「大衆消費社会」

もっと短くてあっさりしたシリーズのハズだったんですけど(^^;)、
気が付いたら気の向くままに好き放題書いてました。
あまりにつれずれなるままに書いていたので、
どうも全体のイメージがボケてしまったのが少し残念。


目次

  1. フォーディズム
  2. 社会の成熟化
  3. 消費者の消費行動とその結果
  4. Winner Takes All(1)
  5. Winner Takes All(2)
  6. PLAYSTATION2とゲーム(1)
  7. PLAYSTATION2とゲーム(2)
  8. シュンペーター(1)
  9. シュンペーター(2)

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フォーディズム

▽問題意識▽

最近、「日本経済の好転」という話をマスメディアで目にする機会が増えました。気の早い株式市場や外為市場ではすでに大きな値動きが始まっています。

しかし、ほとんどの人が内心思っているのは、日本の景気は公共投資を主とした財政政策(すなわち借金)による「政策効果に下支えされる日本経済(1999年の経済白書第1章タイトル)」ではないのか、と言うことです。

(もう一つの効果は当然外需(輸出)です。景気回復基調が明確になる前に雰囲気だけの景気回復で外為市場が過剰に反応してしまうと、回復基調がしぼむ可能性があるのでかなり危険なんですが・・・)

国民の実感に「景況感」が出てくるのは、華やかな気分になれることが、すなわち民間の消費が回復して「ちょっとした贅沢」を今より気軽にできるようになることが大切です。

それでは、どうすれば消費は回復するのでしょうか?消費支出が増えるのでしょか?

今回から数回、このような(僕の中の)問題意識をもとに、消費について社会経済学的に考えようと思います。

▽今回のテーマ▽

現代社会は技術革新が激しく、生産コストはどんどん下がります。モノの生産性はどんどん高まります。皆さんは素朴な次のような素朴な疑問をもたれたことはないのでしょうか:

「なぜこんなに生産性があがっているのに、仕事は忙しいままなんだろう?」
「こんなにたくさん作れたら、需要が追いつかないんじゃないのか?」

今回はこういった生産と消費のリンクを考えてみることにします。

▽大量生産・大量消費社会▽

非常に単純な言い方(物価の変動を削除した実質ベース)をすると、社会全体でモノを作る能力(=供給)が3%上昇したとしたならば、社会全体の購買力(=需要)も3%上昇しないと経済がバランスしません。

(需要の伸びが供給を上回ると(好況時)、物価水準が上昇します。逆に需要の伸びが供給を下回ると(不況時)、物価水準が低下します。)

現実の経済・社会は、さまざまな問題をはらみながらも、誰も計画したわけでもないのに「意図せざる結果」としてこの調整を行っています。このメカニズムをフランスのレギュラシオン(regulation:調整)学派の提起した「フォーディズム(Fordism)」と言う概念で説明してみます。


現在では自動車は一般的な商品ですが、自動車と言う商品が社会に出回り出した当時には、非常に高価で庶民からは「高嶺の花」でした。

なぜ高価だったかというと、自動車がヨーロッパで発明され、社会に最初に受け入れられたときは出た時は貴族の所有物である「馬車」の代用品と言う形であったことが挙げられます。馬車生産工業は(一つ一つの意匠に凝ることもあって)手工業の伝統を色濃く残しており、生産コストが非常に高かったのです。

自動車ををシンプルなデザインにし、ベルトコンベヤを導入して大幅なコストダウンをはかり、「流れ作業」で安価な大量生産を初めて達成したのがフォードのT型だったのです。

よく知られているように、T型フォードは大ヒットしましたが、それ以上に創業者ヘンリー・フォードが後々に影響を与えたことがあります。今までの手工業的な職人的作業に比べ、コンベヤでの流れ作業は生産性が上がる一方、労働者に大きな負担がかかります。(工場での生産性上昇に対応して)ベルトコンベヤで働く労働者の賃金を大幅に上げ、自動車が手に届く所得にしたのです。

最終的に自動車を大衆のものにし、大衆の生活水準の基準ライン(これを「消費ノルム」と言います)を底上げさせ、労働者の賃金の「相場」を底上げしました。同様のプロセスで、多くの商品が大衆のものになり、生活水準のラインと賃金の「相場」がどんどん底上げされました。

商品以外にも、高速道路・高速な列車網・航空路線の増加と言った交通事情や、コンビニエンスストアや深夜まで開いているレストランなどの、「もうこれが無くなった生活を考えるのは難しい」さまざまな社会制度・システムが生活水準の底上げと雇用の底上げに貢献しました。結果として、需要が伸び、(マルクスの予言するような)「恐慌」にいたることなく経済が成長したわけです。

今までのおおまかに議論をまとめると次のようになり、この循環をフォーディズムと呼びます:

生産性上昇→労働強化→賃金上昇による見返り→生活水準の上昇→需要増加→更なる生産性上昇

この循環は実は自動的に起こるものではありません。企業側は積極的に新しい商品を消費者にPRする必要があります。一方消費者にもこれまでに無い新しい快適さ、新しい楽しさを積極的に享受して行こうと貪欲さが必要になります。

(このシステムが現在の環境問題を招いているわけですが・・・また別の時の話題にしますね)

現在の日本は構造転換の真っ只中と言うこともあり、失業率はジリジリと上昇を続けています。このような将来の見通しが立たない環境下では、消費者マインド(フツーの消費者がモノを買おうとする度合い)は低い状態で滞ってます。

さらに、現在は景気を引っ張る大型商品がなかなか見つかりません。(少し光が見えている情報通信に関する分野は、価格が高止まりしている ために新しいサービスの普及が遅れています。)このことが景気回復の足を引っ張っています。

次回は、もう少し具体的なレベルで、「新しい快適さを求める力」としての消費文化について考察してみる予定です。


社会の成熟化

今までそんなモノ思いも着かなかったのに、「もうコレ無しの生活なんて考えられない」ってモノ、ありますよね(モノとカタカナで書いているのは、物質的な財だけではなく、交通・流通等の各種サービスも含めた広義の消費対象を意識しているためです)。

日常生活はこれらのモノで満ち溢れています。ピンと来ない方は、自分がこれから一人暮しをすると想定して、買い揃える物および契約する各種サービス(電気・ガス・水道など)をリストアップしてみてください。コップ・やかん等の生活雑貨まで含めると、かなりの種類に上ることがわかると思います。

さらに言えば、日頃利用する鉄道・高速道路などの交通インフラや、図書館・公民館等の各種公共サービスをこのリストに加えると、膨大な数であることがわかると思います。

原始的な生活をしていた時代に比べて,われわれの生活はそのリスト内の項目数だけ快適かつ豊かになりました。(また、マクロ経済学的には、そのリストに項目が増える分だけ、生産性上昇で余剰になった人員の雇用先が確保されてきたわけです。)

・・・と、ここまでは前回の説明不足の補足です。ここから、今回のテーマである「どのようなモノならこのリストに加わることが出来るのか?」を考えてみたいと思います。

まずは漠然としてつかみにくい、消費者の需要対象としてのモノをいくつかの基準で分類することからはじめます。

1 必要度によるモノの分類

われわれの周囲にあるモノを「利用頻度」「そのモノが無くなった時の切実さ」等で大まかに分けると、個人、もしくは家計(同一の収入源で生活する集団としておきます)にとってモノは次の4つに分けられると思います。

必需品はまさに生活に欠かせないモノであり、贅沢品は無くても個人の生活に支障が無いモノです。便益品が微妙で、必需品と贅沢品の間に位置する、「無くても生活は可能だけど、不便さや不自由さを感じる」モノすべてです(もっとも個人差があります)。この3つでヒエラルキーを形成しています。

「無関係品」とは、成人男性にとっての女性用・子供用衣類と言った、全く日常生活で使用することが無いモノや、趣味・嗜好が合わないので(これまた)日常生活で不要なモノを指します。

(すべての人が「無関係品」にカテゴライズするモノは市場で生存できないので、社会的な視点から眺めると、「無関係品」と言うカテゴリーが無くなります。)

2 社会の成熟化

次に、視点を社会に移して考えて見ます。

家計を1つの単位とすれば、ほぼすべての単位で必需品・便益品・贅沢品のヒエラルキー内に入る、便利さがはっきりしたモノが昔はたくさんありました。

経済・社会がまだ成熟化しきっていない昔のモノの普及プロセスは、贅沢品が便益品になり、さらに必需品になると言う「ルート」が非常にはっきりとしていました。例えば、冷蔵庫や電子レンジなどと言った家電製品の多くは、ほぼ全員の人にとって便利であり、一度便利さを知るとそれが無い生活に戻るのが大変なモノです。

これらのモノは、便利さが社会に認知されていれば、所得の上昇・生産コスト低下によってリーズナブルな価格になれば自然に需要が増えるモノです。最初は高所得者の「ステータス・シンボル」だったものが価格の低下とともに庶民にも手が出るようになる、と言うお決まりのプロセスを取ります。(これをトリクル・ダウン(trickle down)と言います。社会の上層から下層へと滴り落ちるわけです)

そして、「世間並みの生活」を送るために必要なモノのリストにひとつ加わるわけです。(その後さらに生産コストが下がると、個人に一つに向かいます。携帯電話がいい例です。)

これらのモノは、(各企業にとっては競争が厳しいですが)そこそこの価格と性能さえあれば、「供給が需要を生み出す(これを経済学ではセイ法則と呼びます)」ので、社会に定着するのは簡単だった,と言っていいでしょう。

しかし、社会が成熟化し、技術が複雑化するにしたがって、古いタイプの普及プロセスを取るモノがどんどん減っています。すなわち、モノの立場から見ると、快適さ・便利さが人へ簡単に伝わらなくなった、さらにいつまでたっても伝わらない人が生まれてきたわけです。

このようなすべての人が便利さを享受するとは限らないモノは、(定義から)便益品もしくは無関係品に分類されるでしょう。もう少し、便益品について細かく見てみましょう。


3 便益品の再分類

便益品を次の二つに分けて考えてみます。

以下、それぞれについて考察してみます。

3−1 機能的なモノ

これは先ほど挙げた中では技術の「複雑化」に当たります。技術が高度化して複雑なモノが作れるようになると、そのモノの便利さ・快適さを享受するほうにもそれなりの能力が問われます。消費者側の受容能力の問題から、普及が遅れるわけです。

わかりやすい例は現在あなたが使用しているコンピュータです。メールマガジンを購読するぐらいにインターネットが日常生活に入っている人にはコンピュータは欠かせないモノですが、食わず嫌いや習得の問題等から、一般的な普及は難しいでしょう。将来的には間違い無く読み書きの一種(高度基礎能力)になるでしょうが、まだまだ敷居が高そうです。

