『敗戦後論』とポストモダニズム(電子版)

野崎次郎

目次

はじめに
第一章 「敗戦後論」から『敗戦後論』へ
第二章 「コム・デ・ギャルソン」論争(埴谷 vs 吉本)
第三章 「われわれ」と「語り口の問題」
結論

はじめに

 加藤典洋「敗戦後論」(『群像』95年1月号) 1) は、その発表直後以来、多方面からさまざまな批判にさらされた。そのなかでも高橋哲哉 2) がその批判の急先鋒といえるだろうが、それは抽象的な「正しさ」の視点からの批判(あらかじめ立てられた「正しさ」を現実に適用することで「大衆を啓蒙しようとする」批判)にすぎない。それは、事後的な「正しさ」である。その批判は加藤の貴重な問題提起に応答できず表面的なものにとどまっているように思われる。
 他方しかし、その問題意識に「感応した」西谷修との対談「世界戦争のトラウマと「日本人」」(『世界』95年8月号) 3) が発表されるにおよんでさらに論争は広がっていった。それは「われわれの立ち上げ」という新たな提起と受け止められ、「歴史主体論争」とジャーナリスティックに命名されるまでになった 4)。その間、加藤は「戦後後論」(『群像』96年8月号) 5) 「語り口の問題」(『中央公論』97年2月号) 6) と反批判を書き続けた。一方、柄谷行人、浅田彰ら(ポスト・モダンの西欧派)は、『批評空間』(97年II-13 号、97年4月21日発行)での共同討議「責任と主体をめぐって」に西谷と高橋を招き、加藤批判を行う場を作り上げようとした。
 文壇や論壇のなかで「保守派の知識人および革新派の知識人を批判した」 『敗戦後論』(1997年8月)を、公刊当初、肯定的に論評するものは少なかった。そのモチーフをしっかりとつかみ取った上で議論するものも少なかった。「比較的きちんとした論考になっている」高橋哲哉の議論も「聞き慣れた議論だという印象を免れがたい」と述べて加藤の「重要な問題提起」を抽出しようとしている大澤真幸 7) 、「日本のなかにある落差を抱え込んでいる」加藤に「感応するところが確かにある」と語る西谷修 8) と、「文学の力」の「誤りうる」ことを引き受ける加藤の感度を激賞する竹田青嗣 9) たちがいたくらいであろう。
 その後、加藤への批判と加藤の反批判は広範囲におよび、『戦後的思考』として結実している。それは『群像』に1998年8月号から六回にわたり隔月で連載され、1999年の6月号で完結した。
 本論文は、浅田彰によれば「文学的でわかりにくい 10) 」加藤典洋の「ねじれ」た文章からその問題提起のモチーフを取り出し、またできうる限り批判者の論点を明瞭にし、さらに私見を付け加えることをねらいとしている。加藤がまさに戦後の「ねじれ」を問題としている以上、その「語り口」が「ねじれ」ているのは避けがたいことであろう。私自身も「まっすぐ君」(小林よしのり)に信をおいているわけではないが、とりあえず、問題の整理というねらいから明瞭化につとめたい。

第一章 「敗戦後論」から『敗戦後論』へ

第一節

 「荒削りな」『敗戦後論』のモチーフを明瞭化するために、まず「整理のうまい」大澤真幸の論考『戦後の思想空間』を手がかりにしていこう。大澤は『敗戦後論』についてあらまし以下のように述べて加藤のモチーフを救い出そうとする。すなわち、肝心なところで異論をもっているが、加藤は重要な問題提起をした。これまでのほとんどの議論は無効である。なぜなら、以前からあった立場からの反論にすぎないからだ。それは「比較的きちんとした論考」である高橋哲哉のものも含めてそうである 1) 。
 そして、加藤が「敗戦後論」でうまく伝えられなかった彼のモチーフを明らかにすべく「戦後後論」で太宰治について書いていることに、大澤は注目する。大澤はまとめて以下のようにいう。すなわち、戦後という空間は思想表現にとっての追い風(思想表現の困難や不可能性がない)として現れたのだが、太宰はあえて戦時中に書けたことだけを戦後も書き続けるという選択をした。例えば「薄明」(昭和二十一年十一月)。「皆焼けちゃったね」と女の子がぼんやりといってほほえむ。それは「皆焼けちゃったことにどれほどの意味があろうかといった反語的なもの」を感じさせるものであって、これは何かがすべて決定的に変わったということに対するアンチテーゼである 2) 。
 実際、加藤も「戦後後論」で「八月十五日ですべてが劇的に変わった。そう誰もがいう。しかし本当にそうだろうか。 3)」と述べて、太宰の「八月十五日の物語」に注目している。加藤は太宰の「戦後」の受け止め方に敬意を払い、その愛読者となっているのだ。
 ところが、加藤にとって、年代順に読んでいったときひとつだけ決定的につまずいた作品があった。それは「トカトントン」という小説である。戦争が終わった日以来、何かに熱中しそうになるとトカトントンという金槌の音に悩まされている読者が、作家に手紙を書く。ところが作家は「そういう症状には私はあまり同情できない」と、聖書を引用しながら返事する。しかし、彼はその読者を突き放すべきではなかったのではないか 4) 。
 これはどういうことなのだろうか。加藤は「戦後後論」で書いている。

 あの「トカトントン」の声は、誰よりも早く太宰に聞きわけられた戦後以後の声、ノン・モラルの声だった。彼は戦後以後のノン・モラルに、彼の信ずる戦後のモラルを対置する。あの「トカトントン」におけるこれまでにない彼のしぐさ、「トカトントン」の音への強い倫理での応接は、これを戦後の若者への返信としてみれば冷淡だが、これを戦争の死者への連帯のコトバと見れば、意力ある、逆説的で誠実な彼の文学の倫理の表現となっているのである。
 しかし、文学は、この戦争の死者への連帯につらなるのだろうか。そうではなく、むしろ「トカトントン」というノン・モラルの感触を好むのではないだろうか。 5)

 なかなかわかりにくい文章ではある。しかし、その要点は、難しいことではない。「トカトントン」については、さまざまな太宰の愛読者から反論も出て、また加藤自身も考え直さなければならないと述べているが 6) 、本論文とのかねあいに限定していっておけば、戦後の若者の悩みに対して、作家が「より強い倫理」「真の思想」で応答したというところが問題となってくる。加藤は「戦後後論」では、長い太宰の読書歴を語りながら、いつも倫理の問いに対しては「より弱い倫理」で答える「文弱」のやり方が、この作品だけは「身体の倫理」に対して「より強い倫理」「真の思想」で応答したように見えた、そこが決定的につまずいたところであったと述べている。
 しかし「トカトントン」を肯定的に読めば、「トカトントン」という「戦後以後の声」(ノン・モラルの声)は、文学の有り様を語っているのである。文学は「戦後のモラル」に便乗して、安直に「戦争の死者への連帯」を説くべきではない。その「連帯」は「死者との切断を思い知る」という形でしかあり得ないであろうということである。「誰かの死と誰かの生を関係づける妄想 7) 」には、どうしても「道徳」が入り込み、「英霊」なり「犠牲者」なりを「政治的」に利用する動きが入り込む。「文学」は「政治」に成り下がってはならない。そのことが「意力ある、逆説的で誠実な彼の文学の倫理の表現」といわれていることの内容であろう。
 私たちはここで、加藤典洋の『敗戦後論』のモチーフの一つを取り出すことができた。それは「ノン・モラルの声」である。

