄名古屋線に挟まれて走る。近鉄特急が多数並んでいる米野検車区も見える。この辺りがかつての関西鉄道のターミナル駅であった愛知駅の跡で、やがて名古屋車両所が両側に広がる。右側は主に気動車や客車が並んでおり、特に特急「ひだ」「南紀」に使われるキハ85系がよく目立つ。続いて左は名古屋工場で、検査中や廃車解体中の車輌を見ることが出来る。

ようやく周りから線路がなくなって近鉄と並行するだけとなり、高架化工事の進む中、八田を通過する。やがて、近鉄の下をくぐって北側に出る。この辺りから住宅地と水田が混在する地帯を走る。近鉄とは少々離れるが、高い建物がなく、近鉄の架線柱が目立つものであることから、左側に、なんとなく並行しているのが分かる。地上駅としては日本で一番低いところにある弥富で名鉄尾西線を分岐する。かつて、関西鉄道が尾西線の前身である尾西鉄道の設立に関わり、この駅で相互乗り入れも行われていた。

弥富を出ると、近鉄と国道1号線が並行し、固まって木曽川を渡る。この辺り、複々線のようになっている。これは、近鉄の前身の関西急行電鉄が木曽川、長良川、揖斐川の3つを渡るために、関西線の使っていた鉄橋が架け替えられるにあたって、払い下げを受けたためである。現在はどちらも新しい鉄橋になっているが、駅もあるためにそうそう大きく線路の位置を動かすこともできず、複々線状のままである。最も近鉄の本数の多さは相当なもので、こちらは寂しい限りである。長良川、揖斐川をまとめて渡り、左に大きくカーブすると、右から近鉄養老線が近付いてきて桑名に到着。構内は広く、かつ駅前も栄えている。その構内の外れにある西桑名駅からは、今となっては珍しくなった、762ミリゲージの軽便鉄道が出ている。近鉄北勢線である。

桑名を出て、近鉄北勢線をくぐり、近鉄名古屋線と並行しながら川を渡る。やがて近鉄が関西線をまたいで左に遠ざかる。水田の中、彼方に御在所山を望むことができる。その御在所山の方から三岐鉄道が近付き、これをくぐる。と、三岐鉄道は2つの線路に分かれる。近鉄と並行して再び関西線をまたいで近鉄富田に入る旅客線と、築堤から下りて関西線の富田に入る貨物線である。関西線にはセメントを、近鉄には乗客をと相手をうまく選んでいるのはおもしろい。かつては、旅客列車も関西線の富田に入っており、ディーゼルカーで四日市まで直通運転も行われていた。

富田を出ると、漁村の雰囲気の残る街中を走り、海が近いことを思わせるが、肝心の海は埋め立てられ、工場になっている。いよいよここから四日市コンビナートに入っていく。左に並行する国道23号線には巨大なトレーラーが走り、線路の両側には高い煙突や工場が立ち並ぶ。かつて四日市ぜんそくが公害病に認定されたが、今でも空気はよいとはいえないようである。工場の中へ入っていく側線も見うけられる。まだまだ使用されている線路も多そうである。貨物駅の一角に間借りするような四日市に到着。かつては、近鉄の各線も集まる駅であったのが、近鉄が線路変更して西に移ってからは繁華街もそちらに移ってしまい、現在のようになったようである。乗降客も多いとはいえない。

四日市を出てもまだまだ工業地帯は続く。構内の外れで塩浜に向かう貨物線が分岐する。現在では唯一となった現役の可動橋もこの線路の先にある。近鉄をくぐって南四日市を過ぎ、伊勢鉄道が左に分かれる河原田を過ぎると工業地帯から遠ざかり、今までが何であったかのようなのどかな田園地帯に入る。特急「南紀」、快速「みえ」は伊勢鉄道に入ってしまうので、この区間は普通列車ばかりである。左に鈴鹿川を見ながら、国道1号線と絡み合うように進む。道路沿いには新興住宅地が広がっている。道路はかなり立派なのを裏腹に、鉄道は旧態依然であり、乗客も少ない。やがて左側から鈴鹿川を渡って紀勢本線が合流し、亀山である。JR東海の区間はここまでで、電化区間もここで終わる。この駅の駅弁にお茶漬けがあるのが特徴的なのだが、予約が必要とのことで、私は未だ食べたことがない。

JR西日本区間(亀山・JR難波)

