『協う』2008年10月号 特別企画


追悼 木原正雄先生を偲ぶ(当研究所 初代理事長)
  当研究所の初代理事長・木原正雄先生が去る6月お亡くなりになりました。"若い人たちの自由で自主的な研究活動がなによりも大事です"と終始やさしく見守ってくださいました。私たちはそのやさしさを支えてこられたご自身の生き方も忘れてはならないように思います。ここに哀悼の意を表し紙面をとらせていただきました。

 

木原正雄先生の研究とお人柄
芦田文夫

一  
  私たちの学問と人生の師であった木原正雄先生が、2008年6月24日に90歳で亡くなられた。先生の御遺志で京大医学部に献体され、家族だけでお別れをされた。「葬式」も「偲ぶ会」も無用とかたく言い残され、住所録も事前に処分されるという徹底したやりかたを貫かれた。
  先生は、ロシア革命の翌年1918年に京都市で生まれ、第一商業学校、ハルピン学院、立命館大学を卒業になり、戦後1946年から京都大学経済学部で1981年の定年まで研究と教育に携わられた。その後、阪南大学を経て、1990年まで高知女子大学の学長を6年間勤められた。それらと並行して、3期にわたる日本学術会議会員として、また日ソ協会(現日本ユーラシア協会)、日本科学者会議、革新懇など数多くの社会的運動組織の会長や代表を務められた。なかでも、生活協同組合活動には、1990年代以降に京都府生活協同組合連合会会長、大学生協京都事業連合理事長、「くらしと協同の研究所」理事長などの要職につかれて献身された。

二  
  木原先生の専門は社会主義経済(学)の研究で、戦後ようやく解禁されて本格的な研究が始まろうとした、その文字通り草分け的な先駆者であった。「人のやらないことをやってやろう」(この「抵抗精神」はその後においても、しばしば先生の生き方を左右している)と京一商でロシア語を選択された先生は、それを活かすためにハルピン学院に単身渡られ、だから私大しか入学できなかったのであるが、敗戦のためたまたま旧帝大に籍を得ることになった、と述懐されている。アカデミズムでの社会主義経済研究は、この京大と一橋大や東大(しかしそこでは研究所)でようやく市民権を与えられていくことになるのである。そこでは、まず基礎的な文献・資料の収集や整備という膨大な労力の投入が必要とされた。
  先生は、日本における社会主義経済(学)の研究史を振り返ってそれを4期くらいに分け、第1期の自分たちの草創期を「なんでも屋」と謙遜して呼ばれ、「現状分析」をはじめ「政策」も「理論」も「歴史」も何でもやらなければならなかった段階であったとされている。『ソ同盟経済論』(1950年)や『ソ連邦の社会主義経済』(1961年)がその時の労作である。第2期、これは新制大学院の初期で私などもそれに属し、「理論」化が始まっていって「価値・価格論」「再生産・バランス論」「所有論」「経済法則論」など資本主義と対比した経済学としての体系化の努力がおこなわれていった。先生自身も、1920・30年代の「広義の経済学」論争を発掘されて『社会主義経済の理論』(1966年)にまとめられ、博士号をとられた。第3期は、もうひとまわり若い世代で、専門化・分化が進み、産業部門別や企業経営、財政金融などの領域別に、あるいは東欧諸国・中国などの国毎に深化されていく。技術論や環境論への展開もみられるようになり、先生自らも資本主義と社会主義の再生産構造に占める位置づけの比較という視角から、それらを大著『日本の軍需産業』(1994年)に結実される。ちなみに、第4期は、ソ連・東欧の「体制転換」のあと今日に至る段階で、21世紀へ向けての「再生」のため全世代の奮起をずっと呼びかけておられた。

