京急本線(泉岳寺・浦賀)、久里浜線(堀ノ内・三崎口)


最新乗車 2001年春


都営浅草線に接続する、高速神戸によく似た2面4線の泉岳寺が京急本線の始発駅である。地下の泉岳寺を出るとやがて田町電車区の横で地上に出、そのまま高架に上がって品川駅に滑り込む。中間駅のような佇まいの泉岳寺に比べると、快特や普通車(京急での呼称に合わせた)を中心に始発列車が多く、都営線直通列車に対して増解結が行われる品川の方がよほど始発駅の貫禄を持っている。ただ、駅前が他の大手私鉄に比べて栄えておらず、都内における「顔」がない電鉄といえる。このため、三浦半島で集めた都内への客は横浜でより高速で都心に直行する東海道線や東横線に乗り換えてしまい、京浜間ではあくまで東海道線や京浜東北線、横須賀線のお零れをもらって細々と走っているに過ぎない。

ラッシュ時の特急の京浜間の所要時間が各駅停車の京浜東北線と同じであるのも問題で、そのくせ加減速が激しいことやカーブに高速で突っ込んだりとJRより乗り心地が悪いので通勤客を中心とした乗客に避けられる傾向にあり、これらことがラッシュ時でも2扉クロスシート車を入れたり、昼間時を中心とした快特120km/h運転を実現する遠因となっているといえる。ラッシュ時において並行JRに勝っていることといえば、ダイヤが滅多に乱れないことぐらいしかない。どちらかといえば、京急はハレ(ケ、ハレのハレ)の乗り物といえるかもしれない。

左にJRの構内を見下ろしながら品川を出ると、制限25km/hの左カーブをゆっくり回り、JR線をまとめて跨ぐ。と、今度は右に急カーブしながら道路を渡り、北品川を通過する。この辺り、京浜急行の有名な撮影地となっているが、最近新幹線品川駅建設の関連か、道路工事が行われており、撮影者を見掛けることは少ない。現在踏切となっている箇所から以前は道路上をしばらく走っていたが、線路改良で現在の専用軌道に移っている。北品川の辺りから電車は一気に加速し、高架に駆け上がる。国道15号線(第1京浜)を見下ろしながら新馬場を通過する。京急川崎以北は元は第1京浜の道路上を走っていたものが現在の路線に徐々に移されてきており、最後まで残ったのが先ほどの北品川辺りであった。特急停車駅の青物横丁を出ると右に急カーブし、すぐに鮫洲を通過する。12輌快特などの最前部に乗っているとき、ここで後ろを振り返るとまだ最後部が青物横丁のホームを抜け出ていなかったりする。それほど駅間が短いのである。今度は左カーブして直線に入り、立会川大森海岸と過ぎる。この辺りが快特が120km/hま で出す区間で、平和島を出ると地上に降り、大森町梅屋敷と過ぎて京急蒲田に到着する。梅屋敷の駅は両端を踏切に挟まれてホームを延伸できず、4輌分しかないので、6輌編成の普通車はホームに掛からない2輌のドアを開けない。このため京急川崎以北に入る普通車で6輌のものは、このドアカット機能(京急ではAuto Door Lockの頭文字をとってADLという)が付いた編成の限定運用となる。

京急蒲田空港線の分岐駅であり、3線しかない線路を奪い合うように列車が発着している。現在高架化が行われており、完成すれば上下2段合わせて2面6線、うち2線通過線という現在よりかなり余裕のある駅に生まれ変わる。完成は当面先なので、現在の綱渡りのような運行形態はしばらく続くことになる。1番線から直接横浜方面に出入りできる線路が取り付けられて現在は解消しているが、この中でもっとも綱渡り的な運用といえば早朝、三浦半島から羽田空港を目指す直通快特、特急で、横浜方面から3番線に到着し、一旦品川方向に引き上げて折り返し転線し、空港線用の1番線に据え付けるという離れ業をやってのけていた。この直通列車の運転が早朝だけに限られているのはやはり線路容量の都合のようであったが、前述の連絡線ができてからはほぼ終日三浦半島からの羽田空港直通が行われるようになった。高架完成後は余裕ができるためか、完成予想図の配線図を見る限り横浜方面対羽田空港の輸送に重点を置く模様である。というのも、上り品川方面の階に空港線空港方面 行きの線路が、下り横浜方面の階に空港線品川方面行きの線路があるためである。

