『協う』2006年2月号 コロキウム

安楽死と尊厳死を考える
京都府立大学人間環境学部食保健学科
助教授 市川 寛


はじめに
 20年近く携わってきた臨床医学を離れ、京都府立大学に赴任してきたのは約3年前である。栄養士法の改正に伴い管理栄養士養成施設の設置基準が変わり、臨床経験を持つ医師を常勤として置かなければならなかったための京都府立医科大学からの転勤であった。学生に臨床医学を教える傍ら、なれない日々を過ごしていたが、2年前より全学講義の一つとして人権論というリレー講座の担当を命じられ、全くの専門外ではあるが、「ターミナルケアと人権」というテーマで勉強する機会を得た。
 癌も含め多くの疾患の「終末期」というのは、「医師によって不治の病であると診断をくだされ、それから先数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期」と定義されている。終末期になれば治らないのだから、医療という言葉は適当ではなく、実際の臨床の場での対応は「キュア」から「ケア」へと変化する。正確には「終末期ケア」と呼ぶべきではあるが、実際には「終末期医療」または「ターミナルケア」という言葉が使われている。
 消化器内科を専門にしていると癌の末期患者を診ることが多い。現在のようにいざ臨床を離れると、薬剤の名前はすぐに忘れてしまうのだが、亡くなられていった患者さんのことは、しばしば思い出されることがあり、また、当時の自分のとった行動に対しいろいろと考えさせられることも多い。「あの時、こうしてあげればもっといい結果が得られたのではないだろうか。もっとがんばれば患者さんにとってさらによかったのではないだろうか」と、自省も含め悔しい思いに駆られるのである。
 臨床経験を積み重ねるにつれ、終末期医療における自分自身の考え方は、他の医師と比較しても自信のあるものになっていったし、若い医師に対しても終末期における医師の態度として、確固たる自身の考え方を論ずることが可能であると思っていたのだが、今日、「ターミナルケアと人権」という講義を通していろいろと学習すると、まだまだ自分の考え方が甘かったのではないかと思うようになった。尊厳死協会の存在を知り、安楽死や尊厳死に関しさまざまに論じられていることを知ったのもこのときである。
 本稿では、私の今までの臨床の場で実践してきたターミナルケアを通しての、安楽死と尊厳死についての私見を述べたい。
安楽死とはどのような死か
 安楽死とは英語でEuthanasiaと訳され、「よき死」を意味するギリシャ語が語源とされる。多くの国で安楽死についての論議がなされているが、その定義はさまざまに分かれており、確たる定義はないといえる。日本においては、安楽死といった言葉が社会的に認知され、抵抗なく語られるようになったのは、1975年以降と考えられるが、公然と安楽死という言葉を語れるということは、現在の日本が物質的にも社会的にも恵まれた時代にあることを認識しておかなければならないことを明記しておく。
 先に述べたように安楽死には確たる定義がなされていないが、日本で論じられる安楽死論にはいくつかの共通事項がある。その共通事項をまとめると、
1.現代の医学知識や医療技術では治癒が不可能であり、きわめて近い将来に確実に死が訪れる。
2.患者は激しい苦痛を訴え、それが着実に進行している。傍目にもその苦痛をうかがい知ることができる。
3.患者は自らの意思として、回復不能にもかかわらず行われる治療行為に、すでに拒否の意思を表している。
4.その意思を再確認した上で、さらに本人の同意を得て、医師はその苦痛を除去することを目的とした治療を行う。
5.その治療とは患者の死期を早める医学的処置のことである。
 この5段階の結果としての「死」が安楽死とされている。ここで重要なことは、「苦痛からの解放」と「本人の意思尊重」の2点である。
 安楽死の分類に関する記述にはさまざまなものがあるが、安楽死は大きく「消極的安楽死」と「積極的安楽死」に分けられる。「患者の死期を早める医学的処置」というときの「早める」を積極的に行うか、消極的に行うかの違いと考えてよい。
