学校生活と行事
MF
浜高祭のときにおこなわれるクラス対抗の合唱コンクール。この日のため9月に入ったら、毎日早朝練習を行うクラスがほとんど。ブービー賞があるのも特徴。あの頃は燃えたね。
私の印象に残ったクラス。
昭和49年度
3年5組 はとぽっぽ(童謡を混声4部で見事唱いきって優勝!)アカペラ
この語録によく登場するH子のお姉さまのクラス。
昭和50年度
3年1組 黄色いカラス(途中で野球部のMさんがそして神戸を熱唱したのが忘れられない)
私がいた1年6組はドラキュラの歌でブービー賞。
昭和51年度
3年5組 優勝 友よ 指揮者 Fブラザーズ兄さん アカペラ
2年8組 オブラディオブラダ
(理数科の男性のコーラス、音楽の天才少年であった”H君の弟”のアレンジもすごかったのだ。)
昭和52年度
3年8組 カントリーロード(理数科が2年連続でがんばった)
3年5組 アヴェマリア(本格的な混声4部のコーラス、美しいハーモニーだった。)アカペラ
3年4組 私のアイドル(音楽性より、盛り上げることだけに集中、青はちまきが印象的)
昭和55年度 優勝 ”海のトリトン”
この年アカペラ(無伴奏)で海のトリトンを混声4部で唱ったクラスが優勝したそうだがこれはMF史に残る最高のものと言われている。
昭和56年MF
優勝 3年5組 ”ガッチャマン”指揮者Fブラザーズ弟君 アカペラ
2位 3年9組 ”サウンド・オブ・サイレンス”
卒業生の話からこの年は高レベルの戦いだったようだ。
気がついたことですが、昭和50年代は3年5組の優勝が多いですね。なんででしょう?
アベベルムコルプス
昭和53年度のMFで3年生のあるクラスがアカペラの混声4部合唱で熱唱したという伝説の曲。現在東京で活躍する声楽家Y氏(昭和54年卒)がクラスを引っ張って実現した。
高校生でこの曲のすばらしさを知っているなんておどろきだった。この曲はモーツアルトが死ぬ6ヶ月まえに作曲したもので、すべてにおいて洗練された美しい旋律の曲なのである。思わず拍手を送ってしまった。
サマコン(サマーコンサート)
浜高のブラスバンドが年に一回行う演奏会。いつも1学期の終業式ぐらいの時期に行われる。これを機会に、普段にくからず思っている相手を誘う人がおおいのである。体育祭で行われるフォークダンスにあぶれないための前哨戦となる。
甲子園関係
野球部
浜高には、硬式、軟式の両方がある。硬式は地元の熱狂的なファンがある。どちらも全国大会に出場するぐらいがんばっているが、軟式の方が良い成績をおさめるため。”人気の硬式、実力の軟式”とよばれていた。
甲子園
硬式野球部は昭和51、52、54、55、56年 と見事出場を果たし、大活躍した。54年天理を破った試合は今でも忘れられない。
トーヨーモーテル
甲子園の応援団のバスは必ず、姫路のここで朝食と夕食をとることになっていた。広島商や柳川商の応援団もよく一緒になった。
サンダーバード
硬式野球部の応援でブラスバンドが演奏していた曲の一つ。この曲を演奏したときは必ず勝つというジンクスがあった。
豊栄のぼる
浜高の校歌。団いくま氏の作曲。名曲中の名曲。カラオケボックスにないのがざんねん。
亀山城祉
昔からある応援歌。”かめやまじょうし〜こけあおむ〜”で始まる。歌えない人もかなりいた。
紅深き
野球の応援歌。”くれないふかき あさぐもの〜”で始まる。昔は3番まで歌えたのに
夢七訓
浜高硬式野球部に伝統的につたわる部訓。明治時代の実業家、渋沢栄一の言葉なのだそうだ。
新入部員は最初に覚えなければならない。今でも練習の終わりに、毎日部訓を唱和してる。
夢七訓ーーー
・ 夢無き者は理想なし
・ 理想無き者は信念なし
・ 信念無き者は計画なし
・
計画無き者は実行なし
・ 実行無き者は成果なし
・ 成果無き者は幸福なし
・
ゆえに幸福を求むる者は、夢なかるべからず
体育祭
カップル誕生!