会社もJR西日本となり、キハ120で亀山を出発する。駅はJR東海のものなのだが、駅を出てすぐ左に広がる留置線はJR西日本のもので、亀山鉄道部が置かれ、キハ120はここに所属している。かつての亀山機関区であり構内がかなり広かったのだが、国鉄再建のあおりで縮小されてしまっている。線路撤去前は、JRに引き継がれなかった車輌の留置場所になったことがあり、機関車や気動車、客車が大量に捨てられていた。一部のキハ35系気動車は関東鉄道に引き取られたものの、他は解体されたようである。ともあれ、現在は草原が広がるのみである。亀山インターチェンジの横で名阪国道をくぐる。高速道路規格でありながら一般国道25号線であるこの道路のおかげで、関西本線の影はすっかり薄くなってしまった。しばらくすると、駅から少し歩いたところには、旧東海道の宿場街の街並みが保存されている地区がある。そんなに観光地化しておらず、落ち着いた街並みである。

鈴鹿川に沿って加太越えにかかる。横には国道25号線の旧道も併走している。人家は消え、すっかり渓谷の雰囲気である。勾配はかなりきついが、新型のキハ120は苦もなく登って行く。かつて、国鉄型のキハ35系で乗ったときは、それは止まるような速度で喘ぎ喘ぎ登っていたのと隔世の感がある。そのキハ35も、デビュー当時は蒸機牽引の列車と比べてやはり隔世の感を持って見られてたんだろうけれども。古びたトンネルを抜け、ちょっとした池のそばを走って加太を過ぎる。まだまだ登りが続き、途中にはスイッチバック式の中在家信号場もある。ここと、加太と信号場の間にある雄大な築堤は、SLブームの頃は撮影地として賑わったところである。キハ120は強力で、スイッチバックの必要がないように思えるのだが、ダイヤの都合上、ここで上下列車が擦れ違うことになっている。先の亀山での接続や、この先の柘植での接続を考えるとここで交換せねばならないようだ。やがて長い加太トンネルを抜け、下り坂となって柘植に着く。草津線が分岐している。

柘植を出発すると、直線の草津線に対し、関西線はカーブを描いて離れる。草津線のほうが先に建設されたためである。やがて伊賀盆地に出て、水田の中を一直線に進むようになる。左に並行する名阪国道のそばには工場なども見られたりする。新堂佐那具と過ぎ、少し集落が広がると伊賀上野である。上野の市街は柘植川を挟んだ反対側にあり、遠くに上野城を望むことができる。その上野の市街を通って伊賀神戸まで近鉄伊賀線が結んでいる。伊賀上野を出、左に近鉄が分かれると再び登り勾配にかかる。やがてのどかな山間の田園地帯の中、島ヶ原を過ぎ月ヶ瀬口に至る。

この月ヶ瀬口は月ヶ瀬梅林の最寄駅なのだが、かなり離れている。バスで10分とのこと。訳あって、私はこの駅に何度か来たことがあるのだが、気になることが1つだけある。それは、この駅構内がPC枕木になっていることなのである。駅間なら数ヶ所、それも災害復旧区間にはPC枕木化されたところがあると確認はしているのだが。もしかしたら、新しいPC枕木の試験にでも使われたのだろうか。大河原から木津川のほとりにでるが、駅を出ると、並行して走る国道163号線とともにしばらく離れ、やがて関西線だけ関西鉄道時代からの鉄橋を渡って左岸に出る。右に流れる木津川の河原には、気候が良いときなら魚釣りやキャンプ、バーベキューをに興じている人たちを見ることができ、たまに手を振ってくれたりする。笠置山の麓、笠置に到着する。笠置山が、手軽な史跡巡りハイキングコースだけあって、駅前は土産物屋などで多少賑わっている。加茂伊賀上野間が30分ヘッド化(乗客減により2001年春のダイヤ改正で結局昼間の区間運転は廃止された、さらに土曜日には列車が走らなくなった)される前は、奈良からの臨時列車も走っていた。国鉄末期ま では湊町発着の臨時気動車快速まで走っていた。笠置を出、木津川の左岸を走る。落石覆いなどもあって、災害の多いことを物語っている。谷間を抜け、木津川から離れて平地が広がると加茂である。

