社会的病理と社会システムの相互規定関係

このシリーズが始まったきっかけは、僕が喘息発作で入院していた時に書いた文章です。

もともと「経済学研究室」を書き始めた最大のきっかけは、「TVや新聞のいいかげんで何もわかっていない報道を見ていてイライラ」し、「この程度なら俺のほうがいい解説が書ける」と思ったことなんで、そういう意味では自分の「思い」が一番入っているシリーズかもしれません。(事実、「教育」シリーズに次いで、感想メールがよく来ました)


目次

  1. 社会に対応できない!!
  2. 社会システムへの信頼
  3. 社会的引きこもり

「経済学研究室ライブラリ」表紙に戻る
「ゆうくんのページ」表紙に戻る


社会に対応できない!!

☆★また入院してしまいました★☆
どうも、ゆうくんです(^^;)。しばらくどたばたとしている内に、体調を崩してしまいました。今回は喘息の発作(持病)で病院に行ったら「緊急入院」になり、2月8日からずっと・・・(涙)。

なぜ警察病院なのかというと、単に最初に行った京大病院(近所)がベッドが埋まっていたから転送されただけです。別に悪いことをして(謎)つかまるときに抵抗して怪我をしたわけではありません(苦笑)

すでに一番大変な時期は乗り越え、病院内ではそれなりに元気(散歩も出来る)なのですが、毎日2本の(ステロイド剤)点滴を行ってる段階ですので、これを書いている2月15日段階ではいつ退院できるか不明です(困)。僕自身はこの文体のようなお気楽な性格ですから、それなりに楽しくはやっているのですが、他の人にかけた迷惑を考えると・・・(^^;)


・・・・・・閑話休題。

緊急入院で特に何も本を持って来ていないので、テレビばっかり見ていたんですが、最近は見てるだけで「イヤ〜な気分」になるニュースが多いですね。

京都市(地元というには少し離れているのですが)の酒鬼薔薇事件の(出来の悪い)コピーとも言える小学生殺傷事件や、新潟県の監禁事件、少し前ではストーカー殺人犯が(自分は好き放題嫌がらせした癖に)逃げ回って自殺という事件もありました。

今回はこのことに対しての自分なりの理解を述べてみます。内容的には創刊特集の「教育」と各種リライト版の続編ぐらいの位置付けです。

つい筆(キーボード?)がすべって分量が増えてしまっています(いつもすみません)。一応、塗りつぶされた三角形(▼▼)内だけ読めば話が通じるようになってます。白抜き三角形(▽▽)内は枝葉の議論です。

社会心理学と社会学と経済学がゴチャゴチャになったような、いかにも読みにくい「経済学研究室」らしい文章ですが、最後までお付き合いください。

読みにくさを抑えるために先にキーワードをあげておくと、「自己承認」です。

▼社会と適切な距離感で向き合えない▼

一まとめにするのには問題があるかもしれませんが、さまざまな問題を巻き起こす「彼ら(女性がこのような事件を起こすことは少ないんですよね)」の特質を一言であげると表題のとおりになることに、ほとんどの人は疑問はないと思います。

「社会」という言葉の意味を具体的にしてゆくことが次に必要な作業になるわけですが、コレもまた一言で言ってしまうと「拒否・拒絶される可能性のある世界」「完全に理解することは不可能な相手の存在する世界」ということになります。

ぶっちゃけた言い方をすれば「生きてゆく途中ではわがままが通らないことがあるよ」ということなんですが、この状態に対処できないわけです。

▼驚くべきストレス耐性の低さ▼

周囲の環境が自分の思い通りにならない時、誰でもストレスを感じます。このストレス状況に対して、人間はあるときには打開を試み、あるときには我慢することを覚えます。

(「刺激→反応」型図式に当てはめると心理学系の方は顔をしかめるかもしれませんが、ここは方便と思ってやさしく見逃してください)

ストレスにはさまざまな種類がありますが、ここで問題にするのは社会的・人間関係的ストレスです。

周囲にいる人間は、自分からは外部にあり、しかも自分の意志で行動していますので、当然簡単には自分の都合どおりにならず、多くの場合にストレス発生源になります。また、学校の成績・企業の業績など、自分の努力だけでなく他の社会構成員の行動結果の集積として出てくるようなものも、自分ではどうしようもないのでストレス要因です。

普通に社会生活を送っている人の場合、これらのストレスに対しては「他の人と喧嘩」「仲直り」「挫折」「努力」したりしながら、要するに「世間に揉まれながら」、徐々に耐性をつけて人間的に成長して乗り越えてゆくものです。

問題は、これらストレス要因に対して、「彼ら」はあまりにも耐性が無さ過ぎる(た)ことです。このことが異常行動への第一歩になったわけです。

多くの人が内心感じているように、「彼ら」の問題は今日本社会で起こっている「少しマズイ変化」が象徴的に現れたものに過ぎません。個人的には、「学級崩壊」や若者の就職先での定着率の低下問題(これほど厳しい就職環境にも関わらず、3年以内で約3分の1が辞めてしまいます)等と同根の問題だと思います。

