東海道本線(東京・神戸、大垣・美濃赤坂)


最新乗車 2001年春


東海道本線は、関東、中部、近畿を結ぶ日本の大幹線であるが、長距離旅客列車に関しては夜行を除いて東海道新幹線に役目を譲り、都市圏輸送を除くと現在ではどちらかといえば貨物列車が主役の大幹線となっている。

JR東日本区間(東京・熱海)

さて、新幹線が出来て以来、徐々に隅に追いやられているような東京駅東海道線ホームから出発する。最近、丸ノ内口の駅舎が戦災を受ける前の姿に復元されることになったようである。現在は2階建てで八角形のドームを持っているが、戦災を受ける前は3階建てで円形のドームを持っていた。右に山手線、京浜東北線、左に東海道新幹線と並行しながらビルの谷間をゆっくりと走り、新橋を過ぎる。駅前には戦時型のC11が保存されていて、有名な待ち合わせ場所となっている。左手の汐留貨物駅の跡地の上空にはゆりかもめが走っている。跡地の再開発を始める前に、日本最初の鉄道が走り始めた旧新橋駅の発掘調査が丹念に行われたが、結局ビルの建設により発掘されたホーム跡などは取り壊されてしまったようである。歩道に使うとか、そういう活用策はなかったのだろうか。浜松町で羽田空港へ向かう東京モノレールが線路を跨いで行く。やがて、上下線が大きく分かれてその間に田町電車区が広がる。寝台特急の牽引機や客車、特急電車から通勤電車、波動用車輌まで様々な車輌が並んでいる。その車輌基地が収束しないうちに右手の地下から京浜急行本線、左手の地下から横 須賀線(正式には東海道本線の増設線である)が地上に現れ、新幹線ホームの建設工事が行われている品川に到着する。在来線に関しては駅舎の改築も終わり、広々とした橋上駅舎となっている。

品川を出ると京急が東海道線を跨いで左側に分かれ、横須賀線(品鶴線)、新幹線、山手線が右手に別れる。このため、東海道本線と京浜東北線の複々線となる。やがて右手に山手線の基地である山手電車区や首都圏の通勤電車の面倒を見る大井工場が広がり、それは大井町を通過するまで続く。列車はようやくスピードを上げ、細かい駅は京浜東北線にまかせて快走する。六郷川を京急とも併走しながら渡ると川崎。ここで南武線が分岐する。南武線の浜川崎支線を接続駅もなしにくぐり、左から東京貨物ターミナルからの貨物線が合流し、右手から横須賀線(品鶴線)、武蔵野線が合流すると鶴見川を渡って鶴見を通過する。駅の外れで鶴見線がオーバークロスして左側へ別れ、横浜市内をバイパスする通称羽沢貨物線が地下へと消え、横浜港高島へと向かう貨物線が左に別れる。左に京急鶴見を出た京急がピッタリ併走しだすと鶴見事故の現場を過ぎ、今度は右側の京浜東北線が東海道線を乗り越して左側に移る。山側から横須賀線、東海道線、京浜東北線、京急の順となり、これが横浜ま で続く。右から横浜線が乗り越し、京急新町検車区、横浜線電車の実質的なネグラである東神奈川電車区が過ぎると東神奈川の脇を通過する。京急が一旦離れ、再び接近すると、右側に東急東横線が近付いて横浜に到着する。

横浜は、相模鉄道を除くと集まる路線が全て通過型で、かつホーム数が少ないことが特徴かもしれない。山側から東横線が2面2線、横須賀線が1面2線、東海道線が2面4線、京浜東北線、京急がそれぞれ1面2線となっている。京急は現在工事中で、完成すれば2面2線となる予定である。さらに、東横線がみなとみらい21線に乗り入れるため地下化工事を行っており、このため横浜駅構内は仮通路や立ち入り禁止箇所だらけである。横浜を出ると京急、根岸線、東横線が左に別れ、相鉄本線、横須賀線、東海道線が併走するようになる。やがて相鉄は西横浜を過ぎると右に別れる。沿線にようやく緑が増え始め、横須賀線が下に分かれてトンネルに消えると、しばらくして東海道線も清水谷戸トンネルをくぐる。トンネルを出て、横須賀線の東戸塚で再び合流する。このとき、横須賀線と同時に鶴見で別れ、防音壁とトンネルで横浜市街地をバイパスしてきた羽沢貨物線も合流する。横須賀線と方向別になって戸塚に到着。ここで相互の乗り換えができるようになっていて、便利である。戸塚では横浜市営地下鉄 と接続しているが、横浜と同じく地下深くを走っているのでその姿を見ることはできない。

ドリーム交通のモノレールの廃線跡が近付き、根岸線が左から合流すると、観音様に見守られるように大船に到着する。大船を出ると、湘南モノレールがビルの谷間へ消えて行き、やがて横須賀線も左へ別れて行く。と左に広がるのは大船電車区。横須賀線の車輌や、横浜、大船発着のNEXが並んでいる。ここから小田原までは貨物線との複々線である。その貨物線には朝夕に「湘南ライナー」が走る。その一部は羽沢貨物線を経由するものがあり、時刻表で横浜駅が通過のレマークでなく、2重線となっているのがそれである。ただ、トンネル状の防音壁で囲まれているため、2階建て電車215系の2階からでさえも外の風景を楽しむことはできない。唯一周りが開けるところは羽沢貨物駅である。さて、湘南貨物駅の跡を過ぎると藤沢である。駅周辺は栄えており、小田急江ノ島線や江ノ電が乗り入れている。小田急をくぐり、再び住宅地の中を坦々と走る。右から急曲線で相模線が合流すると茅ヶ崎。ここを出て相模川を渡ると、ようやく駅間は線路の周りに緑が目立つようになる。この辺りから左側を注視していると、建ち並ぶ住宅の屋根越しに、相模湾 の海面が光り輝いているのを見ることができる。

平塚大磯二宮と過ぎ、国府津で丹那トンネル開通前の東海道線である御殿場線を分かつ。ここには国府津電車区もあり、東海道線東京口の通勤電車を一手に(一部は田町所属ですけど)引きうけている。次の鴨宮は、東海道新幹線の実験線の基地のあったところ。今で言えば、リニアモーターカーの山梨実験線のようなものである。新幹線と並行して酒匂川を渡り、伊豆箱根鉄道大雄山線を跨ぎ、小田急小田原線が右から合流すると小田原である。小田原城に見下ろされるように発車すると、東京から続いてきた複々線も終わり、複線となる。新幹線と箱根登山鉄道と並行しながらトンネルをくぐり、やがて箱根登山鉄道は新幹線をくぐって早川に沿って山のほうへ別れて行く。ようやく海が近付いてくる。早川の辺りでは、まだ西湘バイパスの高架橋が邪魔をしているが、しばらくするとそれも途切れ、断崖絶壁(というには少々大げさであるが)を走るようになる。この区間、山が海にせり出しているため、鉄道や道路の走る隙間はほとんどない。その分、海の眺望は抜群である。また、右側の車窓にはみかん山が広がり、実のなる頃には格別な車 窓を楽しむことができる。トンネルも何本か抜けながら根府川真鶴湯河原と走り、少し短めのトンネルを抜けて大きく街が広がると熱海である。ここの駅弁の「鯛めし」は私のお気に入りである。


