更新日2012/1/14  6年ぶりに更新しました。
1999年4月18日より 人目

島根県立浜田高等学校の昭和50年代の古きなつかしき時代のものをエピソードも交えて集めてみました。
最近、浜高の卒業生の方々からこの浜高語録を見てなつかしかったというメールを頂きます。どこに行っても浜高生であったことを大声で自慢するのはやはり浜高の卒業生なのです。それだけ当時の3年間は楽しく充実していたのだと思います。



What‘s new?

*久々に更新しました。今回は情報を新たに入手して加えました。H子の秘密シリーズなど。
*わたしも、今は関西在住になり、近畿浜高同窓会に入っております。
*8年前から29期のブログを作っております。このサイトをご覧になったあと、浜高あの頃クイズにチャレンジしてみてください。初級編、中・上級編とあります。正解はいくつぐらいでしょうか?
*29期のみなさん、今年は同窓会はお休みで、来年全体の同窓会の当番学年なので、来年の8月中旬は空けておいてください。
*最近FACEBOOKに浜高のファンページができております。ご覧くださいませ。
*私は、ぼやき日記と毎日の晩御飯を合体させてブログを更新しております。お時間のある方はご覧ください。


浜高同窓生のトピック!

*31期の林さんが2009年に作った、浜田駅のテーマソングSee you off & See you again !をyou tubeでご覧いただけるようになりました。より音質と画質の良いCD、DVDも駅のサロンで販売しております。
*昨年の浜田での全体同窓会で、恐怖の化学のK先生のカルピス無垢事件の被害者が判明しました詳しくはコンテンツにてご覧ください。
*浜高語録掲示板はお休み中です。

浜高メーリングリストでの話題
 過去に話題になった事柄を紹介しています。

浜高メーリングリストについて

様々な分野で活躍されている浜高OBがたくさんいらっしゃいます。ネットに参加されているOBが交流する場として浜高メーリングリストをつくりました。昔の話題で盛り上がったり、同窓会の連絡にお使いください。参加されたい方は管理者である堀越にお知らせくだされば登録いたします。
その際、浜高メーリングリストに参加と記入し、何年度卒か第何期卒か住所と名前も必ず記入してください。住所はわたし以外の方にはお知らせいたしません。申し込みはこちらです。登録は私が直接おこなってます。

こちらのメーリングリストは細々やっておりますが、最近SNSが発達しておりますので、お役目はもう果し終えた気がいたします。でも、やはり何かのときにはMLは温かいメールが飛び交っております。


それでは 浜高語録 どうぞごらんください!

人物とエピソード   番外編
  学校生活と行事 ユニークな話題

新しく加わった言葉と、内容を更新した言葉を最初にのせました。

このたび新たに加わった言葉と更新した箇所

K先生のカルピス無垢事件と詳細について

恐怖の3Kのひとり、化学のK先生は、病弱の美しい奥様がいらしたそうだ。先生のお宅に教え子が遊びに行ったとき、奥様はご病気だった。そのため先生自らが「今日は、女房のかわりに私が接待します。」といって生徒にカルピスの無垢をコップに入れて出したそうだ。教え子は、こわかったので、我慢してカルピスを飲み干したと伝え聞く。しかしこわいのならお宅に行かなければいいのにね。

昨年2011年の全体同窓会で、

「あの事件の被害者はわし!」 と言う方が、、、

25期の方でした。しかも私の親戚で、父親同士が従兄弟なんです。そんな身近にいらしたなんて。びっくりしました。
やはりあの事件は伝説ではなく事実でした。

H子の秘密
浜高メーリングリストでおなじみのH子が広島の大学を受験したのはは、家から近いからという理由であったのはすでに周知のことである。隣の市の江津中学出身だった彼女が浜高に入学した理由は、さすがに、お勉強が良くできて、浜高の校風に憧れているからだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。お父様が、高校1年になる少し前に、浜田に転勤になり、家から一番近いところが浜高となったのだった。彼女曰く「江津に住んでいたら江津高校に進学するに決まっているじゃん。」大の浜高ファンのH子は実はただのご近所フェチにすぎなかったのだ。 大幅に環境が変わるのが嫌いなタイプなのだ。ところが、結婚後、運命とは皮肉なもの、あれほど好きな浜田と広島にはすむことは許されなかった。旦那さんの実家は三重、住まいは東京と、彼女はいやおうなしに、大きく環境が変わる場所に次々と移るしかなかったのだ。

H子の秘密その2(近くに通いたい遺伝子)
H子はH菜ちゃんに続き、男子、女子を生み、男子は大学生しかも難関理系大学。そこに決めた理由を聞いてほんとにおどろいた。家から一番近いところにあるからなのだそうだ。なんと母親そっくりの遺伝子を持っていたのだった。H子って近いという理由だけで、高校も大学も選んだし、しかも2期で受けたY大学、もしM子が行くことに決めていたらそちらにしていたらしい。その大学も家からは近くて、しかも親友が一緒だからという理由。

H子の秘密その3(ひとりで行動するのが苦手)
H子は浜高29期最強の才女と呼ばれているが、じつは前述のとおり、ひとりで何かするのが苦手な人だった。高校当時美しい字を書くので、生徒会の書記にスカウトしたら、M子がいっしょじゃないと嫌だとごねた。だからしかたなくM子も書記をすることになってしまった。

H子の秘密その4(いもひき)
かつてH子は肉屋で肉が買えないひとだった。その話題を持ち出すと、きちんとならんだら買うことができるところなら絶対買う自信があると豪語するが、とにかく人を押しのけて前に行くことが苦手な、浜田弁でいもひきなのだ。最近はおばさんになったので、肉屋で肉を買っていると自慢している。すごい成長ぶりである。じゃあ関西にでてきんさい、そして、本当に成長できているか見させてもらいます。さらに難易度が高くなるけえ。

H子の秘密その4(魔性のおんな)
かつてH子は各クラスに彼女の熱狂的なファンが必ず一人はいると言われていた。本人はいたって普通なのになぜか男性の目をハートに変える能力をもつ。彼女のすごいところは、もう30年以上経っているのに、美しさが少しずつ進化しているということ、昔のアイドルに会ってがっかりするという話があるが、彼女は絶対期待をうらぎらないのだ。ですから男性の皆様、再会を楽しみにふるって同窓会にご参加くださいませ。

この話題をすると
H子さん? はあ? もてたん? べつに普通だったけえ-
と言う人物がひとりいます。H子が嫌いというわけではなく見たままを言うひとです。まあH子は一見普通のひとだったかも。

大の浜高ファン続編
H子の長女H菜ちゃんだが、今年めでたく都立高校に合格。残念ながら浜田高校の生徒にはなれなかったようだ。しかし都立高校は制服がない。それでH菜ちゃんはいとこにもらった浜高のセーラー服を着て通学しているそうだ。浜高の夏服は浜田に帰省した際、カタイで買ってもらったらしい。H菜ちゃんは今は高校を卒業し、もう浜高の制服は着なくなった。わたしのほうがなんだかさみしい。

何を隠そうこのわたし、四六時中浜高のことを話題にするので、息子は洗脳されてしまった。いま小学生だが将来は浜高に入学するといきまいているのだ。広島からの越境入学はきびしいよ。

と、このようにコメントしていた息子も高校生。自分のこどもが浜高生でないのがとても淋しい私。


とコメントしていた息子も大学に行ってしまい、教職も取る予定なさそうだから、浜高には教育実習にも行けないじゃん。あとはもう、浜高入学は孫に期待します。

そういえば、同級生のI君は子供を横浜から、浜高へ野球留学されていると聞く、K明君は子供は浜高に通学させたいという理由で、家族を浜田にのこして単身赴任中なのだ。それから、私の従兄の長男も関西から浜高に進学したのだった。浜高はそんなにいい学校ですか?

