2000年2月号
人モノ地域

簡素さという贅沢、愛着という豊かさ
――日常生活は文化創造――

田中恒子 大阪教育大学教授・当研究所研究委員


世界の家族がどういうモノを持っているか、家の前に家財道具を全部出して写真に納めた「地球家族−世界30カ国のふつうの暮らし」(ピーター・メンツェル他、TOTO出版1994年)という写真集が出ているが、世界に日本人ぐらい多くのモノに囲まれて生活をしている国民はほかにはない、という実態もあるようだ。ここ1年少し続けてきている「くらし発見の旅」という集いでの一番大きなテーマも、私たちの暮らしの中にあふれるモノであった。「くらし発見の旅」では、この議論の一つの締めくくりとして、田中恒子さんに「簡素さという贅沢、愛着という豊かさ―日常生活は文化創造」というテーマで昨年の12月11日公開講座を開催した。今回はそこでの講演から一部を掲載する。


モノを多く持たせる仕組みと消費者主権
いま私たちはモノを多く持たせる仕組みの社会のなかにいます。ゴミ問題が深刻だといいますが、日本の経済政策としてそうなるようにしてきたのですから当然です。背景には、企業によって生活競争が組織されてきたことがあります。そして、こんな大量生産・大量消費、さらに大量宣伝・短期使用・大量廃棄という生活様式を、鉦や太鼓で応援をしてきたのは経済企画庁です。『国民生活白書』は、その宣伝塔のような役割をしてきたと思います。

私たちは競い合ってモノを買った
研究者として駆け出しのころ、『国民生活白書』に載っている耐久消費財の普及率の折れ線グラフを見るのが大好きでした。洗濯機、冷蔵庫など、モノの普及率を追いかけているのです。しかしあるとき、ちょっと待てよと、世間の人より早くこの矛盾に気づきました。普及率というと自然現象のようですが、違います。私たちは競争して買ったのです。買うために一所懸命残業し、日曜出勤もしました。日本列島株式会社の24時間企業戦士として、男たちは働いて過労死するところまでいきました。よりよき専業主婦たちは夫を働かせました。
私たちは実に無邪気に生活競争をしてきたのです。洗濯機をもっていないと負ける、テレビも百科事典も、そしてフランスベッドもと、住宅事情におかまいなく、モノをいっぱい買ったのです。60年代に、住宅面積の増加率は耐久消費財の増加率より低いので実居住面積は小さくなっているというおもしろい研究があります。それが客観的事実です。

主権を守りぬく消費者に
生活研究でおもしろい視点を吉野正治先生(元佛教大学教授、当研究所理事で96年10月ご逝去)から学びました。吉野先生は「消費者も悪い」と言われたのです。自分の生活は自分が決めるのです。競争させられていることははっきりしていますが、どんなに売り込まれてもそれを買わないという権利は消費者にあるわけです。それは消費者主権です。消費者主権を守り抜く消費者にならなくてどうしますかと、吉野先生は言われました。
最近では、国民も賢くなって、普及率という単純な競争のさせ方では、だんだんついてこなくなりました。現在では生活様式をリードしているのは女性誌です。女性誌はたいへん高感度になって、おしゃれになってきました。生活をこうつくっていきましょうと、おしゃれな生活像を提案しています。思わずこういう生活をしてみたいなと思うようなしくみになっています。いまも全体としてそういうリードが働いている社会だと思います。

生活創造者としての生活者
私は研究論文を書くときにはできるだけ消費者という言葉を使わないで、生活者という言葉を使うようにしています。私たち一人ひとりが生活創造者なのです。問題はどういう生活をつくるのかです。私は恒子流の生活様式を話しますが気にしないで聞いていただいて、自分の生活創造のしかたを考えてください。

靴下を繕って履く生活スタイル
ある大きな全国的な研究会の全体集会を大きな畳の部屋でしたことがあります。そこで私は繕った靴下を履いていることを忘れて正座していました。そのうしろにたまたま事務局長さんが座っていて、会の最後に「私の前の方は繕った靴下を履いておられます。私は久しぶりにそれを見て感動しました」とおっしゃったのです。全国集会の研究会に行くのに、繕った靴下を履いていくという、それは私の生活様式です。私は食品はどんどん買いますが、衣類はほとんど買いません。ゴムが伸びきって履けないところまで履いています。
息子が、ワイシャツのここが擦り切れた、もう着られないというと、襟をはずして、袖口のカフスをはずして、なべつかみをつくります。布は捨てたらだめ、布には最後まで命があるとデザイナーの森 南海子さん主催の「手縫いの会」で教えられました。