JR東海区間(熱海・米原、大垣・美濃赤坂)

この熱海からのJR東海区間のうち、特に快速列車のない浜松豊橋辺りまでが特に長く感じられる区間である。熱海から浜松までの距離は、中京圏なら豊橋から米原、近畿圏で例えるなら草津から姫路の距離に当たり、そこを走る新快速に乗り慣れると実にこの静岡県内の区間が長く、退屈に感じる。富士山が見えないと、なおさらである。

熱海を出ると、それまでの海岸線とのお付き合いは伊東線、伊豆急行に任せて、新幹線とともに丹那トンネルに入る。伊豆半島の付け根を突っ切る形のこのトンネルは、その地質の脆さ、湧水のゆえに建設当時はかなりの犠牲を伴ったようである。ほぼ一直線のトンネルを抜けると函南で、そこからしばらくして街に入ると三島である。新幹線の駅も併設されていて、また、たまにその高架下から専用線のロコが出てくることもある。伊豆箱根鉄道修善寺線を左に分けながら出発する。伊豆箱根鉄道は大雄山線と修善寺線で線路がつながっていないが、工場は修善寺線側にしかないので、大雄山線の入出場車輌は丹那トンネルを抜けて甲種回送されてくるそうである。三島を過ぎた辺りでは御殿場線とかなり至近距離で併走しているものの、その姿は何故かよく見えない。そんなに家や工場が建ち並んでいるわけでもないのだが。沼津で御殿場線と合流する。昔から機関車の付け替え駅であったため構内は広いが、最近は操車場の跡地の再開発も進んでいるようである。

沼津からは、工場と田園とそして少しの住宅地が延々と続く風景となる。富士山もここ辺りになると大きく見えてくるらしいのだが、私が通るときはいつも曇がちでよく見たことがない。また、海岸線に沿って走っているのがなんとなくわかる。工場に囲まれた吉原岳南鉄道が分岐する。運が良ければ、岳南鉄道の茶色い電気機関車が入換をしているのを見ることができる。新幹線をくぐり、工場だけでなく街が広がってくると富士。貨物取り扱い施設もあり、また身延線が分岐する。その身延線を右に見送ると、富士川を渡る。この鉄橋は1982年(だったと思う)の集中豪雨で下り線側が流されたという過去を持っている。

富士川を渡ると商用交流の周波数も50Hzから60Hzに変わり(なお、東海道線は直流なので影響はない。ユニークなのは新幹線である)、新蒲原を過ぎてしばらくすると駿河湾(太平洋)が左手に見えてくる。ここから蒲原由比興津にかけての区間は海沿いに走り、東海道線随一の景勝地であるのだが、地理的な理由からか、国道1号線(旧東海道)、同バイパス、東名高速、それに山の中には新幹線とまぁ日本の大動脈が集中して、えらいことになっている。活断層の親玉というべきフォッサマグナの近くでもあり、また艦砲射撃に対してあまりにも無防備でもある気がするのだが、建設当時、誰も文句は言わなかったのだろうか?せめて東名高速ぐらい山の向こうに回したほうが…。

三保松原を左手に見ながら(私の見間違いでなければ)走り、やがて海からは離れて街や工場が広がってくると清水。駅は広大だが、ホームは島式1本だけ。かつてここから三保を目指す清水港線が左に別れていたが、その跡は判らなかった。と、いうよりどれが跡なのか区別がつかなかった。駅前からしばらく歩くと、静岡鉄道静岡清水線の新清水がある。ただ、そんなに近くないのでこの乗り継ぎをされる際は時間に余裕を持っておいたほうがよい。私がこの乗り継ぎをしたときは、道がよく分からないうえに夕立までくらってとんでもない目に遭ってしまった。清水を出て国道149号線をくぐると新清水を出た静清線と併走する。まるで東海道線が急行線、静清線が緩行線の複々線のようである。それが証拠というか、清水静岡の間には東海道線には草薙東静岡しかないが、静清線には新清水新静岡の間に13駅もある。

草薙の手前で新幹線が山側に並行するようになり、さらに東静岡の手前で静清線をくぐる。東静岡はかつては貨物駅のみであったが、再開発の絡みで旅客施設が1998年10月に新設されている。右に静岡運転所を見ながら新幹線をくぐると、高架に上がってビルの中、静岡に到着する。駅前には静岡鉄道の新静岡駅があるが、バスでは行きやすい(バス停1つ分)が、徒歩では道路交通法を守る限り、かなり行きにくい。1993年当時のことゆえ、現在では事情が違っているかもしれない。この駅前のバス停からは、約3時間かけて遠路井川(大井川鉄道の終点)を経由して、畑薙第1ダムに向かう静岡鉄道バスが出ている。途中、トイレ休憩なんかもあったりするローカルバス兼登山バスで、そのことはそんなに珍しいものではないのであるが、ただこのバス、終点まで静岡市を出ることがないというところが変わっているのである。

静岡を出て、安倍川を新幹線と並行して渡ると、安倍川。あべかわ餅の安倍川である。海沿いに出て、日本坂トンネルをくぐってしばらく走ると、漁港で有名な焼津。ここからはしばらく海から離れる。御前崎をショートカットするためである。風景は、住宅地と田園が混在した、典型的なベッドタウンである。かつて藤枝から御前崎を通って袋井まで、60km強の静岡鉄道駿遠線という軽便鉄道が延びていた。今はほとんど道路になったようである。島田を出るとまもなく大井川を渡り、右の眼下に金谷の集落を見ながら、そこから坂を登ってくる大井川鉄道と併走して金谷に到着する。かつては線路がつながっていて、千頭まで直通快速が走ったりしていたのだが、今はポイントの一部のレールを剥がすことで、直通運転ができなくなっている。しかし、レールをはめればすぐに走れそうな状態なので、もしもの時は使われることがあるのかもしれない。ただ、車輌搬入も最近はトラック輸送に頼っているようで、使われる可能性は限りなく低そうである。

金谷を出るとトンネルに入る。牧ノ原台地の北端をくぐるものである。抜けると台地の真っ只中で、茶畑が大きく広がり、その中を列車は細かいカーブを繰り返しながら走る。やがて周囲が開けてくると菊川である。新幹線と並行しながら、街が広がって掛川に到着する。掛川には新幹線の駅も併設されており、また姫街道をたどって浜名湖の北を走る天竜浜名湖鉄道が分岐している。掛川からは茶畑や田園が混在する平地を新幹線と付かず離れず併走しながら走って行く。袋井磐田とだんだん街の規模が大きくなり、天竜川を渡るといよいよ浜松である。静岡以来の都会である。静岡市よりも中京圏に近いためか工業も盛んで(YAMAHAの本拠地である)、人口は県庁所在地である静岡を抜いて静岡県一である。ビルも建ち並んでおり、その谷間を高架線で抜ける。また、駅前の新浜松から遠州鉄道が北へ向かって伸びている。