 消極的安楽死は、苦痛を和らげ除去する以外の治療は行わないことをさし、主治医によりその判断は異なっていることが多い。たとえば、呼吸苦に対しての酸素投与などは異論はないであろうが、苦痛に対する麻薬の使用に躊躇する不勉強な医師はいまだに存在する。輸液管理や昇圧剤の使用、癌末期におけるステロイドホルモンの投与や、輸血の是非などは意見の分かれるところである。私個人の意見としては、疼痛に対しては積極的に早期からモルヒネなどの麻薬を使用する方針であり、脱水を改善させる目的の最低限の輸液や、全身状態の改善が期待できるステロイドホルモンの早期投与、濃厚赤血球の輸血などは、経験的にも患者の苦痛を緩和する効果は高く、ターミナルケアにおいては必ず実践されなければならないものと考えている。
 これに対し、積極的安楽死とは、死を加速度的に早める処置のことを指し、考えられる具体的な方法(あまり考えたくはないが)としては、酸素投与を中止して低酸素血症に至らしめる、致死的薬剤を投与する(カリウム製剤の急速静注、呼吸抑制を来すような筋弛緩薬、向精神薬などの大量投与)などである。この積極的安楽死には、医師や患者の家族による強い意志がこもっている点が特徴的であり、日本においては、嘱託殺人や承諾殺人として裁判で争われるケースは、すべてこの積極的安楽死である。
安楽死に至るまでの過程における諸問題
 では、はたして日本において安楽死は容認されうるのであろうか。前述のごとく患者を安楽死に至らしめるにはいくつかのプロセスを経る必要があり、かつさまざまな問題点が含まれている。保坂正康氏(作家・評論家)は安楽死に至るまでのプロセスにおける問題点として、以下のように分析を加えている。
 第一に、末期患者において確実に死期が迫っていると判断しうるのは担当の医師であるが、現実的には医師の経験や知識の差によって大きく結果が異なるうえに、医師個人の判断が先行しがちとなることを指摘している。すなわち医師個人の暴走を防ぐシステムの必要性を説いており、医師を取り巻く環境や条件の整備が必須であるとしている。さらに、死を目前としたターミナルケアにおいては、医師や医療従事者に高度な技術が要求されると同時に、患者の精神的なケアを含めた医療も望まれる。また、患者自身も死を受容する心構えが必要であると述べられている。ホスピス病棟の設置や医療従事者以外のメンバーでチームを組んでの緩和医療への試みは近年増えつつあるが、まだまだ一般の病院では不十分であるといえる。インフォームドコンセント(説明と同意)に関しても、現状では医師の側に主導権のあることが多く、患者やその家族が十分理解しえずに形式的に同意がなされている場面もしばしば見受けられる。
 次に問題になるのは、患者の苦痛に対する判断であると指摘している。ここで述べる苦痛とは、主に肉体的苦痛であると考えられるが、苦痛を訴える患者を目前にしたときの判断は、医師と患者の家族によって受け止め方が異なることをよく経験する。医師は患者の病状からある程度は苦痛の程度や質を判断し得るが、患者を襲っている苦痛が、一時的なものなのか、恒常的なものか、また、苦痛は治療によってどの程度まで軽減可能か、除去することはできないのかなどの疑問は常に問われる点であり、かつ、家族の中でも患者の苦痛の受け止め方に大きな差を認めることが多い。幸いなことに、近年では癌に伴う苦痛に対するコントロールは非常に良好となってきており、適切な麻薬を早期から使用することにより、疼痛に関する介護側のジレンマはなくなりつつある。ただ、患者の感じる苦痛を肉体的なものに限定せずに、精神的、社会的、経済的なものとして拡大解釈すれば、やはりそれら苦痛の程度の判断には困難を要する。
 本人の意思尊重については、リビングウィルという語で語ることが可能である。リビングウィルとは、尊厳死の権利を主張し、単に延命のみを目的とする治療の打ち切りを希望する遺言書(宣誓書)であり、患者の意思表示を文書に表したものである。「延命のための医療は望まない」「極度の苦痛より死を希望する」「脳死状態になったら臓器を提供してもいい(あるいは拒否する)」などの意思表示がされていたり、書類が残されていたりすれば、リビングウィルに相当するものと考えられる。しかし、実際には終末期医療でリビングウィルが効力を持つのは稀で、私自身もリビングウィルの提示を患者側から受けた経験は実は一度もない。従って、日本においては、たいていは、「本人抜き、家族の意思」で治療が行われることが多く、安楽死を受け入れるための「本人の意思尊重」は現実的にはなされないことがほとんどである。
