●はじめに●

【ルネサンス時代とその音楽】

 ルネサンスと聞いてみなさんは何をまっさきに思い浮かべますか? ダヴィンチやラファエッロ、ミケランジェロさらにはブラマンテなどに代表される造形芸術、あるいはコペルニクスやガリレオなどの天文学者、シェークスピアやセルバンテス(ドン・キホーテ)などの文学などが思い出されるでしょう。それに比べるとルネサンス時代の音楽といわれても、「どんなの?」って首をかしげる方が多いのではないでしょうか。

 歴史家の樺山紘一氏は、「ルネサンスというときに、いまだに日本人のほとんどが、ミケランジェロやラファエロ以下の画家のことしか想いおこせないのは、いささか不公平なのではないだろうか」と述べ、ルネサンスの文化的関心の一つに音楽があったことに注目し、その代表としてデュファイに言及しています。音楽は形に残らないので忘れられがちですが、ルネサンス文化の特徴の一つは、多声音楽が飛躍的に発達し、それが幅広く普及したことにあるといえます。

 ところで、ルネサンスといっても結構長い間にわたるのですが、日本の歴史とちょっと照らし合わせてみると、略年表にあるように、およそ室町時代から戦国時代にかけての間になります。日本のことがマルコ・ポーロによってヨーロッパにも紹介され、ザビエル等の宣教師が来日したり、少年使節がヨーロッパに派遣されたりもしました。

 この時代ヨーロッパでは、音による自由な表現の形が開発され、新たな音楽が作られていったのです。作品の分野は、ミサ曲とモテットを代表とする教会音楽と、シャンソンを代表とする世俗曲に分けられます。今日演奏するのは、この時代の初期の作曲家デュファイとのミサ曲と、この時代を代表するいろんな作曲家たちのシャンソンです。

 アンティカではこの5年間だけでも、イタリアの教会音楽を代表するパレストリーナ、シャンソンのセルミジ、オケゲム、イギリスのダウランド、バード、イタリアのモンテヴェルディ、マレンツィオ、ギボンズ、ジェズアルド、それにグレゴリオ聖歌などこの時代の多くの曲を歌っています。

○関連年表

足利義満:1358-1408:金閣ができたのが1400年頃
足利義政:1436-90:銀閣ができたのが89年
毛利元就:1497-1571
毛利輝元:1553-1625:1589年〜広島城築城開始
織田信長:1534-82
豊臣秀吉:1536-98
前田利家:1537-99
徳川家康:1542-1616
ザビエル:1549年8月来日し,51年11月まで2年3ヵ月滞在した。
有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名、伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンが選ばれて、1582年(天正10)2月、長崎を出帆、90年7月長崎に帰着。

Guillaume Dufay(1400-1474)
Clement Janequin(1475-1560)
Garmier(1538-42頃活躍)
Guillaume Costeley (c.1531-1606)
Anthoine de Bertrand (1530/40-1580/82)

ボッカチョGiovanni Boccaccio〔1313〜1375〕「デカメロン」で有名なイタリアの作家
レオナルド・ダ・ビンチLeonardo da Vinci〔1452〜1519〕
コペルニクスNicolaus Copernicus〔1473〜1543〕
ミケランジェロMichelangelo Buonarroti〔1475〜1564〕
ラファエロRaffaello Sanzio〔1483〜1520〕
ロンサールPierre de Ronsard〔1524〜1585〕恋愛詩集(1552〜55)で叙情詩の確立に貢献
モンテーニュMichel de Montaigne〔1533〜1592〕「エセー」で有名なフランスの思想家
セルバンテスMiguel de Cervantes Saavedra〔1547〜1616〕
シェークスピアWilliam Shakespeare〔1564〜1616〕
ガリレイGalileo Galilei〔1564〜1642〕


●演奏曲:Guillaume Dufay, Missa Ave Regina Caelorumに関連して●

【ミサ曲について】

 ミサとは、キリスト教の儀礼である典礼の中心をなす礼拝集会のことで、西方教会,特にカトリック教会で最も一般化した名称です。むかし民衆が集まって行われた教会での祈り(聖祭)では、最後に司教が「Ite, missa est. イテ ミサ エスト(去れ、これにて(集会は)解散する)」と言い放つ習わしから、「ミサ」と言われるようになったとされています。