第二節

 さて、一般によく知られているように、「敗戦後論」は日本における敗戦の抑圧の問題を扱っている。大澤真幸は、敗戦には自己否定の構造があり、こうした構造を加藤は「ねじれ」と表現していると、まとめている。 8)
 しかし、この読み方で加藤のモチーフは救い出せるであろうか。大澤真幸は「自己否定」というある種の世代にはなじみのある語へと加藤典洋のモチーフを還元しているが、そのような「一般的な抽象性」へと還元してしまっては、「大ざっぱ」で「粗雑」な加藤の議論の面白みは半減してしまうだろう。
 さらにまた、この「ねじれ」の議論は、後に取り上げる「恥辱(恥じ入り続けること)」の議論(高橋哲哉)とも重なってくる。そのことを加藤自身が明瞭化している。加藤は、ドイツでの「歴史家論争」において戦後ドイツの価値の擁護の立場からユルゲン・ハーバーマスが「頬の赤らみ」といって反論するとき、それはなにに対して「頬を赤らめるのか」と問い、「自己の粉砕を通過した「ねじれ」たあり方でしか自分たちに、普遍的な憲法原理の受け入れが可能でなかった事実に対してである」と答えている。加藤は「戦後的思考(一)」で書いている。

誰がいったい、アウシュヴィッツという事実を前に、「頬を赤らめ」ることができ るだろうか。「頬を赤らめ」る対象は、アウシュヴィッツという事実ではない、ア ウシュヴィッツ以後にしか憲法の原理をわがものにできなかったというふがいない 事実のほうなのである。 9)

 加藤はハーバーマスのいう「恥ずかしさ」(「頬の赤らみ」)と高橋哲哉などの言い立てる「罪の意識」とを峻別し、前者には自己の非否定があり、後者には自己の非肯定があるという。ここにうかがえることは単純化していってしまえば、あくまでも完全な自己肯定の果てに浮かび上がってくるものだけを信頼しようという加藤の姿勢である。「罪」が当事者でない後代の人間にどのように問われなければならないのかについて、「罪の意識」の議論は「他者」(「外」)からの強制的な(高圧的な)注入なしには答えることはできないだろう。
 私たちはここで、加藤典洋の『敗戦後論』のモチーフをもう一つ取り出すことができた。それは、大澤真幸の結論とは反対に、徹底した「自己肯定」である。

 だが、私たちは今しばらく大澤とともに『敗戦後論』を読んでいこう。大澤はいう。問わねばならないのは、なぜ終戦が、あるいは厳密には敗戦の抑圧が、戦争中にはあった、思想表現の困難という条件を、あっという間に(欺瞞的に)解消してしまったのか、ということだ。 10) 「戦後知識人」「戦後民主主義」に思想表現の場を提供してきたのは、岩波書店の雑誌『世界』であるが、そこにいたる過程で、執筆陣が明治生まれのリベラリストから革新派リベラリストへと「しのび足」でシフトしたことを指摘する加藤に、大澤は注目する。津田左右吉は創刊第三号に天皇賛美の文章を書いた。これは敗戦の抑圧という欺瞞の回避の道を開きうるものだった。しかし『世界』はその決定的なチャンスを逃し、『世界』は1950年頃までに革新派(民主派)の雑誌に変わってしまった。 11) 加藤は書いている。

 しかし不思議なことに、雑誌『世界』からこの新旧の対立の声は聞こえてこない。『世界』は、この保守派リベラリストから革新派リベラリストへの重心の移動を、なぜか「しのび足」で行っているのである。
 そのため、何が見えなくなっているのか。
 たとえば、美濃部達吉と家永三郎の対立する場面、そういう「戦後」にとっての重要な思想的対立の場面が、機会を与えられず、私たちに公共化されずに終わっている。 12)

 「思想的な対立」が「公共化」されずに「しのび足」で納められてしまい、具体的にいえば、天皇や天皇制についての議論、旧憲法と新憲法との継続性・断続性についての議論が棚上げされ、当時の論調が「宮廷革命」によって上からの「戦後民主主義」に染まっていった。これは均一な「思想的主張」が「天皇制民主主義」として「共同化」されていったということであり、「公共化」とは似て非なるものである。ここにも加藤の『敗戦後論』のモチーフのひとつ、「共同性」と「公共性」の違いというモチーフがある。

第三節

 さて、大澤に戻ろう。戦中に戦後を生きた思想家、丸山眞男は「理想の時代」(西洋風の市民社会という理想の社会をポジティブに提起できる)に対応する戦後の進歩派(民主派)といえるが、「理想の時代のピーク」は六十年安保であった。六十年安保を駆動していた思想は、アメリカによる統治に深いところで依存していた。六十年代の高度成長期はカルチュラルなアメリカへの依存(民主化=家電化)によってもたらされた。つまりアメリカに帰属する承認の視線によって日本のナショナルなアイデンティティーを確立する構図である。言い換えれば、アメリカがその他者の視点の社会的な現実性を与えていたのである。これを構造として取り出せば、現在とは常に欠如――理想の状態の欠如――として意味づけられるものであったということである。 13)
 この大澤の的確な指摘で注目すべき点は二点ある。すなわち、その思想は、第一に「他者の視点」を得ることによって社会的な現実性を得ようとしていたこと、第二に「現在」を「欠如」としてとらえ、それを生きることの糧としていたということである。これは「理想の時代」にあっては当たり前のことであったかもしれないが、「戦後以後」においては状況は大きく異なる。結論を急がず、今しばらく大澤とつきあっておこう。
 大澤によれば、1970年代に大きな転換点があった。小島信夫『抱擁家族』(1965) (アメリカ人に寝取られた妻)は、先の日米関係の象徴であるが、同時にそこからの離脱を語っている。江藤淳が『成熟と喪失』(1967) で重視し、何度も論じているのを加藤は『アメリカの影』(1985) で反論する。その詳細はここではおいておくが、ともかく、江藤はこの時期、母すなわち自然の喪失がテーマとなり、父的なるものへと成熟する機会ととらえた。このとき逆に江藤はアメリカの必要を自覚する。アメリカとの関係は対等でなければならない(アメリカの善意に頼りながらという形で)。 14)
 さらに、大澤はいう。丸山眞男も1970年あたりに「日本の古層」「政治意識の古層」「執拗低音」と言い出す。江藤にとって失われた「自然」を逆に丸山は「日本の古層」などとして発見する。これはどういうことか。丸山にとって、今までアメリカが担っていた拮抗する作為のための超越的な視点、超越的他者が失われた(希薄になった)ということである。そして江藤は、喪われた普遍的な超越的視点を担う超越的他者(アメリカ)、要するに日本を肯定する他者としてのとしてのアメリカを、アメリカの自明性が失われたが故に改めて必要とした。丸山と江藤は一見反対方向を向いた転換を遂げたように見えるが、相補的な関係にある。 15)

 長々と「戦後史」の復習をしてしまったが、要するに、七十年代以降、欠如のない時代に突入したという点を加藤典洋とともにおさえておきたかったのである。村上龍「トパーズ」に見られるように、今まで欠如としてとらえられた「ブス」が「とても生き生きしている」。これは、欠如をエネルギー源にしない生き方が肯定され始めたということであり、「理想の時代」とはまったく別の時代に突入したということである。欠如とは無縁な過剰な快楽を肯定する、これが七十年代以降のスタイルといえるだろう。
 加藤典洋『アメリカの影』(1985) は、ややもすると「サブ・カルチャー」とくくられがちな二つの小説のうち、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1980) を肯定し、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976) を否定する江藤淳に注目している。 16) 加藤は、そこから何を引き出したか。簡単にいおう。村上には基地小説(「ヤンキー・ゴー・ホーム」という反米ナショナリズム)としての「屈辱」があり、田中には全面的な「依頼」の確認がある。 17) すなわち『なんとなく、クリスタル』には日本を包んでいる「弱さ」を引き受けている姿勢がある 18) 、「弱さ」「ねじれ」を受け止め、自覚し、そこを生きるという姿勢があるということである。「ねじれの自覚」のモチーフはすでに『アメリカの影』から始まっていた。しかもそれは「欠如」に基づく生き方ではなく、「過剰の肯定」としての生き方であった。
 ここまで来て、私たちは加藤典洋の『敗戦後論』のモチーフのうちもっとも根本にあるモチーフを引き出す準備ができた。

第二章 「コム・デ・ギャルソン」論争(埴谷 vs 吉本)