浜松を出て、右に新幹線から在来線までJR東海の車輌の面倒を見ている浜松工場が広がり、それが途切れて新幹線をくぐると、周囲が水っぽく?なってくる。左は海、前方に控えるはうなぎの浜名湖である。舞阪を出て浜名湖を渡ると弁天島。ここは浜名湖の中の島であり、再び浜名湖を渡って新居町に着く。この区間、浜名湖の眺めもさることながら、右に並行する新幹線と在来線の高さがほぼ同じのため、迫力ある新幹線の走りを楽しむことができる。また、空気が澄んでいれば遠くに富士山を眺めることもできる。しばらく湖岸沿いに走り、鷲津を過ぎた辺りでようやく別れる。次の新所原で掛川で別れた天竜浜名湖鉄道が合流する。この新所原を出ると、ようやく静岡県に別れを告げて愛知県に入る。最初に退屈と書いておきながら、まとめてみるといろいろ見所はあったようだ。新幹線と並行しながら豊橋鉄道をくぐると、愛知県東部の中心都市豊橋である。ここまで来ると名古屋に近付いた感がある。最も、その一番大きな理由は私にとっては名鉄電車の存在である。乗客の話す言葉のイントネーションも若干変わったような気もする。

隣の豊川市に日本車輌があるため、豊橋の側線には出来立ての新型車輌が停まっている事もある。豊橋を出ると、右手に飯田線車輌の車庫が見える。119系や115系がクラの主であるが、朝晩なら「トロッコファミリー」の機関車ED18や客車群が留まっていたりする。列車は飯田線側に設けられた小駅を無視してぐんぐん加速し、豊川放水路の鉄橋を渡る。渡り終えたところで飯田線と名鉄名古屋本線が右に別れて行く。こちらはゆるく左カーブして田園地帯に入っていく。三河大塚を過ぎる辺りでちらっと海が見え、列車はトンネルに入る。これが東海道線からまともに見える海の最後だと思われる。この後見える海は全てチラリズムの世界である。

市街地が広がってくると、現在、接続している名鉄と合わせて高架化工事が行われている蒲郡である。今は仮駅であるが、工事が始まる前は戦前か、戦後すぐに作られたと思われる木造の跨線橋が高架の名鉄ホームに通じており、どうして名鉄が高架になるときに改築しなかったのかと不思議であった。今度の高架化工事では一旦名鉄の高架をリニューアルし、さらに高架区間も延伸するため、名鉄がそれまでの高架を下りて、東海道線の旧ホームに発着していたが、名鉄部分の工事完成に伴い、名鉄は元の高架ホームに戻っている。

名鉄蒲郡線と三河塩津まで並行し、ここで右に大きくカーブして別れる。列車は谷間を抜け、田園を走る。この辺り、この街と田園の繰り返しである。一際大きい街に入ると岡崎である。東海道線が2面4線に、愛知環状鉄道のホームが1本入っている。かつての岡多線であるが、この度愛知万博関連で複線化されるらしく、岡崎駅の配線がどう変わるのか、楽しみである。今の配線では、東海道線と愛環線のどちらにも支障をきたすので、おそらく改良されることと思われるのだが。岡崎を出て愛環線が右に別れ、矢作川を渡る。ようやく宅地が目立つようになってくるが、首都圏は言うに及ばず、近畿圏から見てもかなり密度が低い。自動車中心の開発が行われているからだろうか。中央線を除くと名古屋圏の通勤電車はそんなに長編成短頻度ではないというところからみても、自動車利用者の多さが見えてくるような気がする。実際、鉄道依存率は名鉄を合わせても3割弱である。

名鉄西尾線の下をくぐると安城である。次の三河安城は新幹線との接続駅であるが、普通列車しか停まらない。区間快速以上は安城に停車して、こちらには停まらないのである。ところで、矢作川を渡ってからずっと一直線である。名鉄三河線と接続する刈谷を出てしばらくするとその直線区間も終わる。刈谷の駅は、東海道線と名鉄で名古屋の向きが逆のため、初めての人は迷うかもしれない。実際、私は逆向きの電車に乗りかけたことがある。逢妻を出て逢妻川を渡ると、左から武豊線が寄ってきて大府に到着する。

大府から名古屋までは複々線化される計画で、かなりの区間で路盤は完成して、場所によってはレールまで敷かれている。しかし、諸般の事情で中止されたままである。赤錆びたレールが悲しい。共和を過ぎると、新幹線と完全に並行するようになり、大高を過ぎて笠寺まで続く。笠寺では名古屋臨海鉄道と接続しているが、残念ながら、私はここの機関車を見たことがない。名鉄や名古屋市交通局の新車は、豊川の日本車輌からここまでJRを走ってきて、名古屋臨海鉄道に入り、さらに名鉄築港線に入って目的地を目指すようである。廃車回送や転属回送はこの逆のルートをとるらしい。豊橋から名鉄線経由で自力回送しないのが、少々不思議ではある。

新幹線をくぐると、それと並行して南方貨物線(未完成)が別れて行く。名鉄常滑線をくぐり、名鉄神宮前の横を過ぎると熱田。左は熱田神宮である。熱田の電留線には「しらさぎ」の485系や、昼間に運用のない通勤電車が寝ていたりする。名鉄名古屋本線と併走しながら堀割の中に入ると、中央本線、名鉄名古屋本線、地下鉄名城線、4号線と接続する総合駅の金山である。JR線に私鉄が挟まれたユニークな構造の駅で、このような駅はあと小田原ぐらいではなかろうか。中央本線、名鉄と並行し、3複線となって名古屋を目指す。東から中央線、名鉄、東海道線だったのが尾頭橋(東海道線のみ)を過ぎたところで中央線が下をくぐって一番西側に出る。この辺りで名古屋港からの貨物線(かつてここにナゴヤ球場正門前という臨時駅があった)が左から中央線に合流し、新幹線が寄ってきてその下をくぐって関西線と南方貨物線が左から合流すると名古屋に到着する。

従前の駅ビルに変わってセントラルタワーが建ち、駅構内も徐々にリニューアルされて、ようやく今の鉄道駅に近付き、追い越しつつある名古屋であるが、私が初めてこの駅を利用したとき(JR化直後)は、良くも悪くも1970年代で時が止まったような、そんな雰囲気であった。薄暗い高架下通路、薄暗く、車輌の床よりも一段下がったホーム、今でも変わらないのは東京方ホーム端のきしめんスタンドぐらいだろうか。近鉄、名鉄、地下鉄が駅前の地下に入っている。国鉄時代は、私は名古屋を訪れてもこの国鉄以外の3線を利用して乗り換えをしていたので、国鉄名古屋駅は利用したことがなかった。

名古屋を出ると、やがて右側に地下の新名古屋を出た名鉄が再び地上に姿を現し、栄生の留置線には絶えず何本かの名鉄電車が留まっている。名鉄と一旦離れて庄内川を渡り、すぐに名鉄が下をくぐって左側に別れる。枇杷島では東海交通事業城北線と接続しており、貨物線に設けられたホームに、キハ11 200番台が単行で止まっているのを見ることができる。城北線が右に別れ、新幹線と並行しながら清洲城趾を突っ切る。右側に見える天守閣は最近作られたもので、当時のものではない。さらにいうと、本当の天守閣は、線路のあるところにあったそうである。新幹線が離れ、清洲を過ぎると、右側にはかつての稲沢操車場が広がる。今では愛知機関区と、一部貨物列車の入れ替え、留置、待避に用いる側線が残るのみで、再開発される時を待つ草原が広がっている。