浜高の体育祭の種目の一つ。男女がカップルになって二人三脚で走るのだ。毎年くだらんと言われながらやっていた。1年生の女子生徒にとっては唯一、3年の男子と近づけるチャンスなのだ。その後私が男女混合騎馬戦にしようと提案したが却下されてしまった。
綱引き
体育祭は、住んでいる場所で、4つの分団(旧市内が浜田川を境に南北、郊外が東西)にわかれていた。分団対抗の選手リレーと綱引きがあったが、綱引きには各分団力をいれていた。いつも弱いのが南、南は一番都会でみんなひ弱に育っているからだと言われていた。負け惜しみではあるが、一番優勝回数が多い東分団に負けたときは、みんな、”いつも農作業を手伝っているやつらにはかなわん”と言っていた。同じ島根県で、都会育ちだ田舎育ちだなんて、笑ってしまう。ほんとに目くそが鼻くそを笑っていたのだ。
人文字
体育祭で各分団は見事な人文字を作る。それを見ていた。ただいま売り出し中の野球部のS監督は、以前、「甲子園でしてくれればいいのに。」とひとりでぼやいていた。監督! いくらなんでもPLの向こうははれませんぜ。それに応援の生徒の人数が少なすぎてベンチからは母校の人文字は見えにくいですよ。
めくり
体育祭で欠かせないのは、各分団のデコレーション。特に東分団のパネルの絵が切り替わるめくりは、すばらしかった。代々、ノーハウがことこまかにかいてあるノートが受け継がれていた。
さぎまい
東分団が体育祭で行う、パフォーマンス、津和野の祭りの鷺舞をヒントにアレンジしたおどり。男子生徒が白塗りで奮闘。現在まで続く伝統芸。ほんとに毎年バカ受けするのだ。昨年甲子園で活躍したWくんもやったそうです。
フォークダンス
午後の一番のプログラムが有志参加のフォークダンスだった。これは男女が誘い合って出場するというもの。浜高生はこれに出るために、1学期から準備し、サマーコンサート、花火大会に誘って相手の様子をみるのだ。なぜか運動部男子は絶対出場する義務が課せられていた。
体育祭のエピソード
昭和49年、南軍はパネルのデコレーションをブルースリーににした。これは大傑作だったようでなんと映画館が買いに来たそうだ。
昭和51年、北軍は10数年ぶりに優勝した。このときのパネルのデコレーションはベルばらのオスカルだった。
昭和52年、万年最下位の南軍がひさびさに最下位を脱出した。
昭和52年より、各分団の人数格差を是正するため、生徒総会で長沢地区が東軍になることが決定。これにより東軍は最強分団になった。
球技大会
二年を制すもの浜高を制す
高校3年になるとだんだん体力が衰えてくる。だいたい2年がピークなのだ。浜高は2年生が元気だ。校内球技大会で優勝するためには2年生をやっつけないとだめということわざなのだ。
予選会
浜高では2月に卒業生を送る会が開かれる。選抜されたクラスが出し物を競う。
曽根崎心中
昭和49年の2年生の理数科が予選会で披露した出し物。かなり本格的で大評判だった。
ベンハー
昭和51年の2年4組が予選会で披露した本格大スペクタクル活劇。戦車はリアカーを利用。馬の役をした人は外で一生懸命リアカーを引く練習をしていた。これが私がみた予選会の出し物の中での最高傑作だと思っている。
エマニエル夫人
昭和50年の1年生の理数科が予選会で披露した名画スポットで評判だった一場面。Kくんがふんしたちょっと太めのエマニエル夫人は大評判だった。
怪傑ゾロ
昭和50年の1年生の理数科が予選会で披露した名画スポットで評判だった一場面。今は亡きDくんの雄姿が忘れられない。とにかくかっこよかった。
かぐや姫
昭和51年の2年6組が予選会で披露した名作劇。かぐや姫役のNくんが評判を呼んだ。
部活
<歴史部>
歴史部の石見銀山の研究
私がいたころ石見銀山を歴史部がかなり一生懸命研究し評判だった。
<生物部>
生物部のショウジョウバエの遺伝の研究
