最新乗車 2001年夏
どちらかといえば、野球チームの方が全国的に有名となっている電鉄である。ちなみに私は「電車は阪神、野球は阪急(→オリックス)」なので、タイガースはどちらかというと嫌いなほうである(そんなこと言っていいのか?)。阪神間の並行3路線の中では最も海側を走り、その分地盤が軟弱なためか阪神大震災では施設にかなり大きなダメージを受け、廃車した車輌数も被災各鉄道の中で一番多かった。最近、山陽電鉄姫路まで特急の相互乗り入れを開始したが、震災で再開時期の遅れからJRの後塵を拝して以来、絶対的な所要時間の長さや沿線人口の大幅減も伴って巻き返すまでは至っていない。これからの明るい話題といえば、ようやく動き出した西大阪線難波延伸による近鉄との相互乗入れである。阪神地区から大阪ミナミ、奈良大和路へ直行する唯一の路線となるだけに、どこまで持ち直すか見ものである。
阪神梅田は昭和初期からの地下駅であるが、先のことを見通して設計された構造のため、現在の6輌編成の電車がちょうどおさまる規模となっている。現在の大手私鉄ターミナルとしては手狭と言えるかもしれないが、それなりに機能的にできており、乗降客もそんなに多くないことから、下手に大きくて右往左往させられるターミナルよりも便利である。梅田を出るとかつてはすぐに地上に上がって出入橋駅跡(開業当時の大阪側ターミナル、今はこの辺り一帯はハービス大阪になっている)に至っていたが、曲線改良と合わせて国道2号線の下に地下区間の延伸が行われ、現在は福島の先まで地下になっている。かつての線路跡は環状線福島駅ホームから、不自然に湾曲した建物として視認でき、また所々空き地も見られる。地上駅から地下駅に移り、急行も停車するようになった福島を過ぎると右カーブを切りながら地上に出、かつて逆転劇のあった立体交差で環状線をくぐってそのまま高架へ駆け上がり野田に着く。駅前の地下には地下鉄千日前線(
駅名は野田阪神)、JR東西線(駅名は海老江)が集まり、交通結節点となっている。かつては北大阪線や国道線といった阪神の経営する軌道線のターミナルでもあった。今はその遺志を継いだ阪神バスのターミナルとなっている。
右カーブして淀川を通過し、次の姫島との間で阪神高速3号神戸線と並行しながら新淀川を渡る。神崎川の中ノ島にある千船を過ぎて兵庫県に入ると、左カーブ上に存在する杭瀬を通過する。阪神電車は阪神間の集落をこまめに通り、集客に努める線路選定を行った結果、大半が高架や地下と立体化された現在でもくねくねとカーブが続く。これは関東の京浜急行本線と同じであるが、最高速度が京急の120km/h(京浜間)に対して阪神は105km/hのため、今ひとつ迫力に欠ける。阪神がかつてこの線形の悪さに堪えかねて高速新線を作ろうとしたことがあり、その名残が大物で左から合流する西大阪線である。
西大阪線は、現在でこそ尼崎と西九条を結ぶ都市内のローカル線であるが、尼崎、千鳥橋の間は阪神間をより直線で結ぶ高速新線の一部として作られた経歴を持っており、出来島、福、伝法とおよそ阪神らしくない直線主体の線形で下町の中を真っ直ぐ伸びている。戦争やら何やらで高速新線の夢が潰えた後、今度は近鉄難波へ延伸すべく西九条まで線路は伸びたが、その先は建設予定沿線住民の猛反対に遭って線路は環状線を跨がんとする位置(心持ち低い気がするのだが…)で40年止まったままとなっている。ところが、かつて反対した住民の子供の世代が誘致を行うようになったこともあって、近頃ようやく建設再開の目処が立ち、阪神悲願の難波延長が実現されることになった。とはいえ、まだまだ完成(2008年度予定)までは時間がかかるので、それまでは阪神間からUSJへの近道として利用されるのが精一杯である。USJ特急という形で、かつてのN特急(西大阪線直通特急のこと)を復活させたら面白い気がするが、4輌が組める赤胴車が少なくなった今、