ようやく田園が見えたと思えば再び建て込んできて、高架に駆け上がり、左から名鉄名古屋本線、続いて尾西線が同じく高架で合流すると尾張一宮である。ここは、仙台、平塚と並ぶ七夕まつりの有名な街で、その日はかなり賑わう。普段は、毛織物の生産地で、かつ名古屋へのベッドタウンとして機能する、やたらと喫茶店の多い街である。尾張一宮を出ると名鉄と並行しながら地上に下りる。まるでこの区間は線路別複々線のようで、昔から京阪間の陰に隠れながらも、名鉄対国鉄→JRがデッドヒートを繰り返していた場所である。やがてその名鉄と別れて右にカーブし、木曽川駅を通過する。築堤を駆け上がると木曽川を渡る。この鉄橋の右下に古びた木舟が2隻、係留されている。長らく使われていないようだが、かつてはこのような木舟が渡し舟や、漁、物資輸送に使われていたのであろう。

高架に上り、右から高山本線が合流すると岐阜である。高架の名鉄名古屋本線を跨いでいるため、その位置はかなり高い。その分、駅前のビル群よりも高い位置に線路が走っているので、なかなか眺めは良い。駅前には名鉄の岐阜市内線が「こっそり」と乗り入れている。高架を下りて西岐阜、続いて岐阜貨物ターミナルの脇を過ぎる。田園の中に工場と住宅が点在する中、長良川を渡って穂積。少し上流に樽見鉄道の鉄橋を見ながら揖斐川を渡り、樽見鉄道の東大垣で同線と合流。3kmほど並行して大垣に到着する。大垣電車区があり、また樽見鉄道に乗り入れる貨物列車があることから、構内はかなり広い。ここの5番ホームといえば、ガキヤ(大垣夜行372M、9372M)待ちに並んだホームである。構内の南の外れから近鉄養老線が出ており、また最近、美濃赤坂支線用の3番ホームが新装復活している。

大垣を出ると近鉄が左に別れ、やがて両側に広大な大垣電車区が広がる。それが尽きると、近鉄養老線(揖斐方面行き)を跨ぎ、さらに杭瀬川を渡る。田園風景が広がってくると、突然ポイントを渡る音が響く。南荒尾信号場である。この信号場で美濃赤坂支線と、勾配緩和のために造られた迂回線がどちらも右に別れる。美濃赤坂支線は、本線と別れてすぐにカーブしたホームの荒尾に停まる。この駅は本線からも見ることができる。荒尾を出ると、住宅地や工場の間を抜けてすぐに美濃赤坂である。西濃鉄道との接続駅のため、広い構内には貨車がひしめいている。旅客用ホームは1本だけ、間借りするように隅っこに造られている。ホームの脇には西濃鉄道の機関庫もある。

信号場に戻る。ここから関ケ原までは急勾配で、この坂を長大な貨物列車をはじめとする機関車牽引列車が通過するには補助機関車を必要とするなど困難なため、1944年に勾配を緩やかにした迂回線が建設された。上り列車に関しては下り坂になるため、特に迂回線は建設されていない。また、信号場や、合流地点の関ケ原において迂回線が分岐の直線側となっているため、途中の垂井に停車しない列車はほぼ全てが迂回線を通る。かつてこの迂回線には新垂井という駅が国鉄末期まで設置されており、下り列車しか停車しない珍しい駅であったのだが、下り普通列車が全て垂井を通るようになって廃止された。新垂井があった頃は、下り普通列車で関ケ原より先に向かうものは迂回線経由で新垂井に停車し、関ケ原止めは垂井経由という、それは乗客が混乱しそうなダイヤであった。もっと昔だと、全ての下り列車が垂井を通らなかった時期もあったようである。今でも函館本線の大沼では、かつての東海道線と良く似た (それ以上かも)ややこしい運転方法がとられており、また大沼七飯では現在の東海道線と同じ運転形態がとられている。




さて、車窓風景である。迂回線は、信号場を出て右にカーブしながら上り線をくぐると、右に赤坂の集落を見ながら、なんということのない田園の中を走り、やがて山裾を少しずつ登って行く。トンネルを2、3本抜け、左の眼下に垂井の集落が見えてくると、新垂井の駅跡を通過する。左側に使われていないホームが見える。駅舎は取り壊されているが、駅の周りの標識や看板にはまだ新垂井駅が生きている。駅前から出ている道は新垂井停車場線という名前だったりする。左側にも山が迫ってきて、本線と合流すると関ケ原である。本線は信号場を出ると田園地帯を一直線に進み、やがて工場や住宅が建ち並んでくると垂井である。ここから国道21号線や新幹線と並行しながら急坂を登る。ちなみに垂井から関ケ原までの下り線は実は逆行運転も可能となっている。これは関ケ原折返し列車が、関ヶ原の配線や勾配の都合上、下り線から上り線に転線できないためとられた措置なのである。右に迂回線が近付くと関ケ原である。

関ケ原から線路はかつて北陸本線の長浜に向かっていた。不思議に思う方もおられると思うが、以下の図をご覧頂きたい。




東海道線の全線開業において一番最後に開通したのは、深谷(上図、現在廃止)から米原を通って大津までの滋賀県内の区間であった。これは、とりもなおさず、琵琶湖という水運が利用できたため、鉄道の建設が後回しとなった結果である。上図、長浜から出ている青線が、長浜大津を結んでいた日本最初の鉄道連絡船であった太湖汽船である。長浜駅横にある、旧長浜駅舎のあたりに当時の駅があり、北陸線と東海道線(当時は線路名称はなかった、ちなみに北陸線が先に建設された)が入り、そのまま連絡船に接続していた。その後、東海道線の滋賀県内区間が開通するに及び、上図の緑線に線路変更された。深谷長浜間は、貨物線としてしばらく残ったようだが、長続きしていない。さらに、急勾配を緩和するために柏原回りの線路が建設されて、従来の線路が廃止となり現在に至っている。この旧線跡はほとんどが道路となっているが、ところどころにトンネルや壁の跡が残っている。なお、1999年秋に廃止された住友大阪セメントの専用線は、近江長岡への取り付け部に旧線を流用し ていた。

さて、関ケ原を出た列車は、旧線をたどる国道365号線をくぐり、古戦場の中を国道21号線と並んでくねくねと登って行く。新幹線を跨ぎ、岐阜と滋賀の県境まで上り詰めると、米原までの長い下り坂に入る。国道21号線と別れて柏原を過ぎると、ようやく伊吹山がその全容を現してくる。伊吹山を右側の車窓に眺めながら、列車は山を避けてS字を描く。そのため、伊吹山は右、前方、右とその見える位置を変える。しばらく新幹線と並行し、伊吹山が右後方に見えるようになると、住友大阪セメントの専用線(廃線)が新幹線をくぐって伊吹山の方から合流し、近江長岡に着く。ここからは伊吹山の登山口へとバスが出ている。少し山間を抜け、国道21号線と再びピタリと併走するようになると醒ケ井。ここには「米原からは新幹線で」というJR東海が妙な商売っ気を出した看板が掲げられている。いよいよ辺りが開け、北陸自動車道をくぐり、前方に琵琶湖と米原町の街並みが広がると、列車は左に大きくカーブする。このあたりを晩に通ると、前方に米原町の灯りが星団のように見え、そこを新幹線がまるで流れ星のように走り過ぎて行くという光景を見ることができる。JR東 海とJR西日本の車輌が仲良く並ぶ留置線が右に広がると、新幹線や北陸本線も合流して米原に到着する。