 ちなみに、ご存じのとおり、キリスト教は大きく「カソリック」と「プロテスタント」に分かれています。(この他、東方の「正教会」を含め、キリスト教の3大宗派と言われます。)プロテスタントとは、ドイツのマルティン・ルター(1483-1584、ちなみに明日11/10が誕生日です)が、当時の教会聖職者の堕落ぶりに憤り、教義に疑問を抱いてプロテスト(抗議)し、そこから分離したキリスト教各派をいいます。プロテスタントは、教会や司教を中心とした様々な教義と、マリア信仰に飾られた教会儀礼を排し、聖書の言葉に忠実であることに徹します。ですからカトリック教会の典礼であるミサ通常文による「ミサ曲」は、プロテスタントには存在しません。

 ミサ曲は、〈キリエ〉(あわれみの賛歌)、〈グロリア〉(栄光の賛歌)、〈クレド〉(信仰宣言)、〈サンクトゥス〉(感謝の賛歌)、〈アニュス・デイ〉(平和の賛歌)の5曲からできていますが、〈クレド〉を除く4曲は遅くとも8世紀までにはローマ典礼のミサに定着し、〈クレド〉は、スペインでは6世紀ころから歌われ、ローマ典礼に取り入れられたのは11世紀初頭といわれています。元来、一般信徒や下級聖職者が歌う素朴な歌でしたが、10世紀になると専門的教会音楽家たちによって扱われ、芸術として進歩し、さらに11世紀以後、多声音楽の発展に伴い、合唱曲の形で数多く作曲されるようになりました。14世紀にはギヨーム・ド・マショーが初めて5曲を一貫して作曲し、以後、ミサ曲は統一的な楽曲形態として作られるようになりました。16世紀末に至るまで、G. デュファイ、J. オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、G. P. パレストリーナ、T. L. ビクトリアら当時のカトリック系作曲家はみなミサ曲を残しています。アンティカでは、今年5月の中世音楽合唱団の定期演奏会に賛助出演し、ジョスカン・デ・プレの「ミサ・パンジェリングァ」を演奏しました。またこの時代、日本にも歌ミサが伝えられ、1552年の降誕祭に周防山口で初めて歌ミサが行われたとされています。

 ミサ曲の歌詞は、カトリック教会で使われていたラテン語で書かれています。ラテン語は、古代ローマ帝国の公用語で、1世紀はじめのには、地中海世界の共通言語になりました。6〜7世紀頃には日常会話語としては使われなくなりましたが、現在でもローマ・カトリック教会の言語であり、讃美歌で歌われつづけています。また現代ロマンス語(イタリア語・フランス語・スペイン語・ルーマニア語などラテン語を起源とする言語の総称)の基礎になった言葉です。ラテン語はだいたいローマ字と同じように読めるので、フランス語に比べると歌詞を読むのは楽です。それに何よりミサ曲の詞はどれも同じですから一度覚えればすむのです。でも、今日の曲もそうですが、一つの作品が長いので、全部を仕上げるのは大変です。それに何度歌っても「今日は初見だった」という人の多いことか!それだけ覚えにくいのでしょうね。ミサ曲ですから当然でしょうが、落ち着いた曲ですから歌を枕にうたた寝したくなる方もいらっしゃるでしょうが、その時は教会の素敵なオブジェを見ながらお祈りの時間にしてみるのはいかがでしょうか?