第一節

 ここに加藤典洋が「『敗戦後論』という著作を念頭に」「見田宗介の『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)をめぐって」書いた「二つの視野の統合」という論文がある。 1) 加藤は「見田の注目すべきモチーフ」を抽出していう。「現代社会」は「光の巨大」(浮ついた消費欲望)と「闇の巨大」(悲惨な「南北」問題)とからなっているが、われわれの周りにある記述はその側面のいずれかのみを強調するだけ(「明るいがノーテンキな社会像」vs「深刻で暗いだけの社会像」)で、双方がののしりあう相すくみ状況になっている。われわれに必要なことはこの「(分裂した)二つの社会像の統合」である。 2) 加藤は、前者の陰に後者が隠蔽されているというのは事実であるから、まず、それをその意味の重大さのまま、受け取ってみることが必要である、 3) と述べたあと、見田のモチーフに寄り添いながら次のように書いている。

しかし、ここでの問題は、ここで一方が他方の隠蔽を伴って成立しているという時の、二つの項の間の権利問題、資格問題です。ここにいう「浮ついた消費欲望」と「悲惨な「南」の状況」は、ほんらいわれわれの関心の対象となる主題としての権利と資格において対等なのではないでしょうか。前者が浮ついているので考慮に値せず、後者が深刻な問題なのでより重大だということはいえない。 4)

 そして、加藤がこの延長で、というよりも、このような発想を身につけさせたもともとの源は、いうまでもなく、加藤自身が述べているように、吉本隆明である。加藤は、吉本の初期のエッセー「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」をあげているが、より直接的には1985年(バブル経済の始まる前年)の「コム・デ・ギャルソン」論争での吉本の姿勢がある。この「論争」は柄谷行人からは「くだらない」の一語で片づけられたものだが、「これまでしばしばそう見られてきた程度の軽い論争ではなかった」 5) といえるだろう。吉本は消費社会肯定の立場から、今までの古典的な大問題(たとえばマルクス主義の問題)と同じ資格でデザイナー川久保玲の仕事(今まで「小」問題とされてきたファッションなどの「サブ・カルチャー」)を「重層的に」(『重層的な非決定へ』)とらえ評価する。雑誌『アンアン』(1984年9月21日号)は、吉本にコム・デ・ギャルソンを着せて登場させ、自宅のリビングを改装した書斎の「シャンデリア」のもとで仕事する吉本を大写しした写真を載せた。埴谷雄高は「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」と述べて、吉本と論争がしばらく続いた。そこにはさまざまな論点が出されたが、本論文とのかねあいでいえば、ただ一点、最も重要な点は、加藤が的確に述べているように、次の点にある。

ここで吉本は、「光の巨大」に比重をおき、「闇の巨大」の側から「光」を断罪しようとした埴谷雄高に、どうしても譲れないという形で、全身で立ち向かっている。 6)
 社会科学は圧倒的に「南」優位の観点が強かった。そして政治を語るときもそうである。どうやら「欠如」に起点をおいて運動を組織しようとする「理想の時代」の「政治思想」(ニーチェならば「ルサンチマンに基づく社会主義思想」と呼ぶだろう)は不滅のようである。それはいつでもよみがえる。しかし、それに対して「全身で立ち向かっている」人がいたし、またいるのである。

第二節

 「敗戦後論」での議論に戻ろう。加藤によれば、戦後日本は「ねじれ」と「ねじれ」の抑圧とから成り立ってきた。そのような二重の転倒を私たちは生きている。それを指摘する必要がある。その証左には事欠かない。
 近くを見れば、柄谷行人らによる湾岸戦争時 (1991) の「文学者の反戦声明」がある。この「声明」は「日本国家の戦争荷担に反対します」という曖昧な言い方で「戦争に反対」し、しかも「文学者」として「反対する」という妙技をやってのけた。(それは「唯一の被爆者」という安直な「被害者意識」に基づく「文学者の反核声明」(1982) と同質なものである。)(それ以来、論壇に「左翼翼賛会」ができあがった、とすらいえるだろう。)「文学者の反戦声明」は、「日本国家の戦争荷担」という曖昧な、かつ自分を棚上げにした言い方をしていた。はっきりということができなかったからであろう、「荷担する」主体は「日本国」でもなく、「日本人」でもなく、「日本国民」でもなく、「日本国家」であった。「自分たち」(=声明者たち)はそこには入っていないといいたいのだろうが、それは逃げでしかない。「本来はない歴史主体の、外へむけての捏造」がなされたのである。「捏造」されたものに「反対」してみても、効力は疑わしいといわざるをえない。さらに、その時、声明者たちは「平和憲法」へと安易にもたれかかっていた。「憲法違反」だから反対する。これは「文学者」の態度といえるだろうか。とてもいえないだろう。
 「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方とその内容の矛盾にあった、と加藤はいう。 7)

 それはどのようなことか。『アメリカの影』での議論にしたがって見ておこう。加藤は1978年に江藤淳と本多秋五との間でかわされた「無条件降伏論争」にふれて、書いている。すなわち、無条件降伏か有条件降伏かという論争に意味はない。無条件降伏政策が United Nations (連合軍→国連)によって取られ、原爆民主主義によって、日本の「平和憲法」(軍事力の放棄)が軍事力によって押しつけられ、そのまま放置されている「ねじれた」状態が問題なのだ。さらに、天皇はいち早く「人間宣言」することで「責任主体」の場を退き、天皇の場にマッカーサー(無条件降伏という政策)が居着いた。「天皇制民主主義」とでもいうべき奇妙な状態が発生した。そしてそのことを「ぼく達の"民主主義"が(…)必要としてきた」 8)のである。
 それ以来、「護憲派」も「改憲派」も憲法そのものをいじることはできず、憲法についての「国民的論議」は一度としてなされず、つねに「解釈改憲」が政府の手によってなされるという「ねじれた」事態が続いている。「文学者」も平和憲法を掲げるだけで済ませてしまう政治家のまねをしている。平和憲法がなかったら戦争に反対しないのか!?

 加藤は、「敗戦後論」で、ねじれの初発の現場を見届ける。加藤によれば、ねじれを直覚した人たちはいた。そして、それを抑圧する力もまたあった。
a) 美濃部達吉の憲法草案と新憲法発布後の態度。
b) 雑誌『世界』の重点移動時の津田の振るまいと「世間の風潮」という抑圧的な力。
c) 中野重治と太宰治。などなど。 9)
 加藤はいう。日本の社会では改憲派と護憲派が相補的に存在し、ジギル氏とハイド氏のような人格分裂が起きている。一方に「謝罪」他方に「失言」が繰り返される。また、大江健三郎と江藤淳のように潔癖な信念に共通しているのは、両者にはねじれの感覚がないということである。さらにいう。国民というナショナルなものの解除のためには、新しい「われわれ」の立ち上げが必要だ。 10)
 加藤はここで「従来のナショナルな共同性」を「解体」(解除)すべく、別種の「われわれ」を立ち上げようとしている。「立ち上げ」ないと、「終了」できないということのようであるが、これはなかなかわかりにくい。加藤は書いている。

日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼を通じてアジアの二千万人の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か。 11)

 これは、どちらが先かという形で議論されやすく、またされてきたが(それは確かに加藤の文章の書き方の悪さにも責任があろうが)、加藤の真意は一般に信じられているように「前後問題」にはないことは明らかである。それは、この問いが「正確に同じ比重で、今後、アジアの二千万人の死者へのわたし達の謝罪が、同時に、三百万人の日本の死者、とりわけ兵士の死者たちへの鎮魂を含むものとなることへの希望と、隣り合わせで語られない限り」「死者たち」も分裂したままである 12) という認識から出されているものであるということから明らかであろう。この分裂の解除をこそ加藤は考えている。「自国の死者」と「他国の死者」を分ける根拠はどこにあるのか、「前後問題」に拘泥する議論はそれに答えることはできないだろう。さらにそれは、「三百万」にせよ「二千万」にせよ、個々の兵士たちを「固まり」として葬ろうとしているにすぎない。これは許せることではないだろう。