最近まで関西鉄道以来(明治30年建設)の風格ある駅舎の残る駅であったが、電化区間がここまで伸びてから乗客も増え、駅設備が手狭になったり再開発の絡みもあって、橋上駅舎に改築された。同時に配線変更も行われ、大阪環状線と桜島線が接続する西九条のような形態になっている。階段を上り下りせずとも電車と気動車を乗り継げるようになり、喜ばしいことである。その反面、加茂以東の電化がまた遠ざかったような気もする。初めて来たときは、まだ貨物用の側線が残っていた(電化もされていなかった)だけに、変貌振りは目を見張るものがある。加茂をでると、水田の中を走る。鹿背山が近づくと、大仏回りの旧線の路盤が分かれ、トンネルをくぐる。と再び水田の中を走り、付け替え前の旧トンネルから出てきた路盤が合流する。かつて、片町線に直通していた線路跡(現在は道路になっている)が分かれ、左に大きくカーブすると奈良線と片町線が寄り添ってきて木津に到着する。

広い構内に生きているのは2面4線のホーム部と、少しの保線用側線だけ。特にかつての側線跡は荒れるに任しているような雰囲気である。駅前の病院だけが異様にそびえたっているように感じるが、道路の整備も進んできたことだし、この辺りもいずれ学研都市の玄関として整備されるのだろうか。その時に、駅の、味のある築堤下の狭い通路や階段も改築されるのだろうか。雰囲気はいいものの、大量の乗客をさばくには無理があるように感じる。木津を出ると、前は水田が広がっていたような気がするのだが、学研都市関連か、高規格な道路が出来ていたり、建設中であったりと、すっかり景色が変わっている。とはいえ、まだまだ整備途上で空き地が多い。左側の山の中に忽然と奈良電車区が現れ、谷間に入ると平城山である。谷間とはいえ、両側とも開発されていて、山深いイメージはない。地形の都合か、上下線で高さが違うのがこの駅の特徴である。奈良電車区は、それと分かるものの、かなり上にあり、見上げる形となるので架線柱ぐらいしか見えない。やがて高度を上げて電車区からの線路と合流して、佐保信号場を過ぎる。この時だけ、ちらっと奈良電車区の構内が見 える。

目の前には奈良盆地が広がり、左には若草山も見える(最近建て込んできたので見えなくなったかも。そういえば最近見てない)。木津からずっと並行してきた国道24号線が離れ、かつて近鉄奈良線が通っていた位置に架かる(流用はしていない)道路橋をくぐると奈良駅に到着する。かつては運転所や機関区もあって大きかった駅だが、今は再開発でその跡に公共施設やマンションが建っている。さらに駅自体も高架化される模様で、風格ある現在の駅舎が工事に支障をきたすため、解体せねばならず、どこで保存するか、それとも捨ててしまうか、もめているようである。個人的には、東急の田園調布のように、一旦解体した後、どこかで保管しておき、高架化工事が完成してから改めて現在の位置に建て直すのがいいのではないかと思うのだが。この駅舎、奈良の観光名所にもなっていることであるし、残してほしいものである。

奈良を出るとすぐ桜井線が左に分かれ、引き上げ線が途切れると、水田の中を走る。昔と比べると住宅や工場も増えたが、まだまだ田舎の雰囲気である。郡山が近付くと、水田の中に、年中水を張ったままの区画が現れる。そう、金魚の養殖池である。線路沿いの養殖池だと、車窓からも、池の中に赤や黒の金魚を見ることができることもある。さすがに金魚の生産量が日本屈指の大和郡山市だけある。金魚すくいの全国大会なども行われているようだ。最近橋上駅舎に改築された郡山を過ぎる。城下町らしさを残す駅前の商店街を歩くと、郡山城のほとりの近鉄郡山駅に至る。郡山を出て近鉄橿原線をアンダーパスする頃には、養殖池は姿を消し、家並も途切れ、再び水田が広がる。やがて、集落が広がると大和小泉。この辺りから右側に斑鳩の里が広がり、寺もちらちら見えるようになる。

国道25号線をくぐると法隆寺。駅名の由来となった法隆寺へは、小型の路線バスが出ており、またこの辺りの寺社巡りハイキングの起点ともなっている。ここから法隆寺、中宮寺、法起寺と訪ねて大和小泉まで歩くのが、典型的なコースである。少し脱線するが、関西線は「寺」の付く駅名が多く、快速の停車駅は、天王寺から久宝寺王寺法隆寺と寺の付く駅が4つも連続する。遠くに西大和ニュータウンを見ながら再び水田の中を走り、大和川を渡ると列車は減速し、左の台地から出てきた近鉄田原本線が乗り越し、同じく左から和歌山線が合流し、右に保存されているD51を見ながら王寺に到着する。