そして最近M上さんという密かな浜高ファンが登場、この方このサイトも隅々まで理解し当時の浜高の研究をしているのではないかと疑いたくなるぐらい当時のことにくわしい。名刺の肩書に、浜高学、H子専攻などと書いてもよさそうなのだ。


浜高-見合い-結婚

浜高の卒業生どうしが、故郷を離れていようが地元にいようが、親の薦めで見合いをし、結婚すること。このパターンは非常に多いのだ。はずかしながら私たち夫婦もこのパターン。私の両親もそうだった。その後調査していないのでわからないが、このパターンはいまだに続いているのだろうか?どなたか情報をお寄せください。


平均点殺し

極端に、テストの点が悪すぎて、たったひとりで、クラス全体の平均点を1点以上も下げてしまえるほどの大物のこと。浜高生は比較的真面目なので、定期試験などの平均点はは、かなり高い。先生方は、クラス単位で平均点を比較されるのだが、クラスに平均点殺しが二人以上いると大変な影響力になるのだ。

私が知る二人のうちのひとりは、大手電機メーカーの技術者、もうひとりは某コンビニの店長兼オーナー。この語録の存在を最近知ったらしく、「ありゃあ わや だなあ」とコメントしたらしい。お若いみなさん、たとえ高校時代平均点以下の点数をとってもがっかりしないでくださいね。平均点殺しでも立派な社会人として生きて行けるという実例がありますから。ところで、わやとは浜田弁でめちゃくちゃという意味です。


人物とエピソード

恐怖の3K

当時厳しい先生が3人いらした。偶然、どなたも、頭文字がKで始まる先生だったので、こう呼ばれていた。化学のK先生の武器は出席簿。かれのクラスだけ出席簿がぼろぼろだった。彼のクラスの生徒は月1回おこなわれる書取テストすらもひっしで勉強していた。ほんとに気の毒。

今1人は、島根県那賀郡三隅町出身の数学のK先生。顔にきずあとがあり、ドスの利いた声で授業をする、生徒指導のプロ。本人曰く、”わしは、人相は悪いが心はやさしいのだ。”とわざわざ言うほど本人も認めるこわい顔なのだ。

最後の1人は、地学のK先生。3人の中では一番ハンサムだが、ほんとの意味で一番こわい。忘れ物をしたり、とぼけた答えを言うと、校庭を走らされたり、草むしりをさせられたり、立たされたりした。化学のK先生の撃退法はいちおう存在するがこちらの地学のK先生の撃退法はほとんど存在しない。ひたすら地学を勉強し良い成績をとる以外にはない。

それと地学部に入った人間は、彼の専門の地質を専攻し決して彼の専門外の天文をやりたいと言わないこと。これを言ったばっかりに、泣かされた地学部員は多い。実際は部員のほとんどは天文を選び、彼がやりたかった地質の研究に取り組んだ部員はほとんどいなかった。


K先生のカルピス無垢事件と詳細について

恐怖の3Kのひとり、化学のK先生は、病弱の美しい奥様がいらしたそうだ。先生のお宅に教え子が遊びに行ったとき、奥様はご病気だった。そのため先生自らが「今日は、女房のかわりに私が接待します。」といって生徒にカルピスの無垢をコップに入れて出したそうだ。教え子は、こわかったので、我慢してカルピスを飲み干したと伝え聞く。しかしこわいのならお宅に行かなければいいのにね。

昨年2011年の全体同窓会で、

「あの事件の被害者はわし!」 と言う方が、、、

25期の方でした。しかも私の親戚、父親同士が従兄弟なんです。そんな身近にいらしたなんて。びっくりしました。
やはりあの事件は伝説ではなく事実でした。


K先生の担任クラスの悲劇

おなじく恐怖の3Kのひとり、化学のK先生が毎年どのクラスを担任されるかというのをみんな気にする。我々が2年にになるとき隣の2組が彼の担任クラスと決まった。最初2組のメンバーは、まだ信じていなかった。最初のホームルームには何と数学のS(その2)先生が現れた。みんなの表情は急に明るくなった。ところがS先生は、「みんなの期待を裏切って悪いのですが、このクラスの担任は化学のK先生です。今日はお休みで副担任の私がやってきたのでした。」みんなはいっぺんに奈落の底に突き落とされたのだった。


K先生の悲劇

おなじみ恐怖の3Kのひとり、化学のK先生は、自転車で登校中には挨拶をしても決して答えてくれない。以前、生徒に挨拶していて、電柱にぶつかったことがあるからだと伝え聞く。


馬島の灯台の教授

当時化学のK先生が口にしたことば。あまりにできなさすぎると、浜田の沖にある野生のうさぎのいる馬島の灯台とあの東大をかけて、”きみは馬島の灯台(東大)の教授ですなあ。教える相手はうさぎちゃん。”と言われるのだ。他に、”家の鏡台(京大)の教授”で、教える相手はハエと言われた人もいる。


3Kとしての誇り

他の先生は知らないが化学のK先生は、ご自身が恐怖3人衆のひとりであることをご存じで、それを誇りにしておられた。その後、かれの恐怖の授業により一層の磨きがかかったのはいうまでもない。


化学のK先生の撃退法

化学のK先生は本来気が小さい。自分より体が大きな人間と、肝っ玉が座った人間には弱い。私の友人H美 は、化学のK先生をおこらせたとき、たたかれるととっさに判断し、先生をにらんで、顔をわざとたたきやすいようにまえに突き出したそうだが、彼は手を引っ込めたと伝え聞く。

それと、わからないときは、とにかく余分な質問はせず、さっさと「わかりません」と言って引き下がること。これだ。

出身小学校

浜高の生徒は郡部からの越境組が圧倒的に優秀だった。そのためいつも授業中、地学のK先生(恐怖3人衆のひとり)の質問に答えられないとき、出身小学校を聞かれるのだ。市内の、石見、原井、松原の小学校出身者はとにかくバカにされた。私も石見小学校出身なので当然バカにされ組だった。そういうK先生自身も市内の小学校出身なのだ。ふん、目くそが鼻くそを笑っていたのだ。でも当時こわくてそんなことは一言も言えなかった。


ワッペン

私が所属していた地学部の昭和48年までの顧問の先生の愛称。顔がワッペンのようだったと伝え聞く。恐怖の3Kの1人地学のK先生の前任者。


脱線

国語のA先生が授業中よく口にした言葉。これが始まると授業は中断し、先生の独演会となる。話はおもしろいのだが、授業が遅れる。定期試験前でも授業の終わり5分まで脱線し、残された5ページを最後の5分で一気にやったのだ。ひどすぎる。脱線はせめて、試験範囲に到達してからしてほしかった。まったくあきれる。


A先生の初夏の決心

国語のA先生は、毎年6月にはいると髪を刈って頭を丸坊主にされる。彼独特の出雲なまりとヘアースタイルと外車のミスマッチが浜高の夏の風物詩となっていた。


野球部の悲劇(いつでもどこでも数学を)

私のいたころ硬式野球部の顧問を数学のS(その1)先生がしていらした。野球部は合宿や遠征など、いつもS先生と行動を共にしていた。そのため、甲子園大会中でも、旅館などで暇があれば数学の補習が行われたと伝え聞く。本当に気の毒。


数学のT先生

数学のT先生は、我々と一緒で、熱狂的な硬式野球部のファンのひとりであった。同じ熱狂的な硬式野球部のファンである親友M子は、中間テストの試験監督でやってきたT先生に、真剣に試験に向かっているとき、「おい、今年は益田球場で予選があるから一緒にいこうでー。」と誘ったそうである。全くあきれる。

数学のT先生は、甲子園で野球部が1勝した夜、一般生徒の応援団が夕飯を食べたトーヨーモーテルで、勝利に酔い、つい気が大きくなって、M子とH子と私の3人に「これでなんでも買え」と千円をくれた。そのあと、「教頭もごきげんだから何でも買ってもらえ」といわれたので、たしかアイスを買ってもらったのを記憶している。教頭先生にたかったのは他にもたくさんいたとおもう。どうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。教頭先生は生徒会の仕事で印刷室に出入りしていたH子と私をカンニングをするとうたがったことがあったがこれで帳消しにして上げるからね。もっともテストの点を見りゃ一目瞭然だよね。ああかなし〜。