JR西日本区間(米原・神戸)

米原は、少し前まで上下線のホームが妙に食い違って離れている駅であったのだが、大阪方にあった操車場とともに最近構内配線が整理され、島式ホーム3面6線に、通過線、側線が合わせて3本というスマートなものとなった。かつての1番線ホームは、近江鉄道のホームと並行しており、撤去された線路の多さが知れる。その旧ホームには、つい最近まで洗面台が残されていた。かつての汽車旅の必需品というべきもので、それだけ夜行列車が多かったということなのである。東海道線といえども、この辺りが電化されたのは1950年代半ば。東海道線の全線が電化されるに及び、一番最後となったのはこれから紹介する米原、京都間であった。かつて、全線開業において最後まで残った区間が、電化でも最後になったというのは、何とも因縁を感じる。2000年春から新快速電車が本格的に130km/h運転を始めた。ことスピードアップに関しては先駆的な区間であるようである。

米原を出ると、左窓に併走する近江鉄道との間に、かつての操車場の跡地に建った鉄道総合技術研究所(JR総研)の風洞実験施設や、ヤンマー農機の研究所(建設中)を見ながら走り、やがて右にカーブして新幹線をくぐる。近江鉄道は真っ直ぐ、新幹線や国道8号線と並行して離れて行く。琵琶湖を右窓遠くに臨みながら、近江米の産地の最も山際を走る。この辺りの湖岸が「鳥人間コンテスト」の開催地となっている。やがて1連のトラス橋を渡るが、そのとき左側の小山に目を凝らせば、古びた煉瓦造りの単線トンネルが2本、ぽっかりと口を開けているのを見ることができる。電化に際して放棄されたと思われる旧線跡である。左に、鳥居本から山越えをしてきた近江鉄道が合流し、彦根に到着する。彦根には近江鉄道の車庫があり、さまざまな車輌が並んでいる。

彦根からしばらく近江鉄道と並行し、それが左に別れると、周りの街並みが新興住宅地に変わり、やがて南彦根に到着する。ここから草津を過ぎる辺りまで、京阪神地域のベッドタウンとして開発された地区が沿線に点在するようになる。田園風景が続く中、線路はほぼ一直線に伸び、河瀬稲枝能登川と過ぎる。能登川を出ると、左側に山が迫ってくる。右には、琵琶湖を干拓して作られた水田(大中の湖干拓地)が広がる。

やがて小さなトンネルをくぐると、右側に安土城址が見える。この小さなトンネル、221系新快速が120km/hで突っ込むと、先頭車輌の戸袋窓の客室側が突然開くという現象がよく見られた。もともと、点検用に開けられるようにはなっているが、ストッパーが何個もついており、乗客の手では開けられるような窓ではないのに、トンネル突入による気圧の急激な変化で開いてしまったのである。221系の後を継ぐ223系1000番代、2000番代で戸袋窓がなくなったのは、このトンネルが原因ではないかと邪推する今日この頃である。

安土を過ぎると建て込んできて、やがて近江八幡に到着する。左に、近江鉄道八日市線が急曲線で合流している。近江八幡は、八日市と並んで近江商人の発祥地で、商家の古い家並が中心部に残り、また長命寺、西の湖の水郷巡り(ちなみに前述の干拓地は、この西の湖の大半を埋め立てたものである)、さらに足を伸ばして安土城(八幡城もある)と観光スポットに恵まれており、駅前で自転車を借りれば、1日のんびりと散策することができる。

住宅地の中を走り、日野川を渡ると木立に囲まれた篠原を過ぎ、風景は田園へと変わる。左には新幹線1km弱離れて並行しているのが見える。やがて上下線が大きく離れ、野洲の電留線を挟む。車庫内には、113系、221系、223系といった、東海道線の主力車輌が留まっている。その中に1本、何故か通勤型の201系か205系が留まっていることがある。これは、朝夕に草津まで乗り入れてくる運用に就いた車輌である。再び上下線が収束すると野洲。電留線を持っているため、ここで折り返す電車は多い。

野洲川を渡って守山。駅周辺はかなり建て込んでいるが、まだまだ駅間は田園が随所に見られる。次の栗東は、1993年に開業した新しい駅である。この駅が開業した当時、他の駅間がそうであるように周辺は水田が広がっていたのだが、今では高層マンションが林立し、かつての面影はほとんどなくなっている。滋賀県の人口増加率が1990年代は近畿トップであったことの現れであろう。左から立体交差も含めて草津線が合流すると、草津である。

草津から、線路は複々線となる。その草津を出てすぐに列車はトンネルをくぐる。天井川である草津川が上に流れているためである。非電化のころからと思しきトンネルも残されているため、側線も入れて6本の穴が開いている。トンネルをくぐった左側に草津宿の本陣があるが、家並にさえぎられて見えない。草津駅から歩いて見に行くのが賢明であろう。線路は複々線となっても、相変わらず駅間には水田が広がる。そんな中に南草津がある。1995年に、立命館大学の琵琶湖キャンパスのアクセス駅として開業している。この辺りからカーブが目立つようになる。大津市に入って瀬田を過ぎ、右にカーブすると瀬田川を渡る。川岸には、漕艇の倉庫が建ち並んでいる。ここは京滋地区の大学や会社のボート部の練習場所なのである。右に琵琶湖にかかる近江大橋、左に瀬田の唐橋を望む。

瀬田川を渡りきると石山で、京阪石山坂本線と接続している。ここから東レの工場へ専用線が出ている関係で、タンク車がゴロゴロしている。ちなみにこの専用線、国道1号線を踏切で横切っている。滅多に走らないから今まで残っているようなものであろう。石山を出ると京阪をくぐる。ここから、左に山と国道1号線、右に大津の市街地と琵琶湖を望みながら走る。京阪電車は街の中をくねくねと走っているので、あまりその姿は見えない。膳所で再び京阪と接続する。

膳所からかつて浜大津まで、国鉄の線路が伸びていた。長浜大津を結んでいた太湖汽船との連絡のためである。この当時は浜大津大津と名乗っており、京都方面から来た列車は、膳所(当時は馬場といった)でスイッチバックして浜大津に向かっていたのである。その後、東海道線が全線開通すると、この線路は大津線という支線になり、浜大津からは江若鉄道(湖西線にその使命を譲り、現在廃止)が発着していた。大正時代、京都から膳所までの線路が変更されたのに伴い、現在の大津駅が設けられたため旅客営業はなくなり、それからは貨物線となっていた。その頃には運転本数はかなり少なくなっていたので、この線路に琵琶湖鉄道汽船(今の京阪石山坂本線)が乗り入れることになった。ただ、国鉄大津線は1067mm非電化単線、琵琶湖鉄道汽船は1435mm電化複線であったので、国鉄線路の湖側に1435mm軌間の線路を敷設してこれを石山方面の線路とし、国鉄線路を3線軌としてこれを坂本方面(国鉄は両方向こちら側を走る)の線路とした。この国鉄と私鉄が線路を共有するという 形態は、江若鉄道が廃止された1969年まで続いた。なお、膳所の神戸方には、大津線の名残のスロープが、京阪電車に向かって伸びている。