【ギョーム・デュファイ(1397頃〜1474)のプロフィール】

 15世紀最大の作曲家。ブルゴーニュ楽派に分類される。
 生涯は大きく3つの時期に分けられる。カンブレでの修行時代、イタリア時代、そして最終的にカンブレに戻った時代である。

 当時ヨーロッパ中にその名が知られていた、カンブレ大聖堂の少年聖歌隊員として教育を受けた後、1420年から26年まで、イタリアの名家のひとつマラテスタ家に仕えた。マラテスタ家との関係の始まりは、同家が重要な役割を果たしたコンスタンツ公会議(1414〜18)に出席した、カンブレ司教の随員だったことにある。

 28年にデュファイは、ヨーロッパで最も有名な音楽団体である、ローマ教皇庁聖歌隊の歌手になった(33年まで)。その後反乱のため教皇は亡命したので、デュファイもそれに従い、フィレンツェに移った(35〜38年)。33年から35年の間は、フランスとイタリア間の交易の中心地であったサヴォアに、宮廷音楽家として滞在している。

 また、北方とも関係を持っていたようで、44年〜55年頃にはブルゴーニュ宮廷礼拝堂の一員であった。その後カンブレに戻り、実り豊かな晩年を送った。臨終の際、「死にゆくデュファイをあわれみたまえ」という詩句が織り込まれた、自作の4声アンティフォナを歌うよう求めた話は、広く知られている。

 このように国際的に活躍したデュファイは、各地の音楽要素を習得し、自身の作品において融合・発展させ、新時代の方向を基礎づけた。
 特に重要なのは、ミサ通常文全体を、定旋律や冒頭動機などによって、音楽的に統一する作曲法を確立したことである。また彼は、世俗曲を定旋律に用いた最初の人物である。

 <>は、1464年に作曲され、聖母マリアを称えるアンティフォナを定旋律とする。2声、3声、および4声書法を見事に処理し、混合し、対比させている。また、カノンと模倣とをよどみなく統合し、ホモフォニーとポリフォニーとを効果的に交替させている。断片的に、上述の4声アンティフォナの旋律が引用されている。巨匠の最後を飾るにふさわしい、傑作である。


●演奏するシャンソンに関連して●

 A ce joli mois, Clement Janequin
 Treves d'amours, Clement Janequin
 Reveillez moy, Garmier
 Mignonne, allon voir si la Rose, Guillaume Costeley
 Beaute qui, sans pareille, Anthoine de Bertrand
 Le chant des oyseaulx, Clement Janequin
アンコール----------
 Ecco Mormorar L'onde, Claudio Monteverdi(1567-1643)

【シャンソン について】

 シャンソンといえば、現代フランスの流行歌や小唄を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。でもシャンソンとは、広くフランス語の世俗的な歌詞による歌曲の総称です。西洋芸術音楽史の上で〈シャンソン〉という場合、特に中世後期からルネサンスまでの多声歌曲をさします。中世初期には単旋律だったシャンソンは、中世の後期には多声部による合唱となり、ルネサンス期にはポリフォニーへと発展します。15世紀、デュファイに代表されるブルゴーニュ学派の時代に、〈シャンソン〉という世俗歌曲の呼び名が定着しました。中世ではデュファイ、バンショワのものが、ルネサンス期ではジャヌカンやセルミジのものが特に有名です。

 16世紀の前半、イタリアの華やかな文化を導入し、フランスにルネサンス文化を開花させたフランソワ一世の時代からが、シャンソンの黄金期です。この時代、活版印刷による楽譜が出版され、シャンソンは宮廷の人々ばかりでなく、パリの市民の家庭でも、さらにはフランスの他の諸都市の人々にも愛好されました。今日演奏します「鳥の歌」「Treves d'amours」を作曲したジャヌカンやセルミジ(アンティカでもTant que vivrayがよく歌われます)ら生粋のフランス人作曲家を中心に、フランス的性格のものへと変容し、多声部シャンソンの黄金期が築かれました。当時の流行の詩人マロやロンサールによる恋愛をテーマにした詞に曲をつけていったのでした。中には当時の様子を反映して少しエロティックなまでの男女の愛を描いたものも少なくありません。パスローやセルトンもそうした曲を作っています。

 その後1560年以降、フランスは宗教戦争の時代に入っていきますが、この頃には新しいシャンソンが作られていきました。アルカデルト、ラッスス、ル・ジュヌ、さらに今日私たちが歌います「Mignonne, allon voir si la Rose」のコストレ、「Beaute qui, sans pareille」のベルトランらが活躍した頃にはさまざまな様式のシャンソンが歌われるようになりました。