数学のT先生とM子とH子と甲子園の応援

M子とH子は理系クラス。彼女らは成績はいいのだが真面目に勉強しなかった。模擬テストさえ途中で逃げ出す始末。それで甲子園の応援は担任からストップがかかった。彼女らはさっそくT先生に泣きついた。T先生は、彼女らの担任に「甲子園に行くのを許してやってもらえませんか。この子等は、せんときはせんが(しないときはしないが)、するときもせん(するときもしない)です。でもゆるしてやってください。」と言ったそうだ。まったくホローになっていない。結局、模擬テストは必ず受けるという条件付きで許可がでた。彼女らの名誉のため一言言っておくが、彼女らはあんな状態でも、国立の1期校は無事合格した。


数学のT先生と平行6面体

数学のT先生は、理系とは思えない人間味あふれる愛すべき人柄の方だった。数学の時間、どういうわけか黒板にxyz軸の中の3次元の平行6面体の図が描けず、しばらく悩んだようだが、「すまん!」と一言行って教室を立ち去ったと伝え聞く。ちなみに生徒の方はあそこをああすれば描けるのにとわかっていてそのままだまっていたそうです。罪だよね。


どらえもんのポケット

数学のT先生は、どらえもんに負けないぐらいすごいポケットをお持ちだった。授業の物差しなどの七つ道具をはじめ、ありとあらゆる道具が入っていた。優れ物のポケットなのだ。針金がでてきたときにはみんなおどろいたようだ。

O先生ホイホイとO先生のお遊び道具

英語のO先生は机の裏側を指で触る癖があった。それで某クラスの生徒はO先生ホイホイと称して最前列の机の裏側をチョークでぬっていたずらした。O先生はみごとひっかかったと伝え聞く。

さらにO先生は、無類のきれい好き、最前列の机の上の消しゴムのかすを見ると、手で机の下へ払い落とすのもくせだった。当然のこと、某クラスの生徒たちは授業が始まる前にありったけの消しゴムのかすをあつめて最前列の机の上に山のようにおいていたのだ。今思えばまるでハムスターに木の削りかすを与えて遊び道具にするのに似ている。

Confort station

これはトイレのことであるが。同級生のSくんは、この訳が思い浮かばず、しばらく考えて「悦楽の境地」と訳したそうだ。こちらの方が正しいような気がしてくる。


あこがれのマドンナ

浜高には代々美しい女性が何人かいらした。私が知っている方では、現在のさだまさし夫人になられた方が印象に残っている。当時中学生だった私は彼女のバレーボールの試合をわざわざ見に行った。

それから、所属していた地学部の2年上の先輩も上品で美しいかただった。男子は”地学部の女神を守る会”なるものを組織していた。見事彼女を射止めた男性も浜高出身のかたで、たのもしくやさしい素敵なかただった。私自身、マドンナのようになりたいとあこがれをもっていたが、全く違う路線で勝負してしまっている。

わたしの同級生にもマドンナはいた。日本人形のように色白で髪の毛はまっすぐで真っ黒、印象的な美しい瞳の人だった。あこがれない男子生徒がいなはずはない。おそらくトイレにもいかないのではと思っていた人も多かった。だけど彼女は相撲の大ファンで、特に高見山が大好きだったのだ。みんな知らなかったでしょう!?

忘れてはいけないのが当時、大学でたての、保健室にいる養護のO先生。保健室は男子生徒のたまり場だった。

その後、やはり大学でたての国語のA先生の存在も忘れられない。とにかくほとんど紺、黒、グレーの世界の中で、華やかな色彩をひとりで引き受けているような方だった。
おとりまきの男子生徒数人を引き連れてとコーヒーショップによくお行きになっていたようだ。彼女のすごいところは、教え方もうまいところ。そこいらへんのミーハーOLとはわけが違う。

他にも昭和をいろどったH美人姉妹(昭和52年卒と56年卒)、A(昭和49年卒)さんも有名。A(昭和49年卒)さんは、我々の在学中に教育実習にこられた。男子生徒はあこがれたようだ。


T&T brothers

浜高には、親子(先生と生徒)、兄弟がいるひとが多かった。特に印象深いのは T先生兄弟である。兄は体育の先生、弟は物理の先生だった。兄の方は豪快で、バンカラ、弟は物静かで言葉遣いも丁寧で、上品。とても兄弟とは思えなかった。


That‘s a nice blue necktie you are wearing.

英語のI先生(早稲田大学出身)がスローガンのように覚えさせた一文。なぜこの文章が重要であるかという説明はなにもないのだが、とっても大事な文章らしい。よくわからん....


何でかわからんが、違う!

同じクラスのM君が自分が書いたテストの答案がまちがってないと英語のI先生に詰め寄ったことがあった。ちがうの一点張りだったので、Mくんは「どうして間違いなんですか?!」と聞き返した。そのとき言ったI先生の言葉が「何でかわからんが、違う!」だったのだ。あっさり引き下がったMくんをほめるべきか?殺し文句を言ったI先生をほめるべきか?


性格は言うことないのだが...

英語のK先生は愛すべき温厚な人柄のひとであった。とにかく優しく朗らかでみんなは大好きだった。彼の授業は....   で、みんなは口々に「性格は言うことないのだがなあ...」といいながら、でも愛すべき先生なのでまじめに授業をうけていたのであった。浜高生は大人なのだ。


日本語と英語の境目は?

英語のT先生は英語の発音が抜群であった。その影響か、日本語を話すときは、どこから日本語が始まったのか理解に苦しむときがあった。いまでも教鞭をとってくださっているようだが、ますます磨きがかかっているらしい。

もっともわたくしのように、日本語も英語も中途半端な人間よりずっとすばらしい。


三枝

当時20代だった英語のS先生が桂三枝に似ているというのでついたニックネーム。生徒会の顧問でもあり、われわれはほとんどお友達感覚で接していた。高3のとき、彼自作の小テストプリントが難問で、私は泣かされたが、まじめなMくんは、このテストのおかげで、入試をのりこえられたと絶賛、聞くところによると、大切に保存しているということだ。えらい人は違う。

原人

日本史のY先生のニックネーム。前髪がそろっているところから、ジャワ原人になんとなく似ているところからついたようだ。彼の授業でいまでも覚えているのは、源義経がじつは小柄で出っ歯でゲリラ隊長みたいなやつだったということと、源頼朝夜這いに出かけてその家のひとに切り殺されたということと、徳川家康が鯛のてんぷらの食べすぎで死んだということ のみ。こういう裏話しか覚えてないのは自分でも情けない。

石見の文化人I先生

日本史のI先生は、石見では貴重な郷土史家で、文化人。演劇にも詳しく、今でも自らが脚本を書いて、郷土の人物を題材にしたお芝居やミュージカルを企画されている。

4浪して京大の医学部へ

かつて女性で、4浪して京都大学の医学部に合格した方がおられたそうだ。なんとすばらしいこと。こんな先輩と同じ学校の卒業生をさせていただけるのは光栄だ。このページでバカなことばっかり言っているわたしとは大違いだ。

勝れる宝子にしかめやも

M子の父上がM子たち3人の兄弟を前にしていつも口にしていた、山上憶良の歌。父親とはここまで愛情を注ぐことができるのものなのかと胸があつくなる。最近増加している虐待する親に聞いてもらいたい。

あー何か質問はないか?