第三節

 さて、高橋哲哉は「敗戦後論」を批判する文章「汚辱の記憶をめぐって」(『群像』95月3月号) で書いている。「この汚辱の記憶、恥ずべき記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが」「この国とこの国の市民としての私たちの」「倫理的、政治的可能性を開く」 13)。「哀悼」や「弔い」は、「侵略者」たちが遂行した戦争、「侵略戦争」の被害者となった死者たちへの「哀悼」や「謝罪」と同じレベルものではありえないし 14) 、したがって、倫理的にも政治的にもこれらの「先に置かれる」べきものでもない。 15)
 高橋はさらに続けて「侵略者としての彼ら」といい、その「彼らに代わって」「われわれ(?)」は、謝罪や補償を実行しなければならないと語る。

侵略者である自国の死者への責任とは、死者としての死者への必然的な哀悼や弔いでも、まして国際社会の中の彼らを“かばう”ことでもなく、何よりも、侵略者としての彼らの法的・政治的・道義的責任をふまえて、彼らととともにまた彼らに代わって、被侵略者への償いを、つまり謝罪や補償を実行することでなければならない。 16)

 高橋らはこの年『ショアー』上映のために満身の活動を続けていた。朝鮮人元慰安婦の証言とともに、強制収容所から生き残ったユダヤ人たちの証言を記憶にとどめるという文脈で「汚辱の記憶、恥ずべき記憶」というのは考えられなければならない。
 だがどうも高橋は国家レベルで、国との関連づけで死者たちを考えているようだ。死者たちの死の意味づけを戦争の意味づけとの関連で行おうとしているのだから、高橋は死者たちを政治的に利用しているといわざるを得ない。「死者たち」は「侵略戦争」による「犠牲者」だったから、「彼ら」に謝罪しなければならないということなのだろうか。もしそれが「正義の戦争」だとしたら、「彼ら」には謝罪の必要性はないということなのだろうか。「正義の戦争」であれ、「不正義の戦争」であれ、「彼ら」が「戦争で殺された」ということには変わりはない。「悪人」であれ「善人」であれ、「戦争で殺された」ということには変わりはない。それに「戦争」はつねに「正義の戦争」として戦われてきた。だから、戦争で死者たちは無意味に死んだのだという認識の方が、かえって死者たちを弔うことになるのではないだろうか。西谷の言い方(加藤との対談)でいえば、死者たちを「国家から取り戻す」 17) ということが大切なのだ。それは謝罪であれ哀悼であれ変わらない。高橋は「《哀悼》をめぐる会話」において、この西谷の発言に応答して書いている。

けれども、これだといわゆる「指導者責任論」に近くなり、兵士や国民の責任が免除されてしまう、そういう懸念がないだろうか? 死者たちに「汚辱」を負わせている国家から彼らを取り戻し、「汚辱」を国家に引き受けさせるというと、死んだ兵士は「汚れ」ていない、「清い」存在、「無辜の死者」ということにもなりかねない。 18)

 現場を離れて、あとから「正しさ」の視点に立ってその責任をあげつらって非難することはたやすい。だが考えるべきことは「それが個々人において信じられた」ということである。
 第二の問題点。それは高橋の議論では、誰が、誰の名において、「哀悼」し「謝罪」するのか不明瞭であるということだ。また、「とともに」「に代わって」という点が、ツェランの引用をしながら証言不可能性をいっている割に釈然としない。なぜ「代わり」をしなければならないのか、そもそも「代わり」ができるのか。そんなこと「彼ら」に頼まれたのか。こうしたことについての問いは高橋にはないのだろうか。「私たち(侵略した三百万の死者たちと侵略の犠牲となった二千万の死者たちのおかげで生まれ、生き残っている人々?)」は「彼ら(侵略した三百万の死者たち)に代わって」、「彼ら(侵略の犠牲となった二千万の死者たち)」に対し「謝罪」をし「哀悼」しなければならないということなのだろうか。どうもよくわからない。高橋の考え方では「私たち」と「彼ら」(さらには「私」)をつなぐ「継ぎ目」ないしは「切れ目」についてよく説明することはできないように思う。
 それはたしかに「階級」とか「前衛」「左翼」「インテリゲンチャ」などという言葉は使っていない。しかし「ソフト」になって「意匠」は違っても根本のところで、かつてのロシア・マルクス主義を起源とする「階級移行説」と同じ発想なのではないか、そのよみがえりなのではないかと思えてくる。自分のものでない経験に乗り移って何かことを起こそうとしているからだ。「階級移行」について、吉本隆明は「「近代文学派」の問題」で書いている。

 ひとたび、インテリゲンチャの社会的な規定があたえられるや否や、堰をきったように各国のインテリゲンチャの恥と罪を社会的に解放する方法が形をとりはじめ、いわゆる「階級移行」の運動が派生したのである。(…)
 このような「階級移行」の概念が,いかにわがプロレタリア文学運動と政治運動をとらえたかは、「近代文学」派の文学者たちが、自己の前史として一様に告白しているところである。 19)

 小林秀雄の『様々なる意匠』を押しのけて、『改造』昭和4年8月号での十周年記念懸賞論文で一席を勝ち取った宮本顕治「「敗北」の文学」が、芥川の死に際して、「芥川のプチブル的土壌を踏み越えていかなければならない」と結論づけて、「知識人」は「プロレタリアート」の立場へと「移行」してはじめて「救われる」と説いていた 20) ことは、記憶に新しい。

第三章 「われわれ」と「語り口の問題」

第一節

 「記憶を保持しつつ」「恥じ入り続ける」ことに「この国とこの国の市民としての私たちの」「倫理的、政治的可能性」を見る高橋に対して、加藤典洋と西谷修の対談「世界戦争のトラウマと「日本人」」で、「思想というのは、そんなに鳥肌が立つようなものではない。」と加藤がいい、西谷も同意する。ここでは何が違うのか、何が争われているのか、明瞭であろう。西谷は「人はそれぞれ具体的な状況の中にしかいないし、恥じ入れといわれても恥じ入れない。」 1) という言い方をしているが、人は自分の問題しか問題にできないようにできているのであって、それを「他者」という観点から強制しようとすると無理が生じるのだ。そしてその無理を隠蔽しようとしてそこに「彼らの代わりに」とか「移行」とかいう奇妙な現象が起きてくるのである。それでは「新憲法」の手にされ方といっこうに変わらないだろう。それではまた「失言」と「訂正」が繰り返されるだけだ。
 「誰が」謝るか。それが「われわれ」ということに連なる。加藤典洋と西谷修の対談「世界戦争のトラウマと「日本人」」もまた『ショアー』の映画の話題から始めている。まさに戦争の「記憶」を誰が担うのか、という西谷修の質問から始まっているのである。 2) 西谷は、加藤の「日本人論」と西谷が最近考えている「世界性」との突き合わせを行おうとしてそのような質問から始めているのであるが、この対談で「主体の立ち上げ」ということを「確信犯といわれてもしょうがないな」というように「言い出した 3) 」西谷に対して、加藤はいっている。加藤によれば、「歴史主体の立ち上げ」は「日本人」の解体を目指すものだ。それは「内からの解体」でなければならない。加藤にとって、外からの解体というのでは「ねじれ」は解けないからだ。この論理については何度も繰り返し確認した。
 ところで、加藤はもうひとつの姜尚中との対談「敗戦後論とアイデンティティー」においては、姜尚中のいう「ハイブリッドなものとしての日本 4) 」ということについて「ハイブリッド性の可能性の評価に関しては、やはり違う 5) 」といっている。他方、西谷も柄谷らとの対談で、「アイヌ人、韓国人、中国人を所与にする者もいる、そういう複数性を込めた」「われわれ」という言い方をしている。 6) どうやら、加藤のいう「われわれ」(加藤自身は「わたし達」とか「ぼく達」といってみたりする)は西谷や姜がいうもの(いわば、ハイブリッドな「国民」)とは違うもののようであり、さらに一般に考えられている「われわれ」とは「別種」の「われわれ」としかいいようのないもののようである。
 加藤の言い方でいえば、「この従来の「われわれ」に代わる、戦後責任主体としての「われわれ」を新たに立ち上げることが、従来の「われわれ」を解体することの内実になる。 7) 」
これはなかなかわかりにくい。しかし、これを西谷との対談で見ておこう。「誰が」謝るか、西谷は「恥じ入れといわれてもこまる。ただ、それは私にも関係がある。その関係が私を放してくれない。そこで大変居心地悪くなり、ある種の怒りを感じる。なんでこういうことになっているのかということに対するいら立ちです。そのいら立ちをどうするかというときに」そうした問題がでてくるという 8) 。
 加藤はそう語る西谷に対して「おまえたちおかしいじゃないかと言われたときに、その「おまえたち」に合致する「われわれ」というものはもはやないし、その「おまえたち」を引き受ける人は誰もいない。「敗戦後論」というのは、だったらおれが全部引き受けてやるよ、と書いたものなんです。 9) 」と応答する。自分がやってないことには誰も恥じ入ることはできない。しかし、それでも自分はやってないという主張が無効となるような場がある。「おれ」という基盤が外されている、個体が足場をもっていないところである。 10) このように語る加藤に西谷が同意したあと(それがレヴィナスの「責任=応答可能性(responsabilit)」ということだから)、加藤は「戦後の問題は、日本人がこの非難を受けとめる「やった」われわれを用意すらせず、そこから逃げたということでしょう 11) 」と語る。これが「戦後責任論」のモチーフに連なるものであることはいうまでもないだろう。

