《亜愛一郎》シリーズについて

 今は亡き雑誌「幻影城」の「幻影城第一回新人賞小説部門」に投じられた「DL2号機事件」が佳作入選し泡坂妻夫はデビューしたが、これは全24編から成る《亜愛一郎》シリーズの1作目でもある。泡坂妻夫の代表的なシリーズキャラクターと言うと真っ先に挙がるのが亜愛一郎と言える。
 亜愛一郎はカメラマンとして登場し、「背が高く、整った端麗な顔立ちであった(略)色が白く、貴族の秀才とでも言いたかった。目は学者のように知的で、身体には詩人のようにロマンチックな風情があり、しかも口元はスポーツマンのようにきりっとしまっていた」と美形の名探偵キャラクターとして造形はされているが、その容姿とは裏腹にあまりにもドジが多く収支はプラスマイナス零(いや、ドジの情けなさにマイナスかも)。だが、一旦奇想天外な事件や奇妙な人の行動を目にすると名探偵としての才能を発揮し、颯爽と事件の謎を解く。
 シリーズ中何度も出てくる三角形の顔をした洋装の老夫人の謎、及び亜愛一郎自身に関する「秘密」は最終話である「亜愛一郎の逃亡」で明かされ、シリーズはグランドフィナーレを迎える。
 シリーズは「幻影城」に発表され、1冊目『亜愛一郎の狼狽』が幻影城から刊行されたものの、雑誌「幻影城」の廃刊によりシリーズは一時中断。以降は掲載誌を角川書店の雑誌「野生時代」に移し、そのほか「小説推理」にも何編か作品が発表される。単行本は『亜愛一郎の狼狽』を含め3冊角川書店の単行本→角川文庫となっていたが消費税導入に伴う絶版の嵐に巻き込まれ、絶版に。だが、創元推理文庫より1994年に『亜愛一郎の狼狽』が復刊、遅れて1997年に『亜愛一郎の転倒』『亜愛一郎の逃亡』が復刊。現在全3巻、創元推理文庫にて流通中。