 安楽死に至るまでの過程で次にあげられる問題は、安楽死を容認する上での本人の意思再確認という点である。たとえリビングウィルのような個人の意思が記載された宣誓書が存在していたとしても、安楽死を受け入れるには最終的な本人の同意が必要とされる。しかしながら、実際には、意識も曖昧で激痛に苦しむだけの患者に、その意思を確認することは容易ではなく、ましてや患者は正常な判断ができない状態にあるし、意思表示が不可能な状態でもある。末期患者の苦痛やうめき声を聞くと、「これほど苦しむのだから楽にしてほしい」と思ってしまう家族が多いのも事実であり、医師側が確固たる死生観と治療方針を持っていなければ、その場の雰囲気で家族が安楽死を望んでいると医師が一方的に受け止めてしまう過ちを犯す可能性がある。
 以上のように保坂正康氏は、安楽死を単に延命処置を中断して苦痛からの解放を目的とした「死の自己選択権」という狭い範囲だけで論じてはいけないと主張している。
オランダにおける安楽死法
 世界各国で安楽死論が展開される中で、唯一合法的な安楽死が認められた国がオランダである。オランダの安楽死法が対象とする安楽死は、致死薬を注射して患者を死なせる「積極的安楽死」と、患者自身が処方された致死薬を飲み下す「自殺幇助」の2つである。疼痛緩和目的で生命短縮を伴う鎮痛剤を投与する「消極的安楽死」という行為は、単なる医療行為として見なされ、また、延命治療の停止は「治療の停止」にすぎないとされ、安楽死法案の対象とはなっていない。
 ここで考えなければならないのは、なぜオランダでは安楽死法が定着したのかという問題である。オランダで安楽死容認派の医師として知られるヘルベルト・コーヘン氏は、安楽死の制度化には、社会が十分に成熟していることが必要であるとし、@個人主義の徹底、A教育の普及、B誰もが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度、C腐敗がなく信頼度の高い医療、の4つの条件をあげている。
 @の個人主義の徹底とは、「安楽死という、自分の生死に関する最重要の問題に、自分自身が向き合って、主体的決断を下せるか、否か」を意味しているが、告知や治療について、患者本人より家族を優先する風潮がある日本においては、自らの死の自決権を行使することは困難である。さらに、「患者よりも家族」の風潮がある日本で安楽死が合法化された場合、患者でなく家族が決定に影響力を持つようになる危惧が指摘されている。
 Aの教育の普及とは、単に医学に対する知識のみならず、患者側の医師と向き合って、その言葉を正しく、かつ冷静に理解する能力をさす。医師の立場から患者に対しできるだけわかりやすく病状や治療方法について説明を加えても、結局何も伝わっていなかったことをよく経験する。医師側の根気よい繰り返しの説明が望まれることはもちろんではあるが、「安楽死か否か」の判断に必要な知識を持ち合わしていない患者が存在することは事実である。
 安楽死法案を成立させるのにもっとも重要と思われる条件は、Bの誰もが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度についてである。日本では1958年に国民健康保険法が制定され、さらに1961年に全国の市町村で国民健康保険事業が始まり、「誰でも」「どこでも」「いつでも」保険医療を受けられる国民皆保険体制が確立し、世界的にももっとも充実した医療制度が存在しているかと思われている。しかし、近年の国民医療費の急速な増大に伴う国民の負担増大は、結果的にかえって医療の質をおとしめ、国民に対する医療保障の充実は危うくなってきているといわざるを得ない。従って、受けられる治療が、貧富の差により全く違っていたなら、十分に治療を受けられない貧しい人が安楽死に追い込まれる危険性がある。また、日本では、2000年4月から介護保険制度がスタートしたが、介護の担い手が家族であることが多く、安楽死を容認するような制度がもし成立すれば、寝たきり老人が「家族の負担になりたくない」と、死を選択する可能性も考えられる。
