アンティカで歌われる作曲家の紹介


ギョーム・デュファイ(1397頃〜1474)

 15世紀最大の作曲家。ブルゴーニュ楽派に分類される。
 生涯は大きく3つの時期に分けられる。カンブレでの修行時代、イタリア時代、そして最終的にカンブレに戻った時代である。
 当時ヨーロッパ中にその名が知られていた、カンブレ大聖堂の少年聖歌隊員として教育を受けた後、1420年から26年まで、イタリアの名家のひとつマラテスタ家に仕えた。マラテスタ家との関係の始まりは、同家が重要な役割を果たしたコンスタンツ公会議(1414〜18)に出席した、カンブレ司教の随員だったことにある。
 28年にデュファイは、ヨーロッパで最も有名な音楽団体である、ローマ教皇庁聖歌隊の歌手になった(33年まで)。その後反乱のため教皇は亡命したので、デュファイもそれに従い、フィレンツェに移った(35〜38年)。33年から35年の間は、フランスとイタリア間の交易の中心地であったサヴォアに、宮廷音楽家として滞在している。
 また、北方とも関係を持っていたようで、44年〜55年頃にはブルゴーニュ宮廷礼拝堂の一員であった。その後カンブレに戻り、実り豊かな晩年を送った。臨終の際、「死にゆくデュファイをあわれみたまえ」という詩句が織り込まれた、自作の4声アンティフォナを歌うよう求めた話は、広く知られている。

 このように国際的に活躍したデュファイは、各地の音楽要素を習得し、自身の作品において融合・発展させ、新時代の方向を基礎づけた。
 特に重要なのは、ミサ通常文全体を、定旋律や冒頭動機などによって、音楽的に統一する作曲法を確立したことである。また彼は、世俗曲を定旋律に用いた最初の人物である。
 私たちが35周年記念演奏会で演奏した<>は、1464年に作曲され、聖母マリアを称えるアンティフォナを定旋律とする。2声、3声、および4声書法を見事に処理し、混合し、対比させている。また、カノンと模倣とをよどみなく統合し、ホモフォニーとポリフォニーとを効果的に交替させている。断片的に、上述の4声アンティフォナの旋律が引用されている。巨匠の最後を飾るにふさわしい、傑作である。

ジョスカン・デ・プレ(1440ころ〜1521)

 フランドル出身の彼は、15世紀末から16世紀初頭にかけてイタリアで活躍し、 ルネサンス音楽のひとつの頂点を築いたともいわれる有名な作曲家す。 アンティカでも、 モテトゥス「アヴェ・マリア」「ミユ・ルグレ(千々の悲しみ)」や「ミサ・パンジェ・リングァ」やなどを歌っています。  彼の曲は、「ミサ・パンジェ・リングァ」などに見られるように、通模倣様式(各声部が同時に模倣を行う様式)の均整のとれた構成や、 調和とプロポーションの重視、明晰な表現などルネサンス期ポリフォニー音楽の典型ともいわれます。


●クレマン・ジャヌカン(1485ころ〜1558)

 フランスルネサンスの世俗曲の作曲家としては、代表的な人物です。
 アンティカでも、よく歌われる作曲家です。 中でも、「鳥の歌」はよく歌う曲です。その他にも「美しいこの5月に」「恋の手習い」など多くの曲がとりあげられます。
 彼の曲には、当時台頭しつつあったフランス市民階級の生活感情がよく反映されているといわれます。
以下35周年演奏会パンフレットより
 16世紀最大のシャンソン作曲家。
 1505年にボルドーで聖職者見習いとなり、34年からはアンジェの教会で職を得るかたわら、シャンソンを多数作曲した。49年以降はパリに定住し、55年に王室礼拝堂の聖歌隊員、58年に国王の常任作曲家となった。
 「国王の常任作曲家」という称号は、当時の音楽家にはほとんど授与されたことのない、名誉あるものだったが、認められるのが遅すぎたといえよう。彼は生涯、金銭的困窮に悩まされた。また、借金による仲たがいにより、家族からも絶縁され、最期は家政婦に看取られた。しかし、作曲家としては、単独の曲集が多く編まれるなど、当時の最も人気のある作曲家のひとりであった。
 聖職者であったにもかかわらず、宗教的作品はほとんど残っておらず、晩年にはカルヴァン派に傾倒していたようだ。
 作品の主要ジャンルはシャンソンで、約250曲を残している。このジャンルにおいてジャヌカンは自在に腕を振るっており、官能や抒情、自然美などを歌い上げている。
 中でも標題的な作品は有名で、<>は1528年に出版された曲集に収められている。機知にとんだ物語風の詩が、擬音効果、巧妙な装飾、フランス語の歯切れのよさを生かしたリズムなどで料理されており、ジャヌカンの道化の才が遺憾なく発揮されている。
 一転して<>は、セルミジと見紛うような、抒情的で簡潔な作品。途中、和弦的手法を織り込みつつ、しっとりと進んでゆく。


●ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ (1525ころ〜1594)

 16世紀後半のイタリア教会音楽の代表的なな作曲家である彼は、現存する限りでもミサ105曲、 モテトゥス250曲以上、その他にも多数の宗教作品を、また、100曲以上のイタリア語によるマドリガーレなども残しています。 「谷川したいて Sicut cervus」や「バビロンの川のほとり Super flumina Babilonis」などは、 このころの作品の中ではよく知られた曲です。  アンティカでも、彼のミサ曲やモテトゥスはよく歌われます。


●ギョーム・コストレ(1531〜1606) (35周年演奏会パンフレットより)

 16世紀後半の、重要なシャンソン作曲家のひとり。
 1554年から70年の間、パリで活躍し、シャルル9世の常任オルガニストをつとめた。その後、ノルマンディーのエヴルーに移り、75年には「ピュイ」なる作曲コンクールを始めた。
 国王のオルガニストであったにもかかわらず、鍵盤楽器用の作品は1曲しか残っていない。対して、70年に刊行された作品集には、宮廷歌手の並外れた声域を有効に使って作曲された100曲あまりのシャンソンが収められている。また、20曲ある、エール様式のシャンソンは、徹底したホモフォニー様式で書かれ、後のエール・ド・クールを予感させる。
 <>は彼の最も有名な作品で、パリ時代にサロンで親交のあったロンサールの詩による。


●アントアヌ・ド・ベルトラン(1530から40の間〜1580から82の間)

 16世紀後半のシャンソン作曲家。
 1560年頃から死ぬまでトゥルーズに住み、高官や貴族で構成される、人文主義者のサークルに属した。晩年は、陽気な恋のシャンソンから離れて宗教的に敬虔になったが、攻撃的なカトリシズムを主張したため、プロテスタントの人々に暗殺された。
 書法は、ホモフォニーとポリフォニーとが交互に現れ、単純で保守的である。現存する84曲のシャンソンの多くは、ロンサールの「恋愛詩集」の詩に作曲されたもので、詩と音楽を結びつける試みに成功している。


●トマス・ルイス・デ・ビクトリア (1548ころ〜1611)

 ルネサンス期スペインの最大の音楽家である彼は、若い頃ローマに留学し活躍した後、故郷に帰りマドリードで修道院の司祭・合唱長として一生を終えました。  彼の作品としては、ミサ18曲、レクイエム2曲、聖週間聖務曲集1巻、モテトゥス44曲などが知られますが、徹底して教会音楽家としての道を歩んだのでした。  アンティカでも、彼のレクイエムやモテトゥス「アヴェ・マリア」「おお、大いなる神秘」などが歌われていますが、 彼の曲からは、スペイン特有の独特の宗教的な情熱が伝わってきて、感動的です。


●クラウディオ・モンテヴェルディ(1567〜1643)

 ルネサンスの後期、バロック的な作新を残しているのが、イタリアの作曲家モンテヴェルディです。(彼については別のページで詳しく解説しています。)


●ガルニエ(生没年不明)

 1538年から42年に活躍したこと以外、よくわかっていない。当時最大のパリの出版業者アテニャンによって、幾つかのシャンソンが出版されており、39年にヴェネツィアの出版業者ガルダーノによってモテットが出版されている。


:上の紹介は、以下の文献を参考に作らせていただきました。

   皆川達夫、『中世・ルネサンスの音楽』(講談社現代新書)
   ONTOMO MOOK、『聴く音楽史』(音楽の友社) v