生物のA先生のくちぐせ。授業中、ひとだんらくつくとこの言葉を口にされた。

これは、真に、質問を求めるものではなく、聞かれた生徒は、はい質問はありませんと答えるだけでよかったのだが、私はそれを友人に指摘されるまでかんちがいしていて、いつも必死で質問を考えていたのだった。いつのときか、鶏の学習効果のところで家に飼っていた鶏のことを質問し、20分以上もロスしてしまったことがあった。わたしはきわめて単純な生徒だったのだ。

歴史のNHK

国営放送の宣伝ではない!昭和53年卒業生で、歴史が好きで、大学院に進み専門的な知識を修め活躍している3人のこと。世界史のN井君、日本史のH田くんそして東洋史のKくんである。頭文字をつづけて読むとNHKになってしまう。

I谷さんのその後
29期の男子卒業生の何人かは、あこがれの同じ29期のI谷さんの消息ををいつも同窓会で私に聞く。
「お願いです。彼女は幸せですから。私に彼女の消息を聞かないでください!もしどうしてもお聞きになりたいのなら、お世辞でもいいから、彼女の名前を出す前に、君は今どうしているの?元気でいてくれた?とまず私のことを聞くように!こう見えてもきずつきやすいし、ひがみっぽい性格なんです私」

S夫(正確にはS.S先生)のスローガン

英語の某S.S先生の授業では、全員が、”弁当を忘れても、辞書は持ってくる。刑務所に入るときも辞書はかならず持ってはいる。”と言わされたらしい。まちがって、”辞書は忘れても弁当はかならずもってくる。”と言ってしまった生徒がいたそうだが、私はこちらの方が本当だと思う。

破門(ちょっと真面目に、踏み込んで意見を言わせてもらいました)

絶対あってはいけないことだが、英語の某S.S先生の授業では破門というのが存在した。破門されると、授業中当たることはないし、小テストも受けなくてよい。すなわち全く無視の状態。定期試験は受けさせていただけるようだ。今こんなことがわかるとおそらく大問題になるだろう。英語の指導は熱心にされたいたようだが、わたしはこんなかれの根本的な考え方がきらいだった。彼は私が3年生の時にやってきたのだが、その時はまだおとなしかった。その後意味のない能力別クラスの導入や受験オンリーのカリキュラムの実施に力を注がれたため、かえってやる気のない生徒が生まれたと聞く。この先生、その後浜田高校の校長先生におなりになった。この先生のおかげで、浜高祭やその他の行事で伝統的に色々やっていた物がかなり廃止されたそうだ。当時の父兄や生徒が文句は言わなかったのもわるいかもしれないが、彼の受験オンリーの姿勢がゆるせん。このことについて、いまご健在なら、議論してみたいところだが、もうおなくなりになっているのでそれもできない。よい大学に入る意外のことは考えてはいけないという高校生活は、私はごめんだ。良いときに卒業できて幸せだったと思う。

私の後輩で破門された人を知っているが、すごく人間らしく、しかも立派な社会人になり真面目に暮らしているので、それだけは言っておきたい。

人生をどういきるか、問題意識を持たずに大学に入っても意味がない。大学はやはり学問をするところ、今までしっかり勉強したから今度は遊ぶぞではだめなのだ。学力を付けることは大切だ。でも大学にはいることだけを人生最大の目的にしては絶対行き詰まる。今の浜高生に言いたい。高校生活を大いに楽しんでほしい。

みんなで三階山にのぼろう!

英語の S.S先生は、生徒を連れて浜田市内にある三階山に初詣に昇るのが趣味だった。みんなで三階山にのぼろう!と呼びかけていたのだ。大学生の私は彼が生徒を連れて昇ってくるのを山頂で何度か見た。三階山では初日の出が見れるのだ。



番外編

大の浜高ファンについて

ここででてきたH子の夫S氏は大の浜高ファン、かれは名古屋の名門進学校を出ているのであるが、浜高の卒業生でないことを残念がっているようだ。噂によるとかれらの子供たちも東京在住であるにもかかわらず浜高入学を密かにもくろんでいるらしい。

同じくH子の大学の友人A子は、なぜか浜高のことに詳しい。いつも彼女の下宿に行くたびに卒業アルバムを見て1人1人を確認していたようだ。ひょっとしてなまじっかの卒業生より詳しいと思う。

H子はいったいだれなのか?気になる人が多いらしい。H子のねえちゃんもやはりH子なのだが、「H子はあんただろう?」とねえちゃんの方がきかれたらしい。即座に否定したようだ。そのあと「じつはH子は私の妹なんです!」とはとうとう言えなかったらしい。わかるきがする。


大の浜高ファン続編
H子の長女H菜ちゃんだが、今年めでたく都立高校に合格。残念ながら浜田高校の生徒にはなれなかったようだ。しかし都立高校は制服がない。それでH菜ちゃんはいとこにもらった浜高のセーラー服を着て通学しているそうだ。浜高の夏服は浜田に帰省した際、カタイで買ってもらったらしい。H菜ちゃんは今は高校を卒業し、もう浜高の制服は着なくなった。わたしのほうがなんだかさみしい。

何を隠そうこのわたし、四六時中浜高のことを話題にするので、息子は洗脳されてしまった。いま小学生だが将来は浜高に入学するといきまいているのだ。広島からの越境入学はきびしいよ。

と、このようにコメントしていた息子も高校生。自分のこどもが浜高生でないのがとても淋しい私。


とコメントしていた息子も大学に行ってしまい、教職も取る予定なさそうだから、浜高には教育実習にも行けないじゃん。あとはもう、浜高入学は孫に期待します。

そういえば、同級生のI君は子供を横浜から、浜高へ野球留学されていると聞く、K明君は子供は浜高に通学させたいという理由で、家族を浜田にのこして単身赴任中なのだ。それから、私の従兄の長男も関西から浜高に進学したのだった。浜高はそんなにいい学校ですか?

そして最近M上さんという密かな浜高ファンが登場、この方このサイトも隅々まで理解し当時の浜高の研究をしているのではないかと疑いたくなるぐらい当時のことにくわしい。名刺の肩書に、浜高学、H子専攻などと書いてもよさそうなのだ。


浜高語録を作ったきっかけは?
第3者は完全にあきれているが、浜高の卒業生のほとんどは、自分の母校が東大の合格ナンバーワンの進学校にも引けを取らないすばらしい学校だと思っている。浜高語録を作ったきっかけは、お知り合いの大学の先生が、1996年当時に広島学院のOBのために学院語録を作りHPで発信していらっしゃったのを見てからなのだ。広島学院に対抗してもしょうがないのは分かっている。

浜高メーリングリストを作ったきっかけ

お知り合いの長野のドクターがご自身の母校灘高の卒業生によるメーリングリストが出来たと話してくださったのがきっかけとなった。「灘高に卒業生メーリングリストがあって、浜高にないのはおかしい!」そう思って作ったのだ。灘高に対抗してもしょうがないのはわかっている。

着メロフィーバー

私がつくった浜高の校歌「豊栄のぼる」の着メロが卒業生の間で広まっているらしい。われながらびっくり。聞くところによると浜高野球部もと監督も着メロにいれてくださっていたと伝え聞く。こんなことならもっと頑張ってかっいいアレンジにしたのに...。

浜高-見合い-結婚

浜高の卒業生どうしが、故郷を離れていようが地元にいようが、親の薦めで見合いをし、結婚すること。このパターンは非常に多いのだ。はずかしながら私たち夫婦もこのパターン。私の両親もそうだった。その後調査していないのでわからないが、このパターンはいまだに続いているのだろうか?どなたか情報をお寄せください。


学校生活と行事

MF

浜高祭のときにおこなわれるクラス対抗の合唱コンクール。この日のため9月に入ったら、毎日早朝練習を行うクラスがほとんど。ブービー賞があるのも特徴。あの頃は燃えたね。
私の印象に残ったクラス。

昭和49年度
3年5組 はとぽっぽ(童謡を混声4部で見事唱いきって優勝!)アカペラ
この語録によく登場するH子のお姉さまのクラス。

昭和50年度
3年1組 黄色いカラス(途中で野球部のMさんがそして神戸を熱唱したのが忘れられない)

私がいた1年6組はドラキュラの歌でブービー賞。

昭和51年度 
3年5組 優勝 友よ 指揮者 Fブラザーズ兄さん アカペラ
2年8組 オブラディオブラダ
(理数科の男性のコーラス、音楽の天才少年であった”H君の弟”のアレンジもすごかったのだ。)

昭和52年度 
3年8組 カントリーロード(理数科が2年連続でがんばった)
3年5組 アヴェマリア(本格的な混声4部のコーラス、美しいハーモニーだった。)アカペラ
3年4組 私のアイドル(音楽性より、盛り上げることだけに集中、青はちまきが印象的)

昭和55年度 優勝 ”海のトリトン”
この年アカペラ(無伴奏)で海のトリトンを混声4部で唱ったクラスが優勝したそうだがこれはMF史に残る最高のものと言われている。

昭和56年MF
優勝 3年5組 ”ガッチャマン”指揮者Fブラザーズ弟君 アカペラ
   2位 3年9組 ”サウンド・オブ・サイレンス”
卒業生の話からこの年は高レベルの戦いだったようだ。
気がついたことですが、昭和50年代は3年5組の優勝が多いですね。なんででしょう?