私がいたころ生物部がショウジョウバエを研究していてかなりの実績をあげていた。ショウジョウバエをバナナでたくさん育てていた。目の色が赤だの黄色だのとおもしろそうだった。
<地学部>
ナポレオン
当時の地学部(後の天文部)はまず入部したとき星の名前より先にトランプのナポレオンのルールを覚えなければならなかった。”ナポレオンのルールを知らずして地学部員にあらず”新入部員はなんのためらいもなくがんばってルールを覚えたのであった。
警察に行きましょう!事件
昭和51年卒の地学部のKさんがおこした事件。当時天体観測のために、部員が、夜学校にいたときに、学校の近所から女性の悲鳴をが聞こえた。正義感が強く勇敢なKさんは、誰よりも一番に現場にかけつけた。女性が男性と、もみ合っているところだった。Kさんは女性を危険から救うべく、男性の説得をこころみた。そして男性の両手をにぎり、いっしょうけんめい「警察に行きましょう!」と自首をすすめたのだった。ところがよくよく話をきいてみるとその男女は夫婦で単なる夫婦喧嘩だったのだ。
この事件は、Kさんが卒業されても、地学部史にのこる楽しいエピソードとして長く後輩に語り継がれた。
アンドロイド
地学部の部員が恐ろしくおばかなドジを踏むと、このように言われる。アンドロイドは1世から5世まではなんとなく記憶しているが、そのあとは一体何世まであるのか。私の知るところではない。
地学部の日誌
昭和50年前後、地学部にはおもしろキャラの人物が沢山所属しており、それが克明につづられているのが日誌である。昭和51年ごろの地学部の日誌のひとつを現在わたしは保管しているのだ。将来、スキャナーで読み取りDVDに保存しておくほどの宝物だと自負している。
<剣道部>
剣道場
剣道場はもともと演劇場のようなつくり。浜田一中は、ここを借りて何か催しものをしたり、練習をしたりした。りーみんぐほーる と呼ばれていたらしい。正面に舞台があり両側に板張りの、そでがあった。観客席の部分がもちろん板張りで、ここで練習をする。舞台をはさんで反対側には映写室のような個室があり、女子部員の着替える場所だった。お世辞にもこの部室は空調が良いとはいえず、電気も薄暗くて女子部員は大変だった。
M沢の「ささげ面」
昭和52年当時の剣道部のキャプテンだったM沢の必殺技。そう身長の高くなかったM沢は,両手を高くあげたまま相手の面を打つ技を身につけ,そのハンディを克服した。ちょうど,相手に賞状を手渡しているように見えるその姿勢から,「ささげ」面と呼ばれた(自ら名付けた)。決まると防具のない後頭部にまで竹刀が届き,相手のダメージは相当だった。
くい打ち面
昭和52年当時の必殺技。多数の部員が使っていた。つばぜり合いのあと離れ際に相手を押してその反動で飛んで後退しながら両腕を振り上げて全力で面を打つもの。相手との間合いがあった場合、一本決まることもあったが、ごくまれ。ほとんどの場合相手はまだ面の正面に竹刀を構えているので防がれた。ただ、防具を通してでも、その破壊力はすごく、相手に強い衝撃をあたえた。使い手の力量が問われるので、コントロールが悪い場合相手の肩や腕を直撃することもあった。防具のない肩や腕を直撃された相手は、特にひじを直撃された相手はその衝撃で試合続行が一次中断されることもあった。サッカーならば間違いなくレッドカードである。その衝撃で相手の闘争心を目覚めさせ、逆にもっと痛い一本を取られる諸刃の剣でもあった。面以外に飛んで後退しながら、胴をたたき打つ変形もある。この場合わきの下を直撃された相手は、本当に気の毒であった。
秒殺され