京急蒲田を出ると環八の踏切を渡り、雑色を過ぎると築堤を駆け上がって六郷土手を通過し、右に東海道線と並行してスカイブルーのトラス橋で多摩川を渡り、神奈川県に入る。この鉄橋の辺りがかつて東海道の六郷渡しがあったところである。渡り切ったところで地平の大師線との連絡線が分岐し、2面4線の京急川崎に到着する。川崎の工業地帯の玄関口である京急川崎は、大師線が分岐し、本線においては終日快特、特急と普通車が接続する駅で朝から晩まで人波が絶えることがない。駅前に巨大なパチンコ屋が2つもあるのが、川崎らしいといいますか…。京急川崎を出ると、JR川崎の駅前広場の上空を高架線で突っ切り、市電通り(かつて川崎市電は京急川崎の脇から発車し、この市電通りを通って海へと向かっていた)の鉄橋を渡ると高架を降り、旧東海道の踏切を渡って八丁畷を通過する。この踏切の手前、右に見えるレンガの構造物は川崎新町から川崎につながっていた(現在廃止)国鉄貨物線の橋台で 、左に見える小さな祠のようなものは「松尾芭蕉麦の別れ」の史跡である。八丁畷はJR南武支線との接続駅で、朝夕を中心に乗り換え客がいるが、いかんせん京急は普通車のみ停車、南武支線の2輌ワンマンの101系が走る程度なので隣の川崎には及ぶはずもない。この駅で特筆すべきところは、かように小さな連絡駅のため、京急の跨線橋が上を走る南武支線のホームとなっていることであろう。以前、この駅の近くに住んでいたのだが、それくらいしか思いつかない…。後は、南武支線ホームから東海道貨物線を走る貨物列車が撮りほーだいといったところか。

八丁畷を過ぎると、左にカーブしながら鶴見市場を通過し、高架に駆け上がって鶴見川を渡り、そのまま高架で京急鶴見を過ぎる。ここは京急とJRが併走しているため、駅前広場を共有している。京急鶴見の先、高架を下りながらJR線と密着するようになり、鶴見線をくぐって花月園前を通過する。この辺り、西側から横須賀線、京浜東北線、東海道線、羽沢貨物線、高島貨物線、そしてこの京急本線と12本も線路が並び、壮観である。京浜間120km/h運転開始に伴い、半ば強引に下り線に待避線が設けられた生麦を過ぎる。この辺りがかの有名な鶴見事故の現場であり、JRの線路脇には慰霊碑も立っている。高島貨物線の下をくぐり、右にカーブしながら京急新子安を通過、すぐ右横には京浜東北線の新子安もある。やがてぴったりJRと併走し、京急が左カーブして離れると子安である。子安と次の神奈川新町の間には新町検車区が広がり、また上り品川方面の線路が新町(神奈川新町の略称)、子安間で2線となっているのも特徴である。乗務員交替も行われる新町を 出ると、築堤を上って仲木戸。この仲木戸はJR東神奈川と駅前広場を共有しており、知られざる乗換駅である。私も新横浜から新幹線に乗るときによく利用した。

坂を下って掘割の中、JRと並行して神奈川を通過し、京急1の乗降客数を誇る横浜に到着する。現在、島式ホーム1面であるが、朝夕のラッシュ時は乗降客が錯綜して混乱が生じているため、環状線天満や御堂筋線難波や山手線渋谷のように下り側に片面ホームを新設し、上下線の乗降客を分離する工事が行われている。京急ホームはJRに間借りして京浜東北、根岸線ホームの横に位置しており、相鉄や東急と比べて案外見つけにくい。横浜を出ると急カーブを左へ右へと回り、根岸線、東横線をくぐって高架に上る。上りきったところにある廃墟が平沼駅跡で、原爆ドームと同じく戦争の生き証人として、戦災で焼け落ちたままの姿を今に伝えている。最近まで、架線のビームを兼ねた屋根のアーチも残っていたのだが、崩落の危険があるとのことで撤去されている。

今までの高速走行がうそのように、ゆっくりとビルの谷間の高架線を走り、左にカーブして戸部を過ぎる。ここを出るとスピードは心持ち上がり、やがてトンネルに突入する。神戸ほどではないにしろ横浜が坂の町であるためで、次のトンネルの上には動物園もある野毛山公園が広がっている。トンネルの中で電車は徐行し、右カーブしながらゆっくりと日ノ出町を通過。ここから黄金町を越えて南太田までの区間は大岡川に沿って走り、海に近いためかモーターボートと併走することもある。黄金町は湘南電鉄として浦賀逗子に向けて郊外電車を開業した1930年4月から1年半の間始発駅だったことがあるが、すぐに横浜までの線路が開通したことから始発駅だったという面影はない。ちなみに当時湘南電鉄は標準軌(1435mm)、架線電圧1500V、京浜電鉄が馬車軌(1372mm)、架線電圧600Vだったためすぐには直通できず、京浜電鉄が標準軌に改軌される1933年4月まで日ノ出町にて乗り換えという状態が続いた。直通が始まってしばらくすると湘南電鉄は京浜電鉄に合併されている。

