2001年6月号
エッセイ


ビジョンについて あれやこれや

京都府生協連会長理事
吉田 智道


昨年から今年にかけて、 世紀の変わり目ということから、 あちこちでビジョンがつくられ、 夢が語られた。 新しい世紀になったといっても時間の流れに切れ目があるわけでもなく、 天体の運行は相変わらずなのであるが、 人間の社会としては、 ことあるごとに節目をもうけて何ごとかをなす、 ということになる (かくいう私の所属する京都府生協連でも、 二十一世紀ビジョンを今度の総会で決めることにしている)。

それほどたくさんのビジョンに触れたわけでもなく、 さだかに見定めたわけでもないぼんやりとした印象なのであるが、 気宇壮大なもの、 破天荒なもの、 あるいは地獄図のようなものは、 なかったように思う。 二十世紀末からの大変動が続いており、 また日本はバブル崩壊の後遺症を引きずっていて、 長期不況に入りっぱなしで出口が見えないといった次第だから、 そんな大きなことをいう気になれないというのもわかる。

しかし、 だからこそ、 ということもあるのではないか。 私の単なる僻見かもしれないが、 ビジョンという言葉には、 気宇壮大な夢か、 地獄図がふさわしいような気がする。 それらは、 深刻な危機のときや並外れた野心や願いの満ちあふれたときに出てきて、 その実現のためには、 異常なくらいの努力と実践を求める。 したがって、 いまこそそのときではないかともいえる。 不幸にしてといおうか、 幸いにしてといおうか、 ちょっと話しは逸れるが、 地球温暖化による地球の未来図以外には、 私のいうビジョンらしいものには、 出会えなかった。 それだけ、 まだ世は穏やかなのだろう。

それでは、 一般にビジョンと称しているものは何か。 さしあたっての見通しと、 とりあえずの目標を提示しているものが多いが、 人々が同じ方向をめざして歩んでいけるようにしている点で役に立っており、 それをビジョンというなら、 それもひとつの言い方として当然ありうるだろう。 それは、 尋常の努力と実践を求めるもので、 われわれ凡人にとっては取り組みやすく、 ありがたい。 だが、 それでなにか大きな変化が期待できるかといえば、 どうだろうか。 たしかに、 そこそこの成果はあがるであろう。 ほぼ期待通りだったということもあるだろう。

講釈はもうよろしい、 おまえの関っているところのビジョンはどうなのかときかれれば、 もちろん、 それは、 世のいわゆるビジョンと同じく大それたものではなく、 ごく常識的なものである。 それでいいということで準備をしてきたわけであるが、 しかし、 心の片隅には、 まだまだ食い足りないとする気持もあって、 まことに困ったことだと思う。 そこで、 読む人のご迷惑も省みず、 そんな気持ちを整理されないままに披瀝してみた。


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