1999年10月号
人モノ地域1

過疎・高齢地の元気づくりの拠点 「常吉村営百貨店」


生協は地域の人々が本当に必要としていることを、 どのように受けとめたらいいのか。 地域とくらしを守るために生協はどのような役割をはたせるのか。 生協の 「再生」 をめぐってもその探求がおこなわれている。
当研究所は、 有限会社 「常吉百貨店」 の活動について、 98年11月丹後シンポジウム 「日本海地域のくらしと生協運動の課題」、 今年6月の総会記念シンポジウムの第1分科会 「元気な地域づくりの事例に学ぶ」 の2回に渡って取り上げた。 今年の分科会では、 流通業者はどのような地域づくりができるかということをテーマにした。 都市における事例として西新道錦会商店街、 農山村における事例としてこの 「常吉村営百貨店」 に登場していただいた。 大木満和社長と廣野公昭専務からお話を伺い、 NHKが取り上げた 「列島リレードキュメント:真心を売ります−村の百貨店」 のビデオをみせていただいた。
分科会で座長を務めた井上英之さん (大阪音楽大学教授・当研究所所長) は以下のように問題提起した。 「過疎・高齢化のすすむ中山間地で、 @自治体行政に頼るでなく、 また村の各層による地域網羅組織ではなく、 自主的に、A農協が撤退した後の地域の生産とサービスを担い将来は農業生産法人を展望しつつ、 B日常の交流と雑談の場の店を地域に共に生き喜びを実感する 『活舞台』 、 情報発信の 『拠点』 としている。 生協でも固定した店舗や共同購入のイメージではなく、 具体的に必要とされる形態を知恵を出して発見することが求められている」。

たった25坪のちっぽけな店
京都府中郡大宮町は京都府の北部、 丹後半島のほぼ中央に位置する。 丹後鉄道の大宮町駅から野田川町に通ずる府道沿いを4キロ行った上常吉に、 そのログハウス風の店はある。 それが有限会社 「常吉村営百貨店」 である。 ここでは出資者による運営委員会がつくられている。 農協の元集荷場を改装して97年12月6日にオープンした。 お正月以外の午前10時から午後7時 (定休日第2 4の水曜日) の営業で、 地元の人々の日常生活に必要な食料品から農業生産資材まで並べられている 「村のコンビニ」、 「よろず屋」 である。
が、 一目見て 「百貨店」 という名前とのズレに誰もが驚かされる。 カタカナの名前が受ける時代に 「思い切りダサイ」 (廣野公昭専務) 名前をつけたのも見に来た人の驚きを楽しむ遊び心からだという。

なんでもあるから百貨店
NHKのテレビ放映にとりあげられたことなどにより、 各地から見学も増えている。 視察にきた議員も 「何だこれは…」 みたいなこともあるようだ。 しかし、 その仕組みは 「何でもあるから百貨店」 というキャッチコピーのままだと、 廣野専務は語る。
お店にないものも届ける。 目の前にないものは、 すぐに 「ない」 と言ってしまいやすいが、 「ない」 とは言わない。 「今はないけれど、 明日ならある」 とか、 「今はないけれど、 夕方には用意できる」 という返事をする。 25坪の店に何でもあるわけがない。 だけど 「何でもある」 と言っているのは、 自分が仕入れなくても売っているところがあるので、 代わりに行って買ってきて届ければ、 ないというものはない。 いまないけれどいつ届けられるのかということを伝えないと、 たった25坪で経営をやっていくのは不可能だ。 まして車で5分も走れば何でも揃うのに、 わざわざこの店に来てくれる人に 「ない」 というのは失礼だ、 との考えである。

「作ったものが売れる」 が生きがいに
ビデオのなかで、 鴨田ヒデヨさんは2週間に1回店へおわんでつくった手作りこんにゃくをもってくる。 こんにゃく芋も自分の畑でとれたもので、 今年80歳の鴨田さんは、 さらに野菜づくりにも挑戦しようと考えている。 店の中には、 その道20年の今田さんのしいたけ、 堀口さんの里芋、 端切れを使った手づくりのかばん、 竹細工など常吉の人がつくったものが並んでいる。 名札を見れば作った人の顔が見えてくる。
初年度の暮れの売上の1割はこれら常吉産品で、 産品を持ち込んだ18人の人たちは、 持って行けば売れるということで、 張り合いを出してきている。 いままでお年寄りの楽しみはゲートボールに行くか、 朝から夜までテレビを見ることであった。 昼寝していて夜寝られないといっている。 その昼寝の時間を働かせ、 働いた分夜早く寝て下さいという施策だ。
楽しみながら農業をしてもらい、 孫へのお小遣いや自分の小遣いの足しにできる。 生涯農業に取り組んでいる。 お年寄りに仕事と働くよろこびをかえし、 働かそうと考えている。

