ライカ病は伝染しますよの部屋
感染するライカ菌:はじめて手に入れたライカはⅢ型である。その後minolta35Ⅱも貰ったが、特に発病しなかった。
ところがこの2台とM4Pを交換してから、急におかしくなった。学生時代に先輩達が持っていたM2、M3、M4を見せびらかせていた記憶が蘇ってきた。
実はこの時すでにM型菌に感染していたのであろうが、当時はニコン菌などの威力が強く、発症しなかったのであろう。
しかし、一度M型菌に感染すると、それまで発病しなかったL型菌でも発症してしまうから不思議である。ついには偽ライカ菌でも発症してしまう。

Ⅲc段付モーター ライカⅢc/ズミタール50mmF2:このⅢCは、いわゆる段付で、1943~1946年に製造されました。
no.393392ですが394968が、アメリカで大型フラッシュ用のシンクロ接点が追加されていました。1844年は戦火が激しくライカは製造されていません。 1945年3月15日に米軍がライカを接収します。(ドイツの降伏は5月8日)そして、ドイツ潜水艦の発電機を持ってきて、生産開始となります。 このときの番号は392601からで、シャッター速度がドイツ式のZからアメリカ式のBに変更され、この年に約3,000台されたといいます。
そのほとんどがアメリカに輸出され、当時アメリカではやっていた、フラッシュ撮影の影響をうけ、シンクロ接点の追加改造されたものも少なくありません。 私の知る限りでの3タイプあります。ジェームスラガー氏は397214まで1945年に製造された、といっています。つまり、私のⅢcは1945年に製造され、 アメリカに輸出されたか、アメリカ兵によってもちかえられたかで、アメリカで改造されたのに、ほぼ間違いないと推定できます。
ただし、改造したのがニューヨークライツかどうかは定かではありませんが。
レンズのズミタールは1951年製ですが、ややくもりがあり、開放での切れは良くありませんが、F5.6以上に絞るとくもり部分がなくなるので綺麗です。

謎のMOOLY-C これにはモーターがついていますが、これがまた謎のMOOLY-Cなのです。3504の番号がついていますが、中川一夫氏の著書「ライカの歴史」でも、英国HOVE BOOKS社の「ライカポケットブック」を見てもⅢc用は5000番以降となっています。
しかし、ポール・ヘンリー・ヴァン・ハスブルック氏の「ライカ図鑑」には3524のⅢc用のクロームが,、中村信一氏の「ライカのアクセサリー」には3525が載っています。MOOLYは初期のものは番号が3桁となっており後期Ⅲb用は3488番までは確認できています。
3000番台のMOOLY-Cは、もし中川氏やライカブックが正しいとするなら、Ⅲb用に造られたものをⅢc用に改造したのか、戦中の混乱期にありあわせのⅢb用の部品で作ったかではないか思われます。
私のものには、Ⅲb用サイズの本体にケースが合わせられるように、半月形のアダプタ?が付いています。
ライカの系譜

LEICAⅢ エルマー50mmF3.5Ⅲ型:1933年から1939年まで製造された。Ⅱ型にスローシャッターとストラップの取り付け金具を追加した。
この個体は、1934年に製造されたもののうちの1台。ブラック、クローム、ブラッククロームの3種類あるが、これはブラックで、 ニッケルエルマー50mmF3.5がついている。これは、私に友人が京都の骨董市?で入手し、縁あって私が所有していたが、 一時友人の元に帰っていたのが、再び戻ってきたもの。これが、私がはじめて手にしたライカだった。
シャッターリングが紛失していたが、なんと偽ライカ「上海58-Ⅱ」のものがピッタリ合うではないか。さすがライカは世界の標準機だ。 「上海58-Ⅱ」にはストラップの取り付け金具がないがⅢ型またはⅢbのコピーと思われる。シャッターは1/1000秒まである。
かつて「ライカ1台で家1軒買える」という伝説があったが、そのライカがⅢ型で、1934年に、このカメラが580円。 ざるそばが10銭、巡査の初任給が45円の頃である。

ビゾフレックスⅢ ビゾフレックスⅢ型:究極のマニアが欲しがる、イケナイ組み合わせ。何もM型ライカを使いにくい一眼レフにするアダプタまでつけて使うことは無い。 しかもヘクトールのヘッドをはずし、 アダプタを計3個もつけての撮影で、しかも絞り解放でピントをあわせた後、絞り込んでの撮影、とても手間がかかる。ニコンで撮れば問題なく撮れるのに。 でも「その面倒さがまたいい」と言ったら、何をか言わんやである。健全な人は決してまねをしないように。
ライカ遊び


ビゾフレックスとMRメータ ヘクトール135mmF4,5で撮影 この写真はヘクール135mmにビゾ用アダプタをつけて撮影

ライカM4P ライカM4P:1967年に、M3とM2の良いところを併せ、巻き戻しクランクを追加したM4が発売され、1978年にセルフターマーが省略されたM4-2がカナダで再生産された。
ライカM4Pは、1981年にM4-2に28mm用のフレームを追加して発売され、のちのM6の原型ともなった。 クリップオンで、ライカMRメーターも装着できる。
ブラッククロ-ムが主だが、少数ながら白ボディも存在する。 中古市場ではM4に比べて安いが、28mmのフレームがある分使い勝手は良い。
私は友人から譲り受けたが、これがライカ病を悪化させる原因にもなった。 M6を入手してからは、出番が減っている。

M6 この純正のケースはなかなかいい。M7やM6TTL用だがM6にもぴったり。手のあたる部分がふくらんでいて滑りにくくなっているが、レモン社のグリップケースに学んでつくられた感がある。