機能的なモノは、技術が十分に高度化し、インターフェースが充実して操作がブラックボックス化(=内部の細かな仕組みを知らなくても操作が可能になる)する事が重要です。(過去において日本ではパソコンでなくワープロ専用機が強く、パソコンがこれだけ普及した現在でも根強い需要が存在する理由はここにあります)

今後はさらに複雑なモノが社会に出るようになるときには、自動車のように操作法が標準化され、習得システムが完備される必要があると思います。

3−2 ライフスタイル適合的なモノ〜次回への布石

これは先ほどの社会の成熟化に当たります。社会が成熟化して行く途中のプロセスでは、ほとんどの人にとって快適である、「より早く・より軽く・より小さい」モノが普及しました。これはいわゆる「文明化」に当たると言っていいでしょう。

消費の次段階はもっと個人的なモノへと移っていったわけです。

この「文明化後」の次の一歩の踏み出す方向は個人差が大きく、また消費者自身が何をほしいかわかっていないために嗜好錯誤を繰り返すことになります。また絶対必要なモノではないために、ブームと沈滞を繰り返します。

次回は、ライフスタイル適合的な消費について考察します。


消費者の消費行動とその結果

▽消費パターンの多型化・モジュール化

現代はいわゆる「より速く・より軽く・より小さい」方向へ進化するモノ、ほとんどの人が明らかに生活が快適になったと感じるモノ、が大体行き渡っています。

これらの(広義の)生活必需品を部屋に充満させても、まだ個々人の財布の中にはそこそこ余裕があります(社会全体の生産・供給能力にも余裕が残ってます)。

自動車・ダイビング・音楽(バンド活動)・コンピュータ・読書・旅行・カメラ・ファッション・グルメ・・・等など、社会には「すべてをするのは時間的・経済的に不可能だが、これらのモノをすべて拒絶するとあまりにも寂しい生活になる」レベルの消費対象が満ち溢れています。

(広義の)生活必需品の中から取捨選択して余裕を振り分けることが、各人のライフスタイルになるわけです。すなわち、「消費による自己実現願望の達成」です。(ピンと来る方はお分かりと思いますが、このあたりはマズローによる欲求の段階論を参考にしてます)

近年では趣味の「民主化」とでも言える事態が起こっており、趣味と所得(職業)との相関関係・趣味間の相関関係がやや緩んだ感があります。さらに言えば、趣味と世代との相関関係、性別との関係もかなり緩んできました。

家でカップラーメンをすすりながら(食費を切り詰めて)高級車に乗っている人や、ボーナスのほとんどを海外旅行に費やす人などは珍しくありません。また、従来子供向けと思われていたマンガ・アニメ・ゲーム等は知的職業と思われている医師・弁護士・大学教官からいわゆるフツーの社会人・学生まで広くファン層(マニア層)が居ます。女性が少年マンガを読むのは普通です(『ジャンプ』はずいぶん前から女性ファン層を意識した編集を行ってることで有名ですよね)。

このように収入・趣味・性別などの関係が大きく崩れ、組み合わせ方の自由度が非常に大きくなりました。それぞれの趣味のパーツがモジュール化しており、各人によって完全に部品のように交換可能であるかのような状態です。


▽情報メディアとマニュアル化

逆に自由度が高すぎ、「自分が何を消費したいのかわからない」消費者が増えているのも事実です。が、いくつかのスタンダードな消費スタイルが雑誌・TVなどのメディアから提供されています(特に女性のファッションについてはこの傾向ははっきりしています)。また、いわゆる「イケてる自分探し」そのものを提供する雑誌(女性では某an an等(笑)が該当するでしょうか??)も提供されています。

メディアは商品知識・情報を提供するだけでなく、無数にある情報源から提供する情報を選択しています。提供される商品情報の多寡によって、「何がスタンダードか」についてメディアは暗黙のうちに消費者に知らせています。

メディアが提供するのは全体の消費スタイルについての情報だけではありません。個々の商品の選択についても、多くのメディアが「スタンダードは何か」について情報を提供してくれています。

人間が注意を振り向け、意識的・積極的に事態に関わろうとする度合いを社会心理学では「関与(involvement)」と呼びます。

あるモノへの消費活動は、好きな人(=関与が高い人)はいくらでもこだわりたいはずです。しかし、必要としているがそれほど重視していない多くの人(=関与が低い人)にとっては消費の自由度の高さは選択コストの増加に過ぎません。結果として、さまざまなモノへの選択の自由度が増すほど、本当に自分が積極的に関与したいモノ以外ではスタンダードなモノで済ませるという形が普及することになります。

各人の関与の総量には(多寡の個人差があるとしても)すべてのモノに対してこだわりを見せるには限界がありますから、社会的には「選択の自由度が増せば増すほど、多くの人がスタンダードなモノばかりを使うようになっているように見える」と言う「意図せざる結果」になります。


▽依存効果と「ムダの制度化」による需要

「消費者が大企業の広告に踊らされている」と言う側面は実際にあります。本当にはほしくないものへの需要を広告によって喚起させられることを、ガルブレイスはその有名な著書『豊かな社会(The Affluent Society)』で「依存効果」と呼びました。

「依存効果」によって、自動車・家電製品・衣類等の耐久消費財はその寿命まで使い切ること無く、新しい商品へと代替されます。アパレルの世界では毎年・毎季節に「流行色」を作って消費を促しています。

また、技術革新のスピードが速く、革新の成果が新商品として社会に供給される自動車・家電では「本当に自分が必要な機能は何か?」の判断や、現在使っているモノのより先に「欲しい!」となってしまいます。

(服と異なり、これらのモノでは燃費・電気代等の影響で本当に買い替える方が個人的にも社会的にも望ましい場合があるのでややこしいです)

依存効果に加え(本当は第1回目で触れておく必要があった議論なのですが)、現代は社会内での費用対効果で考えると過剰な浪費がなかば制度的に行われています。

よく言われる例をいくつか挙げてみると:

などがあります。

これらのさまざまな形での需要の拡大をまとめて、ガルブレイスは(前述の本で)「ムダの制度化」と呼びました。極論を言えば、これらの「水増し」された需要は、社会全体の遊休生産力を稼動させます。うつむいて失業手当を受け取る変わりに、正々堂々と「職業労働」をして多くの人が収入を得る「大義名分」を提供している限り、社会的にはプラスであると言えます。

(ケインズの「有効需要の原理」の、社会学的な意味はこのようなものです。もちろん、このような浪費より、社会的に意味のあるモノに需要が向かう方が望ましいのは事実です。また、環境問題が待った無しの状態である現代では、この大量生産・大量消費パラダイム自体の維持が難しくなっていることも指摘しておく必要があるでしょう。)


▽スタンダードな選択肢の多さ=豊かさ

現在の大量生産・大量消費パラダイムに対して、ネガティブ・シニカルな議論を述べすぎたので、少しバランスをとる意味も込めてフォローしておきます(笑)

消費の選択肢が増えたこと自体は決して悪いことではありません。選択肢が増えても増えなくても最終的に同じ決定を下したとしても、社会的に許容される選択肢がたくさんある中で選択をした、というプロセス自体がわれわれの生活が豊かになった証拠なのです。

(消費だとわかりにくいですが、職業選択の自由等の議論をイメージしていただければわかりやすいと思います。)

社会的にありうる消費の組み合わせが増え、組み合わせ方の結果としての「個性」の数が増えたことも、社会的には非常に望ましいことです。

重要なのは、消費する際に必要な情報が十分手に入ることと、その情報を分析して何が自分にとって重要かを決定できる「自己決定能力」をつけることであって、大衆消費文明が悪いわけではないのです。

(・・・と言うわけで僕は『清貧の思想』的な旧守派がいかにも好きそうなスタンスは大嫌いです(笑)。そもそも「消費財と関わらない」と言うスタンス自体も一つの選択肢として許容する価値観が重要だと考える次第です)


Winner Takes All (1)

◆◇売れるモノほどもっと売れる◇◆

宇多田ヒカルのアルバム、マイクロソフトのOS、ドコモの携帯電話など、トップと2番手との売れ行き差が極端なモノは多数あります。近年、市場での競争の規模が大きくなり、競争が短期であっけなくつくようになり、しかも勝者が手にする報酬が非常に大きくなる傾向があります。このような、「一人勝ち」と言われる現象が、最近頻繁に話題に上るようになりました。

しかし、すべて”Winner Takes All(以下WTA)”とキャッチフレーズにしてしまう前に、どのようなメカニズムでこの現象が発生しているのかを考える必要があります。今挙げた3つの例は、それぞれ発生メカニズムが異なります。単に結果が同じだけなのです。また、厄介なことに、発生メカニズムは完全に独立している訳ではなく、一部重なっています。以下で、その絡まりあったメカニズムを説明してみましょう。

1 ネットワーク外部性と収穫逓増

あるモノについて、

「自分の周囲で同じモノを持っている人が多いほど、自分にとってのそのモノの価値が高まる」

という関係があるとき、「ネットワーク外部性(Network Externality)」を持つといいます(ここで外部性とは、市場メカニズム以外のところでモノ(財)の価値が変化することを差します)。

端的に言えば、「一人勝ち」現象とはネットワーク外部性を持つモノ間の競争過程で、(理由はどうであれ)一つの財が頭一つ抜け出し、売れることで競争相手のモノより商品の魅力が増し、さらに売れるという「好循環」が発生するわけです。

このメカニズムを(『複雑系』の経済学者として一躍有名になった)ブライアン・アーサーは収穫逓増(increasing return)と呼びました。

(経済学の通常の意味での「収穫逓増」とは、生産量が増えるとともに平均生産費用が低下してゆく「費用逓減」を差します。アーサーの議論は需要側が変化してゆくところが通常の経済学の用語法とは異なります。通常の意味での収穫逓増は要するに「規模の経済」ですから、昔からある議論ですね。コスト的な意味の「収穫逓増」メカニズムは、競争圧力が弱く、WTA状況を生み出すのは簡単でないのが実際のようです。日本の自動車産業がいい例だと思います。)

WTA現象の一部はネットワーク外部性がもたらします。特に技術標準(スタンダード)形成では重大な影響をもたらします。次節で、ネットワーク外部性を生み出すメカニズムを見ることにします。

2 技術的ロックイン

ロックイン(lock-in)も先ほどのアーサーが用いた言葉です。本人自身は論文内で明確にこの用語を定義していないのですが、ネットワーク外部性が働いた結果、消費者がある商品(もしくは規格)のみを積極的に選ぶ状態、とここでは考えてください。

このような技術標準の決まり方には大まかに二つあり、一つは普及しているモノを事実上の標準(de facto standard:デファクトスタンダード)とする方法で、もう一つは公的な機関で決定する方法です。こちらをデジュリ・スタンダード(de jure standard)といいます。