膳所から、遠くに浜大津辺りの中心街を望む。東海道線は大津の町の外縁を走っているに過ぎない。大津の手前で、併走していた国道1号線が高みを増して左に別れて行く。実はこの現在の国道1号線がかつて逢坂山トンネルを通っていた東海道線の旧線跡である。1号線と名神高速道路、JR奈良線を結んだルートが、かつての東海道線であった。名神ができるまでは、その遺構もかなり残っていたようだが、現在は、逢坂山トンネルの一部や、奈良線稲荷駅のランプ小屋ぐらいしか見ることができない。また、旧山科駅跡(現在よりかなり南の勧修寺のあたりである)には、その旨を書いた碑が建てられている。奈良線も複線化工事が始まるまでは結構残っていたのだが、工事に合わせた改築で見る影もなくなった。複線化工事の用地はかつての東海道線の複線用地を流用している。思わぬところで役に立つものである。

大津を出た列車は、左にカーブしながら新逢坂山トンネルに入る。昔の逢坂山トンネルは1880年に日本人が独力で掘り抜いた初めてのトンネルであった。それまでの外国頼みから1歩抜け出した、一里塚のような存在である。1921年に完成した現在線のトンネル、さらには、瀬田川から山科盆地まで一気に音羽山トンネルでぶちぬいた新幹線と、日本のトンネル技術の進歩を見るようである。40年ごとに新しいトンネルが掘られているのもまた因縁であろうか。となると次の40年目の一里塚は、第2名神自動車道のトンネルとなるのであろうか。

新逢坂山トンネルを抜けると、湖西線の高架が上から覆いかぶさる。京都市内に入り、左に京阪京津線の四宮車庫を見下ろし(下り外側線、湖西線のみ、後は湖西線の高架に遮られて見えない)ながら、湖西線が東海道線と同じ高さまで降りてくると山科である。地下鉄東西線開業に合わせて駅前が整備され、京阪京津線ともども近代的な様相になった。山科を出ると、しばらくして左に併走していた京津線が、東海道線をくぐって右側に出て、地下にもぐって行く。地下にもぐる前の旧線跡もまだ見ることができる。左に延々と開けた住宅地を望みながら、東海道線は左に大きくカーブする。この辺りはかつて撮影地として賑わった(?)ところで、よく写真を見かける。さて、左に広がる住宅地を注視すると、新幹線が走っているのを見ることができる。さらにその南側には、東海道線の旧線を流用した名神高速道路を望むことができる。山科駅は彼方に霞む名神高速道路のところから、ここまで移動したのである。もちろん勝手に動いてきたわけではない。土木技術の進歩がそうさせたのである。

列車は東山トンネルに入り、それを抜けるといよいよ京都である。東山通をくぐり、左からトンネルを出てきた新幹線と併走しながら京阪本線と鴨川を一気に渡り、左から奈良線(旧東海道線)が合流すると、巨大な駅ビルに見下ろされる形で、京都に到着する。山陰本線や地下鉄烏丸線、近鉄京都線、さらに市内各所をネットする各種バスも乗り入れる一大ターミナルなのだが、いかんせん駅ビルが巨大過ぎて、駅自体はせせこましく見えてしまう。駅ビル建設当時、あれやこれやと議論が噴出していたが、私は当時、このような考えを抱いていた。新幹線ホーム屋根の高さプラス2階ぐらいの高さにして、その代わり在来線ホームの上にもビルを造って、床面積を稼ぐというのはどうかと。しかし、今の京都駅ビルもいい出来で、さほど不満はない。ただ残念なのは、駅前広場周辺から駅ビル全体を眺めるのがかなり難しいということだろうか。

京都を出てすぐにくぐる大宮通の跨線橋には、未だに京都市電(1978年廃止)の架線柱が残っている。姿を消してはや20年、いつになったら撤去されるのやらと思う一方、その架線柱を使って、市電が復活することを夢見たりもしている(最近架線柱が減った気もする)。その跨線橋をくぐって右側にはかつての梅小路貨物駅の跡地を使った梅小路公園が広がり、そこに梅小路蒸気機関車館の展示、体験乗車線が引き込まれている。梅小路公園に沿って山陰本線が右に別れると、蒸気機関車館の扇形庫が広がる。ただ、東海道線と扇形庫の間は、貨物線(「はるか」ルート)や留置線が広がっているので、そんなによくは見えない。半分新幹線の高架下に入った西大路を過ぎ、それに続く貨物ターミナルの向こうから、山陰線と東海道線を結ぶ短絡線が合流する。

ちなみに「はるか」ルートとは、関西空港への連絡特急である「はるか」を京都から関西空港まで直通運転するために、貨物線を特別に整備した線路のことである。関西空港発「はるか」は新大阪から京都まで東海道上り本線を走るため、西九条新大阪間しか「はるか」ルートは通らないのだが、京都発「はるか」は発着ホームの都合上、京都向日町間、茨木西九条間で「はるか」ルートを経由している。

桂川を渡り、左に新幹線が離れて行く。右側に並行していた貨物線(「はるか」ルート)が東海道線を乗り越して左側に出ると向日町である。向日町を出てすぐ左に近畿圏有数の規模を誇る京都総合車輌所(旧向日町運転所)が広がる。この車輌基地には485系電車や24系客車といった特急車輌から、普通列車用の113系まで多数の車輌が留置されており、この車輌所に所属する車輌は、定期運用だけでも南は宮崎、北は青森まで走っている。また、ここに出入することのある車輌まで対象を広げると、日本全国の線路を走っているといっても過言ではない。

車輌基地が収束する辺りになると、市街地が尽きて田園が広がる。長岡京の付近で少し建て込むが、すぐに田園風景(とそこを開発して作られた新興住宅地)に戻る。長岡京を過ぎた辺りの左を見ていると、テニスコートが見え、その背後がこんもりした小山になっている場所がある。実はその小山は古墳であり、テニスコートがある場所はかつてその掘であった。右に阪急京都線が、左に名神高速道路が近付いてくる。名神をくぐる所で阪急と完全に並行する。ここは、かつて省線(→国鉄)の看板特急列車が新京阪電鉄(→阪急京都線)の超特急に追い抜かれた地点として有名である。今はその仕返しか否か、新快速電車が阪急電車を軽々と追い抜いていく。最高速度がJRが130km/h、阪急が110km/hであるのが大きな要因であるようである。

阪急を跨ぎ、90km/hまで減速して右カーブした山崎を通過する。この駅は京都府と大阪府に跨っており、ホームには府境を示す看板が立っている。駅の近くからは天王山に登ることができ、頂上付近からは、桂川、木津川、宇治川が合流して淀川となる地点や石清水八幡宮のある男山を眺めることができる。また、ここは天王山の戦いの舞台であり、豊臣秀吉に破れた明智光秀は、この地から宇治川右岸に沿って敗走したのであろう、宇治川の支流である山科川のほとり、今の伏見区小栗栖(地下鉄東西線醍醐駅西)で果てている。果てたとされている場所には、明智塚が建てられている。

