『協う』2009年4月号 私の研究紹介

第13回 濱岡政好さん 佛教大学社会学部教授・当研究所研究委員

貧困・労働・生活・地域に目をむけて

先生の研究テーマとそのきっかけについてお聞かせください
  ちょうど卒業する時期が、オリンピックの後の不況で、山一証券がつぶれた時期と重なったりして、就職は相当厳しかったんですね。そんなこともあって「大学院でもう少し準備をしてから社会に出よう」というぐらいの気持ちで、面白そうに見えた社会学の大学院に入ってしまったということです。「入院」後、1年ぐらいはゆっくり勉強できましたが、すぐに1960年代末の大学紛争になってしまいました。そうした状況におかれたことで社会問題に対して鋭敏になったことは確かです。労働組合などによって労働と生活の困難を解決するすべを持たない勤労者、今風に言えば非正規とかワーキングプアですが、その実態と問題解決への運動を研究してみたい、という問題意識は、大学院に入ってしばらくして出てきていました。そのことを当時はいちばんカッコいい労働問題として扱いたいという思いでした。
  指導教授の樺俊雄先生はドイツの文化社会学など理論社会学の研究者でしたが、畑違いのことをしたいという私に総評への紹介状を書いてくださって、当時の総評調査部へ資料収集に通いました。修士論文は「未組織労働者論」です。その意味では、大学院に入って、修士課程の後半ぐらいで修士論文をまとめる頃から、だんだんと問題意識がはっきりし始めたということでしょうね。だから、とても晩稲なんですね。修士論文をまとめている過程で江口英一先生の論文と出会い、博士課程に入った時に先生の研究室に押しかけてから40年近くのおつきあいですね。学生生活のいちばん最後の最後に江口先生とめぐりあったわけですが、それが私の研究のベースになったんです。
研究者の道を選んで
  博士課程の途中で樺先生が創価大学に移られたので、後は那須宗一先生に指導教授になっていただきました。先生は老年社会学というジャンルを切り拓いていかれた方でしたが、当時の私は、社会運動のなかでも、労働運動や労働問題で頭がいっぱいでしたから、老年社会学や高齢者問題から社会事象を捉えるという視点はほとんどなく、それらは中心的課題ではないというふうに思っていました。その後、那須先生の研究領域である高齢者問題に少しずつ接近し、ここ最近15年ぐらいは、私のメーンな研究領域になっているのですから、不思議な感じがします。
  当時の大学院生は自分たちのことを「新しい型の研究者」などと自称していましたが、プロの研究者になる自信はありませんでした。博士課程の時代は、江口先生の下で専ら失業対策事業で働く日雇い労働者の労働と生活の実態調査に明け暮れていました。江口「調査工房」の手配師兼現場監督という役回りです。私にとっては貴重な調査実習になりました。江口先生の下で調査報告をまとめたり、雑誌原稿を書いたりしたことが、少しずつ研究者になる途へとつながったのです。
労働問題への関心はその後どのようにすすんでいったのですか
  当時の30代の若い労働問題に関心を持っていた研究者にとって、日本の大企業で働いている人たちの仕事と暮しの実態、それが地域の中でどんな形になっているのか、を解き明かすことは胸がわくわくするようなテーマでした。われわれ若手の研究者を刺激したのが鎌田慧さんの『自動車絶望工場』です。これは60年代末に出ていますが、鎌田さんは、普通の形では入れないので、青森かどこかの職安で期間工として応募してトヨタに入って、トヨタで半年か1年か働いて、それをルポにしたんですね。このルポは衝撃を与えました。
  日本の自動車産業が急激に上昇していく時期に、現場で何が起こっているか、どんな過酷な仕事なのかということを、季節工として実際に働くことを通して明らかにした。これは実際に現場に入って、そこで一緒に暮らしながら観察・分析する、社会学でいういわゆる参与観察という手法です。
  京都を中心とするわれわれ若手の研究者にも、大企業労働にもう少し肉薄できる調査ができないものだろうかという気持があって、トヨタに何度か調査の依頼をしましたが断られました。それで地域調査という形で入ったわけです。