三  
  経済学を研究する方法と姿勢について、先生がたえず強調されていたのは、一つは、全ての連関と媒介を明らかにしていく努力、全面性という見地であった。もう一つは、つねに変化し発展しているものとして捉える、批判的・変革的見地ということである。終生、資本主義の矛盾をのりこえていくための、よりよき未来社会へ向けての正確な展望と道筋を明らかにしていくための、社会主義経済(学)の研究という原則を貫かれようとした。
  社会主義論は、どれか一つの見地や研究だけの傑出で事が済むようなものではない。先生が主導して切り拓かれた上述の研究史の諸領域を思い返せば、期せずして豊かなアンサンブルを形成してきたことに気づかされるのである。そのどの領域についても、第一線で活躍する数十名の研究者群を育てられた。しかも、なにをどのように研究しなさい、という「徒弟的指導」を一切受けたことがない。全く自由に伸びのびとやらせてもらった。以心伝心で、原則をおのずから体得していくやりかたであった。こんな理想的な教育者は、もう出てこないのではなかろうか。
  先生の対人関係は、いたって穏やかで、半世紀以上になるつきあいのなかで色をなして怒られた場面に一度も出会ったことがない。弟子にも誰に対しても謙虚で、およそいかなる「権威主義」とも無縁で、生来の「民主主義」的人権感覚を身につけたお人柄であった。しかし、外柔内剛、心中には生き方の厳しい自己規範を持しておられたように思う。戦後の社会運動における左右への変身、とくに「大学紛争」などで表われた様々な人生模様に対して、大声で語られることはなかったが、原則的な基準と評価をもって厳しく人間としての一線を画しておられた。

四  
  先生はいつも「世界を解釈することではなく、変革するための経済学」と言っておられたから、それに役立つどんな社会的活動でも頼まれれば嫌な顔をしないで引き受けられ、誠実に努力された。その最たるものの一つが、生活協同組合であろう。1960年代半ばには京都大学生協理事長として、そして1990年代に高知から京都に戻られてからの上記の会長や理事長としての要職である。その活動内容については、生協関係の別の方にゆずるとして、ここではそれが先生の晩年の研究と生活から眺めてみたときの接点だけにふれておくことにしたい。
  この1990年代は、ソ連・東欧の「社会主義」体制が崩壊していく過程と重なっていた。先生は、国民不在で国家を先頭に立てた官僚制的支配や大国主義的覇権を批判され、「社会主義の道から外れたから、社会発展の法則に背いたから」崩壊したのだと強調された。そして、新たな未来社会への展望と結びつけて、生協運動がもつ積極的なモメントを確かめられようとした。一人一人の生きる権利を大事にする、下からの連帯と協同の力で自分たちを守っていく、みんなの参加で事業経営の自主性と効率性を発揮していく、民主主義を生活と地域の場から根づかせていく…、それらの多くが「20世紀社会主義」の現実では軽視されていたものだからである。
  資本主義の大量生産と大量消費、「飽食」と「浪費」のもとでの真の「豊かさ」を問いつづけられ、私たち一人一人の「生活スタイル」を変える問題にまで論究されていった。しかしそのし方は、理屈ではなく、先生の永年の生活実感から滲みでてきた言動であったから、胸に響くものがあった。先生は、持ち家を排し公団住宅の「うさぎ小屋」(40平方メートルの2DK、晩年は一部屋増の広い方へ移られたが)で生涯を通された。電気洗濯機などは使われなかった。皮鞄ではなく風呂敷に本と弁当を包んで大学に通われた。
  まことに、1990年代の生協運動は、先生にとっても生涯の研究と社会的な活動と個人的な生活がぴったり合っていたようで、幸せな晩年だったのではなかろうか。『京都の生協』誌などに連載されたトークを読み返してみても、実に活き活きと楽しそうである。私は、後をうけて大学生協京都事業連合の理事長になったのであるが、この生協などの「新しい社会運動」と「体制変革」の展望をどう結びつけていくのか、という先生から遺された研究課題の重さを痛感しているこの頃である。(立命館大学名誉教授)

 