天王山と男山に挟まれた場所は、京阪間の主要交通路が集中している。列挙すると、名神高速道路、国道171号線、府道京都守口線(旧1号線東海道)、東海道新幹線、東海道本線、阪急京都線、京阪本線である。国道1号線は新道建設に伴い、男山の向こうを走っている。さて、山崎を出ると今度は左カーブする。右にはサントリーの工場が見える。このカーブや、周囲の直線区間も、東海道線の有名撮影地の1つである。最近は住宅も増えて、撮影はしにくくなっているようであるが、まだまだ休日ともなるとマニアがかなり繰り出している。左には、阪急京都線と新幹線がぴったり併走しているのが見え、また、運が良ければ男山の麓を走る京阪電車も見ることができる。

列車の左に不意に木立が過ぎて行く。楠公別れの桜井の駅跡である。駅の意味がもちろん違うので、ホーム跡などはもちろんない。しかし、この付近に新駅が造られる計画があり、そうなれば、この史跡の最寄駅になるのであろうか。そういえば、この近所を走る国道171号線の道路標識には「阪急水無瀬駅」「史跡桜井駅跡」と縦に並んで書かれている。楠公なんて忘れている人が見たら、きっと「なんで駅の跡まで標識に書いたんねん?」と思うに違いない。桜井という駅自体は、近鉄大阪線、JR桜井線(奈良県桜井市)、阪急箕面線(大阪府箕面市)の2箇所にある。

しばらく田園が広がり、緩く右カーブする。このあたりが、東海道線と新幹線、阪急が最も近接する区間で、ここを最後に新幹線は新大阪まで姿を見せない。阪急と並行しながら徐々に高槻の市街地に入っていく。右側に元高槻電車区(→吹田工場高槻派出所)の留置線が広がる。昼間は高槻で折り返す201、205系電車が留置線におり、また夕ラッシュに備えた221系などの快速用電車も数本留置されている。留置線からの線路が上下本線の間に入ると、高槻である。1990年から新快速電車が停車するようになり、普通電車と接続するようになったため、乗換客や乗降客が多い。

高槻を出ても、阪急とまだ至近距離で並行している。建て込んでいるだけに、なかなか姿は見られないが、鉄橋を渡るときなど、少し開けたところを通るときに左窓に目を凝らすと阪急の線路が走っているのを見ることができる。摂津富田を過ぎる頃になると阪急も見えなくなり、ますます建て込んでくる。左にカーブしながら茨木を過ぎる。高槻やこの茨木には外側線に待避線があり、貨物列車や、新大阪始発の特急、急行列車の回送列車が、待避や時間調整のためよく停車している。茨木は1970年の万博の時は、国鉄の最寄駅として機能したこともある(この駅から真っ直ぐ万博会場への道路が造られた)ようだが、今は大阪の衛星都市の中心駅として機能している。

茨木を出てしばらくすると府道大阪中央環状線、近畿自動車道とともに大阪高速鉄道(大阪モノレール)をくぐる。この付近にモノレールの駅があり、開業当初は茨木を名乗っていたのだが、JR茨木にあまりに遠いため、乗換客が惑わないよう宇野辺に改称された。徐々に線路敷が広くなってくる。左から大阪貨物ターミナルからの貨物線が合流し、広大な吹田信号場(旧吹田操車場)が右側に展開し始める。現在は「はるか」ルートとしても機能する、下り本線から吹田信号場に入る線路が左に分岐した後に本線を4本跨いで信号場の中に入っていく。ここから、旅客用列車が走る線路だけに限定しても複々線+「はるか」ルートの5線区間となる。うまく行けば、下り列車に関して3列車併走となることがある。このような区間は、首都圏でも上野日暮里間の5列車併走、東京品川間の4列車併走(新幹線含む)、鶴見横浜間の4列車併走(京浜急行含む)、京阪神で見ると阪急梅田十三間の3列車併走ぐらいしかない。

千里丘を過ぎる頃から、吹田信号場がいよいよ大きく広がってくる。操車場が廃止になって、線路を剥がされた広大な土地が広がるだけになっているが、半分は街として再開発され、またもう半分は梅田貨物駅が移転してきて、貨物駅として新装開店する予定である。トラックターミナルも併設して大阪の物流拠点になるのであろうか。やがて左に阪急電車正雀工場が見える。かつて阪急で活躍した旧型車輌が保存されているのが見えたり、塗装を剥離した、再塗装待ちの電車を見ることができる。年数回、正雀工場は一般公開されており、そのときは保存車輌の中に入れたり、また工場での整備工程を見学することができる。

阪急の工場が見えなくなると岸辺、ここから左にJR貨物の吹田機関区、JR西日本の吹田工場が広がる。1999年夏まで、吹田機関区にあった扇形庫の中に、現役を引退した電気機関車やディーゼル機関車が保存(放置?)されていたのだが、扇形庫の解体に伴い、運命をともにしてしまった。通常はEF66やEF200などの東海道、山陽線の牽引機や日本海縦貫線を走るEF81がたむろしている。また、まれにではあるが、JR東海のEF58が整備を受けに来ることがある。続く吹田工場は、近畿圏を走る、主に特急電車や通勤電車の面倒を診ており、また、改造工事も盛んに行われている。223系2000番代の一部の自社製造もここで行われており、またその横で老朽化した113系や165系の解体が行われるなど、いかにも揺りかごから墓場まで面倒を診る工場といえる。工場の正門には、かつて京阪神間で活躍した流電モハ52001が保存展示されている。その一方で、遠く離れた山口県の小野田線では、同時期に緩行電車から急行電車まで幅広く活躍していたモハ(→クモハ)42001、006(2001年3月廃車解体)が今も、朝夕のみという隠居生活ながら活躍している。

右の操車場跡が徐々に収束して、吹田を通過する。アサヒビールの工場を過ぎ、阪急千里線を乗り越したところで、左に片町線鴫野関西線久宝寺へと続く城東貨物線が別れる。なお吹田信号場から出てくるので、東海道線の複々線を一気に乗り越す形になっている。2005年の開業を目指して、城東貨物線は旅客線化工事が行われているのだが、吹田に入っていては人の流れに合わないので、現在の城東貨物線から途中で別れて、新大阪に入ることになっており、その建設用地が神崎川を渡る手前で左から合流する。

東淀川を過ぎると、すぐに新幹線が左から近付いてきて、交差したところが新大阪である。宮原運転所を経由し、大阪をバイパスして神戸方につながる北方貨物線が右に別れている。周囲には高いビルが林立しているが、新幹線開業当初の写真を見てみると、周りは青々とした水田である。時の流れを感じるが、この辺りをブラブラ歩いてみると、所々に水田が残っているのを見付けることができる。新大阪では、地下鉄御堂筋線とも接続しているが、東海道線が新幹線の東京寄りなら、御堂筋線は博多寄りで、かなり離れている。この駅にもう一本乗り入れるはずだった鉄道がある。それは阪急電鉄である。京都線の淡路から、新大阪を通って神戸線の神崎川につなげる予定で、新幹線に並行して土地が取得されているほか、御堂筋線新大阪駅の直上には、なんと阪急のホームや路盤が用意されている。今も完全に諦めたわけではないようだが、いつになったらできるのかは一切アナウンスされていない。