前置きが長くなりましたが、それでは説明に入ります。

(1) 純粋な「ネットワーク外部性」

通信機器では「保有者が多いほど保有者の効用が高まる」純粋な効果があります。携帯電話も原則はこれに準じます。携帯電話会社間の競争、携帯電話とPHSの競争では異なる会社間の通話では割高になりますので、企業の競争力・商品の魅力はこの「顧客ネットワークの大きさ」が直接の目安になります。ここにネットワーク外部性が生じるのです。

(2) 技術的補完関係

組み合わせると効用が上がる2財の関係を補完財と言います。「コンピュータ、ソフトなければタダのハコ」というわけで、ハードウェアとソフトウェアの関係は補完関係です。

もっと端的には、ビデオやゲームと言ったコンテンツ販売型のビジネスはすべて技術的補完関係が利益源です。ネットワーク外部性と言われるもののほとんどがコレです。

技術的な補完関係は当然ながらOSとアプリケーション間にも働きます。マイクロソフトのオフィス製品の成功の理由の一つがOSとアプリのシームレスな操作性にありましたので、技術的な補完関係が一つの理由だったのです。

(更なる余談ですが、一太郎のジャストシステム陣営の敗因はエクセルに匹敵する表計算ソフト、パワーポイントに匹敵するプレゼンテーションソフトの開発の遅れです。せめて「花子」のWIN95対応が早ければ、今とは違った状況だったと思います。)

(3) スイッチングコスト(切り替え費用)

すでに投資してしまって回収不可能な費用をサンクコスト(埋没費用)と言います。一度決定してしまった規格に対するサンクコストは膨大なので、決まった規格を完全に変更するのは難しく、ロックインの一因となります。

ゲーム機のように厳しい競争に勝ち残ってデファクトをとり、ロイヤリティ(技術使用料)で稼ぐ戦略は魅力的なのですが、技術開発費用の高騰により、競争に負けた際の開発コストが馬鹿にならなくなってきたため、DVDのように技術規格がデファクト型でなくデジュリ型での決定が増えています。

ユーザー側のサンクコストと言えるものがトレーニングコストです。これもロックインの一因です。キーボードの配列はアルファベットの1段目の左の順番から、俗にQWERTYといわれます。これはタイプライターのころから変わっていません。すでに有名な話ですから詳しくは書きませんが、この配列はタイプライターを早く打ちすぎて印字アーム同士が絡まらないようにわざと打ちにくいようにレミントン社が決定したものの名残です。

しかし、すでにこのキーボード配列でマスターしている人が多数いるために、コンピュータ時代になって(機械的な制約から解放されたにもかかわらず)もQWERTY配列が用いられています。この現象もロックインであり、一種のデファクトスタンダードです。


・・・分量的に長くなってきましたので、いつものごとく(^^;)、続きは次回に(笑)。次回は技術的なロックイン以外のWTAメカニズムを議論することにします。


Winner Takes All (2)

1 非技術的な競争力の増幅過程

前回は「技術的ロックイン」による競争力の増幅過程(一人勝ちの発生)を説明しました。今回は技術的な影響の無い競争力の増幅を説明したいと思います。

前回と今回ではで主に議論の対象になった商品群は大きく異なります。前回はOSやゲーム機といった「耐久消費財」でしたが、今回は、清涼飲料水(具体的な商品名ではコカコーラ)・インスタント食品(カップヌードル)等の「日常的に消費される嗜好品」が主な議論対象です。

(1) 店頭の空間の問題
経済学的の基礎的理論では全ての商品は市場で対等の地位で競争していますが、当然ながら、全ての商品が平等に消費者の目にとまるわけではありません。消費者が商品を購入するのは通常の場合は店舗です。店舗内で商品を陳列している空間(「棚」)には限りがあり、必然的に消費者が目にして検討することが可能な商品数が制限されます。

店の側はあまり売れない商品をおくはずがありませんので、売れない商品は早々に棚から排除されます。また、過去に大きな売上を上げていない供給者(新興および弱小メーカー)の新商品を陳列することに慎重になるはずです。つまり、「競争のスタート地点にすら立てない商品」が大量に存在するのです。このような店舗側のオペレーションによって「売れ筋商品」に有利な競争環境が生まれます。

この「売れ筋商品」のみを売り場に残し、売れない「死に筋商品」を排除する売り場オペレーションを最も厳しく行うのはコンビニエンスストアです。売れない商品はすぐに排除されます。また、コンビニは狭いため、各商品ジャンルともにごく少数の種類の商品しか置いていません。その結果、消費者がコンビニで商品を購入する割合が増えるほど、大きな売上を上げるわずかな商品しか市場で生き残らなくなります。

(コンビニが増えてわれわれの生活は便利になったのは確かですが、どのコンビニでも同じような売れ筋商品しか置いていないので、気軽に手に入る商品のバラエティが減ってしまいました。そのため、少し変わった商品が欲しくなったときにはかえって手間がかかります。)

(2) 消費者の関与の低さ
「関与」の概念は既に「経済学研究室」に何度か登場していますが、この場合は「ある商品を熱心に探す度合い」と思ってください。

(正確には「自分の認知資源(注意や集中力と思ってください)から、ある現象の認知に割り振る度合い」のことです。)

スーパーマーケットやコンビニで商品を買う場合を考えてみます。例として缶コーヒーを買おうとするとき、缶コーヒーが並んだ棚全部を見渡す人はかなり少ないと思います。通常は2〜3種類、多くても5〜6種類を検討して決めてしまうはずです。ということは、せっかく店頭に並んでいたとしても、消費者の目に付きにくい場所にあった場合は、消費者の目に止まることなく競争に負けてしまいます。

(容易に想像がつくように、店頭での商品の陳列場所によって消費者の目に付きやすさが変わります(実際に実験した論文もあります)。大まかに言えば、縦向きは目の高さぐらいの高さが一番目に付きやすく、そこから上下へ離れるほど目に付きにくくなります。横向きは両端がもっとも目に付きやすく、中央に近づくほど目に付かなくなります。)

(3) その他社会学・社会心理学的理由

2つだけ箇条書きにしておきます。

・同調圧力(peer pressure)

他の人とのコミュニケーションに参加するためには話題の共通性や価値観が近いこと(凝集度が高いこと)などが必要です。これが消費に影響します。この要素は嗜好品よりファッションや娯楽に強いと思われます。


・高頻度による親近感の増大

2つの商品から得られる効用にほとんど差のないとしても、頻繁に目にする(=耳にする)商品は事前にある程度商品に対する情報が手に入りますから、購入へのためらいが下がります。

2 Winner Takes All と Zipf(ジフ)法則

社会現象のさまざまな場面で出てくるものにZipf法則と呼ばれるものがあります。

ある産業での企業規模・商品の売上高などを、横軸に順位、縦軸に値の対数値をとったグラフで描くキレイに直線状に並ぶと言うものです。(この分布をZipf分布と言います。)

言葉で書くとわかりにくいですが、売上トップの商品が100とすると、2位の商品が70、3位の商品が49と言うようにベキ数列の形になることです。(ここであげた例以外でも、本や新聞に出てくる単語の頻度・地球上の川の長さ等、さまざまなところでZipf分布は見られます。)

Zipf法則の視点から考えると、一人勝ち現象は「隣り合う順位の比が極端に大きな場合のZipf法則の発現形態の一つ」と言うことができるでしょう。

Zipf法則はさまざまな場面ででてきますが、決定版といえる説明原理はありません。しかし、売れる商品がより売れるようになると言った「一種の増幅現象」が起こるシチュエーションでは比較的簡単にZipf分布がでてきます。


PLAYSTATION2とゲーム(1)

▼予告どおりPS2です▼

98年11月27日のセガのドリームキャスト(DC)と今年の3月4日のPS2発売に終わらず、今年の秋以降には松下電器/任天堂の開発のよる「ドルフィン」が発売予定、PS2発売直後にマイクロソフトがX-BOX(MSXって略すと縁起が悪そうです^^;)の来年の発売を発表したりと、今「次世代ゲーム機」が非常に話題となっています。

しかし、ここ数年アーケード(ゲームセンター)も家庭用ゲーム販売も売上が低下を続けています。今年に入ってからでも中堅ゲームメーカーが2つ(HUMANとDECO)倒産するなど、ゲーム産業は「冬の時代」と言っても過言ではありません。

それでも事情をあまり知らない世間で「ゲームが好調」と思われているのは、ソニー・スクウェア(『ファイナルファンタジー』で有名)・コナミ(『ときめきメモリアル』や『Dance Dance Revolution』)等のトップ組で非常に業績が好調なためです。市場のWinner Take All化が極端に進み、景気のいい話と不景気な話題の両極端が入り混じっているのがゲーム産業の面白いところです。

それ以外においても、ゲーム産業は経済学的に非常に面白い素材です。経歴ではなく実績次第で、若いうちから高収入を得られると言う面では「ジャパニーズ・ドリーム」の代表格と言えます。また、ヘッドハントや独立といった人材の流動化が非常に進んでいたり、アイデアに対してファンドが供給されるシステムが存在していたりと、「未来の日本型ビジネススタイル」を考える上でも絶好の材料だと思います。

多くの人に目に触れる一般的なマスコミは、ゲーム市場に関する知識・分析力は皆無に等しいので、一度ゲームに関する(ゆうくんなりの)「見取り図」を提供しておくことも面白いかと思います。

ちなみに、ゆうくんはPS2をまだ買っていません(^^;)初期ロットは不良品が多くて怖いのと(DVDに関しては「買っておけばよかった!」と思いましたが)、5月(6月??)に発売されるDQ7はPS1でプレイできるため、急ぐ必要が無いからです(笑)

一応、PS2関係のニュースは注目して見ていますし、日本橋の電気街でデモ機をプレイしてみたりもしましたので、あまり的外れなことは書かないと思いますのでご安心を。

▼PS2に関する大まかなデータ▼

議論する前に、基礎データとして、PS2の売上や製品としての特徴を挙げておきます。

1 発売日から3日間の販売台数:98万台
    既存販売ルート(いわゆる小売店):60万台
    プレイステーション・ドット・コム経由のネット販売:38万台
(5年前のPS1の約10倍の売れ行き。以上の出典はSCEIのプレスリリース)

いくつかトラブルもありましたが、ネット販売38万台と言うのは、今後のネット通販の可能性を開いたと言っていいでしょう。

それ以後の販売台数としては、DVDのリージョンコード関係のニュースの時に出てきた数字でによると、3月25日段階での生産台数は125万台です。3月30日の発表では販売台数140万台です。


2 DVD再生機能

PS2を「DVDも見れるゲーム機」ではなく、「ゲームも出来るDVDプレーヤー」と考えて購入した人もかなり多いようです。事実、安価なDVDプレーヤーでも4万円程度はしますから、PS2はかなりお買い得なDVDプレーヤーです。発売日にゲームソフトを買わない人もいたことから、DVD機能がPS2の魅力の大きな部分を占めていることがわかります。

今後出てくる新ハードは、PS2同様にソフトウェア再生が可能なスペックになり、ハード的なコストがかからないためので、DVD再生機能はほぼついてくると思います。DVD再生機能が競争力のアドバンテージとなるのはそんなに長い期間ではないはずです。

(DCは発売時にまだDVD−ROMがコスト的に高かったせいもあり、CD−ROMを改良し容量を1GBにしたGD−ROMと言われる独自企画のディスクを利用しています。違法コピー対策は有利ですが、PS2と比べると競争力の面で損をしているのは事実です。)

3 インターネット端末としての戦略商品。しかしネットへの接続は単体で不可

PS2は今後予想される家庭内IT革命(具体的には居間に置かれるマルチメディア&情報端末)のための戦略商品です。しかし、モデムを標準装備したDCとは異なり、PS2単体ではインターネットに接続できません(現段階ではPS2をインターネットに接続する機器は発売されていません)。
これは、音楽やゲームソフトのネット配信&ダウンロード販売を狙っているためです。インターネットへの接続手段として、現存のモデムやISDNでは明らかに力不足ですし、次世代接続技術である広帯域(ブローダーバンド)は何がスタンダードになるか不明なため、「大事を取った」ためです。

(PS2用のモデムはSCEIからは発売されることはまずありませんが、需要はありますから他社が発売することは間違いないでしょう。スクウェアがファイナルファンタジーとセットで販売する??)