  生活の場である地域でトヨタの労働者や関連企業の労働者、下請けの労働者などから職場での話、家庭や、地域の生活などを総合的に調査する方法です。こうしたやり方で聞いた話を会社や行政などが公表している資料などによって裏付けていくというやり方をとりました。
  こうした方法で80年代前半のトヨタの働く実態をまとめたものが『大企業体制と労働者』(お茶の水書房)でした。時期としては、ちょうどトヨタが「世界のトヨタ」へ羽ばたいていく時期です。
  このトヨタ調査には前史があります。70年代に、私が京都に来る前後の時期ですが、『労働運動』誌の編集部に先輩がいたこともあって、30歳そこそこの研究者や編集者が集まって時々お酒を飲みながら色々議論をしていました。そこで労働者状態の実証的な研究の必要性やその方法などが話されたのだと思います。われわれが目標としたのは60年代半ばに堀江正規先生が編集された『日本の貧困地帯』(新日本出版社)です。これは雑誌『経済』に連載された貧困特集の論文を再編成したものですが、私たちも「どうすれば70年代の日本の労働と生活の厳しい実態を明らかにできるか」を共同研究しようと言うことになったんです。
  工場調査ということで大企業労働者などの労働・生活実態を訪問調査し、『労働運動』誌に連載しました。その一環として自動車や鉄鋼などの大企業職場の実態などは部分的に調査していました。トヨタ調査に携わったメンバーの一部もそのような工場調査を経験しており、それが初期のトヨタ調査に役立ちました。トヨタ調査もはじめの頃は気宇壮大に、トヨタだけではなく日産やホンダ、マツダなど自動車産業全体を比較研究したい、また自動車産業だけではなく、鉄鋼や電機その他、日本の大企業労働者の実態を総まとめするつもりで研究計画を立てていました。結局、トヨタだけで10年以上かかり、私は他の研究に関心を移しましたが、その時のメンバーの一部はまだトヨタを追い続けています。
絶えず「生活と労働」を捉えて 
  失対日雇い労働者の労働・生活調査については博士課程の時代からずっと継続してきました。それは5年に1度はそういう調査をせざるを得ない構図になっていたからです。70年代はじめに失対事業を廃止する政策がでてきましたが、しかしまだ十数万人も就労している人たちを一気にお払い箱にするわけにはいかないので、政府は失対で働いている人たちの状態を踏まえて制度を変更してきました。継続するのか廃止するのかということで5年に1度ずつ制度の見直しが行われたんです。そうした政府の政策に対抗するために失対労働者の労働・生活実態を明らかにする資料を組合側がつくる必要があったのです。そこで江口先生を中心に組合に協力して定期的に実態調査を行ない、国が制度検討をする時に「実態はこうなっているのに、これでいいの?」と突きつけたわけです。
  だから、70年代から80年代は、私個人の研究関心においては、修士論文から続けてきた、日雇い労働者の労働と生活の調査研究が続いていって、その上に大企業労働者の労働と生活についての工場調査があって、さらに大企業労働者の工場調査の延長に80年代に関西の若手研究者を中心にした、トヨタの共同研究が位置づくことになりました。日本の労働者状態を「生活と労働」の両面から捉えるということが一貫した問題意識でした。
  失対日雇い労働者の「生活と労働」の関係は非常にシンプルですから、生活と労働は一体になって見えますが、大企業労働者の場合は働く現場の状況がなかなかわかりづらい面もあるし、他方で、日本が高度成長を経て、「大企業労働者は非常に恵まれた、豊かな労働者だ」というイメージが広がる時代でもあったので、「本当にそうなの?」という疑問などもあって、労働と生活の両面から接近しようとしたわけです。また失対の日雇い労働者調査と大企業労働者の調査を両方ワンセットの形で組み合わせながら進めていくという研究方法を採ってきました。
  当時は労働問題研究の全盛期で、また社会運動というと労働運動が中心という状況がありました。だから、私のなかでは協同組合運動ですら少し脇に置いて見ており、ましてや福祉運動や高齢者運動の視点は弱く、そこを視野に入れるということにはならなかったですね。江口先生の下で行った山谷の日雇労働者や失業対策事業の日雇労働者などでも高齢者は登場していましたが、それはあくまでも労働問題や労働運動の課題として見ていました。当時はまだ高齢化率はそれほど高くないし、元気な労働者や労働運動という感じでした。