木原先生に導かれて
横関武
 
  7月半ば、奥さんからの電話で、先生は6月一切の用件を済ませて穏やかに亡くなられたことを知りました。先生に初めてお会いしたのは、1963年、地域生協をつくるにあたってご意見をおききするためでした。問われるまま、大学生協の任務や役割、地域生協の展望を私は一所懸命話しました。とくに京都洛北生協設立発起人会での婦人たちの様子のくだりになると、 "地域のご婦人たちのエネルギーはたいしたものですね"と相槌をうちながらきいておられました。あなたは生協運動をライフワークにされるのですか、こんど理由をきかせてくださいといわれ、約束して分かれました。
  2度目は65年、先生が京大生協の理事長になられたとき、私の質問や意見にもよく耳をかたむけ諄々と応えてくださいました。“平和とよりよい生活のためには、国民一人ひとりが主権者として現実を知ること、そして現実を変えるためには各人がその原因を知るだけではなく心を合わせてこれを取り除いていく力をつけていかなければなりませんね”と物静かな中にも熱意を込めて教えてくれました。こうした生協の役割や可能性に対する先生の期待は終生変わることはありませんでした。
  京大退官後すぐ京都生協の監事に、高知女子大学学長退任直後から京都府生協連会長、大学生協京都事業連合理事長、くらしと協同の研究所理事長をお願いし、身近に先生のお人柄(心豊かで自由な人、寛容で謙虚に生きる人、弱いものいじめは許せない強い人)に接するたびに、自らの不明を恥じるばかりでした。この間も私たちは、先生が期待されてやまない「平和とよりよい生活」のための協同の意味を明確にすること、身の丈にあった進め方を軌道に乗せることを曖昧にしたまま来てしまい、先生の期待に応えられませんでした。しかし、先生は未熟な私たちを一言も責めることなく黙って生協から去っていかれましたが、個人的には少しも変わらず最後まで対等に付き合ってくださいました。先生に出会えて、人として生きることの意味や、人類の進歩という大河のなかで、たとえのろくても元気で進んでいくことができると思います。先生安らかにお眠りください。
(京都生協元理事長・日生協元副会長)

 


笑顔を絶やされず、正座を崩されず
井上吉郎
 
  木原正雄先生が、亡くなられた。先生が、80歳を超えてからは、ご自分の人生を歩むようにされていたので、没交渉だった。京都で生まれ、京都で亡くなられた先生の、無私ともいえる人生を思い返している。子どものような年齢の私にも、丁寧に接してくださった。
  先生とじっくり話をしたのは、20年程前、高知市内の学長官舎だった。当時、私は、京都府生協連の仕事を担当したばかりだった。京都大学経済学部や阪南大学での務めを終えて、先生は高知女子大学・短期大学の学長に就任されていた。用件は、京都に帰ってこられたら、京都府生協連の会長を引き受けていただきたいということだった。副会長だった横関武さんの説得もあって、「京都に帰ることになったら考えましょう」ということだった。心地よい酔いが回る夜になった。
  そのとき気がつくと、先生は、着物を着て、正座姿を崩そうとはされなかった。余計なこととは知りながら、先生に、姿を崩されない理由を聞いた。するといとも簡単に、これの方が、胡坐なんかをかくより楽だからとおっしゃって、京都の町のど真ん中の商家で育った自分史を語られた。
  商家で育ったことも影響しているのか、先生は粋というかおしゃれと言うか、へそ曲がりというか、男性が良く着る黒の略礼服の代わりに、渋い黒に近い茶色のスーツを着て告別式に出られたことがある。その姿が、私には印象深かったので、以降、先生を真似するようになった。
  先生は、自由闊達を旨とされていたのだろう。学問でもそうだったように思うが、生協を含む市民運動でも、会長としての先生は、現場の判断を信用してくださった。「そうですなー」と言いながら、意見は聞いて下さったように思う。   
  社会主義経済、計画経済、原子力問題など、先生は、ロシア語の知識も活かして活躍された。京都府生協連を足場に、研究機関などさらに活動領域を広げられた。20年前、先生に、京都市長選挙への立候補のご挨拶に伺った折、笑顔を絶やさないで、引き締まったお顔で励まされたことを、昨日のように思い起こしている。
(元京都府生協連専務理事・現<WEBマガジン・福祉広場>編集長)

 