お年寄りの交流、 子どもの遊び場
店の片隅にはふれあい広場と名づけられたコーナーがある。 買い物には4キロ慣れた町までいかなければならない。 車で町まで買い物にいくことのできないお年寄りたちはこの店へ来るのが楽しみだ。 買い物を終えた人たちがここで一休み、 孫や嫁の話など世間話に花が咲く。 情報交換の場になっている。 買い物のほかにこういう楽しみもある。
そもそもこの店は、 「常吉には買物をするところがないがなぜだろう、 学校でもバカにされる」 といった子どもたちの声が動機となって子どもたちに夢を持たせたいと考えた結果だ、 と大木社長はいう。 人気の的はお菓子、 そして毎週来るコミック雑誌だ。 いま店は子どもたちの遊び場にもなっている。

毎日の電話かけ
山本淳一店長の奥さん、 公子さんがほとんど毎日電話をかける人たちがいる。 電話の相手は常吉で20何戸ほどの一人くらしのお年寄りたち。 この方たちに宅配サービスもしている。 配達に出る店長にその様子を伝える。 電話では 「竹輪1本、 かまぼこ1枚でも持って行くで」 といっている。 運営委員会では、 「独居老人への電話はこれからもずっと続けよう。 良いことだから」、 「注文よりも元気かということが大事だ」、 と話しあっている。

農業生産法人の認可へ
水稲の受委託も発展し、 将来は農業生産法人の認可をめざしている。 農地が荒廃する中で長い年月をかけて残った25町歩の田んぼ、 10年前に基盤整備されたものを、 どのように守っていったらいいかを考えている。 兼業農家の田んぼの作業を意欲ある農家が引き受ける。 97年の第1回目は18軒が田んぼを預けてくれて、 刈取り・乾燥をやった。 田植えから一貫した受委託をやりたいと考えている。 現在、 50軒に増えた。 最終的には農業生産組合をつくって、 地域でとれたものを地域で売り、 農業を基本にしてゴルフやカラオケも楽しめる村をもう一度実現したい、 と考えている。

むらづくり実行委員会がつくられた
そのはじまりはこうだ。 丹後といえば丹後ちりめんの本場。 昭和30〜40年代には機を織っていればいい時代だった。 地域のことも、 自分が持っている田畑、 農地のことも何も考えなくていい。 ガチャンと1回機が織れたら1万円もうかるといわれた 「ガチャマン景気」 の時代だった。 米を作って1年に1度入ってくるお金と、 機を織って毎月もらうお金と、 どちらが得かというと、 機を織っている方が得になる。 農業のことは考えず、 農業というものを手放してしまった。 この常吉でも当時約32町歩あった田んぼが奥の方からどんどん減った。
ところが機屋さんの景気がだんだん下降してきて、 くらしがなりたたなくなった。 寺と駐在所と校長先生の家を除いて機を織っていた集落が、 今では逆に専門は2軒だけになった。 あとはみんな勤めに出ている。
常吉地区は上常吉世帯80世帯、 下常吉60世帯、 人口が合わせて580人余り。 この20年でおよそ100人が村を去った。 4人に1人が65歳以上である。 かって村を支えてきた丹後ちりめんの生産も、 丹後全体ではこの20年で4分の1近くに落ち込んでいる。
大宮町は89年、 1億円の 「ふるさと創生資金」 の活用を人材育成に充て、 92年に 「大宮活性懇話塾」 を設立、 地域づくりのリーダーを育成してきた。 そのなかから生まれてきたのが94年に発足した 「村づくり委員会」 だ。 副塾長だった大木さんは、 常吉の村づくり委員会の委員長となり、 常吉での村づくりを取り組むことになる。 住民との話し合いの中で、 常吉の課題をコミュニティ、 生活環境、 農林業、 人材育成などで明らかにし、 新しい村づくりをめざした。 この実践の中から様々なイベントが生まれてくる。