アベベルムコルプス

昭和53年度のMFで3年生のあるクラスがアカペラの混声4部合唱で熱唱したという伝説の曲。現在東京で活躍する声楽家Y氏(昭和54年卒)がクラスを引っ張って実現した。

高校生でこの曲のすばらしさを知っているなんておどろきだった。この曲はモーツアルトが死ぬ6ヶ月まえに作曲したもので、すべてにおいて洗練された美しい旋律の曲なのである。思わず拍手を送ってしまった。

サマコン(サマーコンサート)

浜高のブラスバンドが年に一回行う演奏会。いつも1学期の終業式ぐらいの時期に行われる。これを機会に、普段にくからず思っている相手を誘う人がおおいのである。体育祭で行われるフォークダンスにあぶれないための前哨戦となる。


甲子園関係


野球部

浜高には、硬式、軟式の両方がある。硬式は地元の熱狂的なファンがある。どちらも全国大会に出場するぐらいがんばっているが、軟式の方が良い成績をおさめるため。”人気の硬式、実力の軟式”とよばれていた。

甲子園

硬式野球部は昭和51、52、54、55、56年 と見事出場を果たし、大活躍した。54年天理を破った試合は今でも忘れられない。

トーヨーモーテル

甲子園の応援団のバスは必ず、姫路のここで朝食と夕食をとることになっていた。広島商や柳川商の応援団もよく一緒になった。

サンダーバード

硬式野球部の応援でブラスバンドが演奏していた曲の一つ。この曲を演奏したときは必ず勝つというジンクスがあった。

豊栄のぼる

浜高の校歌。団いくま氏の作曲。名曲中の名曲。カラオケボックスにないのがざんねん。

亀山城祉

昔からある応援歌。”かめやまじょうし〜こけあおむ〜”で始まる。歌えない人もかなりいた。

紅深き

野球の応援歌。”くれないふかき あさぐもの〜”で始まる。昔は3番まで歌えたのに


夢七訓

浜高硬式野球部に伝統的につたわる部訓。明治時代の実業家、渋沢栄一の言葉なのだそうだ。
新入部員は最初に覚えなければならない。今でも練習の終わりに、毎日部訓を唱和してる。
  夢七訓ーーー
・ 夢無き者は理想なし
・ 理想無き者は信念なし
・ 信念無き者は計画なし
・ 計画無き者は実行なし
・ 実行無き者は成果なし
・ 成果無き者は幸福なし
・ ゆえに幸福を求むる者は、夢なかるべからず

体育祭

カップル誕生!

浜高の体育祭の種目の一つ。男女がカップルになって二人三脚で走るのだ。毎年くだらんと言われながらやっていた。1年生の女子生徒にとっては唯一、3年の男子と近づけるチャンスなのだ。その後私が男女混合騎馬戦にしようと提案したが却下されてしまった。

綱引き

体育祭は、住んでいる場所で、4つの分団(旧市内が浜田川を境に南北、郊外が東西)にわかれていた。分団対抗の選手リレーと綱引きがあったが、綱引きには各分団力をいれていた。いつも弱いのが南、南は一番都会でみんなひ弱に育っているからだと言われていた。負け惜しみではあるが、一番優勝回数が多い東分団に負けたときは、みんな、”いつも農作業を手伝っているやつらにはかなわん”と言っていた。同じ島根県で、都会育ちだ田舎育ちだなんて、笑ってしまう。ほんとに目くそが鼻くそを笑っていたのだ。

人文字

体育祭で各分団は見事な人文字を作る。それを見ていた。ただいま売り出し中の野球部のS監督は、以前、「甲子園でしてくれればいいのに。」とひとりでぼやいていた。監督! いくらなんでもPLの向こうははれませんぜ。それに応援の生徒の人数が少なすぎてベンチからは母校の人文字は見えにくいですよ。

めくり

体育祭で欠かせないのは、各分団のデコレーション。特に東分団のパネルの絵が切り替わるめくりは、すばらしかった。代々、ノーハウがことこまかにかいてあるノートが受け継がれていた。

さぎまい

東分団が体育祭で行う、パフォーマンス、津和野の祭りの鷺舞をヒントにアレンジしたおどり。男子生徒が白塗りで奮闘。現在まで続く伝統芸。ほんとに毎年バカ受けするのだ。昨年甲子園で活躍したWくんもやったそうです。


フォークダンス

午後の一番のプログラムが有志参加のフォークダンスだった。これは男女が誘い合って出場するというもの。浜高生はこれに出るために、1学期から準備し、サマーコンサート、花火大会に誘って相手の様子をみるのだ。なぜか運動部男子は絶対出場する義務が課せられていた。

体育祭のエピソード

昭和49年、南軍はパネルのデコレーションをブルースリーににした。これは大傑作だったようでなんと映画館が買いに来たそうだ。

昭和51年、北軍は10数年ぶりに優勝した。このときのパネルのデコレーションはベルばらのオスカルだった。

昭和52年、万年最下位の南軍がひさびさに最下位を脱出した。

昭和52年より、各分団の人数格差を是正するため、生徒総会で長沢地区が東軍になることが決定。これにより東軍は最強分団になった。


球技大会

二年を制すもの浜高を制す

高校3年になるとだんだん体力が衰えてくる。だいたい2年がピークなのだ。浜高は2年生が元気だ。校内球技大会で優勝するためには2年生をやっつけないとだめということわざなのだ。

予選会

浜高では2月に卒業生を送る会が開かれる。選抜されたクラスが出し物を競う。

曽根崎心中

昭和49年の2年生の理数科が予選会で披露した出し物。かなり本格的で大評判だった。

ベンハー

昭和51年の2年4組が予選会で披露した本格大スペクタクル活劇。戦車はリアカーを利用。馬の役をした人は外で一生懸命リアカーを引く練習をしていた。これが私がみた予選会の出し物の中での最高傑作だと思っている。

エマニエル夫人

昭和50年の1年生の理数科が予選会で披露した名画スポットで評判だった一場面。Kくんがふんしたちょっと太めのエマニエル夫人は大評判だった。

怪傑ゾロ

昭和50年の1年生の理数科が予選会で披露した名画スポットで評判だった一場面。今は亡きDくんの雄姿が忘れられない。とにかくかっこよかった。

かぐや姫

昭和51年の2年6組が予選会で披露した名作劇。かぐや姫役のNくんが評判を呼んだ。

部活

<歴史部>

歴史部の石見銀山の研究

私がいたころ石見銀山を歴史部がかなり一生懸命研究し評判だった。


<生物部>

生物部のショウジョウバエの遺伝の研究

私がいたころ生物部がショウジョウバエを研究していてかなりの実績をあげていた。ショウジョウバエをバナナでたくさん育てていた。目の色が赤だの黄色だのとおもしろそうだった。


<地学部>

ナポレオン

当時の地学部(後の天文部)はまず入部したとき星の名前より先にトランプのナポレオンのルールを覚えなければならなかった。”ナポレオンのルールを知らずして地学部員にあらず”新入部員はなんのためらいもなくがんばってルールを覚えたのであった。

警察に行きましょう!事件

昭和51年卒の地学部のKさんがおこした事件。当時天体観測のために、部員が、夜学校にいたときに、学校の近所から女性の悲鳴をが聞こえた。正義感が強く勇敢なKさんは、誰よりも一番に現場にかけつけた。女性が男性と、もみ合っているところだった。Kさんは女性を危険から救うべく、男性の説得をこころみた。そして男性の両手をにぎり、いっしょうけんめい「警察に行きましょう!」と自首をすすめたのだった。ところがよくよく話をきいてみるとその男女は夫婦で単なる夫婦喧嘩だったのだ。