この件のように、(後でまた触れますが)世間一般の「クリエイティブなSONY」のイメージとは異なり、ゲーム機の供給者としてのSONYはかなり保守的ではないかと個人的には思っています。また、ゲームと言う「大衆娯楽文化」への理解や愛着も無さそうです。

(少なくとも、現在立ち上がりかけているネットゲームを一般化させる伝道師をやろうと言う意思は無いようです)

4 既にPS3やPS4の発売をちらつかせている

具体的なPS3やPS4のハードの発表があったわけではないのですが、PS2の心臓とも言えるCPUであるEE(エモーション・エンジン)とGS(グラフィック・シンセサイザー)について、2002年にEE2(GS2)、2005年にEE3(GS3)を発表する予定だそうです。

これは後から発売される新ハードや安価なパソコンと言ったライバルを振り切って家庭内でのネット端末の位置を占めるための戦略でしょう。しかし、「発売後最低5年は基本性能を変えない」と言う家庭用ゲーム業界の不文律を無視した発言であり、現段階のデファクトを取った企業としては問題かな?とも思います。

(このあたりからもゲームへの無理解を感じます)

▼過去のゲームの成功パターン▼

いきなりですが、ここで一度過去のゲーム及び家庭用ゲーム機の成功パターンを振り返り、PS2と比較してみたいと思います。

1 ゲーム:「すごい〜」ではなく、「〜よりすごい」

アーケード(ゲームセンター)のゲームとして最初に成功したのは、ATARI社の「ポン」と言うテニスゲームでした。

このゲームは画面の両端にいる(プレーヤーが操作する)四角いラケットがボールを打ち合うだけのゲームです(大昔のTVゲーム機でやったことある人もいるかもしれません)。ラケットでボールを打ち返す時の「ポン!」と言う音が目新しく、刺激的だった事がヒットの理由だったそうです。

その後、ボールを複数にするなどのポンの改良作はたくさんでましたが、結局次のヒット作はこれもATARI社の「ブレイクアウト」でした。「ブロック崩し」と言った方が通りがいいですね。「ポン」の魅力を的確に見抜き、「音の出る瞬間を連続に、大量に発生させよう」と言うコンセプトで作ったゲームが成功したのです。

話の舞台を日本に移します。「ブレイクアウト」後は、(当時白黒だった画面に)カラーセロファンを貼り付けたブロック崩しの類似品が大量に出ましたが、次のホームランは(ゲームの代名詞とも言える)タイトーの「インベーダー」でした。これは、「単なるブロックではなく、ブロックが攻撃してきたら面白いのでは??」と考えたアイデアの勝利です。

(しつこいですが)「インベーダー」後も大量のコピー商品が出ましたが、この時のブレークスルーは、「敵が飛んで襲い掛かってくる」と言う進化を遂げたナムコの「ギャラクシアン」でした。

・・・と、くどいぐらい初期のゲームの歴史を書きました。これだけ書けば成功パターンを抽出できます。そのパターンとは(結構単純ですが)、

「単に前作の改良型では駄目で、常に新しい次元の刺激を開拓する必要がある」

と言うことです(他の商品ジャンルと同じで、普遍的な法則ですよね)。やや言葉遊びじみていますが、「すごいインベーダー」や「すごいブロック崩し」では駄目で、「インベーダーよりすごい」ゲーム、「ブロック崩しよりすごい」ゲームであることが重要だったのです。

その後の歴史は、「これまでに無い新しい刺激」を求めた新ジャンル開拓の歴史で、ややこしいのでここで止めます。

一言だけ付記しておくと、(最近までは)ゲームのジャンルもアメリカで新ジャンルの元のアイデアが生まれ、日本で一般受けするようにシステムの細かなブラッシュアップが進むことが多かったです。この辺りは他の工業製品と同じであるところが面白いところです。

大ヒットのためには常にsomething newを求めつづけないといけない世界ですので、新ジャンルの開拓は常に進行しています。最近では(Dance Dance Revolution等の)「音ゲー」が新ジャンルと言えるでしょう。

(「音ゲー」は過去にゲームとしては類似アイデアがありました。しかし、クラブ風やディスコ風等の「カッコヨサ」を演出に加えた「パッケージングの新しさ」を生み出しました。)

ゲーム好きで日常の嗜好品として常に消費しつづけるユーザーのために、ある程度の水準を越えた「佳作」を常に提供しつづける必要はあります。この辺りは小説や映画などの他の娯楽と同じです。

しかし、単純にアイデアだけでなく、コンピュータの演算性能の向上が3Dゲームを発達させたり、プレーヤーとコンピュータを結ぶインターフェースの(コントローラ)など、ハードとソフトが手を取り合って新ジャンルが誘発されるところが、他の娯楽と大きく違います。

2 ゲーム機:他の競争相手と差異化されて、初めて競争力がつく

ゲーム機の成功史では、「当時の技術水準ではかなりの高性能なマシンを安価で供給して、ネットワーク外部性で覇権を取った」事ばかり強調されますが、ファミコン(83年)の成功以降、この戦略の優位性が十分に知られ、「高性能・低価格」は必要条件であっても十分条件ではなくなりました(この基本ルールをナメテかかると、某社の3DOのような手痛い失敗を被ります)。

ある意味性能や価格以上に重要なのは、ユーザーが「新しい楽しさを求めて積極的に買い換えようとする」魅力があるかです。具体的には、クリエーターが「新しい楽しさ」を生み出すのを助ける「インキュベーター」的要素があるか、ユーザーが「新しい楽しさ」を期待できる要素があるか、と言うことです。

※インキュベーター(incubator)の直接の意味は、卵を孵化させる孵卵器もしくは未熟児用の保育器です。ここでは萌芽的なアイデアを商業的に成功させるシステムを指しています。

ここでも過去の例を挙げてみます:

ファミコン後の「次世代ゲーム機」争いは、セガ(メガドライブ)・NEC(PCエンジン)・任天堂(スーパーファミコン:SFC)の3機種で争われました。先行した2社を退け、結局は任天堂がデファクトを取ることができました。

周囲の「任天堂への期待」を最大限に利用した(開発の遅れを「口先介入」でしのいだ)事も理由の一つですが、画像や音楽を奇麗にすることのみに主眼をおき、単なる「すごいファミコンゲーム」が出来る両ハードに対して「ファミコンよりすごいゲームが出来そう」とユーザーが期待できたためです。「ハードウェアによる拡大・縮小・画面の回転機能」「過去の常識を覆した6ボタンのコントローラ」など、比較的にシンプルに高性能化を図っただけに見える両機種に比べると大きなセールスポイントがあったのです。

※その後、メガドライブはハードなアクションゲーム機として、日本ではマニアックでコアなユーザーに受け入れられました。ゲームへの文化の違いから、アメリカでは任天堂と互角の戦いを行ったことでも有名です(セガは今回のDCでも、日本よりアメリカとヨーロッパで成功しています)。 PCエンジンはCD-ROMを用いた大容量ゲーム機の先駆けとして、映像効果やムービーシーン主体の現在のゲームの「パラダイム」を構築した、といってもいいでしょう。このようにゲームの歴史を語るには、脇役が重要な役割を果たしている場合が多く、公平に記述するのはなかなか大変です。

SFC後は(周知のように)PSがデファクトとなりましたが、発売直後はセガ(サターン)の方がやや優勢に競争を進めていました。この世代へのゲーム機の移行に関しては、性能的な面のブレークスルーは「3D演算機能の強化」で衆目が一致しており、共に対策は十分でした。本体と同時発売(サターンは「バーチャファイター」、PSは「リッジレーサー」)ゲームも、3D機能のすごさを見せ付け、双方が「SFCよりすごいゲーム」を出せることが十分に証明されていました。

そのため、競争力の源泉は他の部分に求められます。

ソニーの成功には、よくCMの上手さが挙げられます。売れると思うソフトはCMを長期間流し「ロングヒット商品に育てる」、これまでに無い新しい手法を取り入れました。また、ロイヤリティ(ハードウェアでゲームを開発・販売する権利)を任天堂より安くすることで「スクウェアの誘致」に成功した事も有名です(目に付きやすい所ですよね)。

※もう一個重要な要素として、ゲーム供給がCD−ROMベースに移行したことで、1万円を超えていたゲームがPSでは基本的に5800円で買えるようになったことです。サターンは価格設定がバラバラで、SFCよりは安かったものの、PSよりはやや高い価格設定でした。

しかし、個人的には次の事が重要だったように思えます。

ソニーはゲームビジネスに実績がなく、セガと比べると本体発売当初はゲームを開発してくれるソフトメーカーに恵まれませんでした。そのため、中小ソフトウェア会社でもゲームを開発しやすいように開発環境を整えました。具体的には開発機器を安価に供給し、ゲーム内での基本的な動作を行わせるプログラムライブラリを提供しました。

※セガは内部仕様を完全公開しましたが、発売当初は特に開発支援のためのライブラリなどを用意しませんでした。このことの反省が、DCに生かされています。DCはWINDOWS CEをベースとして採用しており、PS2より開発が容易です。

また、一種のベンチャービジネスファンドであるゲームクリエーター支援プログラム「ゲームやろうぜ」を行いました。これは審査に通った開発者グループに開発資材・オフィス・生活費を3年間保証し、自由に開発を行ってもらうと言うものです。この「やろうぜ」の企画の中から、『XI[sai]』や『どこでもいっしょ』といったPSの顔とも言える(一風変わった)作品が生まれています。

この2つに代表されるさまざまな施策が、「多様な楽しさ」「新しい楽しさ」を生み出し、競争に勝ち抜くためには重要だったと思えます。

▼PS2は過去の成功パターンを満足していない▼

非常に長々と書いてきましたが、気になるのはPS2がここで挙げた過去の成功パターンを満たしていない気がするのです。
箇条書きで書いてみると:

1 演算性能は飛躍的にアップしたが、まだ「すごいPSのソフト」の域に留まっている。
  発売日購入者の中にはゲームを買わず、PS2とDVDソフトを買って帰った人もいるぐらい。
  ソニーはゲームに関心が無く、将来の「ネット端末」の布石としか見ていないのでは
  ないか?

