『協う』2005年6月号 エッセイ

わたしの平和活動の行方―転機となったNPT代表派遣―


生活協同組合ララコープ
理事長 長尾 保子


 今年被爆六十周年の節目を迎え、 被爆地ナガサキの生協としてララコープがいかにしてその役目を果たしていけばよいのか、 私たちは真剣に論議してきました。 県民それぞれの立場は違えども、 人はなぜ平和を希求するのかという原点に立ち返っての論議になりました。 これまで平和の活動として先人たちが永年かかって積み上げてきたものと、 これからやっていきたいと思うことが、 論議する中で必ずしも整合しないのです。 今を大切にするのか、 原爆投下を原点にするのかです。 ここに被爆体験が風化してきている実態も読み取れます。
 たしかに人が活動をするということは、 自分たちで考えたものをやり遂げたという充実感がともなわないと継続できません。 それはいままでやってきた被爆体験の継承や反核を掲げた平和の活動とは違う、 と思う人たちが多くなっているという事実かもしれません。 そしてその答えは、 「核拡散防止条約 (NPT) 再検討会議」 に参加して、 閉塞感漂う会議場ではなく、 セントラルパークへの行進や、 被爆者の証言と交流の場に集まった人々との会話の中から、 見つけ出すことができました。
 私にとって印象的なその会話とは 「被爆者は全員死んだと思っていた」 「世界中の人たちは原爆が落ちたらどうなるのかを知りたいと思っている」 という声でした。 最初は集まった多くの人たちがこれだけ平和を願って行動しているのに、 なぜ各国政府と政治家には伝わらないのか、 無視するのか、 とぶつけようのない憤りを感じていましたが、 この言葉を聞いて (もちろん通訳してもらって)、 こんなことがあってよいのかと言いようのない、 打ちのめされた気持ちでした。 世界では本当に何も知らされていない現実が大きく横たわっているということです。
 両親は被爆者です。 私は長崎市で生まれ、 長崎市で育ちましたが、 母からは死んだ人を焼いたことと喉が渇いたことしか聞くことはありませんでした。 そして私の平和活動の原点はと自問自答してみれば、 二十年前に山口仙二さんの証言と彼の背中を見たときだとはっきり言えます。 今まで日本の人たちを対象に被爆の実像を知って欲しいとの思いで活動の幅を広げ、 積み重ねてきた気がします。 これからは世界の人々に向けて、 写真一枚でもよいから一日でも早く伝え、 広げていくことの大切さを痛感しています。 そして若い世代と共に被爆者の声を引き継ぎ、 戦争の愚かさ、 核兵器の怖さ、 悲惨さを伝える活動を基本に取り組んでいきたいと考えています。