第二節
 
 加藤は戦後派批判の多くを、「戦後文学は、わたし流のことば遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である。 12)」と語る吉本に負っている。「敗戦後論」の注20で加藤は書いている。

戦中派からの「ねじれ」の指摘者として欠かすことのできないのは吉本隆明である。彼は一九五八年、「転向論」を書くが、その趣旨は、(…)むしろ転向経験の「汚れ」から出発しようとした中野を評価する視点を打ち出すことで(…)「無垢」をその無垢ゆえに否定する論理を創出している。彼はまた、前年一九五七年には(…)その「歪み」のなさを否定する戦後文学批判を、これもはじめて行っている(「戦後文学は何処へ行ったか」) 13)。

 川村湊「湾岸戦後の批評空間」は、「私が加藤には「戦後」においてはよきものと考えている、ある意味では無責任なノン・モラルの柔軟さが欠けているように思われる 14)」と非難した。それに対して加藤は、「ノン・モラル」の意味をとらえ直す。それはもちろん「ノン・モラル」を肯定するためである。それは単なる「戦後の無責任体系」ではない。それ以上の射程をもっている。それはどういうことか。そこで出てくるのは戦後の「政治と文学」論争史における「同心円」と吉本隆明の位置である。それについて語ることで加藤はさらに吉本からの離反を試みる。
 加藤典洋は「他者が先か、自己が先か、という問いが日本で生きられたのは、この「政治と文学」という問題枠組みにおいてに他ならない。 15) 」と、まず述べて、戦後の四つ論争の同心円的構造について語る。@蔵原 vs 中野 A中野 vs 荒、平野 B荒、平野 vs 奥野 C埴谷、奥野(市民的ヒューマニズム) vs 吉本(「反核」異論)である。それぞれ以前の円の内部にいるものに対して、その外部の「他者」から批判がなされる。その批判は、それぞれ順に、@「芸術に政治的価値なんてものはない」A「文学にプロレタリア文学(党優位の文学)なんてものはない」B「『政治と文学』なんてものはない」C「政治なんてものはない」である。そして、内側のすべてを「政治」と見て、「政治なんてものはない」とこれを否定にかかるのが最後の円に位置する吉本である。 16) 加藤は続けていう。

ところで、この最後と目された論争から十年を経過したいま、この吉本のいる第五の円の外には、もう一つの円ができようとしている。この第五と第六の円の対立が、いま、ここで考えようとしている他者の思想と自己の思想の位置なのである。(…)この「政治と文学」の同心円の最外縁、第五の円の住人である吉本が、(…)戦争への直接関与の反対の理由として、この平和憲法をあげたという事実が(…)わたしを驚かせた(…)。 17)

加藤は「戦後後論」で書いている。

高橋はわたしの先の論を、自国の死者を「かばう」、「内向きの」議論ととらえ、むしろ、「汚辱の記憶を保持しそれに恥じ入り続けるということ」が必要だと述べていた。(…)しかし、この「記憶せよ」という声の前に、壁の中から出てくるウサギのように「そんなことは、知らないよ」というはるかな後続世代の「無垢(イノセント)」な声がたちはだかる。そのとき、わたし達はこれにどう応接すべきか。ここにあるのは、いわば飢えた子どもの前で――また、ユダヤ人のホロコーストの前で、また、朝鮮人元慰安婦の女性の前で――「ノン・モラル」は権利をもつかというきわめて戦後以後的な、わたし達に固有の問題なのである。(…)わたしの答えはきまっている。この「ノン・モラル」は権利をもっている。人は、それに関与していない限り、どのような問題に、オレは関係ない、という権利をもつ。 18)  

 ここで「「ノン・モラル」は権利をもつかというきわめて戦後以後的な、わたし達に固有の問題」という言い方に注意してほしい。「正しい」とはいっていない。「人は、それに関与していない限り、どのような問題に、オレは関係ない、という権利をもつ」といっているだけだ。さらに、「戦後以後」という言い回しは、すでに「トカトントン」にふれたときにでてきた言い回しであることにも注意してほしい。それは「自分の中で「政治」という他者の思想と戦った小林秀雄 19) 」を思い出させる。

たとえば戦後責任だとか、他国への謝罪だとか、こうしたことはどこから考えなければならないのか。それはわたし達は、「世界なんて破滅したって、ぼくがいつもお茶を飲めれば、それでいいのさ」というあの声、そこに根源をもつ、オレは関係ない、という声を始点に考えなければならない。できればそれを、誤りうる形で考え続ける。その時、わたし達はある限定された時代の問題を無限に連なる問いとして考えているのである。 20)

加藤は、サリンジャーの ヌIt's time we let the dead die in vain.ネ という文を引用しながら、その「切断の力」を強調する。

「戦死者は無駄死にさせなければならない」。しかし文学の言葉として、これは死者への、心からの呼びかけの声ではないだろうか。文学とはつながりよりも深い、切断の力なのである。 21)

第三節

 加藤典洋は、「語り口の問題」においてアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』に注目する。それは「私」がいかにして「公共性」に届くかという問いに由来している。これが、「共同性」によりかかっている批判者たちとの違いを際立たせる。彼の注目点は二点ある。ひとつはユダヤ人を強制所に送り込んだ小役人は、ごくありふれた陳腐なおじさんだったということである。第二は、ホロコーストにおけるユダヤ人指導者の責任を問題にし、ユダヤ人社会から集中砲火を浴びることとなったこの報告書が「フリッパント」な語り口 (tone) で語られているということである。加藤は書いている。

わたしは高橋のショーレムなら喜びそうな――フリッパントなところの少しもない――枚岩的な語り口に、その言明の語ることがらが言明の仕方の精密を求めることだけに、もっとも大きな異議をおぼえるのである。(…)しかしこのような語り口で語られる限り、何がいわれようとあの戦後日本の人格分裂は決して克服されない。高橋はたとえば、その第一の批判で「国家国民は汚辱を捨てて栄光を求めて進む」(中曽根康弘)といった日本の国家主義者の言明をあげ、これを手厳しく批判しているが、語られていることこそ対極的であれ、別の観点に立てば、両者は対立していない。その共通点は両者はともに共同的な語り口だということである。 22)

だから、「アーレントの企ても、語り口に思想的な意味を見ることで、ある共同性を殺す試みにほかならないのである」という言い方になる。 23) いまや、「共同性」と「公共性」の違いが明らかにされる。

なぜ人は、たとえば南京大虐殺、朝鮮人元慰安婦、七三一部隊といったようなことがらに関し、「無限に恥じ入り、責任を忘れない」というような語り口に接すると、そこに「鳥肌が立つ」ような違和感を生じるのか。こうした語り口の特徴は、それが公共性に達しておらず、共同的だということである。 24)