王寺は、鉄道だけでなく、西大和ニュータウンなどからのバスが集まる一大ターミナルである。電留線もあり、折返し列車も多い。この電留線は、1982年の台風10号で水没したことで有名である。101系60輌が一挙に廃車になった(戦争を除くと、一つの自然災害や事故での廃車数としては一番多い)ため、津田沼、中野、武蔵小金井、中原の各電車区から廃車予定の車輌が寄せ集められ、それこそ色とりどりの101系が1年ほど走っていた。ラインカラーはウグイスだったのが、カナリアとオレンジが混じり、激しいものでは6輌で3色というのもあったのである。このおかげで関西線に103系が転入(明石区に201系を新製投入した玉突き)し、冷房車が入るようになったのは喜ばしかったのだが、それから15年、趣味的には面白いんだけれども、未だに103系が居座っているのはちょっと…。101系から見ても、デザインはほとんど変わらないから、黄緑の電車は2001年10月で28年目。

左に急カーブを切りながら王寺を出る。右には近鉄生駒線が分かれていく。カーブが終わって直線に入ると大和川を渡り、右岸を走る。右には、信貴山の上のほうまで宅地が密集しているのを見ることができる。信貴山へのバスも出ている三郷を過ぎると左カーブして大和川を渡り、左岸に移る。ここからは谷間を、所々トンネルで抜けながら走って行く。かつてはこの区間も大和川の右岸を走っていたのだが、この辺りは「亀の瀬」と呼ばれる有名な地すべり地帯で、旧線が何度も地すべりで破壊されたため、1930年代に現在の左岸に移されたのである。並行している国道25号線もやたらとアップダウンが多く、これも地すべりの影響という。また、地すべり対策の工事が国土交通省の直轄で行われており、山中には不釣合いな巨大なクレーンをはじめ様々な施設が建ち並んでいる。3本目のトンネルを抜けると再び大和川を渡って旧線敷と合流し、川を挟んで反対側に大きな採石場を見ながら河内堅上に着く。かつては対岸の採石場への貨物側線も伸びていて、トラが数輌並んでいた。

河内堅上の駅は大和川に面した渓谷の静かな駅で、ホームには桜並木がある。春ともなれば、満開の桜のもと、花びらを散らしながら快速電車が駆け抜けていく。列車は右に棚田を見て右に大きくカーブし、切り通しを抜け、大和川を渡る。ここからトンネルを抜けると再び大和川を渡る。川が屈曲しているのである。王寺の手前から数えて計6回、関西線は大和川を渡っている。宗谷本線が天塩川と120kmも並行しながら一度も渡らないのと比べると、えらい違いである。どっちが偉いという訳でもないが。

しばらくすると高井田を過ぎる。駅前には古墳公園もあり、その上には住宅地が広がっている。左側には大和川を渡る近鉄大阪線の姿が見え、やがてその下をくぐる。近鉄名阪特急から見ると、四日市以来の交差である。天湯川田神社のある小山の脇を抜けると、ブドウ畑を挟んで右側に近鉄が並行する。また、左には大和川を渡る近鉄道明寺線の姿も柏原市役所越しに見える。やがて近鉄大阪線との間に住宅地が広がり、近鉄安堂のそばを過ぎると見えなくなる。ほぼ同じくして、大和川とも別れる。ここから関西線は八尾まで大和川の旧河道の自然堤防の上を走る。右に見える山には「柏原ブドウ」と「727」の大きな看板が立っている。柏原市が対外的に誇れるものはこの2つぐらいである。他にはと言えば、河内音頭の発祥地で八尾市と張り合っていることぐらい?

左から近鉄道明寺線が寄ってきて、柏原に到着する。この駅は普通列車の待避駅なのだが、久宝寺で緩急結合するダイヤに変わってからめっきりここで通過待ちをする電車は減っている。また、駅前には秋のシーズンだけ、ブドウ狩りの入園券の販売窓口ができる。駅からブドウ園まではそこそこ距離があり、何の変哲もない住宅街を歩くことになる。その道中に私の実家もあるのだが、書いてほんとに来られても困る(家の商売に関わることならプラスになるかもしれないが)ので、場所はひみつである。

柏原を出ると、国道25号線と並行しながら住宅地の間を抜けて行く。たまに工場もあったりするが、ほとんどが住宅地で、それが延々と連なっている。大阪外環状線(国道170号線)をくぐると志紀。ここから八尾までは駅間距離が長く、線形もいいので工場や住宅、そして畑の中を全速力で駆けて行く。家が建て込んでくると八尾である。かつて、跨線橋の下に前日のプロ野球の結果を掲示してあったのだが、いつのまにかやめてしまってそのままである。