びょうごろされ と読む。昭和52年当時の負け方のひとつ。現在開催中の柔道で 井上選手の開始すぐの一本勝ちを秒殺(びょうさつ)と表現している新聞もあったが、こちらのびょうごろされは敗者の立場から客観的に試合を反省したもの。その後の剣道の修練に役立てるかどうかは本人次第た。条件は 「はじめ!」 「一本 やめ!」まで(有効打ヒットまで)3秒以内のもの。小手で、びょうごろされ される場合が多かったが、面でもあった。つるし柿のH崎君は 浜田商業高校との試合でびょうごろされ された。彼はほとんど面しか打たなかったので、「始め!」〜「めーん、こてありー」〜「やめ」 で礼をして控えに戻ってくるまで20秒強であった。反対に相手を秒殺(びょうさつ)する場合は、秒殺し(びょうごろし)をしたとしてその選手の栄誉をたたえた。
浜剣リーグ
昭和52年から53年ころ 剣道部の練習の終わった道場で黙々と活動をしているへんな一団がいした。彼らこそ浜剣リーグのメンバーなのだ。浜剣リーグは、この剣道場でする禁断の、無礼千万の、草野球。ベースが舞台側で、バットは木刀、ボールは汗臭い手ぬぐいをまるめて結んだもの。ピッチャーが投げて、バッターが打つのだが、投げられたボールは、ちょうど てるてる坊主 が頭から打者に向かっていくようだった。ボールは、軟式のテニスボールやピンポンボールを使ったこともあった。ルールについては記憶が定かではないが、ベースは三角ベースで、守備があまりいないため、ボールをランナーに当てればアウトになった。ここで、剣道部の名誉のために、皆がやってたのではなく、ごく一部のへんな奴らがやっていたということを言っておく。参加者が二人でも行われた。このリーグがその後受け継がれたのかどうかは不明。
浜剣リーグの女子スラッガー
昭和54年卒の剣道部の女子部員、M口さん。彼女のバッティングセンスは男子並かそれ以上だった。ソフトボールの試合などでは、彼女の専用の皮のグローブをしてバットをにぎるというすごさ。まるでプロ野球選手のようなのだ。H子が大学時代に場外ホームランで、駐車中の自動車のフロントガラスを割った逸話が残されているが、M口女子はおそらくそれ以上の破壊力をもっているだろう。
つるし柿事件
H崎君と沖○君が道場の前の柿の木の生柿を竹刀で打ち落とし、皮をむいてつるし柿を作ろうとこころみた。男子更衣室は先輩の威厳を保つことができない、汗臭いという理由で不適切と判断し、つるした場所は女子更衣室となった。翌日、事情を知らない女子部員が、更衣室に入って大パニック。ぎゃあという大絶叫。予想通り、半分しか乾いていないぐじゅぐじゅのつるしがきを触ったのだった。二人とも女子に怒られたらしいが、ごめんとあやまって、その週末もまた作り、またまた女子更衣室にぶら下げた。女子部員はあきらめて、それ以後怒らなくなった。最初に真っ暗な更衣室に入って着替えをした後輩の女子部員に、気が付かなかったのかとこっそり聞いたら、気が付いていたそうで、ひとつ下さい、といわれて二つさしあげたそうだ。おいしいつるし柿ができたので、めでたしめでたしということでこの話は終る。
ユニークな話題
百姓一揆
昭和53年卒の3年5組のアルバムに載っている一枚の写真に二人の男子生徒がほうきを振り回しているのがある。この写真には「百姓一揆」という題名がついている。ぴったりの題名に大感激した。
この題名をつけたのは当時アルバム委員だったわたくしの従弟なのだ。ふふふ彼は今日本史の研究者になっている。納得。
まねしちゃだめよ
H子は、高三の年が明けるまで、英語の問題集というのを手にしたことがなかった。さすがにこれではいくらなんでもよくないだろうと本人も自覚し、入試2ヶ月前の1月になって、問題集を買うことにした。本屋に行きもっとも薄い問題集を買ったのだ。
受験生のみなさんは絶対まねしないでくださいね。
世界史の傾向と対策問題集
H子が入試直前に購入して、2問だけして挫折し、同級生に上げたという伝説の問題集。H子は結局世界史受験であるのにもかかわらず世界史の問題集は一切しなかったのだ。H子曰く、「難しい問題をやればやるほど自信なくすよりはやらないほうが精神衛生上よい」。妙に納得させられるのがこわい。
東京で一番楽しい場所は?