追い越し施設のある南太田を出ると、再び電車は加速してトンネルをくぐる。井土ヶ谷弘明寺と過ぎてトンネルを抜けると途端に視界が開け、快特停車駅の上大岡に到着する。駅ビルの中に駅が設けられており、また地下鉄と接続している。もっとも地下鉄は道路の下なのでその姿は見られない。上大岡からしばらく、最近完成した高架線を走り、やがて緑の中をトンネルに入る。屏風浦杉田と湘南電鉄開業前後の頃から開発されてきたような住宅地の中を走る。杉田を出て根岸線をくぐるあたりからは根岸線開業前後からの新しい宅地の中を走るようになる。京急富岡能見台と過ぎ、国道16号線と並んで坂を下ると京急の三浦半島での拠点といえる金沢文庫に到着する。品川金沢文庫間では快特、特急(下りのみ)の12輌運転が行われているため、金沢文庫では朝から晩まで列車の分割、併合作業が行われている。近年、分割されたらそのまま入庫していた付属編成を、そのまま普通車として金沢文庫以南新逗子浦賀まで運転する(その逆方向も)ようになり、普通車 のみの停車駅や、逗子線方面と横浜、東京方面間で快特による直通サービスが図られている。金沢文庫を出ると、左には京急の金沢検車区、右には製造中の新車が見え隠れする東急車輌の工場を眺めながら、京急唯一の複々線区間を走り、留置線や工場が収束し、東急車輌の工場から新車搬出用の線路が合流すると金沢八景である。ここで逗子線が分岐し、複線に戻る。

追浜京急田浦を過ぎ、トンネルを出たところで横須賀線と立体交差。この後、トンネルをいくつもくぐりながら、安針塚逸見汐入と過ぎる。この辺りまでくると宅地化の波はさほどでもなく、おそらく湘南電鉄開業時からそんなに変わっていないのではないかと思われる緑の中を走る。それにしても湘南電鉄は建設当時、かなり思い切った線路選定をしていることがわかる。単なる戦前の郊外電車にしては、まるで現在の新幹線や通勤新線のようで、トンネル、盛土、切り通し、高架を多用しており、踏切も必然的に少ない。軍港に向けた鉄道のため、海軍の意向が働いて海岸に線路を引くことを許してもらえなかったからなのか、それともよほど潤沢な資金があったのか、どちらかは分からないが、画期的な線路選定だということは少なくとも言える。ただ、海岸沿いに引くことを許してもらえたとしても岬の付け根はトンネルにせざるを得ないだろうし、できるだけ横浜と横須賀を直線で結ぼうとしたのなら、現在走っているところを選ぶほかなかったのかもしれない。

横須賀の中心駅といえる横須賀中央を出るとトンネルを抜けて京急安浦を通過する。辺りは山がちな今までと違って開けており、左には海が見え、町が広がっている。堀ノ内で久里浜線を分岐して、本線は京急大津馬堀海岸と海沿いに走り、トンネルを1つ抜けると終点の浦賀である。駅前に広がる浦賀港には渡船があるらしい。

堀ノ内から分かれる久里浜線は、かつて久里浜への軍事輸送のために建設されたが、戦後観光地として京急が目をつけたことで、もはや浦賀へ続く本線よりも本線らしくなり、快特、特急は基本的にこちら久里浜線に入る。堀ノ内を出ると右に急カーブして本線と分かれ、最近開けた宅地の中を新大津北久里浜と過ぎる。北久里浜を出ると両側に留置線が大きく広がる。京急久里浜工場である。工場内には京浜電気鉄道デ1と湘南電鉄デ51が保存されているのだが、本線脇に置かれているのでよく見える。高架に上がり、横須賀線久里浜を見下ろすように京急久里浜に到着する。ここで折り返す列車も多く、2面3線の環状線西九条のような配線となっている。久里浜の港からは東京湾を挟んだ房総半島の金谷まで連絡船が出ており、これに乗船して東京湾を一周する割引切符なんかが発売されていたりする。

京急久里浜から先は1963年から1975年にかけて3段階に分けて開通した区間で、建設費を圧縮するためか京急長沢三浦海岸間以外は単線となっている。京急久里浜を出て、単線の長いトンネルを抜けるとYRP野比である。YRPは横須賀リサーチパークの略らしく、以前は野比という駅名だったのが、YRP開設に合わせて駅を改築した際に改名されている。単線のままYRP野比を出、左に海を眺めながら複線になって京急長沢津久井浜と過ぎ、高架になって三浦海岸に着く。夏に来れば海水浴客などで賑わうのだろうが、私は冬にしか行ったことがないので、ただガランと広いホームが印象に残る。三浦海岸を出ると線路は再び単線となり、谷渡りの高架線を渡ると、終着の三崎口である。この先、三浦半島の先端へはバス連絡となる。

京急はここからさらに三崎まで線路を伸ばすつもりで車輌の方向幕にも三崎というのが用意されていたのだが、近頃免許を失効したらしくその三崎と書かれた方向幕も外されてしまった車輌が多い。ただ、路線の延長は完全に諦めたわけではないようで、油壺までは伸ばすつもりではあるらしいが、はたしていつになることやら。


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