京都にきて、どのような調査をされたのですか
  京都に来て、労働と生活という研究枠組みに「地域」というもうひとつの要素が入ってきます。京都の西陣辺りでは、零細な下請け企業、自営業、職人など小さな仕事がたくさんあって、それが組み合わさって独特の地域のあり方を組み立てていく姿にぶつかりました。佛教大学にきて地域を意識した調査研究に取り組むことになりました。
  トヨタの場合は、独特な城下町のなかでの労働と生活が再生産されていました。失対日雇い労働者の場合は、世帯持ちが多くて、また地域との関係が非常に密接にあったので地域という舞台で労働と生活がそれなりに循環して一体としていました。西陣ではまた違う地域と労働・生活のあり方にぶつかったので、特に地域に焦点を当てながら労働と生活のあり方を調査研究しました。
  その延長線上に、京都生協調査資料室の組合員生活調査や地域調査が重なってきて、日雇い労働者の「貧乏生活」や大企業労働者の「過酷な労働のなかの生活」ではなくて、地域で暮らしている多様な人びとの状況をどのように捉えるのか、あるいは地域のあり方によって暮らし方に違いが出てくるのか、などの調査に広がっていきました。
その後も研究のあり方は変わっていくのですね私の研究のあり方を急速に転換していく引き金になったのは大震災です。95年に阪神淡路大震災が起きた時、江口先生が社会保障推進協議会の会長をやっておられたこともあって、すぐに先生から電話があって、「大変なことになった。日本の勤労者が抱えている生活と労働の問題がこういう大災害によって激烈な形で出ているに違いない。それをちゃんと把握し、早く対策を出して、社会的にアピールする必要がある。近くにいるのだから行って調べるように」と言われました。
  先生から紹介していただいた兵庫県社保協の関係者が障害者運動のリーダーをしていた縁で、障害者団体の人たちと一緒になって、災害を受けた障害者の地震後の状況聴き取り調査をすることになりました。この調査は、それまで私が経験したなかで最も難しい調査でした。障害をもった子どもたちの状況を、学校の父母会や養護学校の先生の協力を得ながら、家や避難所を訪ね歩いて、お話を聴かせてもらいました。震災で子どもを亡くされた両親の話を、両親の友人に同行させてもらって被災の様子をうかがうのですが、とても言葉を出せるような感じではなかったです。 
  「障害者と震災」というテーマは、その後、そこでつながった人たちと一緒に淡路島の被災地にも調査に行って、それらも含めて記録集としてまとめることができました。
災害が社会の脆弱なものを表面化させた
  震災との関わりはその後もつづいて翌年のお正月から4年間ぐらい仮設住宅の調査に取り組むことになりました。96年1月、97年、98年と続けて、最終的には仮設住宅から移っていった先の復興公営住宅の調査をして、いちおうまとめということになりました。ここでもやはり、震災によって大変な状況になっただけではなくて、もともと脆弱で壊れやすいものが隠されていて、災害がそれを表面化させたことがよくわかりました。日本の社会保障やさまざまな生活の仕組みが、住宅はもちろんのこと住宅以外も非常に脆いということです。
  同じころに生協しまねから組合員調査依頼が研究所にあり、内容は「組合員調査をするので、その結果を分析してほしい」という要請でした。神戸の被災地域での仮設住宅の状況や障害者の実態としまねの調査の実態を見比べながら、「島根の高齢者と神戸の被災者の状況には、ずいぶん共通点があるな」ということに気づかされました。