お寺でジャズコンサート
村づくりは、 「きちんとした目的はもちながらも、 とりあえず難しいことを言わんと楽しいことをやろう」。 それで人を束ねようとすすめてきた。 その最初が96年に開催したお寺でのジャズコンサートだった。 公民館がなく地域で一番広い集会所のお寺を使って本物のジャズをみんなに聞かせたいとひらいた。 300人もの人数が集まり大成功だった。 同じ秋、 3世代交流で子供たちにふるさとの良さを体験してもらおうと 「寺子屋塾」 も始めた。 そして、 パンプキンフェスティバルや都市との交流を目的にした稲刈り体験、 常吉川草刈り大作戦と魚つり大会、 平治地蔵祭りの復活、 村を出ていった人にもよびかける 「ふるさと帰ってこいコール」 ……。 4年間イベントに明け暮れた。 それに商売を絡ませればと考えている。

農協支所の閉鎖で
大宮町は16集落が散在し、 旧村単位に8つの農協支所があった。 その大宮町農協も合併の波に乗り、 丹後一円の大型農協に変身した。 支所統廃合の中で、 常吉支所も廃止ということになった。
旧常吉村農協として発足の際、 用地や施設建物等一切が村民の善意の寄付によってなされたものであったが、 それが合併組合の経営と運営の都合で廃止とは……と村をあげての反対運動がおこる。 反対運動も一進一退で暗礁に乗り上げた時、 村づくり委員会から頃合いを見計らって 「百貨店」 建設の提案をした。 地域に商店が一軒もなく、 運動のゆきづまりに途方にくれていた人々の心に火が点いた。

行政に頼らず、 住民の力で
「村営」 というが行政単位としての常吉村は現在は存在しない。 住民自身でつくるという意味で 「村営」 とした。 一口5万円で呼びかけて、 33人が350万円出資して有限会社を設立した。 町長も出資したいと言ったが、 常吉住民だけでやりたいとおことわりした。
改修費用は650万円。 300万円は農協がかっての寄付の見返りに出した。 残りの350万円は農協からの15年の借入れ、 月2万5千円の家賃で入ることになった。 初年度97年の売上は目標を上回る3800万円。 株主に2000円の商品券を配る黒字だった。
社長の 「満ちゃん」 こと大木さんは、 ジーンズカジュアルショップを経営している。 高校を出て京都市内でしばらくくらしたがUターンした。 専務の廣野さんは、 国道沿いでしゃれたログ風スーパー (株) いととめを経営する。 専務の名刺は労力担当となっていて、 二人は無報酬。 父親も行商をしていた山本淳一さんを半年かかりで店長にくどいたのも村づくりへの思いからだ。

最終目的は楽しい地域づくり
大木社長は語る。
「私たちも20年もしたら動けなくなる。 そのとき地域でどう生きていけばいいのか。 それを今なんとか確立しておかないと、 我々の老後はない。 私たちの世代、 昭和21〜23年生まれはたくさんいる。 そういう人たちが将来死ぬときに、 常吉の地域はよかったな、 一人でも安心してくらせるんだ、 ということを作っておくことが基本だ。 次は、 常吉村の食材を使ったレストランをしたい。 専務の料理は超プロ級だからそれを利用して食べる所を作りたい。 私が70歳くらいになったら、 民宿をして、 昼間は一所懸命働いて夜はそこでいろんな話ができるような、 そういう人生にしたい」。

地域への思いと果敢なチャレンジ精神が土台
農協も撤退した過疎高齢の地域で、 経済的にも大きく落ち込んでいる今の時期。 大木さん、 廣野さんをはじめとする何人かの 「自分のことも放ったらかしにしてやるアホ」 ともいわれる中心になる人々。 そのボランティアの行動と元気さの支えになっているのは、 「このままではほっておけない」 「住みよい所にしたい」 という思いがある。 同時に、 流通に携わっているプロの経験と、 状況の先を見通しながら 「仕事をおこし、 お金を地域に循環させ」 ればビジネスになるし、 またそうしたいというチャレンジ精神も土台となっている。
生協の地域との関わり方や事業のあり方に付いて示唆される所大である。


常吉村営百貨店
〒629-2533
京都府中郡大宮町字上常吉123-2
電話 0772(68)1819






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