通常の場合、学校・仕事場などのフォーマルな組織が主である社会の中でストレスを感じ、失敗をしつつも成長しながら生活してゆけるはずが、そういった場(学校の場合は家庭や地域社会・仕事場の場合は学校)で成長しつつ生活し始められるだけの「最低ラインの社会化(Minimum Socialization)」ができていない状態で社会内に入ったということです。

▽「個性」教育のワナ(余談1)▽

この「最低ラインの社会化」(要するに「しつけ」)の問題を完全に議論するのは僕の能力を超えますので、一点だけ指摘しておくことにします。

「彼ら」を生み出すにあたって、社会(およびその代表執行者としての教育機関・マスメディア)が犯した最大のミスがあります。目指す方向性についてのしっかりとした社会的コンセンサス(同意)の無い状態で、「個性」を最大限に吹聴したことです。

端的に言えば、「他の人ができることをできないことも個性」「他の人は別の人だから、自分とは感性が違って当然」と居直り、他の人との共感性を伸ばす努力を怠ったり、自分に対するストレスから逃げ出すことを正当化する理論武装を与えたことです。というよりは、この程度の居直りに対して言い返せない程度の理論武装しかせずに、「個性」という「劇薬」に手を出したことが問題なのです。

わざと極端な例で示します。足の速い陸上選手はそれだけでは「個性的なサッカー選手」ではありません。「サッカー」という競技の選手として最低限の能力(ドリブル・トラップ・パス・シュート等)があり、しかも自分の能力がチームの目標と合致する形で使われることで初めて彼の足の速さが生きてきます。

社会内の「個性」も同様です。すなわち、「社会(組織)で他者と最低限のコミュニケーションが取れ、一員としての居場所が無いレベルでは、個性うんぬんを言う段階ではない」のです。経済社会学的に言えば、社会の分業構造内に組み込まれていない人間の労働(=行動の結果)は、無価値(=「個性」として評価以前の問題)なのです。

仕事の例で示しましたが、仲のいい仲間内の会話でも同様です。他の人とコミュニケートし、何らかの共同行動が取れると言う前提での個性です。この部分を無視した個性は「わがまま」です。

▽「社会的自立」が(社会的意味での)教育のゴール(余談2)▽

社会的(統治的)な観点からは、未成熟な人間に対して社会が果たすべき目標は、何らかの形で社会で生きてゆけるように社会化することです。言い換えれば、自力で生活の糧を入手できるように、社会内の分業体制内で何らかの形で社会に有益な労働を行えるようにする(「手に職」をつける)ことです。

(注)社会的フィクションとしての個性
当然、「職」の種類はさまざまですし、社会内での希少性・有用性によって「職」の経済的価値も変化します。工場のラインでの作業のように、「個性」を求められない職場も存在します。社会が個人に対してむやみに「個性」を求める必要は無いのです。フツーの人が求められる場所はいくらでもあるのです。

もちろん、「職」で個性が発揮できない人でも、プライベートで個性を発揮すればいいので、「自分らしさ」を持とうとすることは大切ですが。

社会はどのような「職」を選択した人でも自己承認を得られるように、職業選択の自由と職の貴賎が無いと言う一種の「タテマエ」を信じることを人々に求めます。)

そして、自分で生き方を選ぶ事を求め、積極的にサポートするような価値観を社会が持つように育むことが必要です。単に「協調性」を強調して、「体制に従順な大衆」を生み出す愚は避けなければいけないのです。

▼自己承認能力▼

ストレスに立ち向かい、社会内でのさまざまな葛藤に立ち向かうのは大変です。この困難な状況下で勇気を出してストレスに立ち向かって自己決定を行うために、有名な二つの外的な動機付けが必要です。父性原理と母性原理です。

父性によって人は(時には強引に)社会的困難に対して向かってゆき、母性によって、社会的失敗に対して回復(もしくは回復の保証)をします。アメとムチの関係となって子供が社会に出てゆけばいいわけです。

母性と父性と言うと大げさですが、要するに「これでいいんだ、がんばれ」と「背中をポンと押して」もらい、「自分はこれでいいんだ」と自分で自分を葛藤内(=社会)に向かわせられる能力(=自己承認能力)を人はどこかで手に入れなくてはならないのです。

母性原理と父性原理と言う言葉で説明したように、本来的には、「健全な家庭」が自己承認能力の供給機関の役割を担っているはずなのですが、家庭が大きく崩壊しているのが現状なのです。(そのため、少し変な「彼ら」が大量に社会内に存在してるのです)

自己承認能力を与えてくれる初源的な場所は家庭であることが多いのですが、社会生活を営むにつれて、社会内での生活の中から自分の自己承認供給源(ほとんどの場合は「幸せな勘違い」なんですが)を人々は見つけ出します。