 アンティカでは、昔から「鳥の歌」をはじめとする多くのシャンソンを歌ってきましたが、当然フランス語にはいつも悩まされています。フランス語には日本人には区別の難しいたくさんの母音や、単語と単語をつなげて発音するリエゾンなどがあって、慣れないと歌詞を見ただけではなかなか歌えません。それでも楽譜にカタカナを書いていると猪原さんのお叱りを受けますのでフランス語の発音ができるようになるのが、アンティカで歌っていくための一つの関門になっています(といってもなかなかちゃんとした発音はできないんですけどね)。

【各作曲家のプロフィール】

○ギョーム・コストレ(1531〜1606)
 16世紀後半の、重要なシャンソン作曲家のひとり。
 1554年から70年の間、パリで活躍し、シャルル9世の常任オルガニストをつとめた。その後、ノルマンディーのエヴルーに移り、75年には「ピュイ」なる作曲コンクールを始めた。

 国王のオルガニストであったにもかかわらず、鍵盤楽器用の作品は1曲しか残っていない。対して、70年に刊行された作品集には、宮廷歌手の並外れた声域を有効に使って作曲された100曲あまりのシャンソンが収められている。また、20曲ある、エール様式のシャンソンは、徹底したホモフォニー様式で書かれ、後のエール・ド・クールを予感させる。

 <>は彼の最も有名な作品で、パリ時代にサロンで親交のあったロンサールの詩による。

○ガルニエ(生没年不明)
 1538年から42年に活躍したこと以外、よくわかっていない。当時最大のパリの出版業者アテニャンによって、幾つかのシャンソンが出版されており、39年にヴェネツィアの出版業者ガルダーノによってモテットが出版されている。

○クレマン・ジャヌカン(1485頃〜1558)
 16世紀最大のシャンソン作曲家。
 1505年にボルドーで聖職者見習いとなり、34年からはアンジェの教会で職を得るかたわら、シャンソンを多数作曲した。49年以降はパリに定住し、55年に王室礼拝堂の聖歌隊員、58年に国王の常任作曲家となった。

 「国王の常任作曲家」という称号は、当時の音楽家にはほとんど授与されたことのない、名誉あるものだったが、認められるのが遅すぎたといえよう。彼は生涯、金銭的困窮に悩まされた。また、借金による仲たがいにより、家族からも絶縁され、最期は家政婦に看取られた。しかし、作曲家としては、単独の曲集が多く編まれるなど、当時の最も人気のある作曲家のひとりであった。

 聖職者であったにもかかわらず、宗教的作品はほとんど残っておらず、晩年にはカルヴァン派に傾倒していたようだ。
 作品の主要ジャンルはシャンソンで、約250曲を残している。このジャンルにおいてジャヌカンは自在に腕を振るっており、官能や抒情、自然美などを歌い上げている。

 中でも標題的な作品は有名で、<>は1528年に出版された曲集に収められている。機知にとんだ物語風の詩が、擬音効果、巧妙な装飾、フランス語の歯切れのよさを生かしたリズムなどで料理されており、ジャヌカンの道化の才が遺憾なく発揮されている。

 一転して<>は、セルミジと見紛うような、抒情的で簡潔な作品。途中、和弦的手法を織り込みつつ、しっとりと進んでゆく。

○アントアヌ・ド・ベルトラン(1530から40の間〜1580から82の間)
 16世紀後半のシャンソン作曲家。
 1560年頃から死ぬまでトゥルーズに住み、高官や貴族で構成される、人文主義者のサークルに属した。晩年は、陽気な恋のシャンソンから離れて宗教的に敬虔になったが、攻撃的なカトリシズムを主張したため、プロテスタントの人々に暗殺された。

 書法は、ホモフォニーとポリフォニーとが交互に現れ、単純で保守的である。現存する84曲のシャンソンの多くは、ロンサールの「恋愛詩集」の詩に作曲されたもので、詩と音楽を結びつける試みに成功している。