17年間着ているブラウス

また、私には17年間着ているブラウスがあります。なぜ17年も着ているのかというと、私の衣生活の考え方は流行を追わないことを鉄則にしているからです。そのために、ていねいに着たらずっと着ていられるような布地で、流行の形は追わない、私の好みの色で選びます。また、ウエストは一番の危険ゾーンですから、ウエストが入る服を選んで、1着の服を長くとことん着るようにしています。
先日ウエストがないような服を着て大学へ行きました。すると学生が「先生それ、おしゃれ」というのです。それは17年どころか、もっと前から着ていて、よく見たらあちこち虫が食っています。だけど、近寄らないとわからないから、授業の時はわかりません。「これはすごく長い間着ている」と言うと、「そうは見えへんわ」というから、流行がまわっているのかなと冗談を言ったのですが、それが私の生活文化です。

1999年に生きている意味

忙しい私はお金にケチです。無駄なお金は使いたくないという思いがあります。先日「国境なき医師団」がノーベル平和賞をもらいました。あのとき少し嬉しかったのです。何年か前からずっと定期的にカンパをしているからです。私もノーベル賞の億分の一くらいの貢献をしたと思っています。金持ち日本で、なおかつ田中恒子の月給は安くないと思います。その月給をもらっている私が世界平和のためにできることがあると思うから、毎月出すそのお金は私にとっては惜しくないのです。何にお金を使うかというとき、生の黒豆を買うか、炊いた黒豆を買うか、計算したことはありませんが、何円かの差しかありません。それにこだわっている私が、その何倍ものカンパを毎月しています。家計だけみていたらおかしいと思われるかもしれませんが、それは私が1999年に生きていることの意味です。

私なりの生活をつくる
買ったモノの組み合わせ、選択行為だけで生活を組み立てるという生活のつくりかたもあります。でも私は、自分がモノに働きかけて創造した部分がどうしてもほしいのです。自分で生活をつくっていく上で、どんなにおしゃれでどんなにセンスのいいモノでも、できあがっているモノだけでは納得できない。生活というのは芸術に匹敵する創造行為だと思っています。きざかもしれないけれど、お料理だって芸術です。ちょっとしたハギレから有用なモノをつくりだすのも芸術だと思います。私は大作の絵を描く能力はない。しかし、小さななべつかみをつくる能力はある。自分なりの時間と能力を使って、自分なりの生活をつくりたい。編物が得意、縫い物が得意など、いろんな人がいるので、それなりに私たちは生活創造者だということです。どんなモノを買うかというときも、その人のセンスが問われます。モノを持たせる仕組みのなかでどんな生活をつくるのか。使わないモノをたくさんもっているのか、あるいはほんとうに使いこなせるモノだけをもっているのか、もう一度自分のくらしの棚卸をしてみてほしいと思います。

住み方はあなたの生き方の表現
最後は住み方とモノの話です。私の研究は狭くとると住み方調査が専門です。これは心臓に毛が生えていないとできない調査です。一緒に行った学生たちが「えっ、そこまで聞くの」というくらい、私は聞きます。にっこり笑って「ごめんください。あなたの住生活を見せて下さい」と言って他人の家に直接上がりこむのです。みなさん、ぞっとしませんか。「こんにちは、あなたのおうちは日本の住宅研究に役に立ちます。ぜひ見せて下さい」と家に上がりこんで、押し入れの中まで見せていただくのです。
調査では、著名な建築家の設計した住宅も調査してまわったこともあります。また、3畳1間の民間木造アパートの調査もしました。ガード下に住んでいる人も調査しました。調査に行って、住むというのはこんなに悲しいことなのかと思って一緒に泣くこともありました。日本の住宅を幅広く調査をする研究をしてきました。
そのなかから、「住み方というのはあなたの生き方です」ということを、確信をもって言えるようになったのです。しかし「住まいはあなたの生き方です」とは、口が裂けても言いません。日本の住宅事情は、誰でもが自分で納得できる住まいに住んでいるわけではないからです。住むことが悲しくて泣いているような住生活をしている人があるなかですが、確信をもって言います。「住み方はやっぱりあなたの生き方の表現なのです」。
まったく同じ間取りの家を調査したこともあります。玄関からはいるとまっすぐに廊下があって、その両側に3畳1間の部屋がずっと並んでいる民間木造アパートを調査しますと、一つひとつの3畳の部屋の住み方が違うのです。これ以上小さくはできないという極限的な住まいですから、そんなところならみんな同じように住むと思われますが、違うのです。みごとにちらかして住んでいる人、万年床で住んでいる人、ふとんをあげて住んでいる人、洋服ダンスはもてないので洋服は壁にかけますが、そのかけ方も、季節以外のものもかかっている人から、季節のものしか出ていない人まで、ほんとうにいろいろです。