それは「自分は頭がいい」「自分は美人/かわいい」等の『何らかの特性』のこともあれば、「自分が家族を養っているんだ」と言った『古きよきマイホーム物語』のこともあれば、「自分はなんてかわいそうなんだろう」と言った『悲劇のヒーロー/ヒロイン幻想』でもいいのです。要するに、ストレスを克服して社会に出てゆく機能があれば同じことです。

(・・・もちろん、「読者が楽しんでくれるはず」と言ったモノでもいいわけです^^;)

▽価値判断の依存と停止(余談3)▽

自己承認と真っ向に対立する方向での社会的な適応方法として、価値判断権限の委譲と停止があります。「自分は〜さえすればいい」「〜の言うことについてゆけばいい」というのがそれです。

依存する対象は、個人だけでなく、企業などの組織や、時代の雰囲気等も入ります。後から気が付いて呆然としないように、大勢に流される生き方をしない様にしましょう(笑)

▼恋愛とコントロール感▼

後の議論で用いる、重要な二つの自己承認パターンを書いておきます。

「恋愛」および「恋愛幻想」は最大級かつオールマイティ(時には麻薬的な)の自己承認の一つです。なぜなら、自分がどんなに多くの欠点を持っていても、「かわいい」と言ってもらえれば価値観は逆転し、自分側でストレスを克服する努力を何もしなくてもいいからです(いわば、究極の母性です)。

それに、「鼻ペチャ・ソバカス(キャンディキャンディです・・・年がばれる^^;)」な女の子が「白馬の王子」を幻想したり、「ハゲ・デブ・臭い」なオヤジが「失楽園」や「援助交際」を幻想すると言うように、社会・経済的には「需要に対応した供給」が存在していますから、社会内の全員が何も考えることなく幻想できます。

もう一つ重要な自己承認の形式は、「コントロール感」です。要するに「〜ができるから自分は強い」と感じることで自己承認を得ようとするわけです。

コントロール感自身はかなりよく見られる形態で、目標達成型である限り何の問題もないです。しかし、容易に予想できるように、他者への暴力へと向かう危険があります。

▽「癒し」(余談4)▽

「癒し」の明確な定義は知りませんが、「自己承認供給機能のうち、母性側のみを供給」すると定義しておくことにします。

最近の「癒し」ブームは、社会的な意味付け部分を持たず、純粋に精神的疲労の回復部分に徹した自己承認供給への需要が生み出されたものだと言えます。

(リラクゼーション系は、肉体の回復→精神の回復と言う迂回路を通りますが、基本的には同じ機能です。)

社会情勢が揺れ動き、価値観の大転換が進行中の現代では、自分の持つ学歴や社会的経歴と言った「獲得特性」が役に立つとは限りません。リストラがちらつくと『古きよきマイホーム幻想』も怪しいものです。

現状が芳しくないから、「とりあえず『癒し』を受けつつ状態が好転するまで耐える」というのが一般の人々の戦略なのでしょう。

▽オタク(余談5)▽

余談を重ねると、いわゆるオタクとは「社会的な特性に自己承認を求めず、仮想的世界の癒しを受けつつ生きてゆく」戦略と言えます(こういう言い方をすれば、仕事以外の所に人生の第一目的がある人はすべてオタクです)。少し寂しい気もしますが、社会的に与えられる承認の総量が限られており、しかも「一人勝ち」状態が広まりますます承認総量が減少しそうないる現実を考えると、僕自身は「ヘンな事するよりよっぽど許容可能」かなぁと一応は思っています。

しかし、「コントロール可能な仮想美少女に恋愛で自己承認してもらう」幻想を抱くのは、いくらなんでも「甘えすぎ」な気がします。もっとがんばれよ、と言いたくもなりますよねぇ(苦笑)

逆に、最近の美少年ブームは、女性が男性並に社会で苦しんでいるシグナルと見えます。女性が社会に多数進出し、ストレスを受け、社会内で適切な承認を受けれる機会が少ない現実の反映です。そのような現実に対して、男性で先に確立しているビジネス手法を適用したのでしょう。

▼暴力は管理可能な弱者へ向かう▼

自己承認の中には「禁じ手」ともいえる手段があります。すなわち、「暴力で誰かを屈服させることでコントロール感を得る」事です。

この禁じ手を「無力で無抵抗な小学生」に対して行った事件が、今回の京都の事件や神戸の酒鬼薔薇事件ではないでしょうか??