昭和55年卒の秀才Yくんが「東京で一番楽しい場所」とあげ上京した友達を案内したところは一体どこなのか?クイズにしてみた。 なんと国立国会図書館だったらしい。 さすが。
浜田から近いのを理由に大学を決めた人
すっかりこのコーナーでおなじみのH子なのだが、実は先生が期待する秀才であった。東大とは言わない出来ればせめて京都大学か大阪大学ぐらいは行ってほしい、先生はそう願っておられたようだ。ところが、この人、広島大学が浜田から近いという理由で進学をきめたのだ。M子が不思議がって、「なんで広島にしたん?」と聞いたとき、「浜田から近いけえ。」と答え、開いた口がふさがらなかったと、証言している。しかもH子は昆虫の顔をルーペで観察してスケッチする授業があるという理由で医薬歯系もあっさり断念したというまるっきり根性のない人間なのだ。
H子の秘密
浜高メーリングリストでおなじみのH子が広島の大学を受験したのはは、家から近いからという理由であったのはすでに周知のことである。隣の市の江津中学出身だった彼女が浜高に入学した理由は、さすがに、お勉強が良くできて、浜高の校風に憧れているからだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。お父様が、高校1年になる少し前に、浜田に転勤になり、家から一番近いところが浜高となったのだった。彼女曰く「江津に住んでいたら江津高校に進学するに決まっているじゃん。」大の浜高ファンのH子は実はただのご近所フェチにすぎなかったのだ。 大幅に環境が変わるのが嫌いなタイプなのだ。ところが、結婚後、運命とは皮肉なもの、あれほど好きな浜田と広島にはすむことは許されなかった。旦那さんの実家は三重、住まいは東京と、彼女はいやおうなしに、大きく環境が変わる場所に次々と移るしかなかったのだ。
H子の秘密その2(近くに通いたい遺伝子)
H子はH菜ちゃんに続き、男子、女子を生み、男子は大学生しかも難関理系大学。そこに決めた理由を聞いてほんとにおどろいた。家から一番近いところにあるからなのだそうだ。なんと母親そっくりの遺伝子を持っていたのだった。H子って近いという理由だけで、高校も大学も選んだし、しかも2期で受けたY大学、もしM子が行くことに決めていたらそちらにしていたらしい。その大学も家からは近くて、しかも親友が一緒だからという理由なのだ。
それから、H子のご長男。半分はお父さんの血がまじったので、H子より、まじめに勉強するらしい。ホントに良かった。H子の旦那さんありがとうございます。
H子の秘密その3(ひとりで行動するのが苦手)
H子は浜高29期最強の才女と呼ばれているが、じつは前述のとおり、ひとりで何かするのが苦手な人だった。高校当時美しい字を書くので、生徒会の書記にスカウトしたら、M子がいっしょじゃないと嫌だとごねた。だからしかたなくM子も書記をすることになってしまった。
H子の秘密その4(いもひき)
かつてH子は肉屋で肉が買えないひとだった。その話題を持ち出すと、きちんとならんだら買うことができる店なら絶対買う自信があると豪語するが、とにかく人を押しのけて前に行くことが苦手な、浜田弁でいもひきなのだ。最近はおばさんになったので、肉屋で肉を買っていると自慢している。すごい成長ぶりである。じゃあ関西にでてきんさい、そして、本当に成長できているか見させてもらいます。さらに難易度が高くなるけえね。
H子の秘密その4(魔性のおんな)