亜愛一郎の狼狽  680円+消費税

『狼狽』のベストは「G線上の鼬」

「DL2号機事件」
 宮前空港に届いた飛行機爆破予告。爆破予告に色めき立ち、厳戒な警備を敷いた警官たちの前に1人の男が現れる。彼は「ああ」と呼ばれていて、行動も挙動不審だ。爆破されると予告された飛行機は無事に到着し、何事もなく事件は終了したかのように見えた。
 名探偵亜愛一郎の記念すべき初登場作品、と言うのみならず作家泡坂妻夫のデビュー作でもある。丹念に伏線が張られた後に明かされる意外な真相、というミステリとして非常にオーソドックスな型なんだけれども、一見オーソドックスなミステリには見えない。それは、本編が(それは本編に限ったことではないんだけれども)奇妙な論理に支えられているからであろう。いきなり事件が起こってあっちゅう間に解決するという構造も見事。
「右腕左山上空」
 テレビコマーシャルの撮影で気球に乗ったヒップ大石と言うタレント。彼は各方面から多大なひんしゅくを買っていた。ヒップ大石が気球に乗り込み、撮影は開始される。だが、やがて状況がおかしいことに周囲は気づく。気球をおろしてみると、ヒップ大石は何ものかに殺された後であった。
 空中の開かれた密室というシチュエーションはホックの『サム・ホーソンの事件簿T』(創元推理文庫)収録の「古い樫の木の謎」にもあったが、同じ状況を扱った太平洋を隔てた競作と言う観点で見ると面白いかも。本編は鮎川哲也編の密室アンソロジーにも採られた1編。細かく積み重ねられた演出に支えられたトリックもであるが、本編はトリック云々よりも伏線の巧みさにこそ面白みがある。読み返してみると伏線がこれでもかと張られているんだから。
「曲がった部屋」
 美空ヶ丘団地は火葬場のすぐ近く。風向きにより人を焼く煙が流れてきたりして不吉なことこの上ない。美空ヶ丘団地はある政治家が己の力を顕示するために造った都市に立っていたのであるが、その政治家は既に亡く遺族は老婆とどら息子1人。そして、美空ヶ丘団地内で死体が発見される。
 亜愛一郎というと推理力は抜群だが他は抜けている、と言うイメージが強いと思うが本編では向かってくる犯人を投げ飛ばすという芸当を見せてくれる(尤も、投げ飛ばした後はバタンキューとなったが)。本編のメイントリック自体は基本中の基本、ミステリ史上死ぬほど使われているものだ。だが、本編の真価はそのトリックを支える奇妙なロジック。加えてサブトリックが更に効果をあげる。ただ、このサブトリック、今ではピンとこない人が結構いるかもしれない。
「掌上の黄金仮面」
 奈良の大仏以上の高さを誇る弥勒菩薩像のてのひらの上でお札に似た割引券を不気味な黄金の仮面を被った男が配っていた。一方、強盗事件の仲間割れで女性が殺害され、掌の上の黄金仮面が射殺される。だが、下から撃つには距離がありすぎて届かない。誰がどうやって、何のために射殺したのか。
 本編は個人的には如何にして犯行動機が形成されるのか、と言うプロセスがキモ。正直、射殺のハウダニットはどうでもいい。だが、どうして犯人は被害者を射殺しなければならないのか、というホワイダニットのロジックは納得させられる。奇妙なシチュエーションは虚仮威しではない、と言うのは当たり前。どうして黄金仮面が割引券をばらまいていたのか、その割引券がお札に似てなければならないのかと言うものが銀行強盗を軸に収斂される。本編を読み返して氷川透が主張するロジック=レトリックという説の傍証として本編は有効かも、と解決編を読みながら思った。
「G線上の鼬」
 頻発するタクシー強盗であったが、肝心の運転手は強気でどんとこいという趣だった。或る雪のよる、国道G線上でタクシー運転手浜岡は同業者が強盗に襲われた直後の状態でいたのに遭遇する。その時乗っていた客は亜愛一郎。そして、強盗に襲われた直後のタクシーに恐る恐る舞い戻ると強盗は血を流して死んでいた。
 全編これ伏線と言うべき作品で、さりげない描写の細部に至るまで伏線が仕込まれている。ミステリの醍醐味として伏線の妙と言うのが挙げられる事が多いが、ここまで拘った作品というのは空前絶後であろう。何故強盗被害者がタクシー強盗を表現する際に狐のようなではなく鼬のようなと表現したのか、という所から導かれるものから人間心理の奥をつく論理は逆説と言うより寧ろ強固なロジックと言うべきものである。本編はトリックらしいトリックはないけれども、ロジックがそのままトリックになると言う作品と見れば立派なトリック小説とも言える。
「掘り出された童話」
 大会社の社長が詫寿の祝い、と称し1冊の童話を自費出版した。文学の素養が全くない故か、その童話は全くの無茶苦茶なもので文章の体をなしていない部分もあって親切心で直したら逆鱗に触れてしまい最初から、間違った文章のままで本になってしまう。何故社長はこんなものを造らせたのか。
 エッセイ『ミステリーでも奇術でも』(文春文庫・絶版)によると、本編の冒頭部分を書く際は一日2行しかかけず「幻影城」の編集長であった島崎譲ネタにされたとか。暗号小説の極地、と言いたくなるような1編であるがこれが作者の暗号小説遍歴というか変な本遍歴(?)の最初になるとは本編執筆当初思ってもみなかったであろう。暗号そのものはシンプルであるが、その暗号に込めた思いと言うのはシンプル故に胸を打つものが……ないけれども考えてしまう。冒頭のマジックアイテムと暗号の絡ませ方は見事。
「ホロボの神」
 戦争が終わって幾年。ホロボ島へ戦友の遺骨を拾いに行く途中、中神康吉は船で出来妙な男に出会った。その男に中神は戦時中の、ホロボ島での奇妙な出来事を話す。それは、未開人の集落で起きた酋長の自殺事件の話だった。どう考えても自殺というものは文明の産物で未開の地にそぐわない。しかも、酋長は死の直前に死んだ妻と共に過ごしていた。死体は忌むべきものなのに。
 文明と未開人の遭遇が生み出した化学反応による殺人事件、と表現すべきか。「掌上の黄金仮面」に於いて「もし、たこが面を作ったら、もっと変わった面の付け方を考案するかもしれませんが」と亜が述懐する場面があるがこういう発想の元、すなわち異なる文明同士をぶつけたらどの様な結果がでるかと言う発想の元に本編は書かれたのであろう。現場となった場所には誰も入れないから自殺だろうという密室を作る必然性ベスト1に挙がるであろう想像を最初に登場人物にさせる。なお、本書は『有栖川有栖の密室大図鑑』(新潮文庫)でも取り上げられている。
「黒い霧」
 金堀商店街で起きた黒い霧の怪異……と言うわけではなく、何ものかがカーボンが入った袋を破き、カーボンをまき散らしていたのだ。そのせいでケーキはすすだらけ、豆腐もすすだらけ、何もかもすすだらけで収拾がつかない。カーボンをまき散らす仕掛けも発見され、誰が何のためにこのようなことをしたのかが問題になる。
 誰が、何のために? と言うフーダニットとホワイダニットを探る1編。奇抜な行動の裏には合理的な精神に基づいた何かがある、と言うミステリの大原則に則った正統派ミステリ短編……と言うにはやはりどこかずれてるような。それは、亜愛一郎というキャラクターや雰囲気が醸し出すのどかな雰囲気故なのか、逆説とも言える奇妙な論理故なのか(本編のロジックもやはり人間観察に基づくものであるが)。