また、暴力で連れ去った「コントロール可能な幼い少女」に、恋愛を通じて自己承認してもらうタイプの行動が新潟の事件ではないでしょうか??(このタイプの人が犯罪に走る時は、ステレオタイプ的な「現実と虚構が区別できない」人はいないと自信を持って断言できます。「どうしても生身の人間相手で・・・」と言う悪魔の囁きに負けた結果だ、と思っていいでしょう。)

あたりまえのことを確認しますが、これらの犯罪は卑怯・卑劣です。

酒鬼薔薇事件の時には、犯人が出したメッセージが「自分たちが置かれた学校・社会システムが非常に限られた自己承認しか提供しておらず、非常に多くの中学生が危機に瀕している」メッセージを発した事が話題になりました。

そのメッセージ自体には普遍性と真理性が混じっていたことを僕自身否定しませんが、「でも、おまえは最後には無抵抗な弱者を殺した卑怯者だ!」という断罪を社会内コンセンサスとして定着させる努力を怠ったことが、今回の京都の事件のような「稚拙なカーボンコピー」を生んだのではないかと思えます。

▼「彼ら」が生み出されることによる短期的社会的影響▼

「彼ら」(の予備群)は社会内にかなりの数存在します。もっとも問題になると思われる短期的影響は、「社会内の基本信頼度の低下による高コスト社会化」です。派生して、「コミュニケーション能力による各人の達成能力の差の拡大」も起こるでしょう。

要するに、「見知らぬヘンな人」に危害を加えられる可能性が強まったため、そのガードの為の費用・手間を負担する必要が生まれるわけです。(セキュリティビジネスのチャンスと言う皮肉を言う余裕もないですよね)

個人レベルでは、「見知らぬ人の見極め」が今より困難になりますから、友人関係等の社会内で新しいネットワークを生み出す能力が弱まります。社会全体の活気を削ぎかねません。

(サイバーテロ・サイバーストーカーも「彼ら」の行動に含めるとすれば、社会的趨勢で見ると現在のインターネット革命の流れに冷や水を与えかねないと言えます。)

最近の社会全体の流動化の中でコミュニケーション能力の重要性は高まっていますが、社会全体のガードがあがってくる中で、「相手を見極め、適切な相手と新しいネットワークを作る能力」としてのコミュニケーション能力がヨリ重要になってきます。

コミュニケーション能力が低く、「ヘンな人」につかまる可能性が高い人は、新しいネットワークを自分から構築してゆくことが出来ず、既存の信頼できる仲間のネットワークを借りる(コネ)しかなくなるからです。

コミュニケーション能力が高い人が新しい友人(経済の場面ではビジネスチャンス)を増やし、自分の新しい可能性(=新しい自己承認の供給源の可能性)を増やし充実した生活を送ります。また、コミュニケーション能力が高い人の友人にはコミュニケーション能力が高い友人が多く、そのネットワークもフルに生かせることが多いです。

一方、「類は友を呼ぶ」的なコミュニケーション能力の低いもの同士の集まり以外のネットワークを保有していない人(「彼ら」予備群含む)の場合、新しいネットワークがどこからも広がっていきません。自分の新しい可能性を発見することも出来ず、コミュニケーション能力の高い人の成果を目の当たりにして自己承認を無くし、ズブズブと内にこもって・・・と言う暗いシナリオの可能性があります。

▼長期的視点で社会・経済がすべきこと▼

これらの事態に対して一番効果的なのは、発生源の大元である家庭の再建ですが、コレはスローガン以上のことは何も言えないので、もう少し具体的な社会・経済的方策を考えてみます。

基本的に僕が考える社会的な方向性は、過去にリライト版として発行した「開かれた多元性へ」という文章内で(現段階では)尽くされているで、バックナンバーを参考にしていただければ幸いです。

ここでは単純にエッセンスを箇条書きにすると、

  1. 社会的に許容される価値観(=自己承認供給源)の多様化
  2. 自己承認の危機に襲われる危険を減らすために、アイデンティティを複線化する
  3. さまざまな価値観に触れる機会を得られるように、学校・職場などのフォーマルな空間の時間的拘束の減少
  4. さまざまな価値観の現れる場として、地域のスポーツクラブ・趣味の集まりなどのインフォーマルな人的ネットワークを人々が持つことの奨励
  5. ネットワーク構築能力として、人々のコミュニケーション能力の発達を促す

と言うことになります。

社会・経済的に出来ることを挙げるとすると、非常に気長で遠回りなのですが、次のようになるでしょうか。

  1. 自己承認の源として、雇用はかなり重要な一面を持ちつづけるので、完全雇用政策(ケインズ政策)および労働時間短縮・ワークシェアリングの推進
  2. キャリアの試行錯誤が可能な教育システム、労働市場の育成。具体的にはワークショップなど形で教育現場と労働市場の間の亀裂を少なくする努力や、就職後の最教育・再雇用が柔軟に選べる社会保障制度の拡充
  3. 社会内で人々がネットワークを形成する為に必要な技能・資源を公共的に安く供給する。具体的には、電話等の通信費の低下、インターネット等の利用スキルのトレーニング機会の提供、公共の建物・公共の乗物の利用料の低下を促す