モノが増える?
モノが片付かないという人は「モノが増える」と言われます。増えるって自然現象なの?…と思います。違うでしょう、あなたが増やすことを許しているのでしょう、あなたが生活の主人公として判断してモノを増やしているのでしょう。自分はどんな生活をしたいのか、生活基準を明確にもって、それ以外のモノはもたない。空間には限りがあるのに、限りがないかのごとくモノをどんどん入れ続けるから、「増えて片付かない」と他人事のような言い方になるのです。何か買おうと思ったとき、どこに置くのかと考えてください。ワンピースを買うとき、どこにつるすのかと考えてください。空間のことを意識してモノを買ってください。そうすればモノは増えません。増やしているのは自分だという自覚と生活を厳しく見つめる力があればモノは増えません。

「終身刑」のモノ
朝日新聞に住生活のエッセイを書いていたときのことです。「押し入れ」の原稿のときに、新聞に載ったイラストを見て、あっと息をのんで大笑いしました。1コマのイラストですが、押入れの戸がちょっと開いていて、中は真っ暗です。今からこの箱を入れましょうというはりきり奥さんが三角巾を巻いてがんばっています。そして押入れの中から1本の手が出ていて、「終身刑だぞ」と言っているのです。家の中には終身刑のモノたちがいっぱいあるのではないでしょうか。
溜め込み型の生活がなぜできるかというと、押し入れという収納空間のせいです。押入れは入れることはできるが、取り出すのはむずかしい。ふとんにとっては適切な空間ですが、ふとん以外のモノにとっては都合の悪い空間です。押し入れしか収納空間がついていないという家がありますから、収納家具を使って収納するのは意義がありますが、ただばくぜんと箱をランダムに入れていくのはまちがいです。どうしてもそこに入れておきたいと思うなら、せめて中段にシールを貼って、何がしまってあるかということを書いてください。

贈り物は侵略者にもなる
空間を占領するモノを私は侵略者と呼んでいます。侵略者のモノたちを贈らない贈答習慣ができればいい、ブライダルシャワーのように、何がほしいですかと、みんなで聞く習慣があればいいと思います。
日本は贈答の習慣が派手です。文句いいながらもお歳暮をされた人もあると思います。やめたら人間関係がまずくなるからと、3000円とか、5000円とか、金額で人を品評しているのかなと思いながらするわけです。早くそんな人間関係がなくなって、心から贈りたいというプレゼントになればいい。訪問するときに家の庭に咲いていた花を切ってありあわせの包装紙で包んで持っていける関係になればいい。私は冷凍庫に自分で炊いたジャムや山椒昆布が入れてあるので、それをもっていきます。私がつくったのが一番の価値なのだと、買ってきたモノよりも「私がつくった」モノを贈りたいというのが、私の思想だからです。

モノは生かす
モノには命がある。捨てたくない。最後まで命を生かしたい。押入れのなかに累々とモノがありますが、そのモノたちは黙っています。だから、責任を感じなくてすむのです。それらのモノたちがみんな一斉に「私を社会的に活用して!」「終身刑はいや!」と言ったら大騒ぎです。モノの側に立って考えてみると、私たちの溜め込み型の生活様式は賢明ではないと判断しています。
その点バザーは三者一両得だと考えています。バザーに出すことによって家のなかが片付きます。バザーの主催者はお金が手に入ります。買った人は前からこれを買おうと思っていたので、その人も得です。ところが、バザーには時々とんでもない人がいて、安ければ買っておくという人がいます。そうではなくて、使うから買う、愛せるから買うという判断がほしい。

空間は空であることに意味がある

空間は空であることに意味があるということをとても大切に思っています。いまの多くの住生活はモノだらけです。何もないお寺の本堂に座ったとき、まわりに空間があるという豊かさ、それが感じられる感性をもっていたい。モノがいっぱいあるのは豊かかもしれないけれど、モノが何もないのも豊かだと思います。
簡素にくらすことは、現代においてはとても贅沢なくらし方ではないのか。愛着のある少しのモノにかこまれてくらせばいいではないか。たくさんのモノをもっている人はそのたくさんのモノにみんな愛着をもっていますか。私は博愛主義者ではないので、少しのモノでいい。洋服の枚数も少しでいい。そのかわり愛しています。ていねいに着ています。そういう生活のつくり方、毎日の生活のなかに文化があるのではないでしょうか。



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