ライカの時計

ゾルゲとカメラ

中国製カメラたち

ライカマウントのレンズたち


GXR A12 リコーGXR A12:ライカではないが、APS-CでライカMマウントが装着できるので買った。CCDをSONY製を採用していたので、タイ洪水の影響をうけて入荷が5ヶ月待ちになってしまった。 ライカM8 M9、エプソンRD1xGなどに比べて安いのが魅力。
ニコンD200より広角レンズが使えるのが嬉しい。
SONY α7 SONY α7:35mmフルサイズCCD、ライカMマウントに変換して12mm、15mmも使える。
SONYのロゴをLeicaのシールで隠してあるが、 SONYには、元minoltaのスタッフが入っておりminoltaがLeicaと技術提携していた事もあり、実質LEITZsonyと言っても良いカメラ。 リコーGXR A12とは異母兄弟?
フルサイズ(24x36mm) 2,430万画素 (2016年)

標準レンズ再発見

知らない間に増えてゆくレンズ ズマリット50mmmF1,5で撮影 これまでほとんど使うことの無かった標準レンズ、ところがズマリット50mmを貰ったのを機会に、撮ってみるとこれがなかなか良い。
絞り解放で撮ったがボケが綺麗で、すっかりはまってしまった。 それでズミクロン50mmも出して、使ってみると最短が70cmで結構アップが撮れる。入社以来、ムービー取材でワイドとアップしか使わなかった。
おかげで、目が28~35mmになっていたいたみたいで、学生時代のように標準レンズが使えなくて困っていたが。 しかし、報道技術に転向して現場に出ることが少なくなったこともあり、目に標準の感覚が戻ってきた。50歳もすぎ、やっと年齢並のレンズが使えるようになってすこしうれしい。

携帯ストラップ

写真の歴史 

1500年以前 レオナルドダビンチのノートにカメラオブスキュラの記載

1939年 フランス人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプを発明

1840/1841年(天保11/12年) 上野俊之丞が島津斉彬を撮影

1889年 イギリスのウイリアム・フリーズ・グリーンが映画を発明

1913年 ドイツ人のオスカーバルナックが、35mm映画フィルムを使用したスチールカメラ、Urライカを発明

1915年(大正4年) 東京美術学校(芸大)に写真科が設立されるが、大正15年に東京高等工芸学校(千葉大工学部)に移管された。

1925年 ライカA型発売

1936年 日本では、キャノンがニコンからレンズの供給をうけてハンザキャノンを製作「潜水艦ハ伊号カメラはクァンオン」というコピーで売り出した。 レオタックス、ニッカ、タワーなどの偽ライカが氾濫。海外でもゾルキー、フェド、キエフ、カードンなどの偽ライカが増殖。

1948年 ニコンが軍需産業から、民需に転換しニコンⅠを発売

1954年 ライカがM3を発表すると、世界に衝撃が走った。 日本では、ニコンS2発売。35mmがカメラの主流になるが、他のメーカーでは、ライカタイプの物まねではやっていけない事を悟り、一眼レフの開発がはじまる。

1959年 ニコンFが発売され一眼レフが世界の主流になる。その後、ライカタイプに見切りをつけたミノルタなどが続々一眼レフを発売。 ミノルタSR-2、ペンタクスAP、ペトリV6、ミランダセンソレックス、トプコンREスーパーなど   

1961年 国産ライカタイプの最終型となるキャノン7が発売。しかし、それは一眼レフの開発におくれをとった、キャノンの長い苦悩のはじまりでもあり、 同時にライカの斜陽のはじまりでもあった。

日本写真史外伝

我が母校 東京工芸大学 上野俊之丞の息子が上野彦馬。幕末の獅子、坂本竜馬を撮ったことでも知られる、日本で最初の写真館をひらいた写真師である。
その彦馬と同時期に写真を習ったなかに黒田藩士、古川俊平がいた。 俊平は黒田藩士であったため、写真館開業がおくれ、歴史上の日本最初のカメラマンの名前に残っていないが、後に福岡で写真館を開業する。
ところで、俊平の長男は医者になった為、妹タキが跡を継いだが子供がいなかったので、長男・俊の二男・成俊が古川写真館の養子となる。
「古川成俊」は1919年(大正8年)当時はあった東京芸大の写真科に入学、オリエンタル写真学校の講師をへて、東京写真大学[現在の東京工芸大学]の教授となり、 人物写真を教えることになる。写真技術科第1研究室であるが、ここに小生が在籍していた。
つまり小生は、日本最初の写真家のひ孫弟子にあたる訳である。
しかし、RCCに入社する羽目になり、写真屋から活動屋に落ちぶれ、昭和54年からはENG時代とともに、電気屋の仲間入り、平成に入る頃には無線屋になってしまっていた。先生ごめんなさい。 最近は心を入れ替えしっかり、ライカ史、ニコン史の研究に励んでいますので許してください。

東京写真大学のネガカバー 写真教育の必要を感じていた薬種問屋小西屋の六代目杉浦六右衛門の遺志を次いだ、7代目が
大正12年 「小西写真専門学校」を創立。
大正15年 「東京写真専門学校」と改称
昭和19年 「東京写真工業専門学校」と改称
昭和25年 「東京写真短期大学」を設立
昭和41年 「東京写真大学」として工学部を設立
昭和52年 「東京工芸大学」と改称
平成6年 芸術学部を開設
平成9年 短期大学部を廃止

写大ギャラリー 「写大ギャラリー」は1975年に現在の場所に開設されたが、1970年にその前身がつくられ、その第1回展示会に小生ら、学生の写真が展示された。
島根県立博物館に森山大道の写真展に展示されている写真の多くが、東京工芸大の「写大ギャラリー」の所有しているものだった。
残念ながら小生の作品 「消失」は返還されたので、ここには保存されていない。

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