 高橋哲哉は「ネオナショナリズム批判のために」で、いままでの加藤との論争を振り返り、加藤の議論は前提(三百万の死者を二千万のアジアの死者よりも先に置いて哀悼し、「われわれ日本人」を立ち上げること)が無理なだけでなく、「ナショナリズムの復権の議論だとして批判してきたと述べた後に、「敗戦後論」と「自由主義史観」との共通性を列挙している。@どちらも左右両派の対立を越えた第三の立場として提起されている。A第三の立場は「健全なナショナリズム」の立場である。B「健全なナショナリズム」は「国益中心主義」である。加藤が「自己中心性」を自己の思考の中心原則にしていることは偶然ではない。C加藤は「代弁」は「自分騙し」だというが、「深い断絶がそこにはあるのですが、にもかかわらず、あるいはむしろそれだからこそ、被害者の声あるいはその沈黙に耳を傾ける必要がある。そしてそれを受け止め、日本に媒介する必要がある」。歴史の主体は、民族、国民でしかあり得ないという点で両者は一致している。 25)
 高橋には思想の課題ということがわかっているのだろうか。高橋の議論は「ナショナリズム悪玉説」を前提にした議論にすぎない。一挙にコスモポリタンになってしまえると信ずる大胆さがそこにはある。「日本の市民」(日本はいつから市になったのか?)であるだけで、そのまま「世界性」を獲得できると勘違いするローカルな発想法。加藤は「日本人」を内部から解除するために、「日本人」を立ち上げるということをいっているはずなのだが、それは高橋には通じていないようである。「きみは悪から善をつくるべきだ それ以外に方法はないのだから」(『ストーカー』題辞)を加藤自身も題辞にしていることの意味を考えるべきだろう。高橋には「抽象的な正しさ」しかないのだから、「汚れ」は理解できないのかもしれない。さらに高橋の行うような議論にあるのは、何とかして「後ろめたさ」を見つけだし、それを社会性へと通底させようという発想である。それは外部注入的で恫喝的な言説として機能する。

 加藤典洋は赤坂憲雄とも対談している。死者の弔いについて、柳田と折口と比較しながら、赤坂はいっている。

そういう(折口の、引用者)魂鎮めの作法を、きちんと思想的に築き上げていくときには、三百万の日本人の兵士の死というものと二千万人のアジアの人たちの死というものを、ある意味で等価に引き受ける可能性が、もしかしたらでてくるかもしれない。(赤坂) 26)

 「(死者たちの)死を等価に引き受ける可能性」これは、死者と「死に残されたもの」(生き残ったもの)との関係を「妄想」するしかないとしたならば、なかなか難しいことかもしれない。

靖国の発想というのは、三百万の死から発想していることは確かだと思うんです。けれども、その三百万の死の、個々の具体性をある意味では無視して、あるいは無化するような形で、英霊として祀り上げ、三百万の固まりとして救いとろうとしている。(加藤) 27)

 「三百万」にせよ「三千万」にせよ、「死者たち」を数量化する動きは、死者との関係を「妄想」するだけであって、死者との関係を「妄想」するだけであって、「英霊」であれ、「犠牲者」であれ、政治の動きでしかない。大事なことは、一人一人の「死者の死」と「対面」しようとしたとき、何が起きているかそのことを考えることだろう。それが、戦争の死者たちの死を「等価に引き受ける」「魂鎮め」へとつながるであろう。内田樹はレヴィナスの「顔」の議論を的確に踏まえた上で、鎮魂について書いている。

カミュが『異邦人』で試みた「無意味な死者をその無意味さのうちで哀悼する」という鎮魂の儀礼は、死者を私たちの「現在の」意味のシステムのうちに回収してはならないというつよい禁欲に動機づけられていた。「顔」は「意味」しない。だから「顔」に意味を担わせたとき、それはもう「顔」ではなくなっている。/死者を「侵略者」として鞭打つために呼び出すものも、死者を「英霊」として顕彰するために呼び出すものも、死者の「顔」を見ようとはしない点では、つまり「本当の戦争の話」を語らないという点では、同じ身ぶりを繰り返している。その限りでは、小林よしのりの真摯さは高橋哲哉の真摯さとは鏡像的な関係にある。28)

 文学とは「戦争の死者への連帯」を保証するものではなく、「つながりよりも深い、切断の力」なのである。いまや、加藤典洋は「文学の言葉」として『敗戦後論』を書いたと断定していいだろう。それが『敗戦後論』の最大のモチーフである。
 
 しかし、東浩紀は加藤の「文芸批評の特権性」を信じている「党派的な」断定を批判して次のようにいっている。

加藤の議論は最初から、戦後日本についての考察であると同時に、また批評のあり方についての党派的主張でもあるという二重の構造を備えていたと言ってよい。(…)高橋に対し、加藤は実質的にはほとんど答えていない。かわりに彼は、「(…)その語り口にある」と述べるに止まる。これは(…)加藤の核心にある主張だ(…)。しかし問題はその図式が彼においては、高橋との対話を切断し、自らの立場を固めるための根拠として半ば自動的に導入されていることである。 29)

 なるほどこういう批判の仕方もあったかと感心させられた(ここで「その図式」とは東によれば、文芸批評が哲学的言語の貧しさを代補するという、小林秀雄の自負のことである)。そして東は両者(加藤と高橋)が対話できない状況を、「ポスト・モダン」状況として規定し、いま必要なのは「古い文芸批評の語り口」ではなく、両者を「同時かつ横断的に説得できる別の文体」であると主張する。 30) しかし、東はそれを具体的に提起しているわけではない。またその可能性を示唆しているわけでもない。ただ、加藤の「文学の言葉」という「党派性」を批判するだけである。たしかに東もいうように八十年代、九十年代に入って、批評の文脈も多数化し、「語り口」も多様化している。それは加藤ならば「日本社会から何かが消えた」 31) とか「戦後以後」というだろうし、吉本ならば「現在」とか「重層的非決定」というところだろう。しかし、東にはみずからがその「相対主義」に「党派的」に収まっているということの自覚はないのであろうか。それは「ポストモダニズム」の「イデオロギー批判」を思い起こさせる。「党派的」という非難の仕方は「古い文芸批評」の「語り口」である、というより「文体」である。

結論

 「イノセンス」に関していえば、座談会「『敗戦後論』をめぐって」 1) において、橋爪大三郎の「イノセンス主義に立てば、イノセンスを主張し、親に反抗したりするためにはことばを使わなければいけないのですが、(…)ことばというものは(…)外部から与えられたもののはずだから、(…)イノセンスが成り立つかどうか、非常に疑問 2) 」という発言に対して、加藤典洋は「高橋さんとぼくの対立を一番まともに延長していったらここにくるかもしれませんよ。(…)イノセンスが成り立つかどうか。この問題を俯瞰的に見れば言葉をもつことが既に外部から来ているわけだからイノセンスはないんだ、これは真理でしょう。でも、(…)この真理を解さない子どもが自分のイノセンスは既に成立していないんだという真理を、どう了解するのか。その会得の順序はどういうものなのか。それを考えるにはただこれが真理だという言い方だけでは不十分です。 3) 」と応答している。
 ここに加藤典洋と高橋哲哉の発想の違い(「わずかな違い 4) 」)の根本的な点がある。しかし、それは過去に繰り返された対立の繰り返しのようにも思える。フッサールの「意識のありのまま」を言葉にもたらす現象学に対して、ジャック・デリダは「意識のありのまま」「意識の純粋性」ということに異議申し立てをした。それは意識が「他者たる」「言語によって汚染されている」からである 5) 。そして、その「テクスト論」「テクスト主義」「言語主義」が「ポストモダニズム」の一端を担って、多くの論者(私を含めて 6) )によって主張されていたことは、記憶に新しい。さらにまた、ナショナリズムに反対するのに、単一な「ネーション」の存立を否認し、「多様な少数派」が存在していることを根拠に「多言語主義・多文化主義」を言い立てる論調が最近とみに増えてきている。
 しかしながら、「ナショナル・アンデンティティー」は「多様な少数派」を吸い上げる形で、形成されてきたものだし、これからも形成されていくだろう 7) 。エスニック、ナショナル、グローバルなどその規模の大小、名称は変わるかもしれないが、その根本的な機制は変わることがないだろう。だから、それに対してただ単に「多言語・多文化」を言い立てることは、その形成の動きに対する傍観でしかありえない。citizen という言い方でもって nationality をのがれようとするのも傍観でしかありえない。それは「イノセンスの場を虚構する」「嘘の物語」つまり「私はこの親から(この国に)生まれていない(あるいは、私はこの親から(この国に)生まれている)という物語」を必要とする人がいた(いる)ということに鈍感だからである。
 あくまでも加藤のいうように「私」から、福沢諭吉のように「私利私欲」から、ノン・モラル(イノセンス)(「えっ、なんで? ぼく、知らないよ」「ぼくが頼んだわけではない!」)から、その問いに応答することから始まらなければならないのであって、その問いを「正しさ」という「真理」や「道徳」の名のもとに圧殺することは決して許されない。その問いに応答しながら思考の道を続けていくことが「誤りうること」を引き受ける「文学の力」であり 8) 、思想家のたどるべき道筋である。私たちはもはや、戦後日本の「良心的」知識人、今日の多くの「講壇派の若い知識人 9) 」、「戦争を傍観する」「反体制の学者 10) 」などなどに甘んじていることはできないだろう。