かつてH子は各クラスに彼女の熱狂的なファンが必ず一人はいると言われていた。本人はいたって普通なのになぜか男性の目をハートに変える能力をもつ。彼女のすごいところは、もう30年以上経っているのに、美しさが少しずつ進化しているということ、昔のアイドルに会ってがっかりするという話があるが、彼女は絶対期待をうらぎらないのだ。ですから男性の皆様、再会を楽しみにふるって同窓会にご参加くださいませ。
この話題をすると
H子さん? はあ? もてたん? べつに普通だったけえ-
と言う人物がひとりいます。
社会2科目がめんどくさいというだけ理由で大学を決めた人
文科系クラスの秀才K(女子)は、やはり先生が期待する秀才であったが、難関国立大学の文科系学部は社会科が2科目あるのがめんどうくさいという理由で、社会が得意なのにもかかわらず、とりやめ、社会1科目で受験できる浜田から近い国立大学のひとつを受験した。チャレンジとかという言葉が彼女の辞書になかったのか?とても残念だった。残念ながらこの学年の女子(29期)は、能力があるのに、モチベーションが低い人が多いのが特徴なのだ。しかもそのことを後悔しているひとがだれもいないことも面白い。楽しければそれでよかったらしい。なぜかそういうひとばかりと仲がよい私。 ただわたし自身はもう少し勉強は真面目にしておけばよかったと反省はしている。
作ってください(H君のがんばり)-超番外編-
われわれの同級生H君の浜田一中時代のがんばりを象徴する言葉。当時の一中には男子と女子のトイレの間に仕切りがなく、思春期の生徒はとてもつらかった。「先輩方はみな何十年ものあいだ文句もいわずに我慢してきたのに君たちは我慢ができないのか?」という先生の言葉に、「このままでは、でるものも出ずに、病気になる」とはっきり要求し続けるH君だった。生徒会や先生との会談の場でいつも言い続けた。その後彼のおかげでトイレには仕切りができた。
人間にはこういうひたむきな姿勢が必要だ。あきらめずに主張し続けることの大切さ。いまさらながらに当時のH君に教えられる。彼とおなじ中高出身であることを誇りに思う私。
学校生活全般
汽車通
JRを利用して通学すること。都会では電車通学と呼ぶが、浜田は電化されていないので、汽車通学なのだ。しかも一時間に1本しかないので、みんな帰りの汽車を4時ばんとか5時ばんとか呼んでいた。
恥かき通り
一棟の2階部分の中央は図書館があり、廊下がなかった、図書館は通り抜けできないため、横のベランダを通るしかなかった。ここは、全学年の1組〜6組の教室からまるみえだったため、こうよばれていた。
A定食
食堂でもっとも高い食事。200円もしたのだ。
B定食
豚汁とご飯のみ。私が在学中には、これを食べている女子生徒はひとりも見かけなかった。ちなみに、食堂が始まって初めてラーメンライスを注文したのは何を隠そうこの私だと自負している。昭和52年以前にラーメンライスを注文した女性の方がいらっしゃれば連絡を。
早弁
浜高では早弁する人もかなり多かった。私の学年の理数科は、昼休みにソフトボールをするために、早弁をすると聞いたことがある。
わたしも 早弁をしたことがあるので早弁はあたりまえとおもっていたが、禁止している学校も多くあるということを最近知った。女子校などでは禁止されているようだ。なんで? 朝ごはんをきちんと食べていないと、貧血になるから、休み時間に食事しても良いのが浜高の方針だった。早弁をするのはみっともないですか?