ここから、ほんの数年前まで竜華の操車場を挟んで上下線が大きく離れ、久宝寺の駅は上下のホームが別々のところにあった。操車場が現役だったころは、客貨車区や機関区も併設していて、それはバラエティー豊かな車輌群を見ることが出来た。機関車ならDD13、DD51、DE10、EF15、EF58、ED60、ED61、EF60、客車は「はやたま」に使われていた10系寝台車や、その他の旧客、12系、よくわからん荷物車なども留まっていた。私が鉄道に目覚めた原点とも言えるこの操車場も、1986年「SL大和路号」運転の際にC56-160の転向に転車台が使われたのを最後にその役割を終え、ただの草原になっていた。ところが最近、再開発事業が始まり、離れていたホームが上り線側(北側)に移設されて2面4線の立派な駅に生まれ変わり、快速まで停車するようになった。かつての操車場の跡地には、八尾市民病院や、マンションなどが建つという。それに久宝寺は間もなく、新大阪までの外環状線の分岐駅としてさらに大きな(?)発展を遂げるのである。

久宝寺を出ると近畿自動車道と大阪中央環状線をくぐり、左に阪和線杉本町までの阪和貨物線、右に外環状線となる城東貨物線が分岐する。とすぐに加美。ここを出ると、教習所のそばで城東貨物線の、百済貨物駅への取り付け線が合流する。ただ、合流点から平野までは距離がそんなにないため、城東貨物線に入る貨物列車に限り、上り線を上下列車が用いている。このため、下り列車に乗っていると時折、複線区間なのに併走体験ができるのである。反対方向への列車が走る線路に、同じ向きに列車が走っているので、初めての人は結構驚くようである。

平野を過ぎると、右に百済貨物駅が広がり、関西線は高架に駆け上がる。並行する国道25号線も4車線になっている。百済貨物駅が尽き、今里筋を越えると東部市場前を通過する。徐々にビルも増え始め、都会になってくる。左にかなり高い高架線で近鉄南大阪線が併走し、それをくぐって阪和線が近付いてくると、関西線も高架を下りて阪和線をくぐる。右から大阪環状線、左から阪和線との連絡線に挟まれ、天王寺に到着する。地形の関係で、関西線と環状線のホームは半地下となっている。特に関西線の上には天王寺mioのビルが覆い被さっているので地下駅にしか感じない。東口前の道路の下には地下鉄御堂筋線も走り、その道を挟んで反対側には近鉄阿部野橋の駅が近鉄百貨店を伴って堂々と建っている。天王寺ステーションビルの方から出た駅前広場は、実は谷町筋がJRの線路を跨ぐ橋で、この橋の名前が阿部野橋と言うのだそうである。この下には地下鉄谷町線が走り、南側からは路面電車の阪堺電軌上町線が出ている。

天王寺を出ると、右に天王寺公園、動物園を見ながら走る。尤も、天王寺公園の部分は、半地下なので見えない。また、左に南海天王寺支線の廃線跡が別れて行く。かつてはこの線路を介して南海の堺から大阪駅まで直通列車も走っていたという。しかし、路線短縮した上で、地下鉄堺筋線の天下茶屋延伸をしおに廃止されてしまった。動物園が尽き、右に温泉施設のスパワールドや、遊園地のフェスティバルゲートが見えてくると阪堺電軌阪堺線を跨いで新今宮に着く。この手前で環状外回り線が関西線を乗り越しており、新今宮で方向別ホームにより乗り換えやすくなっている。南海本線をくぐり、環状線との渡り線を過ぎると、環状内回り線の下をくぐって今宮を過ぎる。この駅は、かつては関西線単独の駅であったのだが、高架化と同時に、環状線にもホームが新設されて1997年3月から乗換駅となった。この駅で大正時代から大阪環状線開通に伴い改築されるまで使われていた跨線橋の柱がコンコースに保存されている。

ここから地下線に入り、終点のJR難波に到着する。将来のなにわ筋線の建設を見越してか、トンネルは先に続いており、現在は留置線として使われているようである。ホームは2面4線、かつての地上時代の湊町は、貨物ヤードも併設していて、大きな駅であった。そのヤード跡の直下に現在の駅が造られている。


中部・東海のJR線目次へ戻る
近畿のJR線目次へ戻る
ホームへ戻る