まぁ、「絵に描いた餅」ではあるんですが、これぐらいの社会的な「地力」が無い所に「大競争社会」がやってきたら、今以上にストレスで犯罪が増えるだけでなく、暴動が起こるんじゃないかと思います。


社会システムへの信頼

▼「社会システム」の担い手への信頼を無くしてゆく・・・▼

ロビンソンクルーソー(経済学者はこの例えが好きです)とは異なり、われわれは誰も一人で自給自足では生活していません。社会は分業の網の目で覆われています。人々は各人が社会の分業の中で何らかの役割を担う事で(妙な言い方ですが「社会の歯車」になる事で)、貨幣(収入)を手にし、数々の生活に必要な物資を購入します。

正確に言えば、われわれの経済・社会は次の4つの効果でロビンソンクルーソーより豊かな生活が可能になっています。

  1. 分業によって比較優位のある分野への各人が特化する
  2. 何人かが組織を作る事で、一人では出来ない事が可能になる
  3. 組織を作る事で、収穫逓増効果(規模の経済)が発生する
  4. 市場によって、自由に自分の分業の成果を交換できる

社会がこの4つの性質を十分発揮するためには、「各人が自分の分業部分をしっかりとこなしている」と信頼できる事が、すなわち「他人の行動が当てになる」ことが重要です。いちいち「この人(組織)は信頼できるか」と考えているとコストが高すぎ、社会内の分業を行う意義が無いからです。

その中でも特に社会全体の基本ルールを統括し、個人間のトラブルを未然に防止し、起こったトラブルをしかるべく処理する「公的サービス供給機関(今回の議論ではいわゆる『お上』だけでなく、マスコミや銀行等の公共性の高い民間部門を含みます)」への信頼は、社会生活の基盤として欠かせないはずでした。

しかし、現実はこの部分に大きなほころびが出来て久しいです。わざとシニカルに書いてみると・・・

・・・ここまで書くとかなり厭世的で自虐的ですが、それを割り引いてもいやな世の中になったものです(苦笑)

さすがに大きすぎて単純な分析では手におえませんが、皆さんの現状理解の助けになるように、少し部分的な分析と解説を書いてみる事にします。

▽トドメ代わりに続けると・・・(余談1)▽

と言う事になります(苦笑)

ここまで行くとSSF(ソーシャル・サイエンス・フィクション:空想社会科学小説)的ですが、良識のある人は「今のままでは何となくマズイのではないか?」と思っている事は間違いないでしょう。

▽職務への忠誠心(余談2)▽

少し的外れのようですが、「給料」と「仕事」のお話から始めます。日本語ではほとんど区別はしませんが、英語では'wage'と'salary'、'job'と'career'は厳密に異なります。

どのような違いかと言うと・・・


'salary'を受け取る仕事についてもう一度整理すると、

  1. 内容が不明確
  2. さまざまな知識や経験など、高い能力が求められる事が多い
  3. 成果の個人差が大きい

事が多いです。また、「どれだけ仕事をしたか」「この人の貢献度はどれぐらいか」の基準作成が難しい場合が多いです。そのため、すべての場合を包括した労働契約を事前に結ぶ事は不可能です。必然的に、彼らへの'saraly'には「職務を忠実にこなす」忠誠心に対する報酬が含まれることになります。

かなり回りくどい説明になりましたが、問題になった警察や官僚にとっての「職務」は何だったのか、と考えると「自分の属する組織の利益最大化を優先する」と言う事だったのでしょう。

この原則を守る限り、「職務階層を上がるごとに大きくなる『役得』を享受する」事、すなわち「過剰接待」「汚職」は別に問題が無かったのでしょう。

(「民間企業の人間がやって、自分たちが接待がダメな理由は無い」と言うホンネに対して、倫理的な『説教』で解決するとは思えません。株主代表訴訟などで民間側の浪費に目を光らせる形で双方が縮小する方向になってゆくのが社会の公平性の面から考えると望ましいかもしれません。もちろん、浪費が減る分、現在以上に景気は厳しくなりますが。)

組織を防衛し将来手に入るかもしれない権益を守る事は、組織の構成員全員の利益に直結します。全員が一致団結して組織防衛に走るのも、経済学的に見ればさほど変ではないのです。

組織の目的およびそこから発生する「職務」が「組織エゴ」に直結しないように、完全に無関係な外部機関による査察は重要です。

ただ、今の現状では肝心の外部機関と癒着していたり、司法も問題が多いので「打つ手あるのか??」と言う状態に近いのは事実ですが。

▼「社会」の倫理と「世間」の道徳▼

官僚や大企業の不祥事は過去にもありました。しかし、現在の事態が過去と決定的に違います。

これまでは「『個人ではいい人』(社会的に信頼できない人はそもそも公共性の高い職業に就けません)なのに、『組織の論理』に負けて人格を曲げてしまった」タイプの問題が多数を占めました。