はじめに
1) 加藤典洋『敗戦後論』(講談社、1997年8月)に所収。引用は本書から。
2) 高橋哲哉「汚辱の記憶をめぐって」(『群像』95年 3月号)、「《哀悼》をめぐる会話 ―「敗戦後論」批判再説」(『現代思想』95年11月号)、「ネオナショナリズム批判のために」(『現代思想』97年 9月号)。
3) 『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思想』(海鳥社、1996年11月)に所収。引用は本書から。
4) 朝日新聞の記者、西島健男の文化コラム欄「記者の目 ―「歴史主体」論争」(朝日新聞1997.5.17)
5) 加藤典洋『敗戦後論』(講談社、1997年8月)に所収。引用は本書から。
6) 同上。
7) 大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998年)pp.25-26.
8) 柄谷行人、浅田彰、西谷修、高橋哲哉「責任と主体をめぐって」(『批評空間』97年II-13、97.4.21発行)p.24.
9) 竹田青嗣「「戦争」とはどういう体験だったのか、文学とは何であるか ― 加藤典洋『敗戦後論』」(『週刊朝日』97年9月26日号)pp.123-124.
10) 柄谷行人、浅田彰、西谷修、高橋哲哉「責任と主体をめぐって」(『批評空間』97年II-13、97.4.21発行)p.7.

第一章
1) 大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998年)pp.24-26.
2) 同上 pp.29-31.
3) 「戦後後論」in『敗戦後論』p.143.
4) 『戦後の思想空間』pp.32-33.
5) 「戦後後論」in 『敗戦後論』pp.190-191.
6) 加藤典洋、竹田青嗣、小浜逸郎、瀬尾育生、大澤真幸、橋爪大三郎「『敗戦後論』をめぐって」(『樹が陣営』第18号、pp.74-98、飢餓陣営発行所、1998.7.1発行)参照。
7) 小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社、1997年8月)p.14.
8) 『戦後の思想空間』pp.37-39.
9) 「戦後的思考(一)」(『群像』98年8月号)p.179.
10) 『戦後の思想空間』p.41.
11) 同上 pp.43-46.
12) 「敗戦後論」in 『敗戦後論』p.34.
13) 『戦後の思想空間』p.49-59.
14) 同上 pp.76-77.
15) 同上 pp.82-85.
16) 「「アメリカ」の影――高度成長下の文学」in『アメリカの影』(文庫版)p.15.
17) 同上 p.32.
18) 同上 p.28, p.83.

第二章
1) 「二つの視野の統合」in 『可能性としての戦後以後』(岩波書店、1999年3月)p.259.
2) 同上 pp.262-270.
3) 同上 pp.270-271.
4) 同上 p.271.
5) 同上 p.274.
6) 同上 p.274.
7) 「敗戦後論」in『敗戦後論』p.21.
8) 「戦後再見――天皇・原爆・無条件降伏」in 『アメリカの影』(文庫版)p.197.
9)「敗戦後論」in『敗戦後論』pp.25-45.
10) 同上 p.53.
11) 同上 p.76.
12) 同上 p.61.
13) 高橋哲哉「汚辱の記憶をめぐって」(『群像』95年 3月号)p.177.
14) 同上 p.180.
15) 同上 p.181.
16) 同上 p.182.
17) 加藤典洋、西谷修「世界戦争のトラウマと「日本人」」(『世界』95年 8月号)in『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思想』海鳥社、1996年11月)p.282.
18) 高橋哲哉「《哀悼》をめぐる会話 ―「敗戦後論」批判再説」(『現代思想』95年11月号)p.254.
19) 吉本隆明「「近代文学」派の問題」(初出 『群像』昭和三十九年七月号)in『吉本隆明全著作集4』p.638.
20) 宮本顕治「敗北の文学」(『改造』1929年八月号)pp.101-117. 周知のように、宮本顕治は戦時中「獄中で」「非転向を貫いた」人物である。私事にわたるが「敗北の文学」を私は高校時代に「愛読」していた。しかし浪人時代(正確には高3の1月)偶然出会った「芥川竜之介の死」「転向論」などを含む吉本隆明『芸術的抵抗と挫折』(未来社)は、そのような発想の「不毛さ」を教えてくれた。それ以来、『芸術的抵抗と挫折』が私の「青春の書」となった。

第三章
1) 加藤典洋、西谷修「世界戦争のトラウマと「日本人」」(『世界』95年 8月号)in『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思想』海鳥社、1996年11月)p.272.
2) 同上 p.261, p.274.
3) 「責任と主体をめぐって」(『批評空間』97年II-13、97.4.21発行)p.9.
4) 「敗戦後論とアイデンティティー」in 『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思考』p.339.
5) 同上 p.342.
6) 「責任と主体をめぐって」(『批評空間』97年II-13、97.4.21発行)p.9.
7) 「敗戦後論とアイデンティティー」in『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思考』p.338.
8) 「世界戦争のトラウマと「日本人」」in『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思考』p.273.
9) 同上 p.275.
10) 同上 p.276.
11) 同上 p.276.
12) 吉本隆明「戦後文学は何処に行ったか」(初出 『群像』昭和三十二年八月号)in『吉本隆明全著作集4』p.130.
13) 「敗戦後論」の注20 in 『敗戦後論』pp.287-288.
14) 川村湊「湾岸戦後の批評空間」(『群像』1996年6月号)p.304.
15) 「戦後後論」in『敗戦後論』p.117.
16) 同上 pp.114-118.
17) 同上 p.119.
18) 同上 pp.106-107.
19) 同上 p.205.
20) 同上 p.218.
21) 同上 p.221.
22) 同上 p.250.
23) 同上 p.258.
24) 同上 pp.269-270.
25) 高橋哲哉「ネオナショナリズム批判のために」(『現代思想』1997年 9月号)pp.262-275.
26) 加藤典洋、赤坂憲雄「三百万の死者から二千万の死者へ」in『加藤典洋の発言 2 ― 戦後を超える思考』p.213.
27) 同上 p.221.
28) 内田樹「戦争論の構造」(『論集』第46巻第3号、2000年3月、神戸女学院大学研究所に収録予定)(内田樹のホームページで読める。http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/)この論文で内田は高橋をサルトル - カミュ論争における「正しすぎる」サルトルに見立てている。興味深い指摘である。
29) 東浩紀「棲み分ける批評」(初出『Voice』1999年4月号)in『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999年8月)pp.19-20.
30) 同上 p.21.
31) 「戦後的思考(一)」(『群像』98年8月号)p.169.