この事件は、Kさんが卒業されても、地学部史にのこる楽しいエピソードとして長く後輩に語り継がれた。

アンドロイド

地学部の部員が恐ろしくおばかなドジを踏むと、このように言われる。アンドロイドは1世から5世まではなんとなく記憶しているが、そのあとは一体何世まであるのか。私の知るところではない。

地学部の日誌

昭和50年前後、地学部にはおもしろキャラの人物が沢山所属しており、それが克明につづられているのが日誌である。昭和51年ごろの地学部の日誌のひとつを現在わたしは保管しているのだ。将来、スキャナーで読み取りDVDに保存しておくほどの宝物だと自負している。

<剣道部>

剣道場

剣道場はもともと演劇場のようなつくり。浜田一中は、ここを借りて何か催しものをしたり、練習をしたりした。りーみんぐほーる と呼ばれていたらしい。正面に舞台があり両側に板張りの、そでがあった。観客席の部分がもちろん板張りで、ここで練習をする。舞台をはさんで反対側には映写室のような個室があり、女子部員の着替える場所だった。お世辞にもこの部室は空調が良いとはいえず、電気も薄暗くて女子部員は大変だった。


M沢の「ささげ面」

昭和52年当時の剣道部のキャプテンだったM沢の必殺技。そう身長の高くなかったM沢は,両手を高くあげたまま相手の面を打つ技を身につけ,そのハンディを克服した。ちょうど,相手に賞状を手渡しているように見えるその姿勢から,「ささげ」面と呼ばれた(自ら名付けた)。決まると防具のない後頭部にまで竹刀が届き,相手のダメージは相当だった。

くい打ち面

昭和52年当時の必殺技。多数の部員が使っていた。つばぜり合いのあと離れ際に相手を押してその反動で飛んで後退しながら両腕を振り上げて全力で面を打つもの。相手との間合いがあった場合、一本決まることもあったが、ごくまれ。ほとんどの場合相手はまだ面の正面に竹刀を構えているので防がれた。ただ、防具を通してでも、その破壊力はすごく、相手に強い衝撃をあたえた。使い手の力量が問われるので、コントロールが悪い場合相手の肩や腕を直撃することもあった。防具のない肩や腕を直撃された相手は、特にひじを直撃された相手はその衝撃で試合続行が一次中断されることもあった。サッカーならば間違いなくレッドカードである。その衝撃で相手の闘争心を目覚めさせ、逆にもっと痛い一本を取られる諸刃の剣でもあった。面以外に飛んで後退しながら、胴をたたき打つ変形もある。この場合わきの下を直撃された相手は、本当に気の毒であった。

秒殺され

びょうごろされ と読む。昭和52年当時の負け方のひとつ。現在開催中の柔道で 井上選手の開始すぐの一本勝ちを秒殺(びょうさつ)と表現している新聞もあったが、こちらのびょうごろされは敗者の立場から客観的に試合を反省したもの。その後の剣道の修練に役立てるかどうかは本人次第た。条件は 「はじめ!」 「一本 やめ!」まで(有効打ヒットまで)3秒以内のもの。小手で、びょうごろされ される場合が多かったが、面でもあった。つるし柿のH崎君は 浜田商業高校との試合でびょうごろされ された。彼はほとんど面しか打たなかったので、「始め!」〜「めーん、こてありー」〜「やめ」 で礼をして控えに戻ってくるまで20秒強であった。反対に相手を秒殺(びょうさつ)する場合は、秒殺し(びょうごろし)をしたとしてその選手の栄誉をたたえた。

浜剣リーグ

昭和52年から53年ころ 剣道部の練習の終わった道場で黙々と活動をしているへんな一団がいした。彼らこそ浜剣リーグのメンバーなのだ。浜剣リーグは、この剣道場でする禁断の、無礼千万の、草野球。ベースが舞台側で、バットは木刀、ボールは汗臭い手ぬぐいをまるめて結んだもの。ピッチャーが投げて、バッターが打つのだが、投げられたボールは、ちょうど てるてる坊主 が頭から打者に向かっていくようだった。ボールは、軟式のテニスボールやピンポンボールを使ったこともあった。ルールについては記憶が定かではないが、ベースは三角ベースで、守備があまりいないため、ボールをランナーに当てればアウトになった。ここで、剣道部の名誉のために、皆がやってたのではなく、ごく一部のへんな奴らがやっていたということを言っておく。参加者が二人でも行われた。このリーグがその後受け継がれたのかどうかは不明。

浜剣リーグの女子スラッガー

昭和54年卒の剣道部の女子部員、M口さん。彼女のバッティングセンスは男子並かそれ以上だった。ソフトボールの試合などでは、彼女の専用の皮のグローブをしてバットをにぎるというすごさ。まるでプロ野球選手のようなのだ。H子が大学時代に場外ホームランで、駐車中の自動車のフロントガラスを割った逸話が残されているが、M口女子はおそらくそれ以上の破壊力をもっているだろう。


つるし柿事件

H崎君と沖○君が道場の前の柿の木の生柿を竹刀で打ち落とし、皮をむいてつるし柿を作ろうとこころみた。男子更衣室は先輩の威厳を保つことができない、汗臭いという理由で不適切と判断し、つるした場所は女子更衣室となった。翌日、事情を知らない女子部員が、更衣室に入って大パニック。ぎゃあという大絶叫。予想通り、半分しか乾いていないぐじゅぐじゅのつるしがきを触ったのだった。二人とも女子に怒られたらしいが、ごめんとあやまって、その週末もまた作り、またまた女子更衣室にぶら下げた。女子部員はあきらめて、それ以後怒らなくなった。最初に真っ暗な更衣室に入って着替えをした後輩の女子部員に、気が付かなかったのかとこっそり聞いたら、気が付いていたそうで、ひとつ下さい、といわれて二つさしあげたそうだ。おいしいつるし柿ができたので、めでたしめでたしということでこの話は終る。


ユニークな話題

百姓一揆

昭和53年卒の3年5組のアルバムに載っている一枚の写真に二人の男子生徒がほうきを振り回しているのがある。この写真には「百姓一揆」という題名がついている。ぴったりの題名に大感激した。

この題名をつけたのは当時アルバム委員だったわたくしの従弟なのだ。ふふふ彼は今日本史の研究者になっている。納得。

まねしちゃだめよ

H子は、高三の年が明けるまで、英語の問題集というのを手にしたことがなかった。さすがにこれではいくらなんでもよくないだろうと本人も自覚し、入試2ヶ月前の1月になって、問題集を買うことにした。本屋に行きもっとも薄い問題集を買ったのだ。

受験生のみなさんは絶対まねしないでくださいね。

世界史の傾向と対策問題集

H子が入試直前に購入して、2問だけして挫折し、同級生に上げたという伝説の問題集。H子は結局世界史受験であるのにもかかわらず世界史の問題集は一切しなかったのだ。H子曰く、「難しい問題をやればやるほど自信なくすよりはやらないほうが精神衛生上よい」。妙に納得させられるのがこわい。

東京で一番楽しい場所は?