しかし、最近では「組織業務外での不祥事も頻発している」のです。

明らかに「社会の平均的人間」の倫理レベルが下がっています。平均倫理レベルの低下の結果、が「組織エゴむきだし」の組織行動に何の疑問を持たず、何らブレーキがかからなくなっているのではないかと思えます。

僕は以前に書いた文章で、「日本人は『世間的動物』だが『社会的動物』ではない』と書きました。

この号を発行してから随分読者が増えていますので簡単に説明しておくと、『社会』をここでは「人々の集合体のなかで、想像しうる最大の集合体」と言う意味で使っています。『世間』は「顔と名前がほぼ同定できる間柄の人々の集合」と言う意味で使っています。

また、「社会全体を貫く普遍性の高い行動規律」を『倫理』と呼び、「世間の中でだけ通用するローカルな行動規律」を『道徳』と呼びました。

つまり、日本人は社会全体、すなわちいわゆる「公の場」を普段意識して生活をしていないのです。「自分の目に見える範囲、見られている範囲」でどう思われるか、どう評価されるかのみを意識して生きています。

この傾向がもたらす重要な帰結は、「公共心を持たない人間が増える」と言うことです。公園・遊園地のごみ箱や、公衆便所の使い方のマナーの悪さ、「旅の恥は掻き捨て」と言う風潮などから明瞭です。

明確な嘘をついて自分たちの不手際を認めず、組織防衛的な発言をした警察の方も、おそらく彼の『世間』である「警察組織の道徳」に忠実だっただけなのでしょう。(おそらく「警察組織の道徳」は「弱みを見せて外部の人間にナメラレルナ」的な時代錯誤的なものだったのかな??と思います。)

日本人は昔から「世間の論理=道徳」に従って来ました。「なぜ今問題になるのか?」と疑問に思う方がいるかもしれません。昔は地域の共同体がしっかりおり、今より各人の「世間」も今よりは広く、顔ぶれにもバラエティーがありました。そのため、各人が持つ「道徳」にも特殊グループの「集団エゴ」むきだしの行動原理はあまり残りませんでした。また、各人の微妙に異なる「世間」が重なりながら社会全体を覆う事で、「普遍性がそれなりに高い擬似的な『倫理』」といえる行動原理になっていたのです。

それが、産業の近代化と住環境の都市化/郊外化によって各人の『世間』の範囲がどんどんと狭くなっていきました。仕事(学校)の拘束時間が長く、仕事場以外の「出会いの場所」に出向く時間が少なくなります。その結果、出会う人間が(職場内の人が多いために)同質的になり、かなり偏った『世間』で偏った『道徳』を身に付ける可能性が高くなったのです。そして他の世界を知らないため、今いる『世間』から排除される事に臆病になり、自分の『世間』の外部からの批判に耳を傾けなくなります。

今起こっている事態とは、このような「普遍性のない『世間』の論理の暴走」ではないでしょうか??

立派に「社会人」していると見える人々も、実際は「世間人」でしかないのかもしれません。


社会的引きこもり

基本的にこのライブラリーでは冒頭の挨拶は省略しているのですが、今回は話の流れに直結した内容ですので冒頭の挨拶から掲載します。

▼今回はコラムですが、同じテーマを視点を変えて書いてる気もしますね▼

ゆうくんです。今回のテーマは前回の編集後記で書いたとおり、「社会的引きこもり」についての社会経済学的な考察です。

どうもよく似たネタばっかりやってる気がしますが(苦笑)、「経済学研究室」の作成者が「第二次ベビーブーム」の世代であり、必然的に同世代の巻き起こす社会的病理に対して敏感になるのがその理由です。「これからの社会はどうなるのか?」を考える際に避けて通れない話題です。どうかお付き合いください。

これら一連の「人間の社会化」→「社会への参加」→「社会システムの再生産」に関係する問題って、僕がついつい無意識のうちに考えてしまう問題なんです。大げさですが、こういうのを「ライフワーク」って言うんでしょうか??(^^;)

(もともと学際系の人間ですが、どうも経済学者じゃなくなってきましたね。メルマガのタイトル、「社会科学研究室」に変えようかな。。。)


何でこういったコラムを書こうと思ったのか、というと前回の編集後記で挙げたようにひきこもり者の書いたコラムを読んだからです。そして、余りに自己愛の塊のような内容に辟易したとともに、今後この問題が社会的に大きくなることはあっても自然消滅することはありえない、と感じたからです。

「社会的ひきこもり」は、現在ではまだ大きな問題になっていませんが、社会のできるだけ早い対応が必要な問題の一つです。

現在ひきこもっている人は20代か、せいぜい(去年新潟で起こった少女監禁事件の犯人のように)30代ですから、両親が面倒をみています。しかし、あと10年もすれば誰も面倒を見てくれる人がいなくなった社会的ひきこもり者が大量に(少なくとも数万人〜多ければ数十万人!ちゃんとした統計がありません。 と言うよりは作成は非常に困難でしょう)発生することが目に見えています。