過去に「マルチメディア端末」を示唆(3DOのように喧伝したものもある)したゲーム機は多数ありますが、マルチメディア端末として成功した例がありません。

2 インターネット接続機能を持たせなかった。

これは先述したようにPS2にとってのインターネットとはe-commerceであってネットゲームでは無いからです。サーバーの運営費などの、コスト負担を避けたとも見れますが、いずれにせよ「PSよりすごいゲーム」「PSでは出来ないゲーム」を生み出すインキュベータとしてリスクを積極的に背負う意思を感じません。

3 ハードの仕様を教えずにすませるための最低限の開発用のライブラリ以外は、
  ソニーは提供しない。また、新設計のCPUの上に画像用のRAMが4Mと少なく(DCは8M)、
  開発者はマシンの研究とテクニック開発から始めなければならない。

要するにハードルを高くして「ゲーム開発できる企業を絞りこむ」訳です。これはNINTENDO64が行っている戦略と同じです。

NINTNDO64の結果は、「優秀なゲームは出るが、発売されるタイトル数が十分でないため、メインマシンになれない」と言えば適切でしょうか?PS2は参入企業がNINTENDO64より多いため、もう少しタイトルの供給はあるでしょうが、同じ轍を踏む可能性は否定できません。それとも、「たまにしかゲームを買わないユーザーが多いのだから、ファイナルファンタジーのような大作があれば十分」と思っているのでしょうか?


「たまにしかゲームを買わないユーザーが多い」と書きましたが、このようなライトユーザーとコアユーザーに消費者が2極分化したことが、ゲーム産業が成長力を失った最大の理由であり、僕が最も危惧しているところでもあります。

このような消費者側の多様化・需要の変化について、次回議論します。


PLAYSTATION2とゲーム(2)

▼データ(1)全体的傾向▼

ゲーム産業の現状を確認するために、売上高を見ることにします。残念ながら98年度までしかわかりませんでしたが、これでも趨勢がわかります。参考までに、ゲーム同様に大衆的な娯楽の代表格である、カラオケボックスの売上高も挙げてみました。

単位
億円
ゲームセンター
ゲームコーナー
テレビゲーム
ゲームソフト
カラオケボックス
1986年 3400 5770 (統計なし)
1987年 3260 4370 290
1988年 3490 4750 860
1989年 4020 5220 1250
1990年 4740 5290 2900
1991年 5610 5580 3770
1992年 6000 6320 4610
1993年 5800 6550 5530
1994年 5710 6500 6010
1995年 5780 6740 6340
1996年 5760 6980 6600
1997年 5130 7100 6400
1998年 4900 6950 6270
出典:余暇開発センター『レジャー白書'99』

ゲームセンター・ゲームコーナーでは90年代以降、売上高が伸び悩んでいると言えます。特に「プリクラ」ブームが一段落してからの売上の減少には目を覆うものがあります。家庭用のゲームは、94年と98年に下がっています。(カラオケボックスの売りあげも近年減少傾向にあり、大衆娯楽産業全体が苦しんでいる事がわかります。)

週間ランキングで上位90ないし100位までに登場したゲームタイトル数は、1997年で564本、1998年で619本あります。ランキングに入らなかった「ぜんぜん売れなかったソフト」も合わせると、1年に何本出ているのかわからない状態です(出典は後述の資料参照)。

さらに、最近ではハードウェアの性能向上と、CD−ROMの普及により、より大量の画像データ(特にムービーシーン)が処理可能に(すなわち作成しなくてはならなく)なり、このことが開発費の高騰化(安いもので2億円程度、大作だと10億円超。FFシリーズなどでは30億円とも)に拍車を掛けています。プラットフォームの中心がPS2に移行すると、さらにコストが上昇する可能性があります。

売上高が伸びず、発売本数が増え、生産コストが上昇しているのですから、ゲーム産業が厳しい状況にあることがわかります。

▼データ(2)個別タイトルの売れ行き▼

こちらは1999年のデータですが、1年間に売れたタイトルのベスト10を挙げてみましょう。

1999年1月1日から1999年12月31日までの販売数トップ10
タイトル 発売元 プラットフォーム 販売本数
1 ファイナルファンタジーVIII スクウェア プレイステーション 368.9万本
2 ポケットモンスター(金・銀) 任天堂 ゲームボーイ 315.0万本
3 バイオハザード3 LAST ESCAPE カプコン プレイステーション 136.0万本
4 グランツーリスモ2 SCEI プレイステーション 117.0万本
5 Dance Dance Revolution コナミ プレイステーション 95.9万本
6 ニンテンドウオールスター!
大乱闘スマッシュブラザーズ
任天堂 NINTENDO64 93.6万本
7 ダービースタリオン99 アスキー プレイステーション 81.0万本
8 どこでもいっしょ SCEI プレイステーション 57.8万本
9 ヴァルキリープロファイル エニックス プレイステーション 52.9万本
10 ドンキーコング64 任天堂 NINTENDO64 52.5万本
出典:『ゲーム批評』2000年5月号

※SCEIおよびエニックスはいくつかの力のある中小メーカーの作品プロデュースして 販売する「ゲームパブリッシャー」も兼ねてます。両社のあがっているタイトルはプロデュース作品で、自社製作のものではありません。

シリーズ続編(1,2,3,4,7,10)、人気のアーケードゲームを移植したモノ(5)が多いです。オリジナル作品は3作品しかありません。メーカーの新タイトル(新シリーズ)開拓がうまくいっていないこと、消費者側の嗜好が保守化していることがわかります。また、売れるタイトルの「一人勝ち状態」が極度に進んでいることがわかります。

去年一番売れたタイトルは、高度なCGアニメーションがマスコミで話題になったFFVIIIです。このこと自体はそれほど問題にならないのですが、第2位が「ポケモン」という事実はちょっと驚きです。

ポケモンはご存知のとおりゲームボーイ用のタイトルです。「ゲームボーイ」は性能的にはファミコンとスーパーファミコンの間ぐらいですから、PS2やDCといった現在のハードウェアから見ると「2世代半」前の性能しかないハードのゲームです。

自由に持ち歩けること、プレーヤー同士で仲間にしたモンスターを交換できるといった、「コミュニケーション性」がこのゲームのウリのひとつです。まさにネットワークゲームが目指している一つの理想形が実現していると言えるでしょう。購入者の中心である小学生も、ここにゲームとしての大きな魅力を感じているようです。

つまり、「ゲーム性の方向次第では、高度な画像処理を行わなくても売れる」のです。

前回指摘したように、全てのゲームでFFVIIIや(PS2発売にあたって、あらゆるマスコミでPS2のすごさを示すために使われた)3Dレースゲーム『リッジレーサーV』に代表されるような、技術主体のゲームの進化をするわけではないことを指摘しておきます。

▼消費者の低関与化・嗜好の保守化▼

ゲーム産業で起こってる出来事の一つに、「専門誌でゲーム内容が高く評価されたにもかかわらず、あまり売れないタイトルがある」「TVCMを流しているタイトル・有名タイトルの続編は売れる」と言うことが挙げられます。

つまり、マジメに「面白いタイトル」を探そうとせずに、「TVで見たことのあるタイトルだから」「まぁまぁ面白かった作品の続編だから」と言うことで購入している消費者が多いことがわかります。

以前"Winner Take All"の回で説明したように、彼らの行動は低関与行動です。このような行動をとる消費者を業界では「ライトユーザー」「ホワイトユーザー」と呼んでいます。

一方、情報を熱心に集め、年間に10本もしくはそれ以上のタイトルを購入する消費者を「コアユーザー」と呼んでいます。

せいぜい2〜3本しか購入しないホワイトユーザーがゲームの消費者の多くを占めている事が、極端な「一人勝ち」状態を生んでいるのです。節を変えて、「ライトユーザー化」を分析してみましょう。

▼消費者の平均年齢の上昇▼

初代ファミコンが発売された年は1983年です。つまり、このころにTVゲームの「洗礼」を受けた「家庭用TVゲーム第1世代」は、当時小学生だったと考えると現在20代の後半です。(お気づきかと思いますが、ちょうどゆうくんの世代です)

つまり、(僕はかなり極端な例外ですが)第1世代のほぼ全員が「社会人」になり、熱心に情報を収集したり、プレイしたりする時間を持つのが厳しくなってきています。また、趣味が他の領域に広がり、一時的にゲームを「卒業」していたのが、TVのCMを見て「久々にゲームしてみるか」と始めた人も多数存在します。

このような状況下で、一部の「マニア」がコアユーザー化し、多くの人がライトユーザー化したのです。しかも、この世代は「第2次ベビーブーム世代」で、他の世代よりボリュームのある世代です。

彼らが小学生当時、ファミコンのゲーム1本の5〜6000円という金額は、「高価な買物」でした。ハードがSFCに移り、ROM容量が増えて1本1万円以上するゲームが増えると、「お小遣いをためてやっと買うか、年に1度の親へのおねだり」する買物だったのです。当然の傾向として、ゲーム購入に慎重になり、「購入前の情報収集」「仲間内での情報の交換」は当たり前でした。

こういった環境下では、「いいゲーム」は自然と情報網にかかります。ちゃんと「いいモノは売れる」状態だったのです。

しかし、現在ではゲームがCD化して再び安価になりました。社会人になりユーザー側の可処分所得も増えました。「一回飲みにいく」程度の金額でゲームが手に入ります。このような状況下では「厳しい審査眼」をユーザーに望むことは難しいです。「まぁ、これは有名だし」「有名なシリーズだからハズレは無いだろう」と安易に購入してしまいます。

※おそらく、ゲームがコンビニでも買えるようになったことがこの傾向に拍車を掛けています。コンビニは「ゲームの衝動買い」には便利ですが、品揃えがゲーム専門店や量販店に比べて極端に少ないからです。

また、ゲームの大作化が進み、1本のゲームで一通りプレイする総プレイ時間が数十時間というゲームも珍しくなくなりました。こうなると時間の少ない社会人は気軽にゲームに手を出せないのです。


