『協う』2007年4月号 視角



『協う』というメディア/生協のおもしろさ

山口浩平
(財) 生協総合研究所 研究員
明治学院大学・東洋大学 非常勤講師

 

 生協に関心を持つ若い研究者や実践家が少ないという声をよく耳にするが、 ではどうしたいのか、 を考える時に来ているのだと思う。 例えば生協は 「会員制スーパー」 ではないこと、 所有者は組合員であって民主的な運営が原則、 などおもしろい要素はたくさんあるはずだし、 現実の協同組合のおかれている状態やその姿を見ながらも、 理念や考え方の面ではNPOや市民団体の人の関心も呼べるのではないだろうか。 組織が大きくなって、 「原則はそうだけど現実は…」 と口を濁してしまう今だからこそ、 しっかりとした組織を持ちつつ、 関わる人が生きいきと活躍できる仕組みとおもしろさ、 が実践にも研究にも必要だろう。 おもしろいからこそ研究するし、実践するし、 変わっていくことができるものだと思う。
  ここで、『協う』や生協研究のおもしろさを考える上では、 つながる、ということが重要なキーワードになっている。もちろん利害関係を伴わない人間の関係性は前提となる重要な要素だが、 ここではあえて 「戦略的」なつながりの事を指摘しておきたい。すなわち、行政(特に市町村)、 NPO、 商工会議所、地域企業、そして政治とどのようにつながって行くか、 である。 生協は組合員による、 組合員のための組織であるが、一定の地域に根付いた (法的に限定されている) 経済主体であり、公共的な性格を有している。だからこそ、今あげたような主体とのつながりが可能なのだ。特に地方分権という文脈の中でも、地域の中での生協の可能性はもっと幅広い。 この意味での生協の実践では、生協しまねの 「おたがいさま」 や、 コープやまぐちの首長との懇談会の取り組み、東京マイコープの市民活動助成金など枚挙にいとまがない。
  そのおもしろさを、生協にこれまで関わっていない人たちに、どのように伝えるのか。 それ以前に、そのおもしろさは職員や組合員に共感されているか、あるいは共感したことを自分の言葉で語ることができるかどうか、が課題にもなるかもしれない。荒っぽい言い方になるが、 生協は自分のところで完結できることが増えて、その広める・つながるという試みが弱まってきたのではないだろうか。 生協の実践や調査の中には、非常に優れて貴重なものが多く、 それが閉じられて埋もれているのは大変もったいなく思う。
  さて、『協う』という媒体は、その閉じた傾向の真逆にあるだろう。『協う』でとりあげられていることは、様々な地域での「くらし」と「協同」 の息吹を掘り起こすことだし、掘り起こして、 収穫して、調理して、食べて、また耕すというプロセスを大事にしていて、そこから力を得ているのだと思う。つまり優れた料理をテーブルに集めるよりも、その皿に至る背景と行方にも気を配ることだ。
  この意味で誤解をおそれずに言うなら、『協う』 は研究所の雑誌ではあるが、研究成果の発表や記録の場ではないし、そうあってはならないのではないかとも思う。つまり、雑誌という文字を使った媒体である以上、書き手と読み手という区分があって、かつそれは発行が2ヶ月に1回と決められておりリアルタイムの議論にはならなくて、どうしても一方通行になりがちだ。 それは書き手の 「主張」 を読み手 (となってくれるだけでもありがたいことだけれど) が 「受ける」 という静的な関係性である。 だからこそ、『協う』は文字媒体として 「伝える」 ということを意識するだけではなく、 例えば取材対象と、読者と、生協に関わってこなかった人と 「つながる」 ためのメディア (媒介=medium)であってほしいと思う。 それはウェブサイトや映像などのメディアでも同じ事が言えるかもしれない。 冒頭に書いた 「おもしろさ」 は、『協う』 で伝えることよりも、 『協う』 でつながる、つまり、一つの記事の前にある研究や調査、 後につづく長期的な関係性、 というプロセスにあるだろう。その過程を経てこそ、 より多くの人々が生協に関心を持つのではないだろうか。
  荒っぽい意見を連ねてしまった。私も 『生活協同組合研究』 という雑誌の編集やウェブサイトの運営に関わっていて、 メディアとはなんだろうか、 と日々考えつつ、である。『協う』 という媒体からいつも刺激を受けている、ということも付言しておきたい。

 

やまぐち こうへい
  (財) 生協総合研究所 研究員
  明治学院大学・東洋大学 非常勤講師