もちろん、「ホームレスが増えるだけ。自分には無関係。」と冷酷に切って捨てる事も可能です。しかし、社会全体から見ると確実に治安の(潜在的)悪化要因です(引きこもってる間はいいのですが、新潟の例があります)し、そうでなくても社会の高齢化が進んでおり、一人でもまともな働き手が欲しい時代になっているでしょう。ひきこもり者と自分が直接関わることがなくても、社会システムからのフィードバックは受けることになります。そう考えると、全くの人事でもありません。

「そういう人は豆腐の角にでも頭をぶつけて(以下略)」と考えている人にも、「状況が状況だったら、もしかしたら自分も・・・」と考えてしまう人にも、考えるきっかけになると幸いです。

▼定義と問題提起▼

ここまで未定義に使ってきた「ひきこもり」の定義ですが、▽新書を読もう!▽で紹介する本(斎藤環 『社会的引きこもり』 PHP新書)内にある、次の定義をこのコラムでも用います。

「二十代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅に引きこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」

最低限確認しておくべきこととして、「ひきこもり」を行う人が俗に言われる「生まれつき精神的におかしい人」ではないと言う事実があります。ひきこもっている間に精神の変調をきたす場合があるのですが、二次的なものです。すなわち、「もともと変な人がひきこもりになるんだから、社会的には何も対策が出来ない」と開き直ることは許されません。

もう一つ確認しておかないといけないのは、ひきこもりを社会現象として考えると、「各人の資質と家庭環境の組み合わせから、ひきこもりはある程度の確率で発生するので、社会全体で集計するとどの時代でも一定数は発生している」事です。自殺者・交通事故・企業の倒産などと同じで、自立(自律)した個人が集まって社会を構成していおり、他の人の行動を規制することは誰にも出来ない以上、微妙なタイミングや巡り合わせで起こりうる悲劇なのです。つまり、現在「ひきこもり」が問題化している理由として、「第二次ベビーブーム世代」が人口構成上多いため、と言う側面はあります。

しかし、不登校・学級崩壊・倫理規範のゆらぎ・さまざまな犯罪等といった現在の各問題も合わせて考えると、若年層を「社会化」して社会に適応させるプロセスに問題があることが、「ひきこもり者」の発生確率を高めているのではないか?との疑問が巻き起こります。

▼定義の因数分解▼

前の節の定義は実際にクリニック活動を行う中で発生した「臨床的な」定義です。議論しやすいように、この定義を幾つかの要素に分解してみましょう。

社会的引きこもり現象を幾つかの要素に分解すると、次のようになるでしょう:

  1. 20代後半までの、社会にエントリーして社会生活を営みはじめるまでの途中で発生する。
  2. 問題は「対人関係トラブルの処理」「継続的な勤続」等といった社会的スキルの決定的不足、という形であらわれる。端的に言えば、社会に適応できていない。
  3. ひきこもる人に精神的な障害は(少なくとも初期状態では)無い。そのため自分が社会に適応しなければいけない、という事を自覚している。実際には適応できていないので、常に「挫折感」と「プレッシャー」にさいなまれている。決して単に無為に過ごしてはいない。そのため、「働いていない」ことに対して指摘されると逆上し、家庭内暴力に達する事例も多い。
  4. 問題の根を深くしているのは、生活の糧を稼ぐために苦労することも、精神的に傷つくこともなく生きていける物理的環境が(たまたま)存在したこと。昔ならホームレス化を余儀なくされるため、半強制的に社会化を促されることでひきこもりを免れていたであろう層までがひきこもり者になってしまっている。
  5. 最大の問題は、社会的スキルの不足から起こる失敗を糧に成長し、現在の失敗を克服できるほど、現在の自我が強固でないこと。すなわち、放置しておいて自力で勝手に解決する可能性は非常に乏しい。

社会的には、5番が重要です。現状では、ひきこもりは出口がなく入り口だけの袋小路のようなものです。つまり、「放置しても増加することはあるが、減少することはない」のです。

▼若年期の「社会化」の失敗+「脆弱な自我」=ひきこもり?▼

具体的な発生構造を探るため、社会現象としての「社会的ひきこもり」の特徴を列記してみます:

1 社会から要請されるプレッシャーの強さが異なるのか、女性と比べて男性のひきこもりが圧倒的に多い。

男性のひきこもり者が多いのは、女性には「家事手伝い」と言う、社会的な責任がほぼゼロという身分があるためです。また、結婚さえ何とかクリアーすれば、「専業主婦」と言う形で社会とのつながりを殆ど持たないで生きてゆくことも可能だからです(男が「専業主夫」をやると、ほぼ間違いなく「ヒモ」扱いですね。この扱いに耐えられる男性はまだまだ少ないでしょう)。