 もちろんCの腐敗がなく信頼度の高い医療は、安楽死論とは関係なくても当然のことではあるが、日本の医療事情を考えあわすと、首をかしげてしまうような事件もしばしば起きている。
 以上を総合すると、コーヘン氏が述べているように、日本においてはとうてい安楽死法案が成立する可能性は低いと思われる。
実際の現場における尊厳死の実態
 前述のごとく、日本においては安楽死の定義が確立されていないこともあり、医療の現場では、安楽死と尊厳死が混乱している状態となっている。立場が異なれば、尊厳死に対する考え方もさまざまであろうと思われるが、医師の視点から見れば、尊厳死とは「消極的安楽死」と同等のものと判断されているようである。
 しかし、現実に実践されている医療の現場では、はたして患者はその尊厳が保たれて逝くのであろうか。それ以前の問題として、「尊厳とは何か」という問いに答えうる人間が存在するのであろうか。
 自分自身の反省も含めて考えさせられることは、尊厳死と称して我々が行ってきた医療行為は、末期患者の延命治療をどうするか、人工延命装置を外すか否か、延命治療をどの段階でとどめるべきかなどの、医療技術的な面でのみ終始してきたことである。実は日本では、延命処置を拒否するか否かが尊厳死と受け止められているのである。
 日本の尊厳死運動の基本的考え方は、「健やかに生きる権利、安らかに死ぬ権利を自分自身で守ろう」というものであるが、尊厳とは何かを考えた場合、主観的判断により大きく理解が異なってくる点を保阪正康氏は指摘している。同時に「生命の尊厳」という言葉が末期医療の場で安易に使われることに異論を唱え、尊厳に対する理解が人により異なることを前提に、「自者」と「他者」を明確に分けることによる尊厳死運動を提唱している。
医学的にみた尊厳死の危険性
 私の拙い臨床経験を重ね合わすと、もっとも共感のもてる考えを述べているのが佐藤英一氏(医師『医者の心患者の心』などの著者)である。佐藤氏は、尊厳死や安楽死を患者やその家族が安易に望むことは、医師、家族、親友を引き込むこととなり、かつ、人の命を絶つことに協力をさせられた人の心に傷をおわすこととなると指摘している。「命が尽きるまで戦って戦って人間としての強さを次に我々に示すために最後まで生き続けて死を迎えるという姿勢こそが必要」と唱えており、医師として癌を含めた慢性疾患によって徐々に死が近づいてくる患者を、家族が納得して行く様子を見ながら、積極的治療を止めていくとしている。
 実際のところ、ターミナルステージの後期に至った末期患者は、肉体の衰弱と共に、精神的には別の人間となっており、以下は全くの私見ではあるが、その瞬間に呼吸をし、心臓を動かしている患者は、もはや本人の「生」を持ち合わせていないと考えるのである。だからこそ私は、家族や友人が十分に納得でき、死にゆく患者の「死」を受け入れられるような環境が作り出せるようにコーディネイトすることが、終末期医療における医師としての役割と理解している。
 出会ったときから患者と膝をつきあわせて、共に病魔と闘う姿勢をもち、さらに家族をも含めた積極的な全人的医療に心がけておれば、患者が亡くなる直前になって、延命どうこうや、尊厳死どうこうの議論にはならない。
おわりに
 「末期医療における医師のあり方についての報告」が1994年に日本医師会から示されており、尊厳死を容認する立場を示したと当時は話題になったようである。しかしながら、現場で働く若い医師に対する尊厳死受け入れに対するマニュアルはもちろん存在していない。また、医学生に対する生命倫理の思想の確立にも、大学医学教育はまだ十分に機能していないといえる。
 日常生活において「人の死」と直面することがほとんどない日本人に、確固たる死生観を持てというのは無理があるのかもしれないが、尊厳死を「死の方法の選択」としてとらえるのではなく、「死にゆくプロセスにおける姿勢のあり方」として日本人すべてが尊厳死を認識できるような日が来ることを望んでいる。
               
プロフィール
市川 寛(いちかわ ひろし)
1958年生まれ。京都府立医科大学卒業。専門は消化器内科学。現在は、生活習慣病の予防に向けた探索的研究に利用可能なバイオマーカーを同定するために、網羅型蛋白質発現解析プロジェクトに参加している。