難しいだろうか。それならばといってはなんだが、青胴車の特急というのも見てみたい気もする。
大物と尼崎の間は本線と西大阪線とで複々線となっており、左に尼崎車庫、工場が広がる。かつて武庫川線洲先にあった武庫川車輌という阪神系列の車輌メーカーも今は尼崎工場の中にある。阪神電車の製造や、他私鉄に売却する阪神電車の改造、それに叡山電鉄や京福電鉄など中小私鉄向け車輌の新製も行っている。現在最新の9300系電車もこの武庫川車輌で製造されたものである。ちょうど、JR東日本が新津で自社の車輌を新製しているのと同じ感覚である。かつては西武も所沢工場で阪神と同じようなことをしていたのだが、工場閉鎖とともに今はやめてしまった。車庫の線路が収束すると尼崎である。西大阪線難波延長の計画では、ここまで近鉄の10輌編成が乗り入れ、ここで6輌に減車することになってるため、駅構内の改造が予定されている。もっとも40年前の段階で立体交差や増設ホームの準備は終わっているため楽な工事になりそうであるが、21m級の近鉄車輌10輌分までホームを延ばすのは大変かもしれない(現在は19m級6輌分)。
次の出屋敷からはかつて東浜まで海岸線(この度開業した神戸市営地下鉄海岸線とは関係はない)という路線が海に向かって伸びていた。需要がなかったため戦後は軌道線用の車輌が使用され(車輌は杭瀬にあった鉄道線と軌道線との連絡線を通って回送)、高洲、東浜間の部分休止の後、第2阪神国道(国道43号線)の建設に伴って1962年12月に呆気なく廃止されてしまった。海岸線は現在阪神高速5号湾岸線の辺りを通って武庫川線、さらには甲子園線(現在廃止)と結ばれ、さらに今津まで延びる予定であったが、結局実現しないままとなった。最近まで武庫川には建設途中で放棄された橋脚が残っていたらしい。競艇の開かれる日は大混雑する尼崎センタープール前を過ぎると、武庫川の鉄橋上に設けられた武庫川である。ここで武庫川線が分岐しているのだが、本線ホームからはその姿は見えない。それもそのはず、武庫川線は本線と直角に武庫川右岸の堤防脇から出ているのである。
最近ワンマン運転が始まった武庫川線だが、この路線は州先にあった川西航空機の工場へ物資や工員を輸送するために、東海道線甲子園口、州先間に戦時中、突貫工事で建設されている。旅客輸送は武庫大橋(長らくの休止の後、1985年廃止)、州先(現在駅とは異なる)の間で行われ、他に貨物列車が甲子園口、州先間に走っていた。貨物列車は省線のものが直通するためもちろん狭軌であり、旅客列車は阪神電車のため標準軌、ということで武庫大橋、州先間は3線軌(武庫川団地前延伸で整備されるまで随所に残っていた)となっていた。終戦とともにお役御免となり休止されたが、しばらくして武庫川、州先(現在駅)間で電車運転が復活している。後に、川西航空機の工場跡が住宅開発されることになり、州先(旧駅)まで続いていた廃線跡も活用して現在の武庫川団地前まで延伸された。線路は武庫川、東鳴尾、州先とずっと武庫川の堤防脇を走り、州先からS字カーブして堤防から離れると、すぐに武庫川
団地前である。再開発で列車が再び来るようになった州先(旧駅)と違って、列車の全く来なくなった武庫川以北の線路は、本線との連絡線に一部使われている他はほぼ空地となり、一部は阪神電鉄の手によって住宅地として切り売りされた模様である。