2 中流以上の家庭の事例が多い。

大人一人を養いつづけるんですから、経済的に困窮した家庭は少ないです。また、それなりに裕福な家庭では、「挫折」を感じてひきこもってしまう基準となる「要求水準」が高いことも多いです。
(余談ですが、過去の経済学研究室で紹介したこともある、「パラサイト・シングル」という現象とこのひきこもりは、親に寄生するという点で同種の議論が可能です。ひきこもりが全面的に親に寄生し、社会的な責任をほぼ全てこなせないのに対して、パラサイト・シングルでは生活費をまかなう、という部分で社会的な責任を親に転嫁している点が違いです。)

3 不登校者の全てがひきこもりになる訳ではないが、不登校がきっかけとして、ひきこもりにつながってしまう事例は多い。

学校も規律に従わされる、という意味で立派な「社会」です。不登校もしくは退学した人たちは、学校という「社会」に上手に適応できなかった人たちということになりますが、彼(彼女)たち全員がひきこもりになる訳ではありません。

一部分は何らかの形で社会参加に成功し、他の部分はひきこもりになるのは、

の違いによるものです。言葉が悪いですが、ひきこもり者のほうが不登校者より「濃縮」が進んでいます。

単純化して形で、ひきこもり者が認識しているひきこもりの構造を述べると、「精神的に未成熟なまま社会に参加することを強いられ、挫折した結果、社会的営みを極端に恐れるようになってしまった」と言うことになります。

4 過去に「条件付愛情」を恐怖していた反動として、「無条件の愛情」を求める

ひきこもりってしまう人の多くは、(他の人がそう見えなくても)何らかの挫折がきっかけになっているようです。よくあるパターンとしては、「自分が人々(特に両親)に評価されているのは、Xが出来ているからだ」(Xには学歴の獲得や仕事上の評価など、何らかの獲得属性が入ります)と思い込んでしまい、「Xの失敗」=「自分は無価値で誰からも評価されない」と、短絡的に思い込んでしまいます。自分への絶対的で基礎的な承認が不足しているのです。(安直に言えば、育てる段階での母性の不足と言うことになるでしょうか?)

しかし、一度ひきこもってしまった後では


等から、自分がひきこもるに値する人間だと正当化する傾向があります。

▼貧困な「社会化」イメージしか供給できていない現状▼

かなり長い議論になったので、まとめを急ぎます。

結局のところ、社会的な課題は次のことにつきます。

社会に新しく参加しようとする人々に対して、「自分がどう生きればいいか、と言う具体的な『社会化』イメージを提供する」機能を果たす機関が殆ど存在しない・存在しても接触する経験を持てない人が相当数存在してしまう。

具体的に社会内機関を指名した形で書いてやると:

  1. 学校以外で社会化イメージを供給する機関が弱体化した
  2. 学校で供給される社会化イメージが貧困

となります。

教育機関が社会で果たす機能(=「選抜」機関)からして、学校が発信する「社会化」イメージはかなり偏らざるを得ません。

教育をつかさどる当事者達が「選抜」機能を否定する・しないに関わらず、人的資本とシグナルの供給機関である限り、学校は選抜機能を持ちます。詳しい議論は教育シリーズの学歴の回にゆずりますが、「選抜機能」を働かせながら、表面上(だけ)選抜機能を拒否して「同能力幻想」を(言葉が悪いですが)撒き散らす「ダブル・スタンダード」戦略は問題が多い、と言わざるを得ません。

結果的には、殆どの生徒はこの矛盾に気づき、環境(家庭や友人、地域社会など)からの助けも借りながら何とか自立します。

しかし、環境からの支援が得られず、ナイーブな層の一部は、学校の表面上のメッセージ(万人同能力幻想)を間に受けて自分に対して「万能感」を持ちつづけます。しかし、実際には選抜機能によって「挫折」させられます。この時の、ちょっとした「挫折」にも彼は耐えられないのです。

問題があるものの、家族や地域社会は社会的にコントロールできない(もしくは非常に難しい)以上、社会が教育機関の復活を望むしかない、と言うことになります。

▼結局は、「開かれた多元社会」ってオチなんですが・・・▼

僕がこういうネタを書くと、オチはコレです(苦笑)(「開かれた多元性」についてはこちらを参照してください)

  1. 社会には多様な価値観があること
  2. 社会では多様な能力が求められていること
  3. 人生の楽しみ方と、社会内での生きる場所を自分で見つける必要があること
  4. 他の人と「共棲」できる限りどのように生きても自由であること

こういったことを「社会化」メッセージとして、どれだけ伝えてるのでしょうか?また、「広義の人的資本」として、人生の楽しむ方法・「共棲」の作法などをちゃんと教えている(最低でも教えようともがいている)のでしょうか??

さらに、日本が「安心型」社会であり、失敗に厳しいことがひきこもりを重くしているようです。

・・・ひきこもりは簡単には減らないかもしれませんね。


「経済学研究室ライブラリー」表紙に戻る

ホームページ表紙に戻る