「共通点」とはどのようなことですか
  要するに、仮設住宅というのは、都市のど真ん中に突然できた「限界集落」のようなものなんです。しかも、「限界集落」よりもっとたちが悪いのは、「集められた」ということです。コミュニティではなく、あるカテゴリー、つまり「高齢者のなかで優先度の高い人を集めた」「障害のある人たちを集めた」という形で、高齢や障害のある人たちだけを集めて、ある種のコロニーをつくってしまったのです。言い換えれば、自分たちで協同して何かをするということが難しい構造をつくってしまったわけで、その結果、孤独死が多発しました。一方、島根県など農山村では、高齢化率が上がって、大変な状況が出てきている。それで、神戸の仮設住宅の調査などを経験しながら、「日本の農山村の暮しはどうなっているか」と問題意識につながって、たまたま生協しまねの調査を引き受けたことを契機に、高齢化日本一の島根県の地域と高齢者調査にのめり込むことになります。
神戸と島根の状況は21世紀日本の課題 
  神戸と島根を調査するなかで、「神戸と島根の状況は日本の21世紀に直面する課題そのものなんだ」と、あらためて感じさせられました。そこで96年から神戸の被災地調査と並行して、高齢県島根の地域・生活実態調査に取りかかりました。それから10年以上かかっていますが、島根県西部の中山間地域を中心にしながら、しらみつぶしに自治体を訪問して、高齢者の生活実態を調査しながら、地域での対応の仕方を聴いて回っています。問題意識は「どういう社会的条件−特に福祉や医療−が整えられれば、高齢化率が30%や40%になっても、人びとは地域のなかで暮し続けられるのだろうか」、その条件が、高齢化の進んだ島根県の中山間地域でどのようにつくられているのかというものです。
  調査を始めたのは介護保険制度ができる前ですが、高齢者調査や地域での取り組みからみえてきたことは、保健・医療・福祉などのサービスだけがあっても、高齢者は地域で暮らし続けられないということです。つまり、生活を支える基盤が地域にないと在宅では暮ら続けられないということです。たとえばヘルパーさんがおじいちゃんの介護で訪問する。バキュームカーが来ないような山の上に住んでいても、昔だったら、元気なうちは百姓をして、自分で肥桶を担いで、近くの畑にまいたりしながら暮らしていたが、いまは、体が弱って、そういうことが自分でできなくなる。自分でし尿処理ができないわけです。だから、トイレの事情などは被災地と同じです。避難所でトイレ問題が大事になったのと同じことが、中山間地域で起こっている、ということに気づくわけです。
  それこそヘルパーさんが肥桶を担いだりしないと、肝心の「ケアをする」という前提条件ができない。介護が必要になってくると、介護だけではなくて、住んでいる環境そのものを整える力も衰えてくるので、そこをきちんとしないと暮らしていけない。だから、地域で暮らせなくて、結局、みんな施設に入ることにならざるを得ない。
  地域の生活基盤を維持したり、地域の人びとが助け合って元気に頑張っていけるような地域の状態をつくらないと、「保健福祉サービスを整えたから、ハイ地域で暮らし続けてください」とはいかないことに気づかされました。実に平凡な事実ですが。われわれの保健福祉を中心にすえた調査方法を転換し、もう少し広げて、「地域づくり」と介護や病気に対するケアなどが、車の両輪のように揃っていて初めて、地域で暮らすことが可能になるというように変えました。その後は「地域づくり」と介護・福祉・保健をトータルに地域を捉えていくような調査方法になっています。

都市社会の高齢化に対応する知恵を模索
  島根県のように日本で最も高齢化の進んだ地域において、高齢者が地域で暮らし続けることを可能にさせている条件を明らかにすることは、いま進みつつある都市の高齢社会化に対応できる知恵を見つけ出すことにつながるのではないか。
  90年代後半から始めた震災の調査と、その後に続く過疎・高齢化が進んだ農山村の暮らし方とそれを支える社会的条件を見つけ出すことが、今後の日本の都市社会の高齢社会化の下で、高齢者などを地域においてちゃんと支えられることに対するいろいろなヒントを見つけ出すことに結びつくのではないか。そう思って高齢化が進んでいる農山村地域での高齢者の生活実態把握と、地域生活を可能にしている社会的条件を見つけ出す調査を続けています。
  

プロフィール
はまおか まさよし
佛教大学社会学部教授
主要な研究テーマ
「貧困・生活問題」「社会調査」「社会政策」「高齢者福祉」
主要な所属学会
「労働社会学会」「日本社会学会」「社会政策学会」
論文・著書
「生活革命の旗手たち」(かもがわ出版)「応用社会学のすすめ」(学文社)
「人間性の危機と再生」’法律文化社など。