武庫川を出るとすぐに武庫川線との連絡線が合流し、鳴尾を過ぎると定期外客を大量に集める阪神の稼ぎ頭、甲子園球場を控える甲子園である。待避線側には外側にもホームがあって乗降分離が可能であり、野球開催時には臨時停車する特急を待避線側に入れ、車輌の両側扉を開けて停車時間の短縮を図っている。駅で交差する広い道路にはかつて路面の甲子園線が走っていたが、1975年の阪神の軌道線整理と運命をともにしてしまった。阪神高速3号神戸線の高架橋の向こうに甲子園球場を眺めながら甲子園を出発し、名神高速道路をくぐる久寿川を過ぎると最近高架化された区間に入って行く。今津を通過すると、右側に同じ高架の阪急今津線の今津駅が見える。かつて地上だった頃は阪神の梅田方面のホームに急カーブを切って阪急が横付けされていたが、双方の高架化とともに開業時の駅の位置(阪急今津は実はそうらしい)に戻り、再び離れてしまった。せめて阪神、阪急ともホームが同じような高さにあるのだから、中間改札があってもいいのでホーム同士を直接つなぐ通路など作ってくれたら便利な気がするのだが、現在は地上2階のコンコー
ス同士が歩道橋で結ばれているだけである。
高架化工事に伴い廃止された西宮東口を過ぎると、近鉄との乗入れに対応してか長いホームを持つ西宮に着く。西宮東口は高架化により西宮と統合される形で廃止されたのだが、高架化は下り線が先、上り線が後と時間差がついたので、下り線高架化後、上り線が高架化されるまで、下り線には仮ホームが設けられていた。仮とはいえエレベータまで完備されており、豪華な仮駅であった。2001年6月8日現在、仮駅ホームはまだ残っていたが、今はもう解体されただろうか。すぐそばに東海道線を眺めながら(高架化されるまで電車からは気づかなかった)西宮を出ると、次は高架化に合わせて駅名を変えた(開業時の字に戻した)香櫨園である。高架化前には開業時からの洒落た駅舎が建っていたが取り壊されてしまった。しかし、新しい高架駅には以前の駅舎をモチーフにした意匠が施されており、個人的には、香櫨園駅がより洒落て生まれ変わった気がする。高架を下りて芦屋市に入ると打出。ついで特急停車駅(とはいえ、快速急行などは通過)の芦屋である。芦屋川の上に架かる橋の上にホームはあり、上流の阪急神戸線芦屋川も
同じく芦屋川の橋の上である。芦屋といえば高級住宅地が思いつくが、見た感じハイソな家並みが続くのは阪急よりも山側であるようで、阪神芦屋の周りはごく普通の街に見える。とはいっても地価とか家賃とかは高いのでしょうけど。
芦屋市を抜けると、神戸市東灘区である。この辺り、阪神では珍しく地平線が続いているが芦屋、住吉間は高架化されることは決定しており、この工事が完成すると、本線で立体化されていないのは鳴尾周辺、芦屋市内だけとなってしまう。深江を過ぎて青木。青木はフェリー乗り場への接続駅(現在はフェリーの相次ぐ廃止や乗り場の六甲アイランドへの移転で、接続駅ではない)として知る人ぞ知る駅であったが、阪神大震災後、大阪から神戸市内に直行できる最初の鉄道の終端となったため、一気に有名になってしまった。
阪神大震災については色々と思うことがあるがあえて省略し、このホームページのテーマに沿って鉄道についてのみ言うならば、震災は阪神、阪急、京阪を中心とする「私鉄王国関西」の幕を引いた、と言えるのではないだろうか。JR西日本の攻勢により徐々に弱っていた私鉄王国にとどめを刺したのが震災だと。震災後、一番早くそして速く阪神間を結んだのはJR西日本の新快速であり、復旧の遅れた並行私鉄は大都市間高速輸送を諦め、従来阪奈間や阪和間において近鉄や南海が得意としていた中間駅対大都市の輸送に徹するようになった。この流れは阪神間だけでなく京阪間にも及び、2000年6月の京阪特急中書島、丹波橋終日停車や、2001年3月の阪急京都線における特急の事実上の廃止(→急行への格下げ)といった施策が取られるようになった。もっとも阪神は従来から中間駅対大都市の輸送に主眼を置いていたと思われるので、震災によりかえって都市間高速輸送に目覚めたといえなくもない。とはいえ、例として上げられるのは山陽との直通特急の運転開始だけである。
