川崎ベルKH4 昭和46年撮影 47年豪雨取材
昭和47年7月、三次市などで堤防が決壊し大きな被害が出た。RCCは現地からの生中継を行い他社を圧倒した。
でも事の初めはちょっとしたことからはじまった。
11日の朝、私は宿直明けだったが、モーニングジャンボのキャスター役だった玉木記者(後の監査役)と朝ニュース放送後、「庄原の民家で土砂崩れ」の取材すべく、タクシーで県北に向かった。
吉田あたりから道路に水があふれ、タクシーのボディーぎりぎりまで水に浸かりながら、やっとの思いで三次に到着しビックリした。
三次市内は屋根の下までに浸かり、馬洗川近くの養豚場では、家の屋根に住民が上り救助を求め、豚が流されていた。とりあえずカメラを回し、タクシーでフィルムを本社に送る。
NHKは支局も水に浸かり、NHKカメラマンは、上半身まで水に浸かり市内の取材をしていたが、私はとてもそこまではできなかった。

B&H70DR この当時の取材の中心は16mmカメラ。
撮影した後、本社にフィルムを送って現像しないと放送できない。
伝送は白黒ポラロイド写真の写真電送しかなく、支局からの16mmフィルムは通常はJRの車掌にお願いして広島駅まで運んでもらっていた。
どんなに急いでもタクシーで54号線を走って送るので1時間はかかってしまう。
RCC三次支局は幸い浸水を免れたが、支局長は「身内の葬儀のため、取材できない」ということで、2人はその晩は支局で仮眠することになった。
夕方までに、応援の報道クルーとラジオ送信所の保守を兼ねて技術要員が到着。
その夜、私は翌朝の取材に備え早めに寝る事になったのだが、夜半ものすごい雨、まさに「バケツをひっくり返すとはこの事か」と思ったが、黙って寝るしか仕事がない。
三次市役所で取材していたクルーからは、「取材用のジープが流され孤立した」といってきた。そのうち加入電話も交換機が浸かって不通になり我々も孤立。
じっと朝を待つことになる。
技術要員の頑張りで、ラジオの連絡回線が使えることがわかり、これを使ってラジオの生中継がはじまった。
  三次市内の状況を伝えるのは、RCCラジオだけであった。
この時、RCCのアマチュア無線クラブ員らが短波で被災地と交信し、情報をラジオに流した。

報道ポラのスタンダード 私は、12日早朝、白黒ポラロイドで被災状況を撮影したが、間もなく雨雲を縫ってRCCヘリ(KH4)が飛んできた。
長松カメラマンが登山ザイルを背負ってやってきて、「交代するから帰れ」という。
結局、取材らしい取材をしないうちに帰ることになった。
帰路も、山側は雨雲に覆われているので、川沿いに下った。(この時の小早川パイロットは、後に琵琶湖に墜落して死亡している。)
  社に帰ると「三次のことを知っているものはお前しかいない。
TVとラジオに生出演しろ」といわれ、若干21歳の掛けだしカメラマンが、激戦地からかえった英雄のような扱いとなった。
ラジオで「流された豚がかわいそうだった」としゃべった言葉は、随分長い間仲間から冷やかしの材料になった。
これらの活躍に触発され?夏の一時金闘争も凍結し、当時としては珍しい三段中継で全国ネット生中継となった。
生カメ担当は、三次在住の火原佐制作技術カメラマン。
三脚に載せて使うのが常識だった当時の生カメを、肩にかつでドリーするという大活躍だった。
当時、他社はヘリを持っておらず、また三次市中心部に支局をもっていたNHK、HTVは被災して、取材拠点を失なっていたこともあり、RCCが他社を圧倒する事になったのではないか思うが、運にも恵まれていたような気がする。
この頃のヘリは空撮するというより、早い移動手段だった。
とにかく田んぼのあぜ道や防波堤などどこでもおりた。刈り取りを済ませた田圃に着陸してハゼを倒してしかられたり、防波堤に着陸して、機体についた潮水を洗い流すハメになったり、などは良くある話だった。
もっとも向かい風を受けると、下を走っている車のほうが早い、ということもあった。

某専務が取材ヘリでゴルフにいって組合問題になったり、某カメラマンが、カメラの電源コードを忘れて取材に行き、ヘリで届けさせたなどいう話もあった。

ヘリの部屋へ

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