亜愛一郎の転到  640円+消費税

『転倒』のベストは「砂蛾屋の消失」

「藁の猫」
 粥谷東巨かゆやとうきょの個展をがデパートで行われることになった。代表的遺作となった「新色藤子像」をはじめとして様々な東巨の絵が飾られることになった。東巨は自殺した妻の後を追うように自らの命を絶ったこともあって、個展は盛況を極めていた。個展の絵を見て絵に奇妙な点があることを見つけた男がいた。6本指の女性、物理法則を無視した水差し等々。何故東巨はそのようなことを?
 絵にまつわる疑問点から東巨の性格を割り出して全てにケリを付ける展開の仕方は亜愛一郎の、いや、泡坂妻夫の独断場と言っても良い。細かい観察から生み出される論理展開は独特の風格があり、一口にロジックと言っても様々なタイプがあると言うことを思い出させる好例と言ってもいいかもしれない。ダイイングメッセージかと思われた東巨の最後の妻と言うべき女性が死に際に握っていた藁の猫がどの様な意味を持つのか、という観点も面白い。
「砂蛾屋の消失」
 集中豪雨で崖崩れが起き、列車が止まってしまい復旧を待つしかない状況にある乗客たち。その中の何人かは歩いて先まで行くことを決意する。亜愛一郎を含む3人は家ごと消失してしまった砂蛾家の末裔の家に辿り着く。結局一晩そこで過ごすしかなくなり、泊まるのであるが、起きてみたら正面にあったはずの合掌造りの家が綺麗さっぱり消えていた。
 館の消失テーマはその謎の魅力に反して作例は少ない。思い出せるのは二階堂黎人の「ロシア館の謎」、折原一の『鬼面村の殺人』(光文社文庫)、芦辺拓の「殺人喜劇の迷い家伝説」、日影丈吉の「猫の泉」、忘れてならないクイーンの「神の灯」。家を丸々消すと言う荒技故か挑戦者は少ないが密室と違い作品の成功率は高い。本編は家の消し方自体は豪快すぎてトリックだけを抜き出せばアレなんだけれども(賛否両論別れることは必至)、トリックを支える伏線の妙はなかなかのもの。
珠洲子すずこの装い」
 加茂珠洲子が航空機事故で死んで1年。1年の間に歌手加茂珠洲子の名声は並々ならぬものになってしまい、特集はばんばん組まれる、レコードは空前の売り上げを記録すると言ったブームになっていた。一周忌を目前に控えた或る日、加茂珠洲子のそっくりさんコンテストが開催され、それぞれ予選を勝ち抜いてきた10人がステージに上がる。加茂珠洲子の大ファンである淑子は1人奇妙な人がいるのに気づく。
 なにげなーく物語が淡々と進んでいき、唐突と言っていいかもしれないタイミングで謎解きが始まる。本編は密室やアリバイはおろか、殺人すら起きない。では何なのかと言えば日常の謎、としか言いようがない作品である。泡坂妻夫に日常の謎系列の作品があることに驚く向きもあるかもしれないが、北村薫の名編「砂糖合戦」を思い出せば納得する向きも少なくないはず。両者に共通するのは人間観察に裏打ちされた、逆説とも言えるロジックである。
「意外な遺骸」
 馬本温泉郷で死体が発見される。その死体は奇妙な点があった。銃で撃たれ、茹でられ、そして焼かれていたのだ。有名な童謡の歌詞の如き死体の謎に皆頭を悩ませた。偶然学術調査の手伝いで撮影に来ていた亜愛一郎の推理は?
 オーソドックスな見立て殺人、と言うところ。本編は幾つか回文趣味が散見されるが、ここで用いられた回文は当時回文尽くしの長編と言える『喜劇悲奇劇』(ハルキ文庫)を構想していてその副産物とか。或る意味見立て殺人の定石に沿って事件は解決される。だから物足りないと言えば物足りないんだけれども、さりげない冒頭の描写がいいなあ、とも思えるので良しとする。
「ねじれた帽子」
