『協う』2004年8月号 書評2

はたして 「老い」 は負うものなのか
玉置 了
京都大学大学院経済学研究科
博士後期課程

老いの空白
[シリーズ生きる思想 4]
鷲田清一著
弘文堂 2003年6月 1600円+税

 最近、 自分が 「老いた」 と感じることが多い。 ほんの数年前までは平気で出来たことであっても、 心身が段々と言うことを聞かなくなっていると感じることが増えてきているのである。 これが老化現象の始まりであるのだろうかと暗い気持ちになる。
 27才の私がこう書くと、 私より年長の読者の方々からお叱りを受けるかもしれない。 しかし、 本書ではこのような我々がごく当然とする 「老い」 をネガティブにとらえ、 そして若さをうらやむという意味での老いとは異なった老いのとらえ方が提示される。
 著者は、 我々に問いかける。 老いは、 人がますます多様になってゆく過程であるはずなのに、 なぜ現代の老いは無力、 依存、 あるいは衰えというセルフイメージの中でしか、 その時間が迎えられないのか。 また、 その時間を愛らしいお年寄りか、 惨めで痛々しい高齢者かという風にでしか過ごすことができないのかと。 さらに、 人類史上かつてない高齢化の時代が訪れているというのに、 今の日本社会には、 老いを考える上でのモデルがない。 つまり、 老いが空白のままだと指摘するのである。
 その背景には、 ものの価値、 いのちの本質を、 生産という側面からとらえるという現代の産業社会特有の思想が存在すると著者は指摘する。 すなわち、 そうした生産力主義という価値観が人々の根底にある現代では、 生きると言うことは、 何かをすること、 つくることととらえられ、 人の価値は何かが 「できる」 ということにおかれる。 そこでは、 老いは、 できるという若さの喪失としてネガティブにとらえられるというのである。 また、 今日の社会では 「できない」 人々を、 弱いものとして扱い、 制度に管理される受動的な存在へとおしこめて、 さらに弱体化させているという。
 そこで著者は、 「つくる」 「できる」 からではなく、 ただ 「ある」 「いる」 というそれだけで価値が認められるような、 老い、 そして人の存在そのものについての見方、 また人々の多様性をあるがままに受け入れ、 「できる」 ことを決して目指さない生のあり方の重要性を提示する。
 協同についても 「ともにする」 ではなく、 「ともにある」 ということを起点とする協同、 つまり、 その共同体の営みに、 参与できていることそれ自体が重要なのではなくて、 たとえ一切参与できなくても、 それでもそこに 「いてくれるだけでいい」 と互いに言い合える関係が重要だとする。
 我々の誰もが、 日々老いてゆく主体であると同時に、 またそうした老いゆく人々と支え合いながら生きている。 本書は、 人が生き、 老いると言うことの意味を改めて考えるきっかけを与えてくれる。 自らの 「老い」 の過程の中でぜひとも読んでおきたい一冊である。