「もっと若年層もゲームを買うではないか?」との疑問も当然出るでしょう。しかし、徐々に若年層の「ゲーム離れ」が進んできているのです。

▼メディアリテラシー▼

ちょっと唐突ですが、「絵画」を例に挙げて議論してみます。絵画や音楽が代表的ですが、「名作を鑑賞する」にはちょっとしたトレーニングが必要です。抽象的で思想的な現代美術は、フツーの人にはパッと目で「理解できません」。

(僕も含めて)通常の人が鑑賞可能(=「綺麗」「すばらしい」と感じることが出来る)なのは、ルネサンス絵画〜古典派、印象派といったところでしょう(後は商業デザインと結びついたポップ・アートぐらいでしょうか?)。

この「作品を楽しめる」「理解できる」能力を、文字の読み書きに倣って「メディアリテラシー」と呼びます。パソコン・インターネットや、スポーツ鑑賞も同様です。ある程度以上複雑なモノを楽しむには、全てその対象(=メディア)に対応したメディアリテラシーが要求されます。

実際には簡単と思われている傾向が強いですが、ゲームはかなりのリテラシーが要求される「成熟した表現メディア」です。

また、アニメや漫画の「原作つき」ゲームや、過去の名作への「オマージュ」的作品もあります。操作も、内容も、「まったくのゲーム初心者は参加しづらい」ほど成熟が進んでしまったのです。

現在ライトユーザーであっても、過去のゲーム経験がある限り、最新のゲームを楽しめる、という点ではゲームのメディアリテラシーはそれほど敷居の高いものでは無いのかもしれません。しかし、「今の小学校低学年の子供が楽しめるゲームがどれぐらいあるか?」と考えると、結構少ないことがわかります。

この「ゲームメディアの成熟化」は、「家庭用TVゲーム第1世代」の成長と、映像・音楽を主としたハードウェアの表現能力の上昇、クリエーターの能力の成長が「共進化」を起こして成し遂げられたものです。

これ以後のゲーム世代も、スーパーファミコンの頃にゲームの世界に入った世代まではついてきていたと思います。しかし、ハードウェアがプレイステーション・セガサターンの世代頃から、小学生を中心とした若年層は「ゲーム内容の複雑化」についてこれず、ポケモンの例のように「シンプルなゲームを遊べる携帯用ゲーム機」へと遊ぶ中心をシフトさせた気がします。

もしくは、NINTENDO64へと流れたと思います。NINTENDO64は、暴力表現などへの規制が厳しく、「親が安心して買い与えられるハード」ですし、小学生でも楽しめる良質なアクションゲームが多いからです。(一時期18禁ゲームも認めていたセガサターンとは対照的です)

セガとSCEIは、この事態をどう捕らえてるのでしょうか??「ゲームで安定収入を得ながらネットビジネスへ進出」という青写真を描いているのなら、その足元がぐらついている事態をどう捉えているのでしょうか??

▼成功が衰退の理由という進化の「袋小路」▼

ゲームメディア全体に起こっている事態は、雑誌等では「よくあること」です。すなわち、「ある世代の読者層」を掴んでヒットした雑誌は、その世代の年齢が上がるに連れて年長者向けの内容へシフトせざるを得ず、そうしているうちに本来のターゲットが逃げてしまう現象です。最後には必死につなぎとめた「コアな読者層」も「卒業」してしまって大きく読者層を減らすことになります。

一時期に女性や大学生までを読者に抱え、その世代の需要を満たす内容へのシフトが大きすぎた結果、ライバル誌に発行部数1位の座を奪われた『少年ジャンプ』などがこの典型例でしょう。


過去に家電製品では、類似の現象に対して「商品ラインナップの再検討」や技術の進化で対処してきました。

消費者(主婦)の調理技術の上昇とともに多機能化が進み、使わない機能が増えすぎた電子レンジでは、単身者向けとして一時期「付加価値が低い」という理由で忌避されていたボタン一つのシンプルな商品が再び発売されるようになりました。

多機能化が進んで、操作が複雑になりすぎたビデオデッキでは、Gコードやバーコードによる予約という形に技術革新が起きました。

なぜか、家庭用ゲームに関しては、このような現象がなかなか起きません。

1999年のトップ10に入っていた「どこでもいっしょ」(CESAゲーム対象受賞作品)は、容易に予想できるように、「たまごっち」のアイデアを昇華させたものです。この作品がヒットしたことからも、「シンプルなゲーム」「隙間時間を使ったゲーム」への需要が根強い事がわかります。

しかし、ゲーム開発の本流は、壮大なドラマのRPGやシミュレーション、複雑な操作が大変なアクションゲームが相変わらず主流です。長時間プレイや、複雑な操作をマスターすることを苦痛にしないコアユーザー向けの作品群です。

商業的娯楽作品を作る際には、クリエーター側の制作本能と、商業商品としてのマーケティング感覚は車輪の両輪です。このうち前者だけが肥大化しています。

この傾向が続くと、スーパーファミコンからゲームを始めた世代が社会人になり、時間を取れなくなると、家庭用据え置き型ゲーム機向けの市場は、一層の規模縮小を余儀なくされるでしょう。

▼今後の可能性▼

もしかすると今後のゲーム産業は、iモード上のゲームサービスのような、「隙間時間消費産業」として成長するのかもしれません。iモード上のゲームより高度なゲームをしたい消費者は、携帯型ゲームマシン、家庭用据え置きゲームマシンへと移行してゆけばいいわけです。

しかし、現在GBで遊んでいる子供達が家庭用据え置き機へと移行してゆくのか、これからの新規潜在的な消費者がメディアリテラシーを学んでいけるのかは、商品ラインナップが「初心者向け」「中級者向け」といった形でバランスよく存在できるかにかかってくるでしょう。


シュンペーター(1)『経済発展の理論』

普段の「経済学研究室」ではできるだけ「自分の言葉で書く」ことを心がけてますが、今回は古典的名著の紹介ですので、本(岩波文庫版上下巻)からの引用を増やした「読書ノート」風の説明にします。読者の皆さんも「名著だけが持つ雰囲気」を存分に味わってください。

本文からの引用は一段下げてありますのですぐわかるようになっています。また、カッコ内は岩波文庫版のページです。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
▼所有と経営の分離:時代背景▼

マルクスが『資本論』を発刊した19世紀末ではまだ発生しておらず、『経済発展の理論』が発刊した1926年(2つの大戦の戦間期)では顕著に見うけられた経済現象があります。銀行の発達とそれに伴う金融と産業の融合関係です。

『資本論』では、「資本家」と「労働者」という2種類のプレーヤーのみを経済の参加者として議論されていました。その後時代が進み、シュンペーターの時代では、「資本家」が、「金融」機能と「企業者」機能という2つの別の種類の機能の融合体であることが明確になってきたのです。いわゆる「所有と経営の分離」です。

(ここでいう「銀行」とは、手形割引などを行う「商業銀行」の意味でなく、投資資金を融資する「投資銀行」の意味です。)

この事態を意識して、シュンペーターは次のような文章を書いています:

  ・・・いっそう誤った考えは、ある類型の「原始的」形態がただ原始的であるということのために、その典型の本質をより純粋に、より明瞭に示すという意味で、「より単純な」あるいは「より根源的な」形態であるとみなす信念である。ところが実際には、これと反対の場合が極めて多い。とりわけ特殊化が進むにつれて、「原始的」状態のもとでは他と混在しているために認識しにくい機能や性質が、判然と現われてくるからである。(上巻P204)

▼経済の飛躍▼

『経済発展の理論』の第1章「一定条件に制約された経済の循環」では、理論的・仮想的な経済叙述として、静態的な経済が叙述されています。
長く退屈な章で多くの人がここで挫折してしまうのですが、今後の議論で重要なのは次の3点です。

  1. 「革新」の無い経済は「均衡状態」に収束し、その状態で安定する(定常状態)。
  2. 均衡(定常)状態では競争の結果として、企業の利潤はゼロである。
  3. この状態で経済の主導権を握るのは、「消費者」である。

全く革新の無い経済では価格競争の結果、利潤はゼロに下がります。また、競争過程の主役は、敏感に価格に反応する「消費者」で、企業は消費者に振り回されるだけの存在です。

第1章で描かれる経済像は、シュンペーターが意図的に書いたのかと勘ぐりたくなるほど(笑)単調かつ退屈です。

この本が面白くなるのは(そして最も面白いのは)第2章「経済発展の根本現象」で、現実のダイナミックな経済の担い手としての「企業者」にスポットがあたります。そこで描かれる経済像をシュンペーターに語ってもらうと次のようになります:

それは循環運動とは違って、循環を実現する軌道の変更であり、またある均衡状態に向かう運動過程とは違って、均衡状態の推移である。しかしこのようなすべての変更あるいは推移を指すのではなく、第一に経済から自発的に生まれた変化、第二に非連続的な変化を指すに過ぎない。(上巻P178〜179)
われわれが取り扱おうとしている変化は経済体系の内部から生ずるものであり、それはその体系の均衡点を動かすものであって、しかも新しい均衡点は古い均衡点からの微分的な歩みによっては到達しえないようなものである。郵便馬車をいくら連続的に加えても、それによってけっして鉄道をうることは出来ないだろう。(上巻P180)

ここで示された経済の飛躍、断続的な成長・発展を担うのが「企業者」なのです。それでは、「企業者」とはどんな人たちなのでしょうか?どうやって経済の飛躍を成し遂げるのでしょうか??