平均点殺し
極端に、テストの点が悪すぎて、たったひとりで、クラス全体の平均点を1点以上も下げてしまえるほどの大物のこと。浜高生は比較的真面目なので、定期試験などの平均点はは、かなり高い。先生方は、クラス単位で平均点を比較されるのだが、クラスに平均点殺しが二人以上いると大変な影響力になるのだ。
ここに登場する二人のうちのひとりは、某コンビニの店長兼オーナーです。この語録の存在を最近知ったらしく、「ありゃあ わや だなあ」とコメントしたらしい。お若いみなさん、たとえ高校時代平均点殺しでもがっかりしないでくださいね。平均点殺しでも立派な社会人として生きて行けるという実例がありますから。ところで、わやとは浜田弁でめちゃくちゃという意味です。
アンバランスな大物
理科系の男子のなかには、信じられないぐらい理数科目ができるのに、文科系科目はまったくできないというアンバランスなひとがいた。物理は何でこんな問題で100点がとれるの?と、おどろくほどできるのに、国語や英語になると、中学生でも80点はとるんじゃないかと思う問題でも平均点殺しをしてしまう。M子は残念がり、何度も、「もったいない。理数の勉強に使う時間をどうしてもっと文科系科目の勉強にまわせんのか? 理数にかけるエネルギーのほんの一部でもよいから、文科系の科目にまわしたらどうなん!」と説教したらしい。しかし彼らは大物だったので、M子の説教などは聞き流し、ひたすら理数科目を勉強したと伝え聞く。
背番号
テストの点があまりに悪いためにみんな当時のプロ野球選手の背番号で自分の点を言い合った。私は3年の1学期の進研模試の日本史で”巨人の小林(19)”をとってしまった。こんな悲惨な点を取るのは私だけかと思ったら、友人Hは巨人の堀内(18)をとっていた。でも驚く亡かれMくんはヤクルトのマニエル(4)をとっていたのだ。すごい。
その後、理数科でついに物理のテストで現役時代の王(1)をとった人間がいたと伝え聞く。
その後の調べで、この模試は10点取った人は偏差値が50以上だったそうだ。
想像できないぐらい難しいテストだったということを付け加えておく。
補習
やっと夏休みが来たのに、毎日補習があった。野球の応援に行く人は補習を休んでよかったので、わたしはいつも応援に行っていた。受験は見事失敗!補習をもっと真面目に受けていれば、私の人生はもっと違っていたと後悔したことは一度もない。
おほほ。
ダブルヘッダー
出張で、お出かけになる先生がいらっしゃるときは、とうぜん授業変更が行われる。数学が2時間あるときは、つらかった。私は経験がないが、クラスによってはトリプルもあったとか。
浜高の4年生(あれ?)事件。
普通は、高校は3年で終わる。しかし浜高には、大学受験のリターンマッチにかける生徒のために補習科があった。補習科に通うSさんは、映画館で「浜高4年生のSさん」と言われて呼び出されたと伝え聞く。映画館側は補習科のSさんと呼ぶのは、悪いと思ったみたいだ。
ホワイトハウス
浜高の補習科のある白い建物は同窓会館で、ホワイトハウスと呼ばれている。それでいつしか補習科のことをホワイトハウスと呼ぶようになったと伝え聞く。
江木の赤天
江木蒲鉾店が誇るスパイシー薩摩揚げ。これをみんな学校のそばのM商店でいつも食べていた。
名糖ヨーロッパクランチ
これもM商店に売っていた。棒アイスの最高傑作(これわたしだけ?)と言われている。
二つのM商店
学校のすぐそばにイニシャルがどちらもMで始まるお店が二つあった。浜高生はそれぞれごひいきのお店があり、通い詰めていた。
まぼろしの、はんぺんフライ
江木かまぼこ店が赤天とともにつくってたはんぺんのなかに野菜炒めの具が入っていたフライ。当時35円だった。作るのに手間がかかるということで、その後販売されなくなってしまった。M商店で売っていた伝説の逸品。
サンショップ
M商店のとなりにあったファーストフードのお店。ハンバーガーがおいしくて、浜高生がよく出入りしていたお店。
クボタ牛乳
浜高の小ホールに出入りしていた牛乳屋さん。コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、サワー、ヨーグルト、プリンとバリエイション豊富だった。
小ホールのおばちゃん
さすが浜高!売店にいたおばちゃんも、そこいらへんのおばさんとは違って賢夫人タイプ。親切だけど無愛想だとみんなが言っていた。
このコメントを見た後輩が、このおばちゃんについて「鉄火肌だがハートが熱い」のほうがふさわしいとコメントしてくれた。うーん納得。
ニューデート