昭和55年卒の秀才Yくんが「東京で一番楽しい場所」とあげ上京した友達を案内したところは一体どこなのか?クイズにしてみた。 なんと国立国会図書館だったらしい。 さすが。

浜田から近いのを理由に大学を決めた人

すっかりこのコーナーでおなじみのH子なのだが、実は先生が期待する秀才であった。東大とは言わない出来ればせめて京都大学か大阪大学ぐらいは行ってほしい、先生はそう願っておられたようだ。ところが、この人、広島大学が浜田から近いという理由で進学をきめたのだ。M子が不思議がって、「なんで広島にしたん?」と聞いたとき、「浜田から近いけえ。」と答え、開いた口がふさがらなかったと、証言している。しかもH子は昆虫の顔をルーペで観察してスケッチする授業があるという理由で医薬歯系もあっさり断念したというまるっきり根性のない人間なのだ。

H子の秘密
浜高メーリングリストでおなじみのH子が広島の大学を受験したのはは、家から近いからという理由であったのはすでに周知のことである。隣の市の江津中学出身だった彼女が浜高に入学した理由は、さすがに、お勉強が良くできて、浜高の校風に憧れているからだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。お父様が、高校1年になる少し前に、浜田に転勤になり、家から一番近いところが浜高となったのだった。彼女曰く「江津に住んでいたら江津高校に進学するに決まっているじゃん。」大の浜高ファンのH子は実はただのご近所フェチにすぎなかったのだ。 大幅に環境が変わるのが嫌いなタイプなのだ。ところが、結婚後、運命とは皮肉なもの、あれほど好きな浜田と広島にはすむことは許されなかった。旦那さんの実家は三重、住まいは東京と、彼女はいやおうなしに、大きく環境が変わる場所に次々と移るしかなかったのだ。

H子の秘密その2(近くに通いたい遺伝子)
H子はH菜ちゃんに続き、男子、女子を生み、男子は大学生しかも難関理系大学。そこに決めた理由を聞いてほんとにおどろいた。家から一番近いところにあるからなのだそうだ。なんと母親そっくりの遺伝子を持っていたのだった。H子って近いという理由だけで、高校も大学も選んだし、しかも2期で受けたY大学、もしM子が行くことに決めていたらそちらにしていたらしい。その大学も家からは近くて、しかも親友が一緒だからという理由なのだ。

それから、H子のご長男。半分はお父さんの血がまじったので、H子より、まじめに勉強するらしい。ホントに良かった。H子の旦那さんありがとうございます。

H子の秘密その3(ひとりで行動するのが苦手)
H子は浜高29期最強の才女と呼ばれているが、じつは前述のとおり、ひとりで何かするのが苦手な人だった。高校当時美しい字を書くので、生徒会の書記にスカウトしたら、M子がいっしょじゃないと嫌だとごねた。だからしかたなくM子も書記をすることになってしまった。

H子の秘密その4(いもひき)
かつてH子は肉屋で肉が買えないひとだった。その話題を持ち出すと、きちんとならんだら買うことができる店なら絶対買う自信があると豪語するが、とにかく人を押しのけて前に行くことが苦手な、浜田弁でいもひきなのだ。最近はおばさんになったので、肉屋で肉を買っていると自慢している。すごい成長ぶりである。じゃあ関西にでてきんさい、そして、本当に成長できているか見させてもらいます。さらに難易度が高くなるけえね。

H子の秘密その4(魔性のおんな)
かつてH子は各クラスに彼女の熱狂的なファンが必ず一人はいると言われていた。本人はいたって普通なのになぜか男性の目をハートに変える能力をもつ。彼女のすごいところは、もう30年以上経っているのに、美しさが少しずつ進化しているということ、昔のアイドルに会ってがっかりするという話があるが、彼女は絶対期待をうらぎらないのだ。ですから男性の皆様、再会を楽しみにふるって同窓会にご参加くださいませ。

この話題をすると
H子さん? はあ? もてたん? べつに普通だったけえ-
と言う人物がひとりいます。


社会2科目がめんどくさいというだけ理由で大学を決めた人

文科系クラスの秀才K(女子)は、やはり先生が期待する秀才であったが、難関国立大学の文科系学部は社会科が2科目あるのがめんどうくさいという理由で、社会が得意なのにもかかわらず、とりやめ、社会1科目で受験できる浜田から近い国立大学のひとつを受験した。チャレンジとかという言葉が彼女の辞書になかったのか?とても残念だった。残念ながらこの学年の女子(29期)は、能力があるのに、モチベーションが低い人が多いのが特徴なのだ。しかもそのことを後悔しているひとがだれもいないことも面白い。楽しければそれでよかったらしい。なぜかそういうひとばかりと仲がよい私。 ただわたし自身はもう少し勉強は真面目にしておけばよかったと反省はしている。

作ってください(H君のがんばり)-超番外編-

われわれの同級生H君の浜田一中時代のがんばりを象徴する言葉。当時の一中には男子と女子のトイレの間に仕切りがなく、思春期の生徒はとてもつらかった。「先輩方はみな何十年ものあいだ文句もいわずに我慢してきたのに君たちは我慢ができないのか?」という先生の言葉に、「このままでは、でるものも出ずに、病気になる」とはっきり要求し続けるH君だった。生徒会や先生との会談の場でいつも言い続けた。その後彼のおかげでトイレには仕切りができた。

人間にはこういうひたむきな姿勢が必要だ。あきらめずに主張し続けることの大切さ。いまさらながらに当時のH君に教えられる。彼とおなじ中高出身であることを誇りに思う私。

学校生活全般

汽車通

JRを利用して通学すること。都会では電車通学と呼ぶが、浜田は電化されていないので、汽車通学なのだ。しかも一時間に1本しかないので、みんな帰りの汽車を4時ばんとか5時ばんとか呼んでいた。


恥かき通り

一棟の2階部分の中央は図書館があり、廊下がなかった、図書館は通り抜けできないため、横のベランダを通るしかなかった。ここは、全学年の1組〜6組の教室からまるみえだったため、こうよばれていた。


A定食

食堂でもっとも高い食事。200円もしたのだ。


B定食

豚汁とご飯のみ。私が在学中には、これを食べている女子生徒はひとりも見かけなかった。ちなみに、食堂が始まって初めてラーメンライスを注文したのは何を隠そうこの私だと自負している。昭和52年以前にラーメンライスを注文した女性の方がいらっしゃれば連絡を。


早弁

浜高では早弁する人もかなり多かった。私の学年の理数科は、昼休みにソフトボールをするために、早弁をすると聞いたことがある。

わたしも 早弁をしたことがあるので早弁はあたりまえとおもっていたが、禁止している学校も多くあるということを最近知った。女子校などでは禁止されているようだ。なんで? 朝ごはんをきちんと食べていないと、貧血になるから、休み時間に食事しても良いのが浜高の方針だった。早弁をするのはみっともないですか?


平均点殺し

極端に、テストの点が悪すぎて、たったひとりで、クラス全体の平均点を1点以上も下げてしまえるほどの大物のこと。浜高生は比較的真面目なので、定期試験などの平均点はは、かなり高い。先生方は、クラス単位で平均点を比較されるのだが、クラスに平均点殺しが二人以上いると大変な影響力になるのだ。

ここに登場する二人のうちのひとりは、某コンビニの店長兼オーナーです。この語録の存在を最近知ったらしく、「ありゃあ わや だなあ」とコメントしたらしい。お若いみなさん、たとえ高校時代平均点殺しでもがっかりしないでくださいね。平均点殺しでも立派な社会人として生きて行けるという実例がありますから。ところで、わやとは浜田弁でめちゃくちゃという意味です。


アンバランスな大物

理科系の男子のなかには、信じられないぐらい理数科目ができるのに、文科系科目はまったくできないというアンバランスなひとがいた。物理は何でこんな問題で100点がとれるの?と、おどろくほどできるのに、国語や英語になると、中学生でも80点はとるんじゃないかと思う問題でも平均点殺しをしてしまう。M子は残念がり、何度も、「もったいない。理数の勉強に使う時間をどうしてもっと文科系科目の勉強にまわせんのか? 理数にかけるエネルギーのほんの一部でもよいから、文科系の科目にまわしたらどうなん!」と説教したらしい。しかし彼らは大物だったので、M子の説教などは聞き流し、ひたすら理数科目を勉強したと伝え聞く。


背番号

テストの点があまりに悪いためにみんな当時のプロ野球選手の背番号で自分の点を言い合った。私は3年の1学期の進研模試の日本史で”巨人の小林(19)”をとってしまった。こんな悲惨な点を取るのは私だけかと思ったら、友人Hは巨人の堀内(18)をとっていた。でも驚く亡かれMくんはヤクルトのマニエル(4)をとっていたのだ。すごい。

その後、理数科でついに物理のテストで現役時代の王(1)をとった人間がいたと伝え聞く。
その後の調べで、この模試は10点取った人は偏差値が50以上だったそうだ。
想像できないぐらい難しいテストだったということを付け加えておく。


補習

やっと夏休みが来たのに、毎日補習があった。野球の応援に行く人は補習を休んでよかったので、わたしはいつも応援に行っていた。受験は見事失敗!補習をもっと真面目に受けていれば、私の人生はもっと違っていたと後悔したことは一度もない。 おほほ。