▼新結合と企業者▼

「企業者」は新しい「何か」を経済循環に持ち込むことで革新を果たします。「企業者」の革新性は、新しい商品を開発した技術者の革新性でも、新しい理論を発見した科学者の革新性とも異なります。他の人がみすみす見逃している大きなビジネスチャンスを見抜き、困難を乗り越えて実現させる革新性なのです。

企業者についてシュンペーターに語ってもらいましょう:

・・・指導者類型を特徴付けるものは、まず事物を見る特殊な方法であり、−−−このさい再び注意すべき点は、これは知力を意味するのではなく(知力を意味するとしても、単にその広さや高さではなくて、まさに特定の種類の偏狭さを意味するのである)、むしろ確固たる事物をつかみ、その真相を見る意思と力を意味するということである−−−、またひとりで衆に先んじて進み、不確定なことや抵抗のあることを反対理由と感じない能力であり、さらに、ここではもはやこれ以上詳しくは研究しないが、「権威」、「圧力」、「人を服従させる力」といった言葉で表すことのできる、他人への影響力である。(上巻P230)

「何か」とは、全く新しい概念から生み出された商品でも、革新的な技術でも、新しい「ビジネスモデル」でも、ビジネスチャンスにつながるものなら何でもいいのです。経済・社会に現存しているが、有効に用いられていないものを有効な形で使うこと。社会内の分布パターンを変えて新しい組み合わせを作ること。すなわち「新結合」を遂行することが企業者の役割です。

シュンペータ−が列挙した「新結合」は次の5つです。

  1. 新しい財貨
  2. 新しい生産方法
  3. 新しい販路
  4. 原料もしくは半製品の新しい供給源の獲得
  5. 新しい組織の実現

  (上巻P182)

シュンペーターの描く「企業者」は完全に理論上の仮定的存在(オーストリアの経済学者の先輩にあたるマックス・ウェーバーの言葉を借りれば、「理念型」)です。

だれでも「新結合を遂行する」場合にのみ基本的に企業者であって、したがって彼が一度創造された企業を単に循環的に経営していくようになると、企業者としての性格を喪失するのである。(上巻P207)

つまり、経済システム全体の視点から見て、「革新者」の「機能」を果たす人間を「企業者」と呼ぶ、と定義したわけです。

企業者の出現で、経済の主役が逆転します。これまで消費者に握られていた主導権を、もう一度企業が取り戻し、経済を引っ張ってゆくのです。

経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現われ、その圧力によって生産機構の方向が変えられるという風に行われるのではなく、・・・(中略)・・・むしろ新しい欲望が生産の側から消費者に教え込まれ、したがってイニシアティブは生産の側にあるという風に行われるのが常である。(上巻P181)

この経済ビジョンは、現代の「大衆消費社会」に非常に適合的です。僕がこのシリーズでシュンペーターを取り上げようとした理由はここにあるのです。

それでは、企業者はなぜ新結合を求めるのでしょうか??シュンペーターは次の3つを挙げています。

  1. 私的帝国の野望
  2. 勝利者意志
  3. 創造の喜び

この3つの理由は経済学的には説明が困難ですが、社会的に見て妥当な理由でしょう。

▽(余談)エリート主義者としてのシュンペーター▽

彼は、以下のような思わず「うんうん」とうなってしまう表現を挙げて企業者の動機を説明しています。

利潤量はしばしば別の指標が無いといる理由だけで成功の指標となり、勝利の記念柱となる。かくして経済行為はスポーツのようなものになり、金融上の角逐、さらには拳闘さえ見られる。(上巻P246)

やや余談めいた議論になりますが、シュンペーターは上の例に典型的な、「総合的な判断力の無い大衆のかって気ままな行動や判断」に対して非常に敏感です。「企業者」による経済の発展と言った「エリート主義的な経済像」を描きつつも、彼らの精神的基盤に「俗物的な虚栄心」が存在していることをシニカルに描写します。

▼金融の役割▼

「企業者」は「新結合」を行うだけの純粋に理論的な存在です。実際に「新結合」を実現するには、ヒトもモノも必要です。有能な「企業者」を見極め、有能な企業者に新結合に実現に必要なヒトとモノを調達する資金を提供するのが金融の役割です。

・・・銀行家は単に「購買力」という商品の仲介商人であるのみではなく、またこれを第一義とするものでもなく、何よりもこの商品の生産者である。・・・(中略)・・・彼は新結合の遂行を可能にし、いわば国民経済の名において新結合を推進する全機能を与えるのである。彼は交換経済の監督者である。(上巻P197〜198)

金融市場はつねにいわば資本主義経済の中央本部であり、ここから各部門に命令が発せられるのであって、ここで議論されここで決定されることは、つねにその最も内面的な本質において次の発展計画を確定することである。(上巻P361)

企業者に提供される資金は、単に顧客から預かった預金であるだけではありません。積極的に信用を創造し、資金を提供するのです。

無から生み出されたこの購買力は、失敗するとバブル崩壊に似た事態を巻き起こします。しかし、成功すると提供した信用量を補って余りある価値を生み出します。まさに金融は経済の参謀本部なのです。

新結合は具体的には経済内にどのように出現するのでしょうか?ここで一気に最終章(第6章)の「景気の回転」に飛び、シュンペーターの経済プロセスへのビジョンを眺めることにします。

▼新結合の社会・経済への登場過程▼

社会・経済の発展は淡々と一定のペースで進むものではありません。軽工業・重化学工業・エネルギー革命・半導体革命・IT革命など、一つの「ブレークスルー」を糸口として、さまざまな領域で一気に、連続的に、革新が発生します。

シュンペーターの言葉を一気に引用してみます。

新結合の遂行は、確率の一般的原理から期待されるように、時間的に均等に・・・(中略)・・・分布しているのではなく、いやしくも新結合が行われるとすれば、それは群をなして出現するのである。(下巻P210)

少数の人々だけがこの「指導者能力」を持ち、少数の人々だけがこのような状態すなわちまだ「好況」でない状態において、この方向(新結合の遂行)において成功することができるのである。しかしいったんひとりあるいは数人のものが成果を挙げて先駆するならば、多くの困難は除去される。これらの先駆者に他の人々が続くことができる。(下巻P219)

一人の企業者の成功的出現は単に他の数人の企業者の出現を惹き起こすばかりでなく、ますます多数の、そしてますます能力の乏しい企業者の出現を惹き起こすのである。(下巻P220)

シュンペーターにとって景気循環は、「新結合の群生的発生とその定着・淘汰」プロセスです。

社会・経済の中での普及プロセスについては、次のように述べられています。(下巻P214〜P216)

  1. 新結合の大部分は旧結合からしかもそれに代わって生ずるのではなく、それと並んで現われ、それと競争するのである。
  2. 大量の企業者需要の出現は、まったく本質的に新しい購買力の出現を意味するものであって、第二次的好況の波を呼び起こし、この波は国民経済全体にわたって広がり、かくして一般的繁栄の動輪となる
  3. 好況における誤謬が不況の出現および経過にとって著しい役割を演じなければならない

新結合は旧来の市場秩序に挑戦し、競争し、主役の座を奪いとるのです。新結合の遂行のために新たに発生した需要(=新規投資と言っていいでしょう)が経済発展の原動力です。

そして不況とは、正しくない(成功しない)「新結合」を淘汰する過程として発生するのです。

▽日本における『経済発展の理論』の現代的意義▽

この本の中で「経済の参謀本部」として大きな役割を果たしていたのが銀行です。そして、日本において銀行の意義が今日ほど問われている時はありません。

株式市場が発達している現代では、ある程度以上の規模をもつ企業は、エクイティファイナンスによって市場から直接資金を集めることが出来ます。株式市場への上場基準も緩和され、これまで上場が難しかった企業にも上場への道が開けてきました。銀行離れ現象が加速しています。

過去に銀行離れが進んだバブル期に銀行が取った対策は、審査能力の強化やリテールの推進ではなく、土地投機でした。そして今回の銀行離れに対しては、コスト削減と融資能力の拡大を意識した大型合併で乗り切ろうとしてます。

しかし、本当にすべきことは、最終的に企業が直接金融に逃げるという前提のもとで何をすべきかを考えることだと思います。ベンチャーキャピタルのように、株式市場で資金を得られるようになるまで企業を育て、創業者利益の一部を受け取ったり、気まぐれな株式市場で評価されていない優良企業に融資し、将来の有力な融資先に育てると言った「経済の参謀本部」としての作業だと思います。

企業の大規模化に合わせて銀行も大規模化することは確かに大切なのですが、「経済の参謀本部」としての能力強化に関するニュースをほとんど聞きません。

審査能力強化、将来の成長産業の見極め、経済発展ビジョンの研究など、融資の成功率を高めるために銀行が行わないといけない業務は多数あります。このようなことを実際に行っているのか不安になります。

シティバンクが複雑系で有名なサンタフェ研究所に巨額の資金を提供しているのは有名ですが、日本の銀行が大学の研究に資金を提供しているという話はあまり聞きませんね(・・・と最後に少し嫌味^^;)。


シュンペーター(2)『資本主義・社会主義・民主主義』

今回はシュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』の紹介です。

端的にいえば、この本でシュンペーターは、「資本主義の終焉」と「社会主義への移行」を予言しました。それも、マルクス的な「階級闘争の激化」の結果ではなく、資本主義がその成功が存在基盤を切り崩し、最終的に終焉を迎える、というちょっと意外な結末です。

この本は邦訳で600ページを超える大著ですが、主だった議論は11章〜14章で尽きています(はっきり言ってこの本、不必要に長く、だらだら書いてるなと言う印象はぬぐえません)。この部分を中心に、『経済発展の理論』と同様に研究ノート風にシュンペーター自身の言葉での社会経済学的な壮大なビジョンを眺め、また批判してみようと思います。

引用部分のカッコ内数字は東洋経済からでている新装版の訳書のページ番号です。

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▼資本主義的な態度:合理的精神にのっとり、利潤の拡大を目指す▼

いわゆる「近代的精神」と呼ばれるものの一つに、「合理的」に思考する態度があります。シュンペーターの言葉では、それは次のようになります。

  1. 自分自身の見識に従ってその事態を最善に利用せんとすること
  2. 論理といわれている首尾一貫した準則に従ってそれをなすこと
  3. その準則の数が極小であること、およびそのおのおのが潜在的経験の形で表現できることの二つの条件を満たす仮定にもとづいて、それをなすこと(P191)

資本主義は、この基準を経済現象に結び付け・・・結果は「貨幣」が数値化して教えてくれます・・・優秀な人々を実業に動員する水路をつくり出しました。

  1. 資本主義は貨幣単位―――それ自体何も資本主義の産物ではないが―――を計算単位にまで高める。すなわち、資本主義的行動は貨幣単位を合理的費用=利潤計算の用具に転化せしめる。(P193)
  2. 台頭しつつある資本主義は、近代科学の心的態度、すなわち、一つの問題を設定することと、ある方法でそれに解答を与えようとすることから成り立つ態度、を生み出したのみならず、さらにその人材と手段をも作り出した。(P195)

この合理的な手段を用いた飽くなき利潤の追求と言う資本主義的な精神を体現し、経済を牽引する役目を持つ人として描かれるのは、『経済発展の理論』と同様に、「企業家」です。企業家の具体的な特徴は、前回を参考にしてください。

※(参考)
資本主義を牽引する人々の持つエートス、いわゆる「資本主義の精神」に関する議論は大きく分けて二種類あります。

一つは、ゾンバルトに出てくる、大航海時代の商人のような「一攫千金型の冒険商人」タイプです。

一つは、マックスウェーバーに出てくる、「勤勉な労働者の勤労倫理」とでも言うべき「産業資本主義の精神」タイプです。

シュンペーターの資本主義イメージは、合理的な精神を持って一攫千金の利潤を目指す「企業者」が経済を牽引してゆくと言うと言う、両者のいいところ取りをしたような感じです。
(ただし、一言断りを入れておくと、シュンペーターは大衆蔑視の観が強いので、ウェーバー的な勤勉な労働者が経済の根幹を支えている、と言う感覚があったかどうかは微妙です。)

▼経済の成熟化と進歩の自動機械化▼

経済が成長・成熟するにつれて、新しい利潤機会を見つけ出すのが難しくなっていきます。もし、完全に利潤機会が消滅したらどうなるのでしょうか??経済のすべての成長可能性を実現し尽くしたと考えれば、理想郷のようでもあり、停滞が支配した恐ろしく退屈な世界のようにも感じます。