 2月の或る日のこと。その日は風が強く、帽子が飛んでしまうほどであった。学者の大竹譲は助手の亜愛一郎を伴って歩いていたが、飛んできた帽子を拾ってしまい、落とし主に渡そうとするものの見つからない。帽子はぶかぶかで、頭に合っていなかった様子だった。落とし主は病院では保険証を使わなかったことが判明し、なにやら怪しげな雰囲気が。
《亜愛一郎》シリーズは「トリックのデパート」と評されることがあるが、実はこのシリーズの魅力はトリック云々よりも何気ない描写に含まれる伏線の妙とか亜愛一郎が繰り出す逆説とも言うべきロジックそのものなんだと思う。本編はそれを如実に示してる1編と言える。更に言うならば、亜愛一郎が見ている風景と我々が見ている風景は同じようでいて違う。結局は「解決編」で両者の見る風景は一致させられるんだけれども、2つの風景を繋ぐのはロジックであり、伏線である。
「争う四巨頭」
「もさ鬼」の異名をとった刑事鈴木は定年退職後1年もして若返り、「もさ鬼」は見る影もなかった。或る日彼の家に2人の人間が来客する。1人は亜愛一郎。回顧録を書く際、商店街で起きた黒い霧にまつわる殺人事件で特異な働きをした彼に詳しい話を聞こうと言うことで来てもらったのだ。もう1人は町の大物田中善行の孫娘田中美智子。彼女は祖父の様子が最近妙だと言って相談に来たのだ。
 何故町の大物4人が集まって誰も寄せ付けないのか。政財界の黒幕と言える男が死んだ記事で何故一喜一憂するのか。町の大物四人が集まって何を企んでいるのか? と言うのが最大の謎なんだけれども、真相は分かってみるとかなり可愛いと言える(笑)。まあ、60、70を過ぎた爺さんの登場人物を捕まえて可愛い、と言うのは不適切かもしれないけれども。亜が最初に示したダミーの真相は結構笑える。本編もまた日常の謎の系統か。本編もまたと言うべきか、しつこいと言うべきか(笑)、さりげない伏線の妙が良いです。
「三郎町路上」
 三郎町を走るタクシーに突如現れた死体。その死体は、一旦降ろしたはずの人間の死体だったのだ。どう見ても事故ではない死体。殺人である。運転手は被害者を乗せる前、アベックを乗せたことを思い出す。2人はかなり物騒な会話をしていたのだ。運転手の証言を得た警察はあたりをつけてアベックの元へ行く。その正体は学者の朝日響子と亜愛一郎だった。
 消失と登場の違いはあるが、ホックの《怪盗ニック》シリーズに「謎のバミューダペニー」という車から人が消える話がある。泡坂妻夫がホックを意識していたか否かは解らないが(未読のエッセイに書いてたりしてね)、「右腕左山上空」同様に太平洋を隔てた競作と考えると楽しい。トリック自体は単純で、奇術的な発想と言える。ミスリーディングに奇術的なものを感じるのは作者がマジシャンだという先入観故なのかどうかは定かではないが。
「病人に刃物」
 盛栄堂病院で起きた奇妙な事件。衆人観衆と言える状況の下、1人の男が刃物による殺傷により死亡。男に近づいた人間はなく、また、自殺と言うには不可解な目撃情報であったが1人の男が犯人として浮上する。彼は良く切れるナイフを自慢していた。一方、死んだ男はなにやら思わせぶりなことを言っていたのであるが……。
 綾辻行人編の『贈る物語 Mystery』(光文社)にも収録された1編。衆人観衆による広義の密室と言う状況(マクロな視点)と解決に於けるミクロな視点の差違の大きさに唖然とさせられる。この作品のネタは結構衝撃的と思うけれども(今のご時世ならなおさら)、発表当時は今以上に衝撃的だったんだろうねえ。願わくは本編のネタが意外でも何でもないという世の中にならないで欲しいものだ。やはり本編も伏線もだが真相を暗示する、或いは目をやる描写の細やかさは良い。