真実に向き合った経済学者
久保建夫  

  先生と往き来できるようになったのは私の『経済』編集部時代、編集委員会やそのあとの先生はじめ戸木田嘉久、林直道、関恒義といった先生方との懇談の場でした。70年晩秋、私は初めて特集企画「社会主義の新展開」を担当(71年9月中旬刊)、木原先生の論文他特集原稿がゲラになっていた71年8月15日昼、ニクソンショックが世界を激震させ、編集部では急遽、緊急特集を組み社会主義特集は1月繰り延べることになったのです。その時私は、実父の葬儀の真っ最中で、読経と編集部からの電話が錯綜して狼狽したことを憶えています。のちに延期の事情を説明しに伺うと、先生からはかえって労いと励ましをいただく結果となり、そのときの経験が、その後私の対人関係を紡ぐ支柱になったと思います。
  この特集は「社会主義諸国」の客観的分析として注目されたのですが、とんでもない注目のされ方もありました。当時『経済』の主要論文はすぐロシア語に翻訳され、モスクワの関係機関の雑誌に紹介されていたのですが、特集巻頭の木原論文がソ連の闇ドル高騰の事実を厳しく指摘していたことから、折からモスクワ滞在中の訪ソ団にソ連高官から難癖がつけられたのです。団長もさるもので、 "これは学問的に実績ある学者が事実の分析や貴国の報道をフォローして書かれたものです"と言って矛を収めさせるという後日談がありました。団長の「腕力」もさることながら、木原先生はやさしい物腰に似ず真実に向き合うときには桁外れに強いんだと私達は恐れ入ったものです。この分野の研究にはデータ・資料収集はもとより研究のありかたについても強烈な干渉があったようですが、そういうなかでも先生は自らの姿勢を貫かれたわけです。また先生は原子力問題や技術論、さらに軍需経済論にも研究領域を広げておられます。そのころのインタビュー「京大退職で新たな研究生活ふみだす木原正雄さんに聞く」
(『経済』81年3月号)を読み直してみると、そうしたいきさつとともに自ら社会主義研究の立ち位置について、"私は先輩方の研究成果に少し付け加えたに過ぎません"と語っておられます。ニュートンが万有引力発見で讃えられたとき、"先人の研究成果という巨人の肩に立つに過ぎません"と言ったそうですが、これに通じるものを感じます。
  こうした 先生の考え方や生き方は死期を悟られてからの振る舞い方まで貫かれたのです。研究所理事長在任中も、先生のスタンスはゼミでの教育と同じく"研究は誰もが自主的に自由にやればいい"といったことで、細かいことは言われませんでした。しかし、研究所創立の趣意書草稿を私に手渡されながら、とくに強調されたことがありました。"この研究所は各地の生協と組合員、職員や研究者、その他諸団体によって支えられているのだから、暮らしの実態を深く調べ、暮らしを支える協同のあり方を研究して、人々の取組みが進むよう研究面からサポートしていくという姿勢が大事だと思う。京都にある研究所だからといって、京都の生協中心、京都の大学中心といったことにならないよう十分気をつけてください"と。
  研究所理事長在任中に書かれたものをあらためて読みとくと、先生は終始心配しながらも静かに見守っておられたように思われます。"組合員民主主義が生協の基本である。それが有効に持続するためには、組合員の皆さんが自分の生協についてあらゆる情報を知っていること、知る権利がある。しかし現実にはどこまで情報が伝わっているだろうか。・・・『協う』は支援していただいている皆さんのおかげで発行していますが、各生協組合員の皆さんに役立つ存在になっているでしょうか。心配です。ご意見、ご批判をお寄せいただけると幸いです"。これは『協う』96年6月号の「視角」に「無題」のタイトルで書かれたものですが、饒舌なタイトルよりはるかに雄弁に心中を語りかけておられるようにも思えます。生協の可能性に対する期待と現実の進展、その矛盾をどうとらえ、それをどういう視角から追究していくのか――こういう宿題を残されたように私は感じているところです。(当研究所 客員研究員 初代事務局長)