シュンペーターは成熟社会を次のように叙述します。

その場合には、多かれ少なかれ静態的な状態が生ずることだろう。本質的に発展的な過程たる資本主義はそれがために萎縮してしまう。企業者のなすべき仕事はなにも残されていない。彼らは、自分があたかも永久平和の完全に保障された将軍と同じような状況にあることを感ずる。利潤およびそれとともに利子率が零に近づく。利潤や利子で食っているブルジョワ階級は消滅の傾向をたどる。産業や商業の管理は日常行政の事柄となり、その職業は不可避的に官僚的な性格をおびてくる。きわめて穏当な型の社会主義がほとんど自動的に出現し来たる。人間の精力は実業から顔をそむけるようになる。経済的な仕事以外のものが人間の頭脳を引き付け、これに冒険〔の機会〕をあてがうようになろう。(P205〜P206)

もちろん、このような世界は(到達しないであろう)遠い、遠い将来です。

しかし、経済の革新を担う企業が大規模化・官僚化し、革新が単なるルーチン・ワーク化してきました。この事態は、経済の停滞とさほど代わらない効果をもたらす、と彼は考えます。そしてもたらされるのは、経済の・・・老衰とも言える現象です。

進歩そのものが、静態経済の管理と同様に、自動機械化されるかもしれない。そしてこの進歩の自動機械化は、企業者職分や資本主義社会に対しては、経済進歩の停止とほとんど同じぐらいの影響を与えるだろう。(P206)

一方において、現在では慣れた日常業務の埒外にある仕事をなすことも、昔よりはるかにたやすくなっている、―――革新そのものが日常的業務になってきている。技術的進歩は、そのために必要なものをつくり出し、進歩そのものを予測しうる形で行わしめるような一群の専門家の仕事になりつつある。資本主義初期の商業的冒険のロマンスはいまや急速に昔日の光彩を失いつつある。なぜならば、かつては天才のひらめきのなかに描かれるべきはずであったものが、いまでは精確に計算されうるようになり、しかもそのようなものがいよいよ増しているからである。・・・(中略)・・・他方において、経済変化に慣れてしまって―――新消費財、新生産財の間断なき流れがこれをもっともよく例証する―――抵抗する代わりに当然のこととしてそれを受け入れるような社会環境のものにおいては、人物や意視力が重きをなさなくなるのは当然である。(P207)

合理化され専門化された事務所の仕事がついには個性を抹殺し、結果の計量可能性がついに「夢(ヴィジョン)」を抹殺し去るであろう。指揮官にはもはや乱闘のなかに踊りこむような機会はめぐってこない。彼はまさにもう一人の事務員―――しかも取り替えることの必ずしもむずかしくない一人―――になりつつある。(P208)

▼擁護階層と組織的枠組みの崩壊▼

資本主義の拡大の歴史は、社会の絶えざる「下克上」の歴史と言えます。近代社会=資本主義社会=合理主義の支配する社会は、ありとあらゆる権威・既得権益・生得的な権利の不平等を破壊します。

資本主義的発展は、何よりもまず封建社会の制度的枠組み―――荘園、村落、職人ギルド―――を破壊した、と言うよりその破壊を大いに促進した。・・・しかしこれらの産業革命や農業革命とともに、立法当局や大衆世論の一般的態度もこれに劣らぬ革命的変革を遂げた。古い経済組織の瓦解につれて、いままでその社会で指導的役割を果たしていた階級や集団の経済的・政治的特権、とくに土地を所有する貴族や紳士および僧侶の租税免除や政治上の特典も消滅した。・・・経済的に見れば、すべてこれらのことは、ブルジョアジーにとって多くの束縛の打破と多くの障害の除去を意味した。政治的に見れば、それは、ブルジョアジーが卑しい臣下であったような秩序を、その合理的精神とその直接的利益にいっそう有利な他の秩序に置き換えることを意味した。(P211)

しかし、資本主義社会の成功者たる企業者、およびその子孫であるブルジョワは、社会のエスタブリッシュメント(支配階層)として社会を制御する術を持っていませんでした。彼らは単に「利潤を上げる達人」であるに過ぎないのです。

私はまえに、ブルジョアを合理主義的でありかつ非英雄的であるといった。彼はただ自己の地位を守り、国民を自己の欲するごとく向かわしめるために、合理主義的かつ非英雄的な手段を用いるに過ぎない。(P215)

ブルジョア階級は、何らかの重要性をもった国ならば不通に直面せざるを得ない内外の問題に当たって、これをうまく処理する資質を備えていない。ブルジョア自身も、それを否定するかに見える一切の言葉づかいにもかかわらず、このことを感じている。大衆もまたしかり。・・・しかし、非ブルジョア的な何らかの集団による擁護がなければ、ブルジョアジーは政治的に無力であり、その国民を指導しえないばかりか、自分自身の階級利益を守ることさえおぼつかない、それはブルジョアジーが主人を必要とすることに等しい。(P216)

資本主義過程は、社会を制御する人材を生み出せないだけではありません。資本主義社会の最大の基盤・・・守るべき「私有財産」の感覚を希薄化させます。

資本主義過程は、工場の塀や機会の一片を株式に変えることによって、財産と言う観念からその生命を奪い去る。資本主義過程は、かつてきわめて協力であった把握力を弛緩せしめる、―――すなわち、自分の好むところに従って財産を処分するという法的権利と実際の能力という意味における把握力の弛緩、また財産権の所有者が「自分の」工場およびその支配のために、経済的、肉体的、あるいは政治的にたたかい、必要とあらばそれを枕に討ち死にしようとするほどの意志を失ったと言う意味での把握力の弛緩、これである。(P221)

財産の実態的内容―――その目に見え、手に触れることのできる現実態―――とも称しうべきものがかくのごとく霧消することは、ただ単にその所持者の態度に影響するのみならず、労働者や一般大衆の態度にも影響する。実態的内容を失い、機能を失い、しかも不在的な所有などと言うものは、いきいきした財産携帯がかつて果たしたようには人の心をゆり動かし、道徳的忠誠を喚起しうるものではない。真にそれを擁護せんとして立ち上がるものは、ついに一人もなくなるであろう―――大企業の領域の内外を問わず、一人もなくなるであろう。(P222)

▼資本主義の解体▼

ここまで行くともうわかりますね。一気に引用してみます。

現代の実業家が、企業者たると単なる管理者たるとを問わず、普通の場合には執行者タイプのものであることは、すぐに見たごとくである。彼は、その地位の論理よりして当然に官僚機構のなかで働く俸給生活者のような心理を持つにいたる。株主であると否とを問わず、彼が自己の地位のためにたたかってそれを持続せんとする意志は、もはや生粋の意味での所有権や責任といったものの実感を持っていた人のような意志ではないし、またありえない。彼の価値体系や義務観念はここに深刻な変化をこうむる。単なる株主は―――統制したり課税したりする国家によってその配当が削り取られることをまったく別にしても―――いまやぜんぜん物の数ではなくなる。かくして近代的な株式会社は、それ自体資本主義的過程の産物でありながら、ブルジョアジーの精神を社会化する。すなわち、それは仮借なく資本主義的動因の活動範囲をせばめる。それだけではない。ついにはその根源をも殺してしまうであろう。(P246)

かくして、企業者や資本家の機能の重要性を減少せしめること、擁護階層や擁護制度を破壊すること、敵対の雰囲気を作り出すことによってブルジョアジーの地位を切りくずすその同じ経済過程が、またその内部から資本主義の原動力を解体せしめる。(P254)


▽批判・・・マネジメント感覚の欠如▽

以上、かなり大量の引用(手抜き??^^;)を元に、シュンペーターの資本主義退潮論を紹介しました。この後、社会主義へ移行する、と言う議論があるのですが、ここは省略します。(旧社会主義圏がどんどんと崩壊している現状では、駄目なりにも資本主義と付き合わざるをえない、とみんな感じているのではないでしょうか?)

この退潮論、思わず「うんうん」とうなる部分もありながらも、どうも首を傾げてしまうところがあります。資本主義はいつまでたっても崩壊しないばかりか、成長産業を何度も変えながら成長を続けています。いくらシュンペーターが「一世紀と言えども『短期』」(P256)という長い過程を描いたものであっても、やっぱり変な気がします。

僕自身はこの違和感を生む最大の理由は、シュンペーターの議論のなかに「経済内の企業規模は競争の激化とともに大規模化する」という暗黙イメージが入り込んでいるためだと思います。

たとえば、現在世界中はIT革命の真っ只中ですが、IT革命は現在の企業組織をスリム化するだけでなく、新しい「企業家」を大量に生み出し、これら企業家=起業家が生み出した中小企業が大企業を淘汰しています。

また、中央集権(生産)型組織か、現地に大胆に権限を委譲すべきかと言った議論は、商品製造に求められる技術水準や、中央と地方支部の間の通信・運送手段に依存します。このように、最適な組織・企業形態は、通信・運送・マネージメントシステムに依存するのです。こういった産業の分水嶺的なイメージを、シュンペーターのビジョンから感じ取れないのです。

『資本主義・社会主義・民主主義』の初版が出版されたのは1943年です。当時シュンペーターはヨーロッパを離れ、アメリカのハーバード大学で教鞭をとっていました。彼の目に写ったのは、鉄鋼や自動車と言った重厚長大産業による、同質のモノの大量生産・大量消費の姿(=フォーディズム)でした。産業革命以降、単線的に発達した経済(もしくは反動としての恐慌に襲われた)経済の姿しか見ていなかったのです。

(今回の紹介に用いた訳本は、1950年(この年はシュンペーターの没年でもあります)の第3版です。)


OAの導入による産業の省力化も、経済の成熟化による消費者の趣味の多様化も、石油ショック後の産業構造の変化も、最近のIT革命も、彼が目にすることはありませんでした。その部分の影響が非常に大きいのです。

『資本主義・社会主義・民主主義』内に次のような言葉があります。

分析者の心に焼きつけられた特殊な経済過程の相貌は、その役割に値するか否かを問わず、彼の心のなかでいつのまにか根本的原因の地位にすべり込みやすい。(P181)


偉大なる天才シュンペーターも、結局は時代の限界を超えられなかった、と言うのが結論でしょうか??



・・・「では、どうなるんだ?」という問に答える能力は僕にはまだありません。

消費の成熟化・WINNER TAKES ALL・社会の不安定要素の増大・倫理的規範の崩壊・社会のネットワーク化とそれに伴う『モザイク化』・生と死に関するリアリティの喪失、と言った「経済学研究室」で細切れに扱った社会的過程を貫いて、社会・経済がこれからどう変化してゆくかを、これからも「経済学研究室」では追ってゆきたいと思っています。

。。。と年末にふさわしくまとめてみました(笑)


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