亜愛一郎の逃亡  620円+消費税

『逃亡』のベストは「火事酒屋」

「赤島砂上」
 裸体主義者が借り入れた孤島、赤島では裸体主義者が思いのままの生活を送っていた。無論、言うまでもなく皆裸、すっぽんぽんである。赤島には淡水でしか生息しないはずのヘゲタウオが磯に生息しているというので亜愛一郎と草藤は裸体主義者に紛れて撮影していたのを自分たちを撮ってるものと勘違いされ、詰問される。誤解も解けた所で闖入者が1人、ボートに乗ってやってきた。
 根本の発想としては《亜愛一郎》シリーズ中の1編「珠洲子の装い」と同じな気がするが(如何に化けて人の目を欺くかという点に於いて)、一方でチェスタトン的なものも感じる。この《亜愛一郎》シリーズがチェスタトンのブラウン神父譚を意識してるのは周知のことでチェスタトン的なものを感じるのは当たり前の事ではないのか? と言う意見もあるだろうが、抽象的な印象ではなく、具体的な1編が思い浮かぶのだ。「木の葉は森の中に隠せ」という警句が有名なアレです。
「球形の楽園」
 蠍山へ向かう道路で弁造は車の故障で途方に暮れていた亜愛一郎と戸塚左内を拾うことになる。弁造の向かう先は蠍山一体を仕切る大地主、四谷乱筆の邸宅だった。成り行きで弁造についていった亜と左内は、そこで乱筆が球形のシェルターの中で死体となって発見される現場に出くわしてしまう。死因はどう考えても自殺とは思えない状況で、シェルターの中には乱筆しかいなかったのだ。
 本編のトリック自体は仕掛けたその時点で解ると思う。更に言うならば先行する短編や長編、近年の長編などに似たような原理を見出すのも可能だ。本編はトリックそのものではなく、被う雰囲気に身をゆだねる読み方の方が楽しめるだろう。球形の楽園≠フ中での死という殺人という殺伐とした状況にも関わらず、メルヘンチックな感覚にとらわれるのは事件現場が或る意味メルヘンチックな状況だからなのか。本編を読んで、亜愛一郎の事件関与のプロセスというかきっかけにちょっと笑ってしまった(と言うのもね、走ってトラックに追いつくんですよ。しかも、トラックにへばりつくし)。
「歯痛の思い出」
 刑事である伊井和行は十年ぶりの歯痛に、耐えに耐えたものの結局歯科医にかかることになる。たらい回されて東欧医科歯科大学歯学部付属病院に行くことになったのであるが、そこで奇矯な行動をとる人間を見かける。亜愛一郎も病院に居合わせていた。診察の順番の関係で伊井は亜と共に行動をすることになる。そして、おもむろに亜は伊井に1つのことを尋ねる。
 患者の名前を呼ぶシーンで「亜さん、伊井さん、上岡菊けこ……?」と言うのが何度か連発されるけれども、しつこいギャグのようでいて実は意味がある(さすがに三度目以降はつっこんでしまったが)。このシリーズでは何でもないお話が一変ミステリに変貌するという構成のものが何編かあるがこれもその一つ。一見普通の行動に見えて実は……と言うのは如何に観察し、その結果を如何に飛躍させるかにかかっている。本編はその飛躍が巧くいった一例であろう。
「双頭の蛸」
 雑誌記者亀沢均は北海道の少年からよこされた一枚の葉書を片手に、山奥の湖にいるという双頭の大蛸を探しに赴いた。現地では葉書を書いた少年はうそつき呼ばわりされていたが、亀沢はめげなかった。少年の証言を元に、湖まで行くと2人の男が調査していた。彼らは大蛸の調査ではなく、湖に済むヘゲタウオの調査に来ていたと言うことであった。そこで、亀沢が連れてきた調査隊の1人が変死を遂げる。
 なんとなく田中啓文の《UMAハンター馬子》のシリーズみたいな感じだが、言うまでもなく、《UMAハンター馬子》のシリーズが後である。双頭の大蛸は存在するか、その正体は? と言った伝奇的な興味ではなく、あくまでも中心にあるのは誰が如何にして殺したか? と言うもの。被害者を殺したのはどう見ても亜愛一郎の同行者である学者さんだ、と言う状況をひっくり返す亜の推理が本編の眼目であるが、シンプルながらも、いや、シンプルだからこそ効果をあげている。