結論
1) 加藤典洋、竹田青嗣、小浜逸郎、瀬尾育生、大澤真幸、橋爪大三郎「『敗戦後論』をめぐって」(『樹が陣営』第18号、pp.74-98、飢餓陣営発行所、1998.7.1発行)
2) 同上 p.90.
3) 同上 pp.90-91.
4) 同上 p.90, p.91.
5) Jacques Derrida, La voix et le ph始om熟e, P.U.F., 1967.(ジャック・デリダ『声と現象』(高橋允昭訳、理想社、1970年))を参照。また、竹田青嗣『意味とエロス』(作品社、1986年6月、ちくま学芸文庫、1993年6月)(とくにI- i 「存在と意味の問い」)も参照。
6) 拙論『セミオロジーとグラマトロジー』(早稲田大学大学院文学研究科修士論文、1978年12月20日提出、指導教授は川本茂雄)、「ジャンプするハイデガー・デリダについて」in『文学研究科紀要別冊第10集 文学・芸術学編』pp.1-9(早稲田大学大学院文学研究科、1984年2月15日発行)および「デリダと/のメタフォール」in『フランス文学語学研究』第4号pp.31-42(早稲田大学大学院同誌刊行会、1985年 1月31日発行)を参照。
7) ナショナリズムという思想はどのようにして形成されていくのかを、ヴォージュ(アルザス・ロレーヌ地方)生まれのモーリス・バレスという事例で検討を試みた拙論「バレスとナショナリズム ―観念小説三部作『自我礼拝』を読む」in『立命館言語文化研究』第8巻第2号 pp. 23-40(立命館大学国際言語文化研究所、1996年12月20日発行)を参照。
8) 竹田青嗣「「戦争」とはどういう体験だったのか、文学とは何であるか ― 加藤典洋『敗戦後論』」(『週刊朝日』97年9月26日号)pp.123-124.
9) 加藤典洋「語り口の問題」in『敗戦後論』 p.250.
10) 加藤典洋「戦後的思考(一)」(『群像』98年8月号)p.190.書誌

a)
加藤典洋『アメリカの影 ― 戦後再見』(河出書房新社、1985年4月、講談社文庫、1995年6月)
「「アメリカ」の影 ― 高度成長下の文学」(初出(『早稲田文学』82年8,9,11月号)
「崩壊と受苦 ― あるいはフロンティアの消滅」(初出『群像』83年11月号)
「戦後再見 ― 天皇・原爆・無条件降伏」(初出『文藝』84年 9月号)
加藤典洋『敗戦後論』(講談社、1997年8月)
「敗戦後論」(初出 『群像』95年 1月号)
「戦後後論」(初出 『群像』96年 8月号)
「語り口の問題」(初出 『中央公論』97年 2月号)
加藤典洋『可能性としての戦後以後』(岩波書店、1999年3月)
とりわけ「「瘠我慢の説」考 ― 「民主主義とナショナリズム」の閉回路をめぐって」(初出 96年 2月)、「戦後的思考の原型 ― ヤスパース『責罪論』の復刊に際して」(初出 98年 8月)、「二つの視野の統合」(初出 98 年 3月)
加藤典洋『戦後的思考』(『群像』98年 8月号〜99年 6月号、隔月連載、完結)(1999年11月25日に単行本が刊行された。)
加藤典洋、西谷修「世界戦争のトラウマと「日本人」」(『世界』95年 8月号)(『加藤典洋の発言 2 戦後を超える思想』海鳥社、1996年11月)に所収。
加藤典洋、姜尚中「敗戦後論とアイデンティティー」(『情況』96年1-2月合併号)(同上に所収)
赤坂憲雄、加藤典洋「三百万の死者から二千万の死者へ ― 戦後に死者を弔うしかた」(『思想の科学』94年 8月号)(同上に所収)
橋爪大三郎、竹田青嗣、加藤典洋「憲法とはなにか」(『思想の科学』95年 7月号)
吉本隆明、加藤典洋、竹田青嗣、橋爪大三郎「半世紀後の憲法」(『思想の科学』 95年 7月号)
加藤典洋、竹田青嗣、小浜逸郎、瀬尾育生、大澤真幸、橋爪大三郎「『敗戦後論』をめぐって」(『樹が陣営』第18号、pp.74-98、飢餓陣営発行所、1998.7.1発行)

b)
高橋哲哉「汚辱の記憶をめぐって」(『群像』95年 3月号)
高橋哲哉「精神の傷は癒えない ― 死(者)の記憶と《赦し》の論理」(『現代思想』95年 7月号)
高橋哲哉「《哀悼》をめぐる会話 ― 「敗戦後論」批判再説」(『現代思想』95年11月号)
高橋哲哉「証言とジェンダーの政治」(『思想』97年 4月号)
高橋哲哉「ネオナショナリズム批判のために」(『現代思想』97年 9月号)
高橋哲哉『記憶のエチカ ― 戦争・哲学・アウシュヴィッツ』(岩波書店、1995年8月)
高橋哲哉『デリダ ― 脱構築』(講談社、1998年3月)

c)
上村忠男「同一性への欲望と「外部」の思考 ― 高橋哲哉『記憶のエチカ』」(『思想』95年12月号)
鵜飼哲「時効なき羞恥 ― 戦争の記憶の精神分析に向けて」(『現代思想』95年 1月号)
岩崎稔「《語りえないもの》と《政治的なるもの》」(『現代思想』95年 7月号)
柄谷行人、浅田彰、西谷修、高橋哲哉「責任と主体をめぐって」(『批評空間』97年II-13、97.4.21発行)
岩崎稔+高橋哲哉「「物語」の廃墟から」(『現代思想』97年 7月号)

d)
西川長夫「一九九五年八月の幻影、あるいは「国民」という怪物について」(『思想』95年10月号、『国民国家論の射程』(柏書房、1998年4月)に所収)
「もうひとつの「語り口の問題」 ― どのように歴史的事実と出会うか」(『創文』97年 4月号)
大越愛子「懺悔の値うちもない」(小森陽一、高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東京大学出版会、1998年5月)に所収)
川村湊「湾岸戦後の批評空間」(『群像』96年 6月号)

e)
竹田青嗣「「戦争」とはどういう体験だったのか、文学とは何であるか ― 加藤典洋『敗戦後論』」(『週刊朝日』97年9月26日号)
大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998年)
とりわけ「第一章 戦後思想の現在性」(初出「リブロフォーラム」97年4月)
大澤真幸「トカトントンをふりはらう ― 丸山眞男と太宰治」(『大航海』97年10月号、新書館)
西島健男「記者の目 ― 「歴史主体」論争」(朝日新聞1997.5.17)
安彦一恵ほか編『戦争責任と「われわれ」 ― 「「歴史主体」論争」をめぐって』(ナカニシヤ出版、1999年6月)
内田樹「戦争論の構造」in 内田樹のホームページhttp://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/(『論集』第46巻第3号、2000年3月、神戸女学院大学研究所に収録予定)

f)
太宰治『太宰治全集』(筑摩書房)
とりわけ「トカトントン」(初出『群像』1947年 1月号)
吉本隆明『吉本隆明全著作集4』(勁草書房)
とりわけ「戦後文学は何処に行ったか」(初出『群像』1957年 8月号)、「「近代文学派」の問題」(初出『群像』1964年7月号)
吉本隆明『吉本隆明全著作集13』(勁草書房)
とりわけ「転向論」(初出『現代批評』第一巻第一号、1958年12月刊)
吉本隆明『吉本隆明全著作集7』(勁草書房)
とりわけ「芥川竜之介の死」(初出『国文学解釈と鑑賞』1958年8月号)
吉本隆明『「反核」異論』(深夜叢書社、1982年12月)
吉本隆明『重層的な非決定へ』(大和書房、1985年9月)
吉本隆明『私の「戦争論」』(ぶんか社、1999年9月)
小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社、1997年8月)
東浩紀『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999年8月)
ジャン=リュック・ナンシー編、港道隆ほか訳『主体の後に誰が来るのか?』(現代企画室、1996年3月)
アーレント『イェルサレムのアイヒマン--悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年9月、新装版1994年)
レヴィナスの著作
Jacques Derrida, La voix et le phenomene, P.U.F., 1967.(ジャック・デリダ『声と現象』(高橋允昭訳、理想社、1970年))

(『立命館言語文化研究』第11巻第4号pp.57-71.  立命館大学国際言語文化研究所、2000年2月発行)