浜高の近くにあったスパゲッティーの美味しい喫茶店。残念なことに昨年(1998年)閉店したと聞いております。さみしいですね。
本田商店
浜田駅の駅前にあった大判焼とかき氷のお店。浜高生のオアシス。
岡本
朝日町にあったやはり大判焼きとかき氷のお店。
松本パン
同じく浜高の小ホールに出入りしていたパン屋さん。浜高生の胃袋を満たしてくれました。
浜高生に以前アンケートとったとき、1位がドッグパン(ソーセージ入りカレーパン)2位まいとるパン(渦巻きになっているパン)だった。いつもにっこりの黒ぶちのめがねのやせたおじさんが印象的。
一番街
浜田駅のそばの大きなスーパー。入り口を入ったところの床に浜高生がカバンを置いて買い物をするのだ。なんとのどかなこと。
オアシス
我々昭和53年卒のたまり場は、学校の裏門の前のN 美の家。男女を問わず暇があったら彼女の家に入り浸っていた。彼女のお母様がとても楽しい方だったのでみんな甘えて、たむろした。N 美が留守でも平気で上がり込むのだ。H子と私などは、家に帰ったらまにあわなくて見れなくなるテレビ番組を彼女の家でよく見させていただいた。結局そのまま夕飯までごちそうになったりした。ほんとにずうずうしい。同窓会があるときは彼女のお母様にも来て欲しいとみんな言っている。
ラーメン横町
浜田駅の近くにあったラーメン屋さん。私も学校の帰りのよく行った。学生ラーメンが230円だった。我々にとっては500円の横町ラーメンはあこがれだった。主人が”学校帰りによるなんて全く不良娘だ”とあきれているが、”その不良娘の旦那はあなただよ。”と言いたい。別に家に帰るのがいやだったわけでもなんでもないのだ。
亀チャリ
平成の言葉である。自転車通学の許可のステッカーは校章の6角亀のシール。これを貼った自転車のこと。なんとうまく言ったことか。
亀ジャー
これもごく最近の言葉。
校章の6角亀の入ったジャージのこと。みょうなダサさが人気だった。いまは新しい格好のよいジャージにかわったため、かなり貴重になった。手放す人はいないと伝え聞く。
廃れてしまった雪の日の行事
H子のにいちゃんねえちゃんがいたときまで、雪が降ると、有志があつまって屋上で大きな雪玉をつくって1号館と2号館の間に落とすという行事があったという。はっきり言ってなんの意味もない行事。まったく雪が降らなかった年があったため、完全に廃れてしまったという。おそらく復活することはないであろう。
寝押し
おそらく今の女子高生には死語になっているだろう。浜高の制服のスカートは丈も長くひだが細かい。みんな寝るときに布団の下にスカートを敷いて寝押しをしたんですよ。
下敷き
夏はセーラー服は暑い。それで、上着の下から下敷きをうちわ代わりに使って風を送っていたのだ。女子には大事なアイテムのひとつなのだ。
世界史のサブノート
2年生になると、授業の進度とはまったく関係なく、2年の間に世界史のサブノートの作成を義務付けられた。一度に教科書数章の範囲を大学ノートにまとめて提出しなければならない。この過酷な宿題、夏休みや冬休み春休みに浜高生を苦しめていた。
1キロ走と2キロ走
これも浜高生を苦しめたものの一つ。月に一度体育の時間にトラックを男子は2キロ、女子は1キロを走らされ、タイムをはかる。男子は一定のタイムをクリアできないと何度も走らされたようだ。ほんとに気の毒。
はりまや食堂
浜高のそばにある食堂。われわれよりずっと年上の先輩はよく利用されたようだが、われわれのときは、いつも先生がそのお店にいらっしゃるので、入ることはできなかった。いまでも家庭的なメニューと良心的な値段で、営業されている。
1年6組の日誌
昭和49年度の1年6組の日誌が、馬鹿みたいに面白かった。このクラスは、つわものぞろいだった。H子も当然そのひとり。いまどうなっているのかまったく不明なのだ。だれかもっていませんか?
スカート丈と制服の着こなし
ファッションは変遷する。昭和40年代前半は上着丈長め、スカート丈ひざ下。昭和40年代は、スカート丈ひざ上。そして徐々に長めになっていく。しかも、足首を細く見せるために、ソックスをまるめて、くるぶしを見せるのが流行る。昭和50年代前半は、スカート丈ひざ下、上着丈短め、そして、アイビーソックスをはいている人もでてきた。ひじを上げたときにチラッとみえるTシャツの色に気を配る女子生徒もいたりする。その後どんどん短くなってい気。ルーズソックスというものに行き着いた。今はどんなファッションなんだろうか?
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