六甲ライナーと接続する魚崎を出ると、上り線がまず高架となり、次いで下り線が高架になって住吉を通過する。住吉から次の御影までの間は立体化の進む阪神本線の中でも特に初期(1927年)に高架化された区間で、いいコンクリートを使っており、かつ設計にかなり余裕を持たせてあったらしく、高架橋は阪神大震災でもびくともしなかった。ただ、初期に高架化されたということで、現在のように19m級電車6輌編成が発着したり、さらに将来21m級の近鉄電車が乗入れてくるなどということは想定していなかったと思われ、特に急曲線上に存在し、細く、もはやこれ以上の延伸も難しい御影駅ホームはその最たる例かと考えられる。近鉄との相互乗入れに合わせて、御影と住吉を統合して間の直線区間に駅を移し、かつ現在の御影駅用地を使って曲線半径の緩和を行うのではないかと予想しているのだが、果たしてそうなるのだろうか。
左カーブの急曲線を抜けて御影を出ると複々線状の高架線に入る。ここは前述の高速新線に対応して造られた区間で、留置線として使われている山側2線はその高速新線用の線路である。「高架下に転げ落ちた8000系電車とそれに迫る火災」という構図の阪神大震災を紹介する写真や映像をよく見るが、これは留置線の盛土区間における崩壊現場をとらえたものである。しかし当時も今も、走行中の列車の転落として紹介されることが多く、少々心苦しい。本当に高架橋の崩落により走行中脱線転落したのは、新在家、大石間を走行中の普通電車が1本だけだったと記憶している。山側の留置線が尽きると石屋川で、海側には石屋川車庫の引き上げ線が1本伸びている。石屋川車庫は留置線が高架式の画期的な車庫であるが、阪神大震災の折、留置中の車輌もろとも崩壊し多数の廃車を出している。留置中の車輌の多くは現場解体となったが、復旧の見込みのある車輌も、尼崎工場が手一杯のため順番が回ってくるまでとりあえず埋立地の空地に運ばれて放置されていた。現在は車庫も新しく造り直され、路盤のコンクリートの白さが眩しい。
車庫が尽きると新在家である。震災復旧で作り直されたため真新しい高架線を走り、やがて2面4線の大石。かつて乗入れていた山陽電車は全てここで折り返していたが、2001年春のダイヤ改正で直通特急の増発が行われてからは大石折り返しの山陽電車はなくなった。震災復旧で盛土から高架橋に変わった西灘を過ぎると下り坂となり、掘割の中にある岩屋のホーム端から地下線に入る。すぐに電車は減速して、非常に細いホームを持っていることで有名な春日野道を通過する。岩屋と春日野道の2駅は駅周辺の再開発に合わせて改良工事(事業主体は神戸高速鉄道)が行われており、両駅とも上下線のホームが分離され、かつ春日野道は現在の狭隘なホームが解消される。というわけでおそらく春日野道通過のための減速がなくなると思われる。次は三宮。1936年にこの地下線が開業するまでは、路面で三宮へと乗入れ、その先滝道まで走っていた。地下線開業と同時に元町が終点となり、現在はここから神戸高速鉄道に乗入れ、山陽姫路へレールがつながっている。
なお、この阪神の頁を書くにあたって、阪神電鉄のオフィシャルホームページにある「まにあっく阪神」(4月1日は「はにわっく坂神」)というコーナーを参考文献の一つにしたのですが、本当に「まにあっく」なので、一読?をお勧めします。