新大阪を出ると、右から宮原運転所からの回送線が合流し、阪急京都線を跨いで、新淀川の鉄橋を渡る。東海道線が開業した当時、ここに新淀川はまだ開削されていなかった。さらに、現在とは線路が異なっており、東海道線が、今の阪急京都線と千里線(の一部)を走っていた。すなわち、吹田を出た列車は左に曲がって、今の千里線に入り、淡路を通って、阪急南方の手前で現在線に合流していたのである。その旧線が廃止されるにおよび、廃線敷の払い下げを受けて千里山電鉄(→阪急千里線)が開業したのである。ただし、阪急電鉄は曲線改良を中心とした線路改良を幾度となくおこなっており、現在の阪急線がそのまま旧線跡とは限らないようである。

長い新淀川の鉄橋を渡ると、「はるか」ルートの貨物線が左に別れ、間にJRバスの車庫が広がる。近畿圏各地を発着する夜行バスが昼寝をする場所である。周りをどんどんビルに囲まれ、右にカーブしながら大阪環状線と合流すると、左に観覧車を見上げながら大阪に到着する。大阪駅は、東海道線と大阪環状線の2つの路線にしか所属していないにもかかわらず、実際は山陽方面や山陰方面、北陸方面、近畿圏南部などへの始発駅としても機能している。そのため出入する車種も多彩で、日本で最も数多くの車種を見ることができる駅ではなかろうか。駅近くには、JR東西線北新地、地下鉄御堂筋線梅田、谷町線東梅田、四つ橋線西梅田、阪急梅田阪神梅田と各鉄道のターミナルも集結しており、早朝から深夜まで周辺に人の流れが絶えることはない。かつて、大阪の街外れの、「埋田」と呼ばれる寂しい土地に駅が造られてからどれだけ周囲が変化したことか。

右下に、梅田貨物駅を見下ろしながら大阪を出発する。直進する大阪環状線と別れて右に急カーブし、左に阪神高速池田線と並行しながら新淀川を再び渡る。渡り切ったところが塚本で、ここを過ぎたところで宮原運転所への回送線が右へ分岐し、宮原運転所を経由してきた北方貨物線が合流する。右に見える高い高架線は山陽新幹線である。お気付きのこととは思うが、大阪には大阪環状線の北側にもう1つ環状線があることになる。環状運転する列車はまずないのであるが、この「環状線」のおかげで、東海道線関連の列車は大阪駅で入換して折り返すことがなくてすみ、回送線は全て立体交差で構成されているので、他の列車を干渉することなく列車を入れ換えることができるメリットがある。

右にJR東西線の加島(線路は地下なので駅舎しか見えない)を見下ろし、やがて、外側線と内側線の間にJR東西線が地下から上ってくる。合計6線が地上に並んだところで神崎川を再び渡り、尼崎に到着する。東西線関連の工事が始まるまでは、大阪から2駅の分岐点にしてはかなり貧素で、旅客施設よりも貨物施設のほうが目立っていたのだが、いまでは、4面8線のホームを持ち、新快速まで止まる(福知山線は特急まで止まる)立派な駅になっている。かつては、普通電車しか止まらなかったのに、である。

福知山線が右にオーバークロスして別れると、左にアルナ工機が見えてくる。阪急電鉄の系列の工場で、製造中の阪急車輌が見られるほか、東武の車輌や、路面電車を見掛ける事もある。広島電鉄5000系グリーンムーバーも、ここで製造されたものである。かつて、アルナ工機に尼崎から引込み線が伸びており、吹田操車場から阪急正雀工場に線路が繋がっていたため、新造された阪急車輌は東海道線を回送されていたのだが、国鉄合理化のあおりでその引込み線が廃止されてからはトレーラーで道路輸送になっている。

立花を過ぎる頃になると阪神大震災の爪あとが見受けられるようになる。震災直後に比べてみれば、確かにかつてのような街並みが戻ってきたような気がするが、人々の暮らしというところから見ると、まだまだのところが多いようである。周囲は住宅や工場が広がっている。甲子園口西ノ宮の間で阪急今津線の下をくぐる。西ノ宮は、近くの阪神西宮や、阪急西宮北口に比べると地味な存在で、普通のほかは、一部の快速列車が申し訳程度に停車するに過ぎない。徐々に右側に六甲の山並が近付いてくる。また、左手には阪神高速神戸線の高架橋や、まれに阪神電車の線路が見える。

谷崎潤一郎の小説「細雪」の舞台であり、高級住宅街の代名詞ともなっている芦屋市に入る。中心駅といえる芦屋を過ぎると、列車は掘割りを走り、やがて芦屋川をくぐる。震災後新設された甲南山手、続いて摂津本山と過ぎ、住吉川をくぐると神戸新交通六甲ライナーの高架橋が上に覆い被さって住吉である。スラブ式軌道の高架に駆け上がり、しばらく走ると六甲道である。阪神大震災の時はこの高架橋が崩壊し、六甲道を挟む区間が東海道線で最後に復旧した区間となった。また、この区間は冬場には神戸方の線路の先に夕日が沈み、運転士泣かせではあるが、美しい光景を楽しむことができる。

高架線を下り、線路の周囲が少し広がると東灘信号場である。ここから、神戸港へ向かう貨物線が分岐しているのだが、このたび、神戸市の再開発で貨物駅が神戸港から鷹取に移転することになり、数年のうちにこの貨物線は廃止される運命である。を過ぎ、周囲が住宅地から商業地へと変化してくると、右側上空から阪急神戸線が接近してきて並行するようになる。阪急春日野道の脇をすり抜け、ビルの建ち並ぶ中三ノ宮に到着する。右の山側は阪急三宮、駅ビルには神戸新交通ポートライナーが乗り入れており、また駅前の地下には阪神電鉄や神戸市営地下鉄が乗り入れ、さらには中国、四国へ向かう高速バスの発着場も近くにあって、一大ターミナルを形成している。

三ノ宮を出ると、中華街に近い元町、ポートタワーを左に見ながら左にカーブして終点の神戸である。かつての栄華を偲ばせる威厳のある駅舎があるが、駅自体の雰囲気は終端駅ではない。この先山陽本線へ続く線路の、あくまで中間地点の佇まいである。駅前に広がるハーバーランドは、一時三ノ宮に完全に奪われていた街の活気を取り戻すのに一役買っているようである。ただ、そのハーバーランドのある場所が実はかつて湊川貨物駅であったということを覚えている人は、どれだけいるのだろう。

この貨物駅を使って1983年夏に「中国の鉄道大博覧会」なるものが開かれたこともあり、この時は実際に建設型の蒸気機関車を中国から持ち込んで、標準軌の線路を敷いて走らせるという企画があった。当時幼稚園児だった私は、親にねだってこの博覧会に連れて行ってもらい、この機関車のキャブに乗るという体験をすることができた。かなり暑かったという記憶ぐらいしか残っていないのが残念であるが、こんな企画、今では安全性の問題があってできないのだろうかと思うと、貴重な体験だったと改めて感じる。この蒸気機関車、今でも神戸市内のどこかに保存してあるらしいのだが、残念ながらその場所がわからない。

ともあれ、線路はこの先山陽本線である。


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