「飯鉢山山腹」
 双宿もろじゅくの中学校には2人の優秀な学者がいる。1人は歴史の武者小路、もう1人は考古学の田岡。田岡は連休の雨上がりの午後、山奥へコノドントの化石の発掘に赴いた。同行者は妻と亜愛一郎、そして小永井。作業の途中、校長が通るわ、無茶な運転をする車はいるわであったが作業は進む。彼方に煙が見え、煙の方向へ行くとそこでは車が崖より転落していたのだ。警察呼び、調べてみると事故ではなく他殺だった。
 些細な事象を積み重ねて意外な犯人を割り出す。《亜愛一郎》シリーズを読んでいると時々これは帽子から鳩を出す奇術をミステリに応用したものではないのかしらん、と思うことがある。本編も分類すればこれ。解決編で些細な会話、風景の描写に潜む伏線が現れたとき、それまでの風景は一変する。本編も他の《亜愛一郎》シリーズの作品に勝るとも劣らないものであるが、終幕のおとぼけ具合では一歩ぬきんでている。この辺、亜愛一郎が神の如き名探偵と呼ばれない所以なのか(笑)、と思ったり。
「赤の讃歌」
 美術評論家の阿佐冷子は、画家の鏑鬼正一郎の画風の変化にいぶかしげなものを感じていた。赤を基調とするその画風は、初期作品は心を打つ魂の叫びを感じたのであるが今ではその叫びは感じられない。だが、絵画をここまでの流行に押し上げた手腕、政治力は認めざるを得なかった。冷子は偶然知り合った2人と共に鏑鬼正一郎の故郷に向かい、画風の変化の原因を探ろうとする。
 トリック自体は単純で、亜愛一郎が絵解きをする前に勘づく人は少なくないだろうと思われる。だが、本編はそのトリックを支えるために張り巡らされた赤のイメージにこそ本領がある。土屋隆夫の『赤の組曲』(光文社文庫他)を意識したのか否かは解らないが(そもそも『赤の組曲』は読んだか否かすら覚えてない>こら)、赤のイメージと絵画を巡る絵解きは鮮烈である。
「火事酒屋」
 亭主の銀蔵は大の火事好きで消防士のまねごとまでやる始末。女房の美毬は出産も間近なのに落ち着かない。前の晩に火事が起きた際、いつもの如く銀蔵が火事場でひと活躍した翌朝、警察が銀蔵の元を訪れる。火事場から死体が発見され、銀蔵に放火及び殺人の容疑が。銀蔵の無実を証明してくれるのは「脳病の王子様」なのだが……。
 亜愛一郎をして「脳病の王子様」と言うのは爆笑してしまう。本編はチェスタトンの「見えない人」或いは「消えたグラス氏」に匹敵するような逆説が冴える作品だが、逆説的な論理だけではなく、きめ細やかな伏線張りも堪能できる。ああ、こんな細かいところにまで! と読み返すと驚けること請け合い。仮にメモを取り取り読んでても見落としてしまうところに重要な伏線を仕込んでるんだから。
「亜愛一郎の逃亡」
 フツ国国王の病状が回復したと報じられた冬の或る日。亜愛一郎と東野は雪に足を取られ、凍える思いをして何とか旅館にたどり着く(東野は遭難しかけるが)。亜は旅館の人間に1人自分を追ってくる女性がいるからいないと言って欲しいと頼む。ミミズの観察に来ていた亜と東野は無事所期の目的を果たせるのか? そして、亜が忽然と姿を消す。
 様々なシリーズの完結編と言うものがあると思うけれども、この《亜愛一郎》シリーズの終わり方と言うのは1つの理想かもしれない。それまで亜に関わってきた様々な人が一堂に会し、フィナーレを迎える。多分、こんな終わり方をさせたのはこのシリーズが最初なのではないのか。いや、結婚式と言う形で一堂に会させるという終わり方はあるかもしれない。でも、本編のような……と言うのは読んでのお楽しみ。まあ、ネタバレされやすい種類のものかもしれないけれども。そう言うわけで、亜の消失トリックそのものは(それを支える人魂という怪奇現象があるけれども)ちょっと拍子抜け。そこがポイントではないにしても、もうちょっと……と思うのはファンのわがままな心理だろう。


Mystery Library別館入り口
玄関