ダブルヘッダー
出張で、お出かけになる先生がいらっしゃるときは、とうぜん授業変更が行われる。数学が2時間あるときは、つらかった。私は経験がないが、クラスによってはトリプルもあったとか。


浜高の4年生(あれ?)事件。

普通は、高校は3年で終わる。しかし浜高には、大学受験のリターンマッチにかける生徒のために補習科があった。補習科に通うSさんは、映画館で「浜高4年生のSさん」と言われて呼び出されたと伝え聞く。映画館側は補習科のSさんと呼ぶのは、悪いと思ったみたいだ。


ホワイトハウス

浜高の補習科のある白い建物は同窓会館で、ホワイトハウスと呼ばれている。それでいつしか補習科のことをホワイトハウスと呼ぶようになったと伝え聞く。


江木の赤天

江木蒲鉾店が誇るスパイシー薩摩揚げ。これをみんな学校のそばのM商店でいつも食べていた。


名糖ヨーロッパクランチ

これもM商店に売っていた。棒アイスの最高傑作(これわたしだけ?)と言われている。

二つのM商店

学校のすぐそばにイニシャルがどちらもMで始まるお店が二つあった。浜高生はそれぞれごひいきのお店があり、通い詰めていた。

まぼろしの、はんぺんフライ

江木かまぼこ店が赤天とともにつくってたはんぺんのなかに野菜炒めの具が入っていたフライ。当時35円だった。作るのに手間がかかるということで、その後販売されなくなってしまった。M商店で売っていた伝説の逸品。

サンショップ

M商店のとなりにあったファーストフードのお店。ハンバーガーがおいしくて、浜高生がよく出入りしていたお店。

クボタ牛乳


浜高の小ホールに出入りしていた牛乳屋さん。コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、サワー、ヨーグルト、プリンとバリエイション豊富だった。

小ホールのおばちゃん

さすが浜高!売店にいたおばちゃんも、そこいらへんのおばさんとは違って賢夫人タイプ。親切だけど無愛想だとみんなが言っていた。

このコメントを見た後輩が、このおばちゃんについて「鉄火肌だがハートが熱い」のほうがふさわしいとコメントしてくれた。うーん納得。

ニューデート

浜高の近くにあったスパゲッティーの美味しい喫茶店。残念なことに昨年(1998年)閉店したと聞いております。さみしいですね。


本田商店

浜田駅の駅前にあった大判焼とかき氷のお店。浜高生のオアシス。


岡本

朝日町にあったやはり大判焼きとかき氷のお店。


松本パン

同じく浜高の小ホールに出入りしていたパン屋さん。浜高生の胃袋を満たしてくれました。
浜高生に以前アンケートとったとき、1位がドッグパン(ソーセージ入りカレーパン)2位まいとるパン(渦巻きになっているパン)だった。いつもにっこりの黒ぶちのめがねのやせたおじさんが印象的。


一番街

浜田駅のそばの大きなスーパー。入り口を入ったところの床に浜高生がカバンを置いて買い物をするのだ。なんとのどかなこと。


オアシス

我々昭和53年卒のたまり場は、学校の裏門の前のN 美の家。男女を問わず暇があったら彼女の家に入り浸っていた。彼女のお母様がとても楽しい方だったのでみんな甘えて、たむろした。N 美が留守でも平気で上がり込むのだ。H子と私などは、家に帰ったらまにあわなくて見れなくなるテレビ番組を彼女の家でよく見させていただいた。結局そのまま夕飯までごちそうになったりした。ほんとにずうずうしい。同窓会があるときは彼女のお母様にも来て欲しいとみんな言っている。


ラーメン横町

浜田駅の近くにあったラーメン屋さん。私も学校の帰りのよく行った。学生ラーメンが230円だった。我々にとっては500円の横町ラーメンはあこがれだった。主人が”学校帰りによるなんて全く不良娘だ”とあきれているが、”その不良娘の旦那はあなただよ。”と言いたい。別に家に帰るのがいやだったわけでもなんでもないのだ。


亀チャリ

平成の言葉である。自転車通学の許可のステッカーは校章の6角亀のシール。これを貼った自転車のこと。なんとうまく言ったことか。


亀ジャー

これもごく最近の言葉。
校章の6角亀の入ったジャージのこと。みょうなダサさが人気だった。いまは新しい格好のよいジャージにかわったため、かなり貴重になった。手放す人はいないと伝え聞く。


廃れてしまった雪の日の行事

H子のにいちゃんねえちゃんがいたときまで、雪が降ると、有志があつまって屋上で大きな雪玉をつくって1号館と2号館の間に落とすという行事があったという。はっきり言ってなんの意味もない行事。まったく雪が降らなかった年があったため、完全に廃れてしまったという。おそらく復活することはないであろう。


寝押し

おそらく今の女子高生には死語になっているだろう。浜高の制服のスカートは丈も長くひだが細かい。みんな寝るときに布団の下にスカートを敷いて寝押しをしたんですよ。


下敷き

夏はセーラー服は暑い。それで、上着の下から下敷きをうちわ代わりに使って風を送っていたのだ。女子には大事なアイテムのひとつなのだ。


世界史のサブノート

2年生になると、授業の進度とはまったく関係なく、2年の間に世界史のサブノートの作成を義務付けられた。一度に教科書数章の範囲を大学ノートにまとめて提出しなければならない。この過酷な宿題、夏休みや冬休み春休みに浜高生を苦しめていた。


1キロ走と2キロ走

これも浜高生を苦しめたものの一つ。月に一度体育の時間にトラックを男子は2キロ、女子は1キロを走らされ、タイムをはかる。男子は一定のタイムをクリアできないと何度も走らされたようだ。ほんとに気の毒。

はりまや食堂

浜高のそばにある食堂。われわれよりずっと年上の先輩はよく利用されたようだが、われわれのときは、いつも先生がそのお店にいらっしゃるので、入ることはできなかった。いまでも家庭的なメニューと良心的な値段で、営業されている。

1年6組の日誌

昭和49年度の1年6組の日誌が、馬鹿みたいに面白かった。このクラスは、つわものぞろいだった。H子も当然そのひとり。いまどうなっているのかまったく不明なのだ。だれかもっていませんか?

スカート丈と制服の着こなし

ファッションは変遷する。昭和40年代前半は上着丈長め、スカート丈ひざ下。昭和40年代は、スカート丈ひざ上。そして徐々に長めになっていく。しかも、足首を細く見せるために、ソックスをまるめて、くるぶしを見せるのが流行る。昭和50年代前半は、スカート丈ひざ下、上着丈短め、そして、アイビーソックスをはいている人もでてきた。ひじを上げたときにチラッとみえるTシャツの色に気を配る女子生徒もいたりする。その後どんどん短くなってい気。ルーズソックスというものに行き着いた。今はどんなファッションなんだろうか?


浜高メーリングリストの話題

コーヒーショップ ヨシタケ>
浜田市中紺屋町にあった本格的な喫茶店です。こちらのご主人三浦さんは、日本ではじめて缶コーヒーを造った方なのだそうです。UCCが売り出すより以前に日本橋三越デパートで売られていたそうです。そんなにすごい方が浜田高校の卒業生だったなんてびっくりしました。

昭和55年卒業の林さん
2005年の夏、浜田市の石央ホールで 石央音楽祭が開かれました。 浜高メーリングリストのメンバーでもある林さん(31期)も東京から戻って モーツアルトのピアノ協奏曲とご自身のオリジナル曲を演奏されました。演奏を聴きに来られた多くのみなさんが大絶賛されました。このモーツアルトのピアノ協奏曲は、林さんが小学生のとき今は取り壊されてしまった浜田市民会館で、ピアノ教室の発表会で当時中学生が2台のピアノで演奏したのが忘れられずに、そういう思い出をこめて演奏されたのでした。浜高のサマーコンサートなどもこの市民会館で行なわれていたのでした。昭和50年代の卒業生には思い出深い建物なのです。

最近は林さんは浜田で演奏する機会が多くなりました。その様子